柳田浩一
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基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 徳島県阿南市 |
生年月日 | 1966年7月11日(52歳) |
身長 体重 |
182 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1984年 ドラフト3位 |
初出場 | 1986年9月25日 |
最終出場 | 1995年9月20日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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柳田 浩一(やなだ こういち、旧名:昌夫(まさお)、1966年7月11日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手で現在はプロ野球審判員。選手としてタイトルを獲得した後に審判に転進した数少ない選手。
目次
来歴・人物[編集]
選手時代[編集]
徳島県立鳴門商業高等学校(現・徳島県立鳴門渦潮高等学校)を卒業後、ヤクルトスワローズにドラフト3位指名で入団。当初は内野手。
野村克也が監督に就任した1990年に外野手に転向。外野のレギュラーだった栗山英樹がメニエール病の悪化による不調で出遅れたため、橋上秀樹とのポジション争いを制して開幕戦に2番右翼手で先発出場を果たし、持ち前の俊足と強肩を活かしてそのまま外野のレギュラーの座を確保。シーズン中盤からは中堅手に回り、好守を評価されて自身唯一のタイトルとなるゴールデングラブ賞を受賞した。
しかし、翌1991年には打撃不振のため、外野にコンバートされた飯田哲也・笘篠賢治らとのポジション争いに敗れてレギュラーから陥落し、以後は出場機会が減少した。それでも1992年の日本シリーズには守備固めとして2試合に出場。第5戦では7回裏に西武ライオンズに同点に追いつかれた後、なおも一打逆転の場面で、ライトフライをフェンスに激突しながら捕球するというプレーを見せた。1994年に近鉄バファローズに移籍、1996年限りで現役引退。
近鉄からの戦力外通告を伝えた球団マネージャーに審判員テストの打診を受けたことで、第二の人生となる審判員生活が始まった[1]。
審判時代[編集]
1997年よりパシフィック・リーグ審判部に入局。審判員袖番号は1997年~2010年までは8、2011年以降は5。2017年終了時点の出場試合数は1811。オールスターゲームには2002年に出場、第2戦で球審をつとめている。2007年には日本シリーズに初出場、中日ドラゴンズの山井大介と岩瀬仁紀による継投での完全試合となった第5戦では球審を務めた。選手、審判の両方で日本シリーズに出場したのは久保田治(東映フライヤーズ投手→セ・リーグ審判員)、井上忠行(西鉄ライオンズ内野手→セ・リーグ審判員)に次いで3人目である。
2007年は審判員奨励賞を受賞。2009年7月5日の東北楽天ゴールデンイーグルス対埼玉西武ライオンズ第9回戦(Kスタ宮城)で一塁塁審を務め、通算1000試合出場を達成した。
また、現役中に名前を「昌夫(まさお)」に改名したが、2006年に「浩一」に戻した。
2010年に主任に昇進、役職名変更により2011年からクルーチーフとなる。
2013年から球審での構えを『シザースタンス』から基本構えの『スロットスタンス』に変更した。
2014年6月3日、北海道日本ハムファイターズ対広島東洋カープ第1回戦(札幌ドーム)で三塁塁審を務め、NPB審判員としては史上86人目、現役では15人目となる通算1500試合出場を達成した[2]。
誤審騒動[編集]
球審を務めた2012年の日本シリーズ・北海道日本ハムファイターズ対読売ジャイアンツ第5戦(11月1日)で、4回表、巨人の攻撃の際、日本ハムの投手多田野数人は、巨人の打者加藤健に内角高めの球を投じた。加藤はバントの構えからバットを引こうとし、大きくのけぞり倒れこんだ。柳田はこのプレイを投球がヘルメット(頭部)に当たったことによる死球と判定し、多田野に危険球による退場を宣告した[3]。
この判定に対し、日本ハム監督の栗山英樹が約4分間の抗議を行い、「バントに行ったのであれば、(身体に当たっても)空振りでストライク[注釈 1]になる」と主張した。また、日本ハムの捕手の鶴岡慎也がメディアに対して説明したところでは、柳田はこのプレイを一旦ファウルボール(バットに当たった)と判定したものの、巨人監督の原辰徳の抗議の後、死球に変更[4]したという。
メディアは「世紀の大誤審」などと報じ[5]、退場処分となった多田野は「だます方もだます方。だまされる方もだまされる方」とコメントした[6]。野球評論家の張本勲は『サンデーモーニング』で「(ボールは球審からは)死角にはなるが、塁審に確認を取らないと。ピッチャーがかわいそう」と批判した[7]。加藤は引退後にこの件を振り返り「ベンチに戻って映像を見たら当たっていなかったです。ボールが顔にめがけてきて、”当たった”と思っているから目もつぶっている」「何が起きたかわからず、その場に倒れてしまいました」「顔にボールが来ていたし、バントの構えからよけようとしたバットがヘルメットに当たったんだと思います」と述べた[8]。
