松永浩美

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松永 浩美
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区
生年月日 (1960-09-27) 1960年9月27日(60歳)
身長
体重
180 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 三塁手遊撃手
プロ入り 1978年 ドラフト外
初出場 1981年5月10日
最終出場 1997年5月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
松永 浩美
公式サイト 松永浩美公式HP
YouTube
チャンネル
活動期間 2019年8月2日 -
ジャンル 野球
登録者数 7080人
総再生回数 451,876 回
チャンネル登録者数、総再生回数は2020年7月20日時点。
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松永 浩美(まつなが ひろみ、1960年9月27日 - )は、福岡県八幡市(現在の北九州市八幡東区)出身の元プロ野球選手内野手)。

日本プロ野球(NPB)史上最高のスイッチヒッターと称される[1]

経歴[編集]

野球を始めるまではサッカー少年であり、ポジションはFWだった。当時の夢は「ワールドカップ出場」だったと1997年週刊ベースボールにて伝えられたことがある。

福岡県立小倉工業高等学校の硬式野球部時代は外野手兼控え投手で、1学年先輩に田島克彦(当時は投手)がいた。入学当時の監督だった本田正には、1年時の秋から「お前は将来プロ(NPB)へ行ける」と言われていて、松永本人も地元社会人野球チーム(門司鉄道管理局西部ガス)を経てのNPB入りを思い描いていたという[2]

その一方で、小倉工業高校への在学中は久保康生立花義家野田雲平清家政和・林正毅などを擁する柳川商業高等学校(現在の柳川高等学校)に歯が立たず、夏の全国高等学校野球選手権福岡大会では1年時の1976年から2年続けて直接対決で敗戦。2年時の1977年に準々決勝で対戦した際には、田島→松永→田島の継投むなしく、1 - 17という大差で7回コールド負けを喫した。松永本人は、大会後に結成された新チームで、本田から4番打者・田島の後継エース・主将に任命。しかし、本田はその直後に、前述の大敗を快く思っていなかった硬式野球部のOB会から監督職を突如更迭された[2]

松永は後任の監督と反りが合わないまま、高校2年時(1977年)の10月に、本田から紹介された山本公士(当時は阪急ブレーブスの九州地区担当スカウト)とアルバイト先の喫茶店で面会[2]。その席で阪急への入団を要請されたことから、翌1978年1月に小倉工業高校を中退したうえで、外野手としてドラフト外扱いで入団した[3]。松永が後年述懐したところによれば、田島を視察していた3人のスカウトが、「実力は松永の方が上」という評価を本田に伝えていたという[2][注 1]。高校中退者のドラフト外入団は野球協約へ抵触する行為であったため、実際には球団職員(二軍の用具係)扱いで「練習生」として入団。入団に際しては、山本から定時制高校への進学を勧められたものの、「プロに入った以上、学校に通っている場合ではない」として進学を見送った[3]。ちなみに、スイッチヒッターへ転向したのは入団3年目(1980年)からで、それまでは右打者だった。

阪急・オリックス時代[編集]

NPBの公式戦に出場できない「練習生」として1978年1月に阪急へ入団したため、入団の翌月(2月)から高知市の二軍春季キャンプに参加。練習の前後に用具係としての仕事に臨んでいたことから、キャンプの当初はユニフォームに背番号が付いていなかったが、途中から背番号87を着用した。キャンプ中の打撃練習で高知市営球場の場外に17本連続で打球を飛ばしたシーンを、二軍キャンプを視察中だった一軍監督の上田利治(当時)が偶然目撃したことをきっかけに、上田の方針で遊撃手に転向[注 2]。レギュラーシーズンの開幕後は、二軍で打撃や守備の練習に明け暮れながら、打撃投手などで一軍の練習を手伝っていた[3]。チーム内では、出身地の福岡県が玄界灘へ面していることや、苗字(松永=マツナガ)にちなんで「玄海マツ」と呼ばれていたという。

