林家こん平

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林家はやしや こんぺい
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『週刊平凡』第9巻第24号(1967年)より
本名 笠井かさい 光男みつお
別名 こんちゃん
生年月日 1943年3月12日
没年月日 (2020-12-17) 2020年12月17日(77歳没)
出身地 日本の旗 日本新潟県刈羽郡千谷沢村
(現:長岡市
死没地 日本の旗 日本東京都豊島区
師匠 初代林家三平
弟子 林家ぎん平
林家源平
林家種平
林家かん平
九代目林家正蔵
林家鉄平
林家しん平
林家錦平
林家うん平
林家のん平
林家とんでん平
林家しゅう平
林家たい平
二代目林家三平
林家ぼたん
出囃子 佐渡おけさ
活動期間 1958年 - 2004年(2020年)
活動内容 新作落語
配偶者 あり
所属 落語協会
林家こん平事務所(マネジメント)
備考
落語協会相談役

林家 こん平(はやしや こんぺい、1943年〈昭和18年〉3月12日 - 2020年〈令和2年〉12月17日[1][2][3] )は、落語家新潟県刈羽郡千谷沢村(現・長岡市[4])出身[5][6]。本名:笠井 光男。愛称は「こんちゃん」[注 1]落語協会理事などを歴任するが、後述の病気もあり2006年4月から逝去するまで相談役となった。

出囃子は『佐渡おけさ』。血液型はA型。

演芸番組笑点』において、放送開始当初から長らく大喜利メンバーの一人だったが、後述の病気により約1年間の休演を経て降板。現在は弟子のたい平が代理出演を経て、後任として出演している[7]

来歴・人物[編集]

初代林家三平に師事。当時の初代三平は二ツ目で本来ならば弟子を取れないはずだったが、を一俵担いで弟子入りにきたこん平の熱意に負けたとされる[注 2]。「こん平」の由来は、弟子入り当初はやせていて顔つきがに似ていたからだという理由と、一門できつねうどんを食べていた際の、師匠初代三平の妻でこん平にとっては女将である・海老名香葉子のひらめきによる。二ツ目時代から『笑点』など、テレビ・ラジオに出演。『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(日本テレビ)では構成作家を務めた。

兄弟子の珍平が俳優に転業した後は惣領弟子となり、初代三平が54歳の若さで死去した後は一門を統率する。この際、落語協会分裂騒動など三平死去の前後に起きた様々な出来事の経緯から三平の弟子たちは「落語界の孤児」とでもいうべき状態となり、結果として元々移籍組で既に真打だった三升家勝二(現:8代目小勝)を除く三平の全弟子がこん平の弟子として直ることになる。かくして、分裂騒動の後遺症が長く尾を引いた落語協会の中で辛酸をなめつつも、林家こぶ平(現:9代目正蔵)林家しん平といった初代三平の預かり弟子や、林家たい平、林家いっ平(現:2代目三平)ら直弟子など数多くの弟子を育て上げ、初代三平からの系譜を受け継ぐ落語家・芸人たちを事実上の一派としてまとめ上げてきた。

実際の性格は『笑点』や高座で見せる豪胆なものではなく、繊細なものであった。それ故、ストレスを紛らわすために酒量が多くなることがあり、後述の病気の要因の一つになったとも言われている。この他、卓球が得意なことでも知られており『笑点』で共演する三遊亭小遊三と共に「らくご卓球クラブ」を創設。「世界ベテラン卓球大会」にも出場経験がある。

1985年8月12日、当時の他の笑点メンバーである5代目三遊亭圓楽桂歌丸林家木久扇(当時、初代林家木久蔵)、三遊亭小遊三6代目三遊亭円楽(当時、楽太郎)7代目桂才賀(当時、古今亭朝次)山田隆夫と共に翌日の阿波踊りに参加するべく徳島入りするために当初予約した徳島便が大幅に遅延した上に徳島空港が悪天候のため予約便が条件付き運行となった。そこで1つ後の日本航空123便に搭乗して、神戸から船[注 3]で移動する案が浮上したが、こん平が「いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ、きっと徳島空港に着陸できるよ」と提案したことでそのまま予定通り徳島便に搭乗し、メンバーらは123便の墜落事故から逃れることができた[注 4]。同墜落事故については、宿泊先のホテルへタクシーで移動中に知ったという[8]