なお、日本シリーズでの退場は1969年第4戦の岡村浩二(当時阪急)以来43年ぶりで史上2人目(詳細は日本シリーズ初の退場事件も参照)で、危険球による退場は多田野が初であった。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1986 | ヤクルト | 8 | 5 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1987 | 74 | 17 | 17 | 7 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .235 | .235 | .235 | .470 | |
1988 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
1990 | 119 | 428 | 379 | 40 | 90 | 14 | 4 | 4 | 124 | 38 | 21 | 7 | 21 | 4 | 24 | 0 | 0 | 65 | 2 | .237 | .280 | .327 | .607 | |
1991 | 98 | 183 | 160 | 26 | 33 | 4 | 2 | 4 | 53 | 8 | 6 | 3 | 9 | 0 | 12 | 0 | 2 | 33 | 3 | .206 | .270 | .331 | .601 | |
1992 | 15 | 5 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .200 | .200 | .200 | .400 | |
1995 | 近鉄 | 12 | 9 | 9 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .111 | .111 | .111 | .222 |
通算:7年 | 327 | 647 | 574 | 78 | 129 | 18 | 6 | 8 | 183 | 48 | 29 | 13 | 30 | 4 | 36 | 0 | 3 | 103 | 5 | .225 | .272 | .319 | .591 |
表彰[編集]
- ゴールデングラブ賞:1回 (1990年:外野手)
記録[編集]
- 初出場:1986年9月25日、対阪神タイガース24回戦(明治神宮野球場)、7回裏に宮本賢治の代打として出場
- 初盗塁:1986年10月4日、対横浜大洋ホエールズ25回戦(明治神宮野球場)、9回裏に二盗(投手:木田勇、捕手:市川和正)
- 初安打:1987年4月12日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)、5回表に梶間健一の代打として出場、池田親興から
- 初先発出場:1987年10月20日、対広島東洋カープ25回戦(明治神宮野球場)、1番・中堅手として先発出場
- 初打点:1990年4月10日、対中日ドラゴンズ1回戦(明治神宮野球場)、3回裏に山本昌広から
- 初本塁打:1990年4月21日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、1回表に川口和久から
背番号[編集]
- 52 (1985年 - 1990年)
- 0 (1991年 - 1993年)
- 68 (1994年 - 1995年)
- 42 (1996年)
登録名[編集]
- 柳田 浩一 (やなだ こういち、1985年 - 1992年)
- 柳田 昌夫 (やなだ まさお、1993年 - 1996年)
審判出場記録[編集]
- 初出場:1998年7月29日、西武対近鉄16回戦(西武ドーム)、二塁塁審。
- 出場試合数:1811試合
- オールスターゲーム出場:3回(2002年、2006年、2015年)
- 日本シリーズ出場:3回(2007年、2009年、2012年)
(記録は2017年シーズン終了時)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 2012公認野球規則2.73(e)
出典[編集]
- ^ 【ザ・アンパイア】現役時代は守備の名手、柳田昌夫の覚悟とは
- ^ 柳田昌夫審判員 1,500試合出場達成のお知らせ - 日本野球機構オフィシャルサイト、2014年6月3日
- ^ “日本ハム・栗山監督、怒!オレを「退場させろ」”. SANSPO.COM (サンケイスポーツ): p. 1. (2012年11月2日) 2012年11月2日閲覧。
- ^ “栗山監督“誤審”負け ヤクルト後輩の球審に「納得いかない 退場にしろ!」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年11月2日) 2012年11月2日閲覧。
- ^ 「誤審」から一夜…巨人とNPBに「厳しい意見」 2012年11月3日SANSPO.COM
- ^ “世紀の大誤審!加藤小芝居?危険球退場”. DAILY SPORTS ONLINE (デイリースポーツ): p. 3. (2012年11月2日) 2012年11月2日閲覧。
- ^ “張本勲氏「演技はみんなやるんですよ」 球審には「喝!」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2012年11月4日) 2012年11月4日閲覧。
- ^ “引退した元巨人・加藤健が語る、18年の控え捕手人生と「あの死球」”. web Sportiva (集英社). (2017年2月10日) 2017年2月11日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 柳田昌夫 - NPB.jp 日本野球機構
- NPB審判員 栁田昌夫 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
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