榎本就時

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榎本就時
時代 江戸時代
生誕 慶長10年(1605年
死没 寛文8年3月29日1668年5月10日
改名 榎本亀太郎(幼名)→榎本就時
官位 左近允、中務大輔伊豆守遠江守壱岐守官途名
主君 毛利秀就綱広
長州藩
氏族 藤原北家高藤流上杉氏庶流 榎本氏
父母 父:榎本元吉、母:矢島氏の娘
兄弟 元忠、女(三浦又右衛門室)、
女(粟屋九郎右衛門室)、就時就宣
就行、女(内藤左衛門室)、
女(木原次郎兵衛室)、女(毛利春直室)、就利、久留就則、就之
正室:毛利元倶の娘
継室:長井氏の娘
女(桂五郎左衛門室)、就益就全
三戸就忠、藤井就久、良仙、末近忠徳、有地忠通

榎本 就時(えのもと なりとき)は、江戸時代武士毛利氏の家臣で、長州藩士。父は毛利氏の重臣である榎本元吉

生涯[編集]

慶長10年(1605年)、毛利氏の重臣である榎本元吉の次男として生まれる。慶長12年(1607年7月20日に兄・元忠が死去したため嫡男となる。

慶長16年(1611年10月14日に「左近允」の官途名毛利輝元から、慶長17年(1612年9月28日には「中務大輔」の官途名伊豆守受領名に加え、「就」の偏諱毛利秀就より与えられた。元和6年(1620年9月5日には父の知行2001石1斗7升の内、1701石1斗7升を譲られ、以後毛利秀就綱広の二代に執権役として仕え、長年当役を務める。在職中には多くの藩法を制定した。

万治3年(1660年)には当職の堅田就政と共に財政再建のために減知されていた藩士の所領を戻し、その上で収入の25%を上納させて負担の軽減を図った。

嫡男の就益は家督を継ぐ前に死去したため、就益の子である就重に所領と家督を譲り、寛文8年(1668年3月29日に死去。享年64。

参考文献[編集]