闘病[編集]

2004年8月声帯を患い入院。この入院は長引き、番組開始以来降板期間を除きほぼ無欠勤で出演し続けていた『笑点』も、2004年9月5日の放送を最後に初めて数回に渡って番組を休業することになり[注 5]、こん平の位置は座布団が積まれたまま空席となった。同年12月26日の放送から、こん平の弟子で若手大喜利のメンバーだった林家たい平が代役で出演する事になる。

2005年5月22日に退院。当初「軽い脳梗塞も患っていた」と週刊誌で報道されたが、その後、同年3月に国立精神・神経センターの医師から多発性硬化症と診断されていたことを公表。退院後も通院しながらリハビリを行っていた。同年9月には笑点40周年記念本の撮影に参加し、他メンバーとは1年ぶりとなる顔合わせが実現した[10]

2006年、当時こん平は趣味の卓球ができるまで回復はしたものの噺家としての復帰は当面困難という事から、同年5月の『笑点』40周年を機に番組を降板し、こん平の代役だった弟子のたい平が後任として正式メンバーに昇格。『笑点』40周年スペシャルのエンディングでは、自身が直筆したメッセージが読まれた(歌丸が代読)。

先述の多発性硬化症により一時入院を余儀なくされたが、2008年2月28日の『スーパーニュース』(フジテレビ)内のコーナーや、同年4月の『発見!人間力』(民教協テレビ朝日ほか)で、卓球や発声練習、運動のリハビリを続けている様子が放送された。また、同年9月14日放送の『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ)ではこの日のゲスト出演者だった三遊亭小遊三と卓球をする姿が放送されている。小遊三は「らくご卓球クラブには毎週顔を出し、体調に合わせてプレーをしている。1年前の復帰当時は球をラケットに当てるのがやっとの感じだったが、今ではラリーもできるようになった。右肩上がり(の回復)だ」とコメントしている。

2009年11月8日に放送された『笑点』の5代目三遊亭圓楽追悼番組の前半部分(思い出トーク)にて5年ぶりに同番組に出演し、元気な姿を見せた。

2013年にかねてより患っていた糖尿病が悪化し左足の壊死が進み呼吸困難に陥り、緊急入院したが心肺停止の状態となった。一命は取り留めたものの、壊死した左足の指を切断し、半年後に退院。退院後は自宅で家族による介護を受けた[11][12]

2014年5月、こん平の介護およびマネージメントをしていた二女の咲(えみ)が「一般社団法人林家こん平事務所」を設立。8月、都電荒川線を走る都電1両を借り切っての興行「都電落語会」のプロデュースを発表。同年8月22日に第一回の「都電落語会」が開催された。2014年10月15日放送の「笑点特大号」(BS日テレ)では、「都電大喜利」で三遊亭小遊三と弟子の林家ぼたんと共演している。

同年8月31日には『24時間テレビ 「愛は地球を救う」37』に出演。2013年に糖尿病を併発し一時心肺停止まで陥っていたことが紹介され、その後遺症による左足壊死と右手の麻痺と闘いながらリハビリに取り組む姿が特集された[7]。メインスタジオの日本武道館には次女とともに車いすで訪れ「1、2、3、チャラーン!」を10年ぶりに披露した[7]

翌年、2015年8月23日の『24時間テレビ38』にも出演。車いすでの登場だった昨年とは異なり、笑点の舞台(現在たい平が座っている場所)に、弟子のたい平とぼたんの力を借りて登場。正座が困難とされている中、笑点メンバーに見守られての着席となった。MCに促されるまもなく、声を振り絞り「1、2、3、チャラーン!」を披露。桂歌丸林家木久扇、たい平らによるコメントの後、再度「チャラーン!」を披露し、2020年の高座復帰を目指してリハビリを継続することを明らかにした。

2016年4月17日放送の『笑点』の真打昇進披露口上において、三本締めの発声として笑点本編に12年ぶりに出演した(新真打の中に、こん平の弟子である林家ぼたんが含まれていることによるもの)。

2016年8月27日の『24時間テレビ 「愛は地球を救う」39』には、同年のチャリティーマラソンのランナーを務めるたい平のスターターとして登場。直筆のメッセージが書かれたタオルをたい平に手渡し、「1、2、3、チャラーン!」の掛け声でマラソンがスタートした。8月28日のエンディングにも出演し、武道館にゴールしたたい平を出迎えた。