1979年には、公式戦への出場が可能な支配下登録選手へ移行するとともに、背番号を48に変更。その年の二軍秋季キャンプから、住友平二軍打撃コーチ(当時)の方針で左打ちの練習を始めた。松永が後に述懐したところによれば、「左打ちの練習を始めたそもそもの目的は、右打ちの欠点を住友の発案で修正するためだったはず」とのことで、「翌1980年の春季二軍高知キャンプ中に右打席だけで打撃練習に臨んでいたところ、住友から『何で(なぜ)左(打席)で打たんのや』と言われて納得がいかなかった」という。後に住友から、「日本(当時のNPB)のスイッチヒッターと言えば高橋慶彦山崎隆造(いずれも当時広島東洋カープに在籍)のように『ちょこっと当てて足を使う(軽打で塁に出て俊足を生かす)』というタイプばかりだが、大リーグ(MLB)のスイッチヒッターには、エディー・マレーみたいに右打席でも左打席でも本塁打を放てるほどの長距離打者がいる。(阪神タイガースで左のエースとして君臨してきた)江夏豊が(南海ホークスへの移籍後に)『野球界に革命を起こさないか?』という野村克也監督の一声でストッパーへ転向したように、マレーのようなスイッチヒッターになって革命を起こさないか」と説得されたことを機に一念発起。レギュラーシーズンが開幕してから、二軍のウエスタン・リーグ公式戦63試合に出場すると、打率.294、5本塁打、24打点という好成績を残した。シーズン終盤に西宮球場で「親子ゲーム」が組まれていた日に、二軍のデーゲームへ出場した後にナイトゲームでの一軍デビューを予定していたが、デーゲームの打席で安打を放って一塁へ出た直後に牽制球で帰塁したところ右手の甲を骨折。本人曰く、このアクシデントで一軍デビューの機会を棒に振ったことによって、怪我へかなり敏感になったという[4]

1981年に一軍公式戦へのデビューを果たすと、打数は少ないものの打率.326を記録。翌1982年から、チームの主軸打者として活躍した。同年5月15日の対日本ハムファイターズ戦で、NPBの球団に所属する日本人選手としては初めて、公式戦での1試合左右打席本塁打を初めてマーク。その後も左右打席本塁打を5回記録したため、苗字の松永にちなんで、「ビックリ松」とも呼ばれるようになった。通算6回の左右打席本塁打は、自身の現役時代におけるNPB単独最多記録[注 3]で、1983年8月31日ロッテオリオンズ戦では中居謹蔵から逆転満塁本塁打を放っている。1984年は前年同様に2年連続リーグ最多三塁打で優勝に貢献し自身の現役生活唯一のポストシーズンたる1984年の日本シリーズ全七試合5番三塁手でフルイニング出場

1985年に38盗塁パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の盗塁王を獲得したものの、クリーンナップを任せられる試合が増えるにつれて、単独での盗塁企図数・成功数ともに減少[5]1988年には高沢秀昭とのパ・リーグ首位打者争いで敬遠作戦に遭い、11打席連続四球、10打席連続敬遠四球、1試合4敬遠四球(ダブルヘッダーで2試合連続)の日本記録となる。松永は最終打席で、到底届かない敬遠のボールに向かってバットを投げて当てにいくことを3度試みたが、いずれもボールには当たらず三振した。1991年にもロッテ・平井光親(打率.3144)に敗れ、.0004差で首位打者を逃した。

1988年に阪急電鉄がブレーブスの経営権をオリックスへ売却したことに伴って、球団名が「オリックス・ブレーブス」へ変更された1989年以降も、上田の指揮下で「ブルーサンダー打線」のトップバッター(1番打者)として活躍。同年と1990年にはパ・リーグの三塁手部門でベストナインに選ばれていたが、球団名を「オリックス・ブルーウェーブ」に改めた1991年読売ジャイアンツ(巨人)OBで地元・兵庫県出身の土井正三が監督へ就任してから様相が一変する。

