橋健三
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はし けんぞう 橋 健三 | |
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生誕 |
1861年2月11日![]() |
死没 | 1944年12月5日(83歳没) |
国籍 |
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職業 | 漢学者、開成中学校・開成予備学校校長 |
配偶者 |
橋こう(先妻) 橋トミ(後妻) |
子供 |
健行、雪子、 正男、健雄、 行蔵、倭文重、 重子 |
親 |
瀬川朝治(父) ソト(母) |
親戚 |
橋健堂(養父・岳父) 三島由紀夫(孫) 平岡美津子(孫) 平岡千之(孫) 平岡紀子(曾孫) 平岡威一郎(曾孫) |
補足 | |
橋 健三(はし けんぞう、1861年2月11日(万延2年1月2日) - 1944年(昭和19年)12月5日)は、日本の漢学者。開成中学校校長(第5代)。夜間中学・開成予備学校(のちに昌平中学)の校長。
経歴[編集]
1861年(万延2年1月2日)、加賀国金沢区(現石川県金沢市)大豆田町で、加賀藩士の父・瀬川朝治と母・ソトの間に、二男として生まれる。幼少より漢学者・橋健堂(加賀藩学問所「壮猶館」教授)に学ぶ。
1873年(明治6年)12月7日、12歳のとき、学才を見込まれて健堂の三女・こうの婿養子となり、橋健三と名乗る。健堂から漢学塾「集学所」を受け継ぎ、教授となる。
1884年(明治17年)2月6日、こうとの間に、長男の健行を儲ける。やがて、廃藩置県により覚束なくなっていた「集学所」をたたみ、妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。
1888年(明治21年)、共立学校(開成中学校)に招かれ、漢文教諭として漢文と倫理を教え、幹事に就任。妻・こうの死亡により、1890年(明治23年)、健堂の五女・トミを後妻とする。トミとの間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女を儲ける。
1894年(明治27年)、学校の共同設立者に加わる。1900年(明治33年)、田辺新之助を校長に第二開成中学校が神奈川県逗子町に開校され、同校の幹事となる[1]。1903年(明治36年)、開成中学校にわが国初の夜間中学・開成予備学校が田辺新之助により併設される(のち1936年(昭和11年)に校名を昌平中学と改称)。
1910年(明治43年)、第二開成中学校の分離独立に際して、開成中学校の第5代校長に就任する。開成中学校校長としての健三の事績は『開成学園九十年史』に詳らかである。
1915年(大正4年)、学校の移転拡張を図るため、学園組織を財団法人とし、理事となる。(当時の寄付行為第5条には、3校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び不動産の全部を寄付し之を財団法人の財産とすることが謳われており、「この3校主の勇気決断は、この学校の出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と学園史に記されている)
多年の功績により、1923年(大正12年)2月、勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与される。
1928年(昭和3年)、開成中学校校長を辞職後は、夜間中学・開成予備学校(昌平中学)の校長として、勤労青少年の教育に尽瘁する。1936年(昭和11年)4月18日、長男・健行(享年52)を病気で亡くす。
1944年(昭和19年)、四男の行蔵にその職を譲り、故郷の金沢に帰る。同年12月5日、死亡。享年84。
人物像[編集]
健三は14、5歳にして、養父の橋健堂に代わり、藩主・前田直行に講義を行うほどの秀才だったという。
開成中学校校長時代の健三は白い長髯を蓄えて、眼光炯々とした異相で、生徒からは「青幹」「漸々」「岩石」と渾名をつけられたという。
漢文の授業では、教科書として四書五経ではなく、『蒙求』を使用したという(『蒙求』は、清少納言から夏目漱石に至るまでの日本の文学者に影響を与えた故事集である)。
学校経営者であった健三にとって、老朽化・狭隘化が著しい校舎の建物(当時、生徒たちは「豚小屋」と呼んでいた)の移転整備が課題であったが、学校側には土地も資金の当てもなかった。そこで健三たちは、窮状を詩文に託して早大教授の桂湖邨に訴える。桂はこの話を前田利為侯爵に伝え、1921年(大正10年)に前田家の所有地を格安で払い下げて貰うことになったという。場所は、現在の新宿文化センター一帯である。しかし、この土地に目をつけた東京市長・後藤新平が、電車車庫の整備を計画して、学校側に譲渡を申し入れてくるが、健三は直ちに突っぱねる。開成の初代校長の高橋是清からも譲渡を勧められるが、硬骨漢の健三は拒絶する。やがて関係者と相談した結果、市民のために東大久保の土地を譲る。紆余曲折の後、学校は新たに日暮里の現在の高校敷地を入手したという[2]。
1941年(昭和16年)5月、長男・健行の死から5年後、健三は息子の親友であった歌人・斎藤茂吉の家を訪ね、亡き息子の墓碑銘の撰文と揮毫を茂吉に依頼した。そのことが斎藤茂吉の日記に記されている[3][4]。
孫の三島由紀夫がのちに演劇の世界に入って知り合うことになる村山知義、滝沢修、中村伸郎らは、橋健三の教え子だったという。学問のある厳格な先生で、「ギュウギュウやられたものだった」と、やはり教え子だった芦原英了が述べている[5]。
系譜[編集]
- 橋家系図
往来 | 船次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋一巴 | つね | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
健堂 | ふさ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
こう | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋健行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
瀬川健三 | 雪子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋正男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トミ | 橋健雄 | 平岡公威(三島由紀夫) | 紀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
より | 橋行蔵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ひな | 倭文重 | 杉山瑤子 | 平岡威一郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美津子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平岡梓 | 平岡千之 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連人物[編集]
- 前田利為 - 旧加賀藩主・前田本家第16代目当主(侯爵)である。幕末期に橋家三代が仕えた。橋健三の孫・三島由紀夫の小説『春の雪』には、「終南別業」が登場する。王摩詰の詩の題をとって号した「終南別業」は、鎌倉の一万坪にあまる一つの谷をそっくり占める松枝侯爵家の別邸である。モデルは、前田侯爵家の広壮な別邸である。
- 桂湖邨 - 漢学者で、『王詩臆見』など王陽明に関する論文を著し、三島由紀夫の小説『奔馬』の藍本の一つ『清教徒神風連』の著者・福本日南とも親交があった人物。
- 高橋是清 - 第20代内閣総理大臣。開成中学校の初代校長でもある。二・二六事件において、赤坂の自宅二階で青年将校らに暗殺された。三島由紀夫の小説『憂国』、『英霊の聲』は、二・二六事件を題材にとっている。
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ 東京開成中学校校史資料(東京開成中学校, 1936)
- ^ 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)
- ^ 『斎藤茂吉全集』(岩波書店、1974年)
- ^ 「茂吉が書いた墓碑銘『再発見』」(北國新聞、2006年4月15日に掲載)
- ^ 芦原英了『三島由紀夫という作家』(青年座 1955年10月)
参考文献[編集]
- 『開成学園九十年史』
- 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)
- 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)
- 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
外部リンク[編集]
- 橋健三校長略歴東京開成中学校校史資料(東京開成中学校, 1936)
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