2019年4月17日、病院のMRI検査で小脳梗塞が発見され、そのまま緊急入院。手術は行わず投薬治療で回復し、5月3日に退院した[13]

2020年4月に体調を崩して入院し、一時は危機的な状況となったが持ち直して退院した。しかしこの時点で「あと数カ月」と余命宣告を受け、自宅で最期を迎えたいと終末医療を選択し、亡くなるまで療養していた[14]

2020年12月17日14時2分、誤嚥性肺炎のため、東京都豊島区の自宅で死去[2][15]。77歳没。葬儀は近親者で行われ、訃報は同月21日に落語協会から公表された[2]。お別れ会は後日改めて行なわれる予定である[3][16]

略歴[編集]

花菱は林家三平一門の定紋
  • 1958年3月 - 中学卒業後、初代林家三平に入門。前座名「こん平」。
  • 1962年11月 - 二ツ目昇進。
  • 1965年4月 - 『金曜夜席』(日本テレビ)出演。
  • 1966年5月 - 『笑点』(日本テレビ)に第1回から出演[7]
  • 1969年3月 - 『笑点』初代司会者・7代目立川談志との対立により、こん平含むメンバー全員が降板。
  • 1972年
  • 2004年9月 - 『笑点』を休演。12月26日放送分から弟子のたい平が代役として出演。
  • 2005年 - 多発性硬化症と診断されたことを公表。
  • 2006年5月 - 『笑点』40周年を機に大喜利メンバーの座をたい平に譲り、『笑点』を降板。
  • 2007年 - リハビリを続けながらも「第26回林家三平追善興行 林家一門会」にて高座復帰。
  • 2010年3月 - 6年近い闘病・リハビリの日々を中心に半生をつづった著書を講談社から刊行。『笑点』ではたい平が翌月にPRした。
  • 2020年12月17日14時2分 - 誤嚥性肺炎により死去。77歳没。

笑点でのキャラクター[編集]

前身番組『金曜夜席』(日本テレビ)の第3回から参加した古参レギュラーであり、同番組ではオレンジ色の色紋付を着用。長らく隣が小難しいインテリ系のくすぐりを得意とする三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭円楽)であるため、挨拶で楽太郎の長舌を受けて「私にはそういう難しいことはわからないんですが…」と頭を振りながらうそぶくことがしばしばあった[18]

地方収録の際は必ず「郷土の皆様、お懐かしゅうございます。○○(地方収録の行われている地名)で生まれて、新潟で育ったこん平が、故郷に戻って参りました」[18][注 6]とホラを吹き、2週目は「第二の故郷というのはありがたいもので、先程から友人知人が手に持ちきれないほどのお土産を持って楽屋を訪ねてきてくれております……」で始まり、「なお、会場の皆様にお知らせがございます。私の帰りのかばんには、まだ若干の余裕がございます」と挨拶した[18]。この新潟出身を前面に出したキャラをやり始めた当初は、まだまだ落語と言えば江戸前、東京という固定観念の強い時代であり、東京、特に下町出身者以外がこのように郷土愛をアピールする例は稀だったため批判も多かったと著書で述べている。

田舎者の権助役であり、大食いキャラ・食いしん坊ネタを売りにしており、メンバーからも攻撃のネタにされていた。『笑点』メンバーの中では一番頭の周囲が大きく、被り物に頭が入らなかったこともあった。「大喜利」では、よく座布団運びの山田隆夫の悪口を言って山田に突き飛ばされたり、蹴り飛ばされたりして座布団を全部持っていかれることが多かった。その他に肥溜めネタ(「2人は肥(恋)に落ちました」など)をはじめとする下品で汚いネタも得意とし[注 7]、故郷の千谷沢村はメンバーから「人がいない」「ダムの底」などと罵倒された。その一方、「世界平和」「環境保全」などを高らかに謳うネタや、「グランドピアノを施設に寄付」「ニースの別荘」といった大金持ちキャラで回答することもあった。政治ネタを扱う場合には、同じ新潟県出身である田中角栄のモノマネをすることが多かった。