巨人選手時代に経験したV9野球に絶対の自信を持っていた土井は、「ブルーサンダー打線」に象徴されるチームを守備力中心のチームへ改造すべく、監督就任直後の秋季キャンプで守備練習を重視する方針を公言[6]。1991年のレギュラーシーズンに入ってからは、長距離打者の高橋智をクリーンアップ候補に育てるべく、高橋に対して塁上の走者を犠打で送らせそうな局面でもあえてヒッティングのサインを出していた。松永はこのような方針に理解を示していて、方針に反発するナインをなだめることすらあったという。しかし、一軍のAクラス入りが懸かっていたシーズン終盤に、土井が高橋へ犠打のサインを出すようになったことでナインから孤立[7]。相手球団からの執拗な敬遠攻めの影響で打率が伸び悩んでいたため、首位打者のタイトル獲得を目標に打撃練習へ時間を割くことを土井に要望した[5]ところ、土井が認めなかったことで土井との溝が深まった。その一方で、シーズン終了後には、推定年俸1億円という条件で契約を更改している。

1992年には、シーズン最多安打と首位打者のタイトル獲得を目標に、「松永福祉基金」を発足することを1月に発表。前年の3月に実母を脳梗塞で亡くしたことから、パ・リーグ公式戦でのシーズン通算安打数に1万円を乗じた金額を、実母が晩年療養していた北九州市内の高齢者医療施設へ寄付する意向を示していた。これに対して、オリックス本社から出向してきた球団幹部が、寄付先を本拠地・神戸市内の病院へ変更することを打診。球団からも寄付金を出すことまで持ち掛けたが、松永が「基金の趣旨に合わない」として打診を断ったこと[7]によって、球団との間にも確執が生じた[5]。シーズン中には、「1番・三塁手」として3割近い打率(.298)や、リーグ最多の38二塁打をマーク。シーズン終了後には契約更改の日取りが決まらないまま、12月中旬に球団代表の井箟重慶から突如呼び出されたあげく、阪神タイガースへのトレードを通告された。松永が引退後に明かしたところによれば、阪神の主力投手だった野田浩司との交換トレードであったため、「(トレード通告を)断れば野田が(阪神に)居づらくなるので、(通告を)受けるしかない」と考えた末にトレードを受諾したとのことである[7][8]

阪神時代[編集]

移籍直後、新天地・阪神の中村勝広監督は松永に関して「これ以上ない頼もしい選手。悲願であるセ・リーグ優勝達成のために活躍を期待する」と最大級の賛辞を送ったほか、松永本人も「優勝のために全力を尽くす」と宣言していた[8]。迎えた1993年シーズンは、開幕から6打席連続安打を記録[9]するなど華々しいデビューを飾ったが、開幕3戦目に怪我でリタイアした。5月頭に復帰したが、1か月後に2度目の長期離脱となった。オールスターゲーム明けに再び戦線復帰し、8月後半には3試合連続先頭打者本塁打の世界記録を樹立したが、同年は80試合の出場(打率.294・8本塁打)[8]に留まり、11年続いていた規定打席もクリアできなかった。

阪神では背番号2で登録されていたが、1991年 - 1992年の阪神在籍時代に背番号2を付けた同じくスイッチヒッターの高橋慶彦がケガをして引退したため、縁起が悪いという理由で自分を鬼(02)のように強くと縁起をかつぎ、途中から背番号を02に変更した。0番、00番以外に0で始まる背番号で登録されたのは日本プロ野球の公式戦に出場した選手で唯一である[注 4]

同年、二軍イースタン・リーグ)で調整中だった夏ごろには若手の萩原誠に対し「俺はもう来年いないから、お前はしっかり三塁を練習しておけよ」と言い残していた[10]。その約3か月後(11月)に日本球界初のフリーエージェント (FA) 権を行使したが、その際に阪神の本拠地である阪神甲子園球場を揶揄して「甲子園は幼稚園の砂場」と暴言を吐いたとする内容が報じられた[10](後述)。FA宣言後も阪神と残留交渉をしていたほか、西武ライオンズとも交渉し、他球団からも獲得の打診を聞いていたが、最終的には地元・福岡県に本拠地を置く福岡ダイエーホークスへ移籍した[5]。同年11月28日にダイエーと交渉し、根本陸夫監督からの熱心な訴えかけを聞いて入団する旨を即答し、NPBで初のFA移籍選手となった[11]

福岡ダイエー時代[編集]

