松浦信きよ

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本来の表記は「松浦信桯」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
 
松浦 信桯
Ikeda Nagashige and Matsura Nobukiyo.jpg
宮崎成身『視聴草』所収。左が松浦信桯で、右は池田長恵
時代 江戸時代中期
生誕 元文元年(1736年
死没 文化10年(1813年
改名 松浦金七郎、与次郎
墓所 東京都練馬区広徳寺
官位 従五位下越中守、和泉守、越前守
幕府 江戸幕府 書院番、進物役、中奥番士、目付仙洞付、新番頭、小普請奉行長崎奉行大目付
主君 徳川家重
氏族 平戸松浦氏
父母 父:松浦篤信、母:松村氏、養父:松浦信正
兄弟 松浦有信松浦誠信、松浦交信、松浦到、松浦雅信、松浦義信、松浦信桯
松浦信秀娘、大友義武
松浦信好、渡辺孝妻、野津信友、池内光忠養女

松浦 信桯(まつら のぶきよ)は江戸時代中期の旗本小普請奉行長崎奉行大目付等を歴任した。

経歴[編集]

元文元年(1736年)松浦篤信の十一男として生まれた[1]宝暦元年(1751年)12月7日徳川家重御目見[1]、宝暦10年(1760年)9月26日家督を継ぎ、宝暦11年(1761年)書院番明和2年(1765年)3月11日進物役、明和3年(1766年)12月15日中奥番士、明和6年(1769年)11月24日目付となった[1]安永5年(1776年)7月7日浜御殿で失火があった際過失により謹慎し、30日許された[1]。10月24日仙洞付となり、安永6年(1777年)1月3日従五位下越中守に叙任された[1]

安永9年(1780年)6月17日新番頭、天明元年(1781年)4月26日小普請奉行[1]天明5年(1785年)相次いで急死した土屋正延・戸田氏孟に代わり、7月24日急遽長崎奉行となり、唐人屋敷・伊良林郷・馬場郷で相次いだ火災の対応、三国丸の建造、長崎会所の改築、立山麓における武具庫の建設、唐人屋敷の外囲い拡大等を行った[2]。天明7年(1787年)3月12日大目付となり[2]寛政2年(1790年)琉球使節応対に関わった[1]

文化10年(1813年)死去した[2]。墓所は東京都練馬区広徳寺[2]

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『寛政重修諸家譜』, pp. 488-489.
  2. ^ a b c d 安高 2010.

参考文献[編集]