自身が休演する事になり、こん平の代役として出演し始めた弟子のたい平の事を当初は非常に心配しており、この頃は『笑点』を全く見ていなかった。しかし、徐々にたい平が大喜利に慣れ始めると実力を認めるようになり、40周年を機に自身の席をたい平に託す事を決意した。40周年記念特番ではたい平に正式に席を譲る旨が書かれた手紙を送っていた。

「チャラーン」[編集]

挨拶の締めは、会場の観客と共に「1・2・3、チャラーン。こん平でーす!!」[18]。大元は『佐渡おけさ』であり、こん平が挨拶でうれしいお知らせをするときにチャイムの代わりとして歌っていたものが、歌の冒頭の「チャラーン」の部分だけ残り、現在の形に至る。

長らくこん平単独で「チャラーン」と叫んでいたが、2002年から観客が偶発的に呼応するようになり、最終的にはこん平と観客が大合唱する「視聴者参加型挨拶」と名づけた挨拶を行うようになった[注 8]。これ以降、隣の楽太郎や歌丸は「チャラーンをやる人は愚か者」「良識ある人は絶対にやらないでください」などと観客にお願いするという、一種のフリのような挨拶を行い、全員で「チャラーン」をやる際には二人が耳を塞いで迷惑そうに対処するのが恒例化する。

しかし、こん平の療養による休演後は楽太郎を中心に、他のメンバーも全員週替わりで「チャラーン」の代行をした。こん平の弟子のたい平が代役を務めてからはその回数は減ったが、2006年元日の『大笑点』フィナーレや、同年1月22日の2000回目の放送時、テレビ新潟開局25周年を記念して、こん平の地元・長岡市で収録された同年10月15日の放送時に「師匠こん平から言われていることでありますので」とたい平が観客と共に「チャラーン」を披露。また、「日テレアナウンサー大喜利」に定期的に出演していた藤井恒久は「こん平師匠直伝の視聴者参加型挨拶 最後の継承人」として、挨拶の際は必ず観客と一緒に「チャラーン」を行っていた。正蔵の弟でこん平の直弟子である2代目林家三平(当時の芸名は林家いっ平)もメンバーになる前の2005年4月に番組内で行われた9代目林家正蔵襲名披露口上の席上で、師匠快癒を祈念して「チャラーン」を披露した。

2021年1月31日放送分の大喜利では、1問目に追悼企画として「チャラーン」を使った問題が出題された[19]

一門弟子[編集]

師匠である初代林家三平の死去に伴い、ぎん平からのん平及びとんでん平が、兄弟子であるこん平の門下に移籍した。初代三平の長男で後にこん平から一門の総帥を受け継ぐ事になるこぶ平(現九代目正蔵)も含まれる。いずれも初代三平死去時に真打には昇進していなかったため、預かり弟子となっている。このため、こん平の直弟子はうん平及びしゅう平以降である。

直弟子[編集]

色物[編集]

廃業[編集]

破門[編集]

出演[編集]

テレビ番組[編集]

構成作家担当[編集]

テレビドラマ[編集]

ラジオ番組[編集]

CM[編集]

二木の菓子と二木ゴルフは、弟子の9代目林家正蔵(前名こぶ平)と2代目林家三平(前名いっ平)が後継者である
同じまるか食品のペヤングで、山田隆夫と立川志の輔がソース焼きそばのCMに出演している。

映画[編集]

レコード[編集]

  • お客様は神様です/○か×か(やってみなけりゃわからない)(1973年) ※共演:三沢ナミ
  • コシヒカリ音頭/こん平音頭(1979年11月) ※共演:三田ゆかり。日本コロムビアのヒット賞を受賞[20]。「コシヒカリ音頭」は後に演歌女子ルピナス組がカバーした。
  • どんぶり音頭/乗んなせえや音頭(1982年6月)

高座音源[編集]

  • 宮戸川(23分。第267回 国立名人会、大取。平成16年(2004年) 5月 22日、会場:国立演芸場[21]。)

著書[編集]