ダイエーでは移籍直後からチームリーダーを務め[12]、移籍初年度の1994年2月の高知春季キャンプでは根本監督から「チームの現状を正直に言ってほしい」と問われ、「このチームのキャンプは遊びだ。勝つことを考えていないし、ミスすることを前提にプレーしている」と指摘[注 5]した[14]。また、即戦力として期待されていた新人の小久保裕紀[注 6]にも「このチームは甘い。元からいる選手たちの気質に染まったら負けるぞ。強くなければ勝てない」と伝えていた[15]。同シーズンは打率.314(パ・リーグ4位)・長打率.423と結果を残し、秋山幸二[注 7]とともに若いチームを牽引した[5]。松永本人は同年を振り返り、「いろいろな意味で達成感があり、自分の野球人生で一番充実していた年だった。『これでこのチームが勢いに乗ってくれたらいいな』という思いはあった。自分を(ダイエーに)誘った根本さんとの歴史は浅かったが、最も重い」と回顧している[16]

監督が王貞治に交代した翌1995年[16]、前年に引き続き2年連続でオールスターゲームに出場。しかし同年以降は急激に成績が低下し[5]1997年自由契約を申し入れ、球団側も戦力外と判断したことから容認された。この時には「解説者の仕事で空席が出た」と、引退後の仕事を保証する話も出たが、その解説者の前任が杉浦忠であることを知り「球界の功労者の定年を逆手に取るような不実はできない」と固辞している[5]

プロでは打率3割を通算7回、サイクル安打を通算2回記録した[5]。1996年4月27日の西武3回戦(西武球場)で新谷博から通算200本塁打(プロ野球史上66人目)。同時に全打順本塁打も達成している(史上2人目)。

ダイエー退団後、メジャーリーグベースボール (MLB) への挑戦を表明。オークランド・アスレチックスの入団テストを受け、プレシーズンゲームに出場するが、27打席ノーヒットなどの不振で引退することになった。この入団テスト受験は当時こそ本気だったが、後年には「現役生活に見切りをつけるためのセレモニー」と発言している[5]

現役引退後[編集]

2006年6月、埼玉県三郷市に「松永浩美ベースボールアカデミー」を設立した。阪神時代の後輩にあたる鮎川義文[注 8]と、元ヤクルト投手の矢野和哉と共に、小・中学生を対象とした指導を開始した。別冊宝島のインタビューで本人は「プロの選手は完成されているから、興味がない。プロとしてのプライドもあるだろうし。それよりも無限の可能性のある少年の方がいい」と述べた。

松永は現役時1,904本のヒットを放ち、2,000本安打達成目前での引退となった。名球会への入会資格に達していなかったが、プロ野球マスターズリーグが行われていた2007年までは、マスターズリーグでの記録がNPB通算記録と合算され、入会資格を得れば「名誉会員」として会員に準ずる扱いをされると規定されていた。実際、マスターズリーグで99安打を記録しNPBと合算して通算2,003安打となった松永浩美は2006年に名誉会員として表彰され、この当時は名球会入会とされていたが、2009年のマスターズリーグ中断や、名球会の改組等により後にこの規定は消え松永の入会も有耶無耶になっており、現在は松永の名球会名誉会員及び名球会加入は、名球会の公式ホームページ上で謳われていない。

2010年12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された。

2014年よりBCリーグ群馬ダイヤモンドペガサスの野手総合特別コーチに就任。2015年2月の任期満了に伴い退団した後は、夢グループ川越市で主催する野球塾の塾長として、鮎川などと共に小中学生を対象とした後進の指導に当たっていた。

2018年6月からは、妻や3人の子どもと共に鹿児島県内へ移住。移住後は、南九州を拠点に野球教室での指導を続けるかたわら、文部科学省からの要請で教育現場での特別講師も務める。また、ブログTwitterInstagramを通じて、情報やメッセージを積極的に発信。2019年2月23日には、58歳にして4人目の子ども(女児)を授かった。

2019年8月、YouTubeチャンネル『松永浩美の野球塾【教え子37人甲子園出場】』を開設。YouTuberデビューを果たした[17]

