横山謙三
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名前 | ||||||||||||||
カタカナ | ヨコヤマ ケンゾウ | |||||||||||||
ラテン文字 | YOKOYAMA Kenzo | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 |
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生年月日 | 1943年1月21日(77歳) | |||||||||||||
出身地 | 埼玉県浦和市(現さいたま市) | |||||||||||||
身長 | 175cm | |||||||||||||
体重 | 72kg | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | GK | |||||||||||||
ユース | ||||||||||||||
立教大学 | ||||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
1966-1977 | 三菱重工 | 136 | (0) | |||||||||||
代表歴2 | ||||||||||||||
1963-1975 |
![]() | 49 | (0) | |||||||||||
監督歴 | ||||||||||||||
1976-1983 | 三菱重工 | |||||||||||||
1988-1991 |
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1994 | 浦和レッズ | |||||||||||||
2000 | 浦和レッズ | |||||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。2008年8月31日現在。 2. 2008年8月31日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
横山 謙三(よこやま けんぞう、1943年1月21日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。現日本オリンピアンズ協会理事。日本代表監督時代は兼三と名乗っていた[1][2] が後に元の謙三に戻した。
来歴[編集]
東京神田の生まれ、浦和市立常盤小学校出身。埼玉県立川口高等学校3年時の1961年にゴールキーパーに転向。渡辺正のいた立教大学(社会学部)に進学し[3]、卒業後、JSLの三菱重工(現・浦和レッドダイヤモンズ)に入団した。JSLでは通算136試合出場、日本代表では国際Aマッチ37試合出場の記録を残した。1964年東京オリンピックではアルゼンチンを破る大金星に貢献、1968年メキシコシティーオリンピックでも三位決定戦でPKをセーブするなど活躍し、そこでの銅メダル獲得にも貢献した。三菱重工では1学年下の森孝慈と共に1969年の初優勝に貢献した。
1976年から三菱重工の監督に就任、1978年には日本サッカーリーグ、JSLカップ、天皇杯と当時の3冠を全て制覇した。この年から三菱のユニフォームは青から赤に変わり、これは今の浦和レッズにも受け継がれている。
1988年からは日本代表の監督に就任。当時の世界最先端である3-5-2システムを採用し、ウイングバック(両サイドのMF)を攻撃の基点とする戦術を採ったが、90年W杯予選は1次予選敗退という結果となった。前回大会を下回る結果にサッカーファンの不満が高まり、ファンによる解任署名運動やスタジアムにおける解任を要求する横断幕の掲示が行われたが、その地位に留まり続けた。その後、総監督としてU-23代表を率い1992年1月のバルセロナ五輪アジア最終予選(2回戦)に挑むが6チーム中5位に終わり(上位3か国出場)、遂に辞任する結果となった。
就任当初はベテラン選手を外し、井原正巳や柱谷哲二といった選手を積極的に起用したが思うような結果を残せず、W杯予選敗退を境にそれまでの方針を覆し三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪らの読売クラブ出身の選手を登用し、1991年6月のキリンカップにおいて初優勝に導いた。また、この時期は唯一「日の丸」の赤を基調としたユニフォームを着用していたことでも知られる[4]。
またこの時期からユニホームエンブレムを日の丸から八咫烏を本格的に使用して現在に引き継がれている。
1994年に森孝慈の後任として浦和レッドダイヤモンズの監督に就任した。低迷するクラブの再建を一任されたが果たす事は出来ず、代表監督時代同様にサポーターからの激しい非難を浴び、このシーズン限りで辞任した。
1995年からは浦和レッズのゼネラルマネージャー(GM)に就任。陰でクラブを支え続けたが、1999年にクラブはJ2に降格。1年間でJ1復帰を掲げたがシーズン終盤の2000年10月に成績不振からクラブのJ1復帰が危うくなると斉藤和夫監督に代わり、自らが総監督として指揮を執り、最終節の延長での勝利により、辛うじてJ1復帰を実現させた。
2002年からは森にGMの地位を譲り、強化担当からは離れ株式会社三菱自動車フットボールクラブの取締役として地域活動の強化にあたった。2006年6月で退任。2006年、第3回日本サッカー殿堂入りをした[5]。
2006年に埼玉県サッカー協会専務理事に就任、2014年6月に埼玉県サッカー協会の会長に就任した[6]
所属クラブ[編集]
- 1959年 - 1961年 埼玉県立川口高等学校
- 1962年 - 1965年 立教大学
- 1966年 - 1977年 三菱重工業サッカー部
個人成績[編集]
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1966 | 三菱 | JSL | 14 | 0 | - | ||||||
1967 | 14 | 0 | - | ||||||||
1968 | 14 | 0 | - | ||||||||
1969 | 14 | 0 | - | ||||||||
1970 | 14 | 0 | - | ||||||||
1971 | 14 | 0 | - | ||||||||
