武田信政

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武田 信政(たけだ のぶまさ)
  1. 鎌倉時代甲斐武田氏当主。本項で解説。
  2. 戦国時代上総武田(真里谷)氏当主については真里谷信政を参照。(1.の末裔に当たる)

 
武田信政
時代 鎌倉時代前期 中期
生誕 建久7年1月15日1196年2月15日
死没 文永2年1月6日1265年1月24日
墓所 不明
官位 甲斐安芸守護
幕府 鎌倉幕府
氏族 甲斐源氏
父母 父:武田信光 母:新田義重の娘
兄弟 武田朝信(黒坂氏)、信忠、武田信政一条信長、一宮信隆(岩崎氏)、早川信平、馬渕信基、円井垣光常
不明
武田信時

武田 信政(たけだ のぶまさ、建久7年1月15日1196年2月15日) - 文永2年1月6日1265年1月24日[1])は、鎌倉時代前・中期の武将

甲斐武田氏の第6代当主。第5代当主・武田信光嫡男[2]。生母は新田義重の娘[3]で、一条信長の同母兄[1]。通称は小五郎。

官位は伊豆守。安芸守。若狭守。子に武田信時(五郎次郎、安芸守護信時流武田氏祖)・武田政綱(五郎三郎、石和流武田氏祖)・武田信村・武田信泰・武田信綱がいる[4]

生涯[編集]

建久7年(1196年)1月15日、甲府の館にて生まれる[1]幼名は龍光丸[1]・勝千代。元久元年(1204年11月15日、当時の執権北条時政烏帽子親として元服、「政」の偏諱を与えられて信政と名乗った[5]

若い頃、讒言により安芸国に流されたが、やがて許されて復帰した。1221年承久の乱でも幕府方として父と共に活躍した。その後、父が出家したため、家督を継いで当主となった。文永2年(1265年)に死去[1]し、後を嫡子武田信時が継いだ。

建長6年(1254年)成立の『古今著聞集』には信政に関する逸話が記されている。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)武田信宗項の傍注による。
  2. ^ 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)の信政項では、朝信、信忠という二人の兄を載せ、信政を三男としている。『尊卑分脈』でも朝信、信忠(後に改め高信)という二人の兄を載せている。
  3. ^ 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)の信政項には「母悪源太義平女 新田大炊助義重田上西養子」と記載されている。
  4. ^ 『尊卑分脈』、「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)。
  5. ^ 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)の信政項に「元久元年十一十五首服加冠平時政、理髪三浦介、號小五郎、十、信光三男也、請加冠字、既為嘉例也」とある。尚、同じく「甲斐信濃源氏綱要」には、子の信時、孫の時綱、曾孫の信宗も慣例によって北条氏得宗家当主の偏諱を受けたことが記されている。

参考文献[編集]