2019年11月、鹿児島の社会人硬式野球クラブチーム「薩摩ライジング」チームアドバイザーに就任。

「FA騒動」の経緯[編集]

概要[編集]

松永は、阪神へのトレードが決定した際の記者会見では、「トレードを意気に感じている」、「中村勝広監督を男にしてみせる。俺は義理堅い男だよ」などと熱い口調で決意を述べ、その姿に、強力な3番バッターを待ち望む阪神ファンの期待も高まる一方であった。開幕前の過熱振りはまさに「松永フィーバー」とも言うべき盛り上がりを見せ、関連グッズの数量も他選手をはるかに超えるもので、開幕戦で5打数5安打を記録すると、その過熱ぶりは頂点に達した。しかし、開幕3戦目で故障し離脱となり、結果的に前年シーズンと同等の成績は収めたが、シーズンオフにFA権を行使してダイエーへ移籍した。松永のFA宣言は日本球界初のものでもあり、全国的な注目を集める話題となった。

FA宣言した後、11月後半に他球団に先立って阪神と残留交渉を行ったが、FA交渉にもかかわらず球団側から600万円のダウン提示と「松永君、キミとは縁が無かったんだよ」と阪神側から松永を突き放す発言があり、その後ダイエーと交渉・移籍に至った[18]

松永はFA移籍について「単なる通過点に過ぎない」「阪神とは縁が無かったということ」などと、阪神ファンを突き放す発言で答えたほか、自宅前で報道陣に「阪神ファンへのメッセージはないのか?」と問われ、これに反発した様子で「何もないね!」と答えており、そのような姿がフジテレビの『プロ野球ニュース』を始め、各局のニュース映像で流された。これに対し、次シーズンでの松永の活躍を期待していた阪神ファンから、球団や関係マスコミにその真意を求める問い合わせや批判が殺到することとなった。さらにこの過熱報道の渦中に、「松永が『甲子園は幼稚園の砂場』と発言した」との報道が流れた。

そもそもFA制度が日本球界に導入されたのは、選手会において松永が提案したことが始まり。松永自身へのインタビュー[19]によると、そのきっかけは1988年のドラフト最大の目玉だった慶應義塾大学志村亮の指名拒否騒動だったという。ドラフト外から入団し、練習生から這い上がった松永にとって、ドラフト指名を拒否する者の登場は衝撃的で「そこまでプロ野球に夢がなくなってしまったのか」という危機感から、当時の労働組合事務局長と相談の上、選手会総会にてFA制度導入を提案したという。同時に「出身地である福岡でプレーすることも頭にあった」とも語っている。

「砂場発言」[編集]

「甲子園は幼稚園の砂場」と松永が暴言を吐いたとの報道は、一部マスコミによる捏造であると松永は主張している。

当時、阪神の野手で盗塁を得意とする選手はほとんどおらず、加えて貧打に泣いて投手陣の防御率も悪かった阪神球団は、せめて相手チームの攻撃力を下げようと、安打性の当たりを弱め、ダッシュが効かないようにするために内野全体を柔らかくしていた。

前年のオリックス時代まで、二桁盗塁をコンスタントにキープしていた松永は、当時阪神の正遊撃手だった久慈照嘉と相談して「もっと一塁ベースからのランニングエリアを硬くしてほしい」とグラウンドキーパーに要望を出したが、「要望で軟らかくしている」と言われたので、誰の要望なのか聞き返したところ「平田勝男の要望で軟らかくした」と言われ、「試合に出ない人の要望を聞いてどうするの。柔らかすぎて滑るんだよ」と伝え、その柔らかさについてグラウンドキーパーが「幼稚園の砂場くらいか?」と質問し、松永は「いや、そんなには…」と答えた(その後甲子園は、赤星憲広の入団によって硬めの仕様となっている)。

このグラウンドキーパーとの要望出しのやりとりが、FA騒動時に一部マスコミによって「松永が『甲子園の土は幼稚園の砂場』と発言した」と歪曲報道され、火に油を注ぐことになってしまったとされる[20]

