森本葵

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森本 葵(もりもと まもる、1939年7月11日 - )は、日本の陸上競技選手、陸上競技指導者、体育学者。元800m日本記録保持者。1964年東京オリンピック日本代表。三重県立宇治山田商業高等学校中央大学卒業。マインツ大学に留学経験あり。リッカーミシンで競技生活を送った後、駒澤大学陸上競技部監督を務めた。三重県二見町出身[1]。身長176cm。

来歴[編集]

1963年ポルト・アレグレユニバーシアードでは日本選手団キャプテンを務めた。1964年6月11日、留学先のドイツ・マインツで800mで1分47秒4の日本新記録を樹立した。 この記録は1993年法政大学の小野友誠によって更新されるまで、29年10ヶ月の間日本記録として残った[2]。東京オリンピック男子800mの日本代表であり、同種目で優勝したピーター・スネルニュージーランド)らと共に優勝候補の一人だった。

森本はマインツから8月に帰国したが、その年の日本は猛暑だったことと、またオリンピック代表のプレッシャーが原因で急性肝炎を患ってしまい、オリンピックでは準決勝6着に敗退した。森本が急性肝炎を患ったことが新聞に報じられると、日本中の有志から回復祈願として肝臓に良いとされるが届けられたという。準決勝敗退については、日本人初の五輪金メダリストで東京五輪陸上チーム総監督を務めた織田幹雄が後に「期待されていただけに今思い返しても残念だった」と語っている。その他中央大学在籍時に出場した日本陸上競技選手権大会では、第44、45、47回大会(1960-61、63年)の男子800mで優勝を飾った。

リッカーを退社後、1967年に駒澤大学陸上競技部監督に就任した。「同好会」として初めて箱根駅伝に出場した同校にとって指導者の獲得は急務であり、その白羽の矢が立ったのが森本だった。苦心を重ねたが、1995年に大八木弘明をコーチに迎えて強化を開始すると、1997年第9回出雲駅伝で駒澤大学を初優勝に導いた[1]。1998年第10回出雲駅伝では連覇を飾り、第30回全日本大学駅伝対校選手権大会を制するなど駒澤大学を駅伝の強豪校へと育て上げた[2]

2004年に監督を勇退した後は総監督、顧問を歴任した[1]。またこの間、駒澤大学経営学部教授としても活躍し、ランニングウォーキングの科学的考察に力を発揮した。2005年、日本学生陸上競技連合功労賞を受賞。2007年アール・エフ・ラジオ日本で「箱根駅伝2007! ライブ放送」の往路解説を務めた。日本学生陸上競技連合参与を務めた。

関連人物[編集]

元プロ野球選手の中村稔は宇治山田商業高校の同期である。長女の森本蘭は1989年ユニチカキャンペーンガールである。次女の森本鶴は1994年広島アジア大会サッカー日本代表となり、その後イタリアに渡り1年間セリエAラツィオで活躍するなど、日本女子サッカーの黎明期に活躍した選手である。

主な著作・論文[編集]

  • 「保健体育理論」 科学書院、1976年
  • 「保健体育概論」 カヅサ出版、1983年

脚注[編集]

  1. ^ a b c 川崎治子 「森本葵さん 全日本大学駅伝で初優勝した駒沢大監督(ひと)」 『朝日新聞』1998年11月2日朝刊、3総合面、3頁。
  2. ^ a b 谷祐一 「[顔]箱根駅伝で初の総合優勝を果たした駒沢大陸上部監督 森本葵さん」 『読売新聞』2000年1月4日東京朝刊、解説面、15頁。

関連項目[編集]