1972 | JSL1部 | 14 | 0 | - | |||||||
1973 | 18 | 0 | |||||||||
1974 | 18 | 0 | - | ||||||||
1975 | 2 | 0 | - | ||||||||
1976 | 0 | 0 | |||||||||
1977 | 0 | 0 | |||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 136 | 0 | |||||||
総通算 | 136 | 0 |
代表歴[編集]
出場大会[編集]
- 1964年東京オリンピックのサッカー競技
- 1966年アジア競技大会
- 1968年メキシコシティーオリンピックのサッカー競技
- 1970 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選
- 1970年アジア競技大会
- 1974 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選
- 1974年アジア競技大会
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 49試合 0得点(1964-1974)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1963 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 |
1964 | 1 | 0 | 13 | 0 | 14 | 0 |
1965 | 4 | 0 | 7 | 0 | 11 | 0 |
1966 | 6 | 0 | 11 | 0 | 17 | 0 |
1967 | 5 | 0 | 17 | 0 | 22 | 0 |
1968 | 3 | 0 | 18 | 0 | 21 | 0 |
1969 | 3 | 0 | 12 | 0 | 15 | 0 |
1970 | 12 | 0 | 10 | 0 | 22 | 0 |
1971 | 6 | 0 | 12 | 0 | 18 | 0 |
1972 | 3 | 0 | 5 | 0 | 8 | 0 |
1973 | 2 | 0 | 3 | 0 | 5 | 0 |
1974 | 4 | 0 | 9 | 0 | 13 | 0 |
1975 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 49 | 0 | 122 | 0 | 171 | 0 |
指導歴[編集]
- 1976年 - 1983年 三菱重工業サッカー部:監督
- 1988年 - 1991年
日本代表:監督
- 1992年
U-23日本代表:総監督
- 1994年 浦和レッドダイヤモンズ:監督
- 1995年 - 2001年 浦和レッドダイヤモンズ:ゼネラルマネージャー
- 2000年10月 - 12月 浦和レッドダイヤモンズ:総監督
- 2002年 - 2006年6月 浦和レッドダイヤモンズ:常務取締役、取締役
- 埼玉県サッカー協会:専務理事
監督成績[編集]
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
1976 | JSL1部 | 三菱 | 準優勝 | 18 | 22 | 9 | 4 | 5 | ベスト4 | ベスト8 |
1977 | 準優勝 | 18 | 21 | 9 | 4PK勝 3PK敗 | 2 | ベスト8 | ベスト4 | ||
1978 | 優勝 | 18 | 54 | 13 | 1PK勝 0PK敗 | 4 | 優勝 | 優勝 | ||
1979 | 7位 | 18 | 32 | 5 | 5PK勝 2PK敗 | 6 | ベスト4 | 準優勝 | ||
1980 | 4位 | 18 | 20 | 7 | 6 | 5 | 2回戦 | 優勝 | ||
1981 | 3位 | 18 | 24 | 10 | 4 | 4 | 優勝 | ベスト8 | ||
1982 | 優勝 | 18 | 23 | 10 | 3 | 5 | ベスト8 | ベスト8 | ||
1983 | 6位 | 18 | 16 | 6 | 4 | 8 | 2回戦 | 2回戦 | ||
1994 | J | 浦和 | 12位 | 44 | - | 14 | - | 30 | ベスト8 | ベスト8 |
2000 | J2 | 準優勝 | 7 | 16 | 6 | 0 | 1 | - | 4回戦 |
- 2000年は10月3日より総監督に就任、37節より指揮(順位は最終順位)。
脚注[編集]
- ^ 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』双葉社、2007年、252頁
- ^ 日本サッカー協会公式サイト では代表監督時代についても謙三で統一されている。
- ^ 第5回 横山謙三さんインタビュー03 - NPO法人 日本オリンピアンズ協会
- ^ その後、2012年前後に女子のなでしこジャパンがサードユニとして赤を用いたことがあった。
- ^ “横山謙三”. 日本サッカー協会. 2018年8月2日閲覧。
- ^ SFA NEWS NO.72 埼玉県サッカー協会, 2014年8月
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 横山謙三 - 国際オリンピック委員会 (英語)
- 横山謙三 - Olympedia (英語)
- 横山謙三 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語)
- 横山謙三 - National-Football-Teams.com (英語)
- 横山謙三 - Transfermarkt (player) (英語)
- 横山謙三 - Transfermarkt (manager) (英語)
- 横山謙三 - FIFA (英語)
- 横山謙三 - J.League Data Siteによる監督データ
- 日本サッカー殿堂
- 日本オリンピアンズ協会 OAJインタビュー 横山謙三さん
- 日本サッカーアーカイブ 横山謙三
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