これは、松永の「物怖じせず、言いたいことは全て言う」という性格上[5]、阪急在籍時代から記者などのマスコミと発言趣旨の行き違いによるトラブルが頻発し、徐々に一部マスコミが松永を「問題児・トラブルメーカー」として扱うようになったために起きた騒動である。その結果、松永の様々な発言は大多数がネガティブな物に変換されてしまい、阪急時代からスポーツ新聞を賑わせていた。

FA宣言当時、松永は滞在先のホテルで記者に質問を受けたとされ、スポーツ新聞には松永のコメントが連日掲載されていたが、これも松永はマスコミによる捏造であると主張している。松永はFA宣言当初、阪神ファンを突き放す発言をしたために、友人から「阪神ファンを逆撫でするような事は言わない方がいい」とアドバイスを受け、夫人を実家に帰らせ、自身はホテルに宿泊した上で、1ヶ月間新聞記者には全く誰にも会わなかったと断言している。それにもかかわらず、当時の新聞には「松永のコメント」だとするインタビュー記事が連日のように掲載され、「これはどういうことなんだ?」とマスコミに対して恐怖を覚えたという[20][19]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1981 阪急
オリックス
73 105 92 15 30 1 1 2 39 15 4 3 1 0 8 0 4 10 4 .326 .404 .424 .828
1982 128 451 398 58 94 13 4 12 151 44 21 6 11 1 37 2 4 57 9 .236 .307 .379 .686
1983 122 493 427 58 120 23 7 21 220 74 20 13 5 5 49 1 7 40 9 .281 .361 .515 .876
1984 125 525 458 84 142 24 6 19 235 70 21 5 4 3 55 3 5 57 10 .310 .388 .513 .901
1985 130 572 481 94 154 26 1 26 260 87 38 12 1 3 81 6 6 70 8 .320 .422 .541 .963
1986 130 567 492 80 148 31 3 19 242 75 20 9 1 1 70 7 3 88 15 .301 .390 .492 .882
1987 114 444 393 59 114 22 2 11 173 45 9 4 2 1 45 1 3 64 12 .290 .367 .440 .807
1988 130 551 473 78 154 27 3 16 235 77 11 4 0 5 72 16 1 52 13 .326 .412 .497 .909
1989 124 573 470 106 145 30 3 17 232 60 14 6 2 0 96 12 5 78 8 .309 .431 .494 .924
1990 128 602 518 103 147 26 4 21 244 70 26 8 1 2 78 8 3 120 10 .284 .379 .471 .850
1991 130 568 484 74 152 22 10 13 233 76 20 4 1 6 75 4 2 81 11 .314 .404 .481 .885
1992 118 540 473 72 141 34 4 3 192 39 15 6 2 2 62 7 1 70 3 .298 .379 .406 .785
1993 阪神 80 340 303 51 89 16 0 8 129 31 3 2 0 4 31 2 1 70 5 .294 .357 .426 .783
1994 ダイエー 116 541 477 74 150 20 4 8 202 55 8 7 2 2 60 2 0 73 5 .314 .390 .423 .813
1995 87 363 320 28 76 13 2 3 102 21 5 3 3 1 38 0 1 61 6 .238 .319 .319 .638
1996 66 236 207 19 45 12 1 3 68 13 3 1 5 2 21 0 1 48 3 .217 .290 .329 .619
1997 15 34 24 6 3 1 0 1 7 3 1 1 2 0 8 0 0 7 0 .125 .344 .292 .635
通算:17年 1816 7505 6490 1059 1904 341 55 203 2964 855 239 94 43 38 886 71 47 1046 131 .293 .380 .457 .837
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
通算記録
その他の記録
  • サイクル安打:2回
    1. 1982年10月8日、対南海ホークス後期13回戦(阪急西宮球場)
    2. 1991年5月24日、対ロッテオリオンズ6回戦(グリーンスタジアム神戸
  • 3試合連続初回先頭打者本塁打 (1993年8月20日 - 8月22日)
  • 11打席連続四球 (1988年10月22日 - 10月23日)
  • 13打席連続出塁 (1988年10月22日 - 10月23日)
  • 全打順本塁打:1996年4月27日、対西武ライオンズ3回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に新谷博から ※史上2人目
  • 左右打席本塁打 ※史上6人目(日本人選手初)、6度は歴代2位(1位はフェルナンド・セギノールの9度)
  日付 対戦球団 球場 打席 相手投手 打席 相手投手
1 1982年5月15日 日本ハム前期5回戦 阪急西宮球場 6回裏 工藤幹夫 9回裏 江夏豊
2 1983年9月23日 南海21回戦 阪急西宮球場 3回裏 竹口昭範 5回裏 矢野実
3 1985年4月13日 近鉄1回戦 藤井寺球場 2回表 村田辰美 8回表 高橋里志
4 1987年10月15日 日本ハム25回戦 阪急西宮球場 2回裏 河野博文 9回裏 松浦宏明
5 1990年5月9日 ロッテオリオンズ3回戦 川崎球場 2回表 平沼定晴 9回表 今野隆裕
6 1990年8月12日 福岡ダイエー20回戦 山形県野球場 1回裏 濱中英次 5回裏 高島覚

