桂春輔

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桂 春輔(かつら はるすけ)は、上方落語名跡桂春團治の系統。現在は空き名跡となっている。

初代[編集]

初代 桂春輔かつら はるすけ
本名 浅川 重太郎
別名 神戸の春團治
黒の春輔
生年月日 1881年9月23日
没年月日 1948年
出身地 日本の旗 日本大阪
死没地 兵庫
師匠 2代目桂文之助
6代目林家正楽
初代桂春團治
5代目三升家小勝
名跡 文の家春輔(1905年 - 1908年)
正隆(1908年 - 1909年)
初代桂春輔(1909年 - 1948年)
勝團治(1928年)
活動期間 1905年 - 1948年
活動内容 上方落語
軽口
所属 互楽派
東京落語協会
吉原興業

初代 桂春輔1881年9月23日 - 1948年秋頃)は、本名: 浅川重太郎。

大阪阿波座問屋町の金網職人の倅で、素人落語の舞台を経験した後、1905年2代目桂文之助の門下で文の家(文廼家)春輔を名乗り、この頃は互楽派所属で活躍、した。1908年6代目林家正楽門下で正隆、1909年初代桂春團治門下で春輔を名乗る。1928年頃に上京し、5代目三升家小勝門下で勝團治を名乗っていた時期もあるという。1934年神戸に拠点を移し、吉原興業に所属し活躍、新開地の千代之座を中心に人気があった。しかし、寄席のプログラムが漫才中心となり、1938年頃から落語の出番もなくなり、仕方なく桂花柳(後の3代目笑福亭枝鶴)と「軽口」を披露する一方、5代目笑福亭松鶴が主催する「楽語荘」同人に加わり、上方落語の保存・継承にも努めた。「神戸の春團治」、また色黒のため「黒の春輔」とも呼ばれた。

阿弥陀池』『坊主茶屋』『地震加藤』など、初代春團治譲りの明るい芸であったが、精緻さに欠ける欠点があったという。戦後暫く5代目松鶴とともに高座を勤めていたが、1948年秋、兵庫の「寄席のパレス」(国鉄の高架下にあった)に出演中、栄養失調で倒れ、川崎病院に入院後、10日程たって胃癌で死去。SPレコードには『三円の虎』『節約デー』『糖に釘』『十七倉・香橙』『子ほめ』『芝居まくら』『色まくら』がある。

3代目桂米之助の話「…いつもこんな事を言うてハりました。"なあ、お客さん、大阪の落語を聴くネンやったら今の内だっせ。楽屋に今、十人の噺家がいとりまっけどな、一年に一人ずつ死によったら十年たったらもう落語ないねんさかいに、聴くねんやったら今の内"と言うて自分が一番先に死にやハりました。(笑)」(『上方落語よもやま草子』)

毒舌家で、高座では客や芸人仲間の悪口、世相風刺を語るのが得意であった。かなりの腕を持ちながらも、上方落語の低迷期に活躍したのが不運であった。

2代目[編集]

2代目 桂春輔1936年2月27日 - 2008年5月?)は、後の祝々亭舶伝

3代目[編集]

3代目 桂春輔は、桂春彦が襲名予定とされていた。但し、2000年に板東英二への恐喝未遂事件を起こした影響や、上方落語協会を除名されている事により、襲名するか否かは不明。

出典[編集]

  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『上方落語よもやま草紙』(三代目桂米之助著、たる出版、1998年)
  • 『古今東西噺家紳士録』