楊崇本

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楊 崇本(よう すうほん、? - 915年)は、末から五代十国時代初期の武人。李茂貞仮子

生涯[編集]

幼い頃に李茂貞の仮子となり、李継徽(り けいき)と改名した。唐の乾寧3年(896年)に天雄軍節度使、翌年に静難節度使となり、邠州に遷った。

唐の天復元年(901年)、急速な勢力拡大を遂げた李茂貞に対して、他の節度使が激しく反発し、朱全忠が李茂貞の打倒へ動き出した。朱全忠に邠州を攻められ、李継徽は怖れて降伏し、姓名を楊崇本に戻した。

ところが、朱全忠は楊崇本の妻に手をつけた。悲しみ憤る妻は夫に「あなたは妻も守れないのか、私は朱全忠の女になった、もう生きたくない」と叱責した。恥辱と憤りによって楊崇本は再び背いて李茂貞を頼り、姓名を李継徽に戻し、李茂貞や王建と共に朱全忠に対抗した。唐の天祐3年(906年)、鳳翔、邠、涇などの軍隊を率いて朱全忠の部将と戦ったが、大敗した。

天復14年12月22日(西暦で915年)、子の李彦魯により殺された。

伝記資料[編集]