背番号[編集]

  • 87 (1978年)
  • 48 (1979年 - 1982年)
  • 8 (1983年 - 1992年)
  • 2 (1993年 - 同年6月28日)
  • 02 (1993年6月29日 - 同年終了)
  • 3 (1994年 - 1997年)
  • 87 (2014年)

出演[編集]

映画[編集]

  • ダイヤモンド(ライツキューブ、2013年8月3日公開)[21]

テレビ[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 田島も、卒業後に門司鉄道管理局を経て、1981年のドラフト会議6位指名で外野手として阪急へ入団。1982年から松永と再びチームメイトになったが、一軍公式戦3試合に出場しただけで1988年に現役を引退した。
  2. ^ 上田は、一軍のレギュラーだった大橋穣(遊撃手)・島谷金二(三塁手)とも30歳を過ぎていたことを背景に、次代の内野陣を担える若手選手の台頭を求めていた。松永には高校時代まで内野を守った経験がなかったため、春季キャンプの後半には、一軍内野守備コーチ(当時)の山本忠男を二軍で松永の守備指導に当たらせている。
  3. ^ 現役引退後の2007年にフェルナンド・セギノール(日本ハム)が通算7回目の左右打席本塁打(NPB最多記録)を達成したものの、日本人のスイッチヒッターとしては、2020年シーズン終了の時点で松永が最多記録を保持している。
  4. ^ ただし、オレステス・デストラーデが、ユニフォームを忘れてチームスタッフの背番号05のユニフォームを借りて試合に出たことはある。また、広島東洋カープではカープアカデミーから支配下登録した選手が、練習生時代からの100番台の背番号のまま出場した事例がある。なお現在では規定の変更により、支配下登録選手は00・0 - 99番以外の背番号は着用できない。
  5. ^ 1993年のダイエーは前監督田淵幸一が解任され(前年度は4位)、根本が監督に就任したが、前年とほとんど戦力を入れ替えずに臨んだシーズンは借金35・勝率.360と低迷(優勝した西武と28ゲーム差)し、15年連続Bクラスとなる最下位に低迷していたため、オフに秋山・小久保など大幅な戦力補強を行った[13]。根本が秋山・松永といったベテラン選手を他球団から補強した背景には、選手たちの意識を変えるためパ・リーグの強豪球団だった阪急・西武の野球を取り入れる意図があった[12]
  6. ^ 1993年度のドラフト会議青山学院大学硬式野球部から2位指名を受け入団[13]
  7. ^ 1993年オフに渡辺智男内山智之とともに、佐々木誠村田勝喜橋本武広との3対3のトレードで西武ライオンズから移籍[13]
  8. ^ 鮎川は1993年、怪我で離脱していた松永に代わり三塁手を主に守っていた。

出典[編集]

