板倉勝殷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
このページのノートに、このページに関する質問があります。 質問の要約:勝殷の養子たちと娘たちによる家督相続の事情について |
![]() 板倉勝殷とその家族 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政3年1月12日(1820年2月25日) |
死没 | 明治6年(1873年)8月31日 |
改名 | 金之助(幼名)、勝殷 |
戒名 | 谷神院殿恢覚源性大居士 |
墓所 |
愛知県西尾市貝吹町の長円寺 東京都渋谷区の吸江寺 |
官位 | 従五位下・主計頭 |
幕府 | 江戸幕府 大坂加番 |
主君 | 徳川家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 上野安中藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 |
板倉勝尚 板倉勝明 |
兄弟 | 勝明、分部光貞、鎌之助、勝殷 |
妻 | 鈴木勘次郎娘 |
子 |
板倉勝明養女、花子、種子ら2男5女 勝敬、勝任 |
板倉 勝殷(いたくら かつまさ/かつたか)は、江戸時代後期の大名。上野国安中藩最後の藩主。官位は従五位下・主計頭。重形系板倉家8代。
生涯[編集]
文政3年(1820年)1月12日、先々代藩主・板倉勝尚の三男として誕生した。安政4年(1857年)閏5月11日、兄で先代藩主の勝明が死去したため、家督を継いだ。同年6月25日、13代将軍・徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下・主計頭に叙任する。安政6年2月、大坂加番を命じられる。幕末期には和宮降嫁のために中山道の守備を務めた。ちなみに、「偽官軍事件」として有名な赤報隊事件はこの安中で起こっている。
慶応4年(1868年)1月13日、徳川慶喜から上野碓氷郡の警備の強化を命じられる。同年3月、老臣を上洛させて、新政府に恭順の姿勢を示す。同年4月19日、新政府軍に弾薬を献上する。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還で安中藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官される。8月に東京へ移った。
晩年から死後の家督相続[編集]
![]() | この節の加筆が望まれています。 |
明治5年(1872年)3月5日、勝殷は隠居して婿養子の勝任に家督を譲った。ところが翌明治6年(1873年)8月19日に勝任が隠居し、家督は勝殷が再襲するも、勝殷は同月31日に死去した[1][2]。享年54。勝殷の死後、娘の種子が板倉家の女戸主となり、明治10年(1877年)に種子の夫の久知が家督を継いだが、明治13年(1880年)に再び種子が女戸主となった[2]。明治16年(1883年)に種子は隠居して養女の花子(実妹、勝殷の三女、勝任の元妻)に家督を譲った。明治19年(1886年)、花子は2人目の夫に板倉勝観(戸田央、元川越藩主松平康載)を迎え、勝観は同年に家督を継ぐと共に子爵となった。
系譜[編集]
子女は2男5女
脚注[編集]
- ^ 『幕末維新 最後の藩主285人』(新人物往来社、2009年)、p.111
- ^ a b “上野国安中板倉家文書2”. 史料情報共有化データベース. 国文学研究資料館 (2018年1月10日). 2020年8月27日閲覧。
当主 | ||
---|---|---|
先代: 板倉勝任 |
旧安中藩板倉家 1873年 |
次代: 板倉種子 |
先代: 板倉勝明 |
安中藩板倉家 1857年 - 1872年 |
次代: 板倉勝任 |
|