  • チャランポラン闘病記〜多発性硬化症との泣き笑い2000日(2010年講談社) ISBN 9784062161275

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 主に「笑点」の司会の三波伸介、5代目圓楽、歌丸がこん平をこう呼んだ。弟子のたい平の愛称「たいちゃん」の由来にもなっている。
  2. ^ ただしこのエピソードは脚色もあり、実際は米一俵もなかったとのこと。本人の著書では母親から三平宅へ郵送されてきたと書かれている
  3. ^ 当時は瀬戸大橋明石海峡大橋神戸空港は未開業。
  4. ^ なお、同便ではイベントに同行する予定だった数名の広告代理店社員が搭乗していた。
  5. ^ 直前まで生出演していた『24時間テレビ・チャリティー笑点』も意識が朦朧とする中で無理を押しての出演で、一部呂律が回らないなどの兆候が現れていた[9]
  6. ^ なお、こん平の故郷である新潟県村上市で収録を行った2001年3月18日放送分では「村上で生まれ、チャーザー村で育った〜」と言い換えている。
  7. ^ 下ネタを徹底的に嫌った、初代林家三平の意向が今も生きている林家三平一門としては珍しい特徴である。
  8. ^ 元々は挨拶の冒頭で叫んでいたが、観客と合唱する頃には締めに言うようになった。

出典[編集]

  1. ^ “林家こん平さん死去 77歳 笑点「チャラーン」で人気”. デイリースポーツ. (2020年12月21日). https://www.daily.co.jp/gossip/2020/12/21/0013954608.shtml 2020年12月21日閲覧。 
  2. ^ a b c “落語家の林家こん平さんが死去”. 一般社団法人共同通信社. (2020年12月21日). https://this.kiji.is/713638380105203712 2020年12月21日閲覧。 
  3. ^ a b 林家こん平 訃報”. 一般社団法人落語協会 (2020年12月21日). 2020年12月21日閲覧。
  4. ^ “難病リハビリ中の林家こん平さん、故郷で「チャラーン!」”. yomiDr. (読売新聞社). (2015年8月10日). http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=122389 2015年8月10日閲覧。 
  5. ^ 1999年6月13日放送の『笑点』第1669回の「私のふるさと」にて。
  6. ^ 本人いわく、出身地は「チャーザー村」だが、正しい読み方は「ちやざわむら(千谷沢村)」。
  7. ^ a b c d 24時間テレビ|2014/08/31(日)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2015年8月10日閲覧。
  8. ^ 山田隆夫『ボクに運が巡ってくる55の理由』廣済堂出版、2012年5月25日、170–173。ISBN 9784331516355。
  9. ^ 24時間テレビ|2014/08/31(日)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2015年8月10日閲覧。
  10. ^ 「笑点」日本テレビ放送網 p.18-19
  11. ^ “林家こん平 心肺停止から2年「落語会がリハビリ」娘が明かす”. 女性自身 (光文社). (2015年7月24日). https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1612125/ 2019年8月22日閲覧。 
  12. ^ [笠井咲さん]落語会で驚きの回復…こん平さん、生死の境まで”. yomiDr. / ヨミドクター. 読売新聞 (2015年4月19日). 2019年8月22日閲覧。
  13. ^ “林家こん平、4月に小脳梗塞で緊急入院していた…投薬治療で回復 脳腫瘍の円楽にはエール”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2019年8月22日). https://www.daily.co.jp/gossip/2019/08/22/0012630226.shtml 2019年8月22日閲覧。 
  14. ^ 林家こん平さん、自宅で最期迎えたい…終末医療選択”. 日刊スポーツ (2020年12月21日). 2020年12月22日閲覧。 “家族葬には、子供や孫、ひ孫ら親族に、弟子の代表として林家うん平だけが参列した”
  15. ^ 林家こん平さん死去 77歳「笑点」で人気「1、2、3、チャラ〜ン」 スポーツ報知 2020-12-21
  16. ^ 林家こん平さん死去 77歳 多発性硬化症で闘病”. ORICON NEWS. 2020年12月21日閲覧。
  17. ^ 吉川潮『戦後落語史』新潮社新潮新書〉、2009年、47頁。ISBN 978-4-10-610343-8。
  18. ^ a b c d ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』117ページ
  19. ^ 放送内容 第2746回日本テレビ 笑点
  20. ^ 林家 こん平(はやしや こんぺい)、落語協会。
  21. ^ 文化デジタルライブラリー「演芸・大衆芸能」(公演コード:YH285-3)

関連項目[編集]