  1. ^ 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P78
  2. ^ a b c d スポーツニッポン』2020年12月7日付連載記事「我が道 松永浩美(第7回)」より
  3. ^ a b c スポーツニッポン』2020年12月9日付連載記事「我が道 松永浩美(第9回)」より
  4. ^ スポーツニッポン』2020年12月11日付連載記事「我が道 松永浩美(第11回)」より
  5. ^ a b c d e f g h i j 美山 2009, p. 21.
  6. ^ 美山 2009, pp. 20-21.
  7. ^ a b c スポーツニッポン』2020年12月25日付連載記事「我が道 松永浩美(第24回)」より
  8. ^ a b c 【トレード物語20】阪神が大損したトレード【1992年】」『週刊ベースボールベースボール・マガジン社、2017年11月30日。2020年8月15日閲覧。オリジナルの2020年8月15日時点におけるアーカイブ。
  9. ^ 上田雅昭(編集委員)「【平成の虎から令和の虎へ】阪神の「暗黒時代」は「平成」とともに始まった(4/4ページ)」『SANSPO.COM産業経済新聞社、2019年4月2日、4面。2020年8月15日閲覧。オリジナルの2020年8月15日時点におけるアーカイブ。
  10. ^ a b 美山 2009, p. 20.
  11. ^ 高橋安幸「松永浩美から小久保裕紀、内川聖一へ。 根本陸夫が仕組んだリーダー継承」『Sportiva集英社、2020年6月9日、1面。2020年8月15日閲覧。オリジナルの2020年8月15日時点におけるアーカイブ。
  12. ^ a b 高橋安幸「松永浩美から小久保裕紀、内川聖一へ。 根本陸夫が仕組んだリーダー継承」『Sportiva』集英社、2020年6月9日、4面。2020年8月15日閲覧。オリジナルの2020年8月15日時点におけるアーカイブ。
  13. ^ a b c 日めくりプロ野球 11月 【11月16日】1993年(平5) “特殊潜航艇”根本、久々の大型トレードで秋山ゲット」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2010年11月1日(原著1993年11月16日)。2020年8月15日閲覧。オリジナルの2020年8月15日時点におけるアーカイブ。
  14. ^ 高橋安幸「松永浩美から小久保裕紀、内川聖一へ。 根本陸夫が仕組んだリーダー継承」『Sportiva』集英社、2020年6月9日、2面。2020年8月15日閲覧。オリジナルの2020年8月15日時点におけるアーカイブ。
  15. ^ 高橋安幸「松永浩美から小久保裕紀、内川聖一へ。 根本陸夫が仕組んだリーダー継承」『Sportiva』集英社、2020年6月9日、3面。2020年8月15日閲覧。オリジナルの2020年8月15日時点におけるアーカイブ。
  16. ^ a b 高橋安幸「松永浩美から小久保裕紀、内川聖一へ。 根本陸夫が仕組んだリーダー継承」『Sportiva』集英社、2020年6月9日、6面。2020年8月15日閲覧。オリジナルの2020年8月15日時点におけるアーカイブ。
  17. ^ “史上最高のスイッチヒッター・松永浩美氏 2度の詐欺被害で1億円超失う 現在はユーチューバーも”. Sponichi Anne. (2019年10月4日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/10/04/kiji/20191004s00001000307000c.html 2019年11月8日閲覧。 
  18. ^ 「プロ野球トレード大鑑」(ベースボールマガジン社)
  19. ^ a b 「プロ野球最後のサムライ」(コアマガジン刊)の松永のインタビューより
  20. ^ a b 「別冊宝島 プロ野球スーパースター 引退劇の真実」(宝島社刊)の松永のインタビューより
  21. ^ “劇場公開作品|ライツキューブ”. ライツキューブ. https://rightscube.jp/top.html 2020年8月9日閲覧。 

参考文献[編集]

  • 『元・阪神』 竹書房、2004年 ISBN 978-4-8124-1665-5
  • 「プロ野球スーパースター 引退劇の真実」 宝島社、2008年 ISBN 978-4-7966-6417-2
  • 「プロ野球 最後のサムライ」(斉藤直隆) コアマガジン、2005年 ISBN 4877348190
  • 美山和也「FILE.01 松永浩美【阪神→福岡ダイエー】 史上最強のスイッチヒッターの本心は?」『プロ野球 FA宣言 「天国と地獄」』梨本敬法、洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2009年12月24日、発行、20-21頁。ISBN 978-4862484888。

関連項目[編集]