歩兵操典

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歩兵操典(ほへいそうてん)とは陸軍における歩兵の運用について示したマニュアルである。

概要[編集]

歩兵操典(Field Manual 野戦教本とも呼ばれる)は、歩兵として要求される行軍、戦闘時の陣形、火器や各種兵器の取扱い、など歩兵に必要な戦闘技術標準化・体系化した上で、誰でも分かるように図解入りで解説している。

歩兵操典が編纂されるようになったのは、近世にグスタフ2世がそれまで曖昧だった陸軍の軍制を標準化して合理化を図ろうとしたことに起因するものであり、各国で独自の発展を見せた。

米軍野戦教本の例[編集]

米軍は多彩な人種・教育レベルの人々が集まって構成されて来た歴史を持つため、その野戦教本からは難解さや抽象的な表現が徹底して排除されており、プラグマティズムの集大成とも言うべき内容となっている。

日本における歩兵操典[編集]

藩兵・御親兵の時代[編集]

第一次仏軍軍事顧問団による幕府陸軍歩兵の訓練風景: 1868年
第二次仏軍軍事顧問団のメンバー: 1872年
仏軍軍事顧問団により建設された市ヶ谷陸軍士官学校: 1874年

日本における操典を用いた歩兵訓練は、高島秋帆により戦列歩兵方式の歩兵運用を含む蘭式軍制の導入が試みられ、1834年には長崎警護の任にありフェートン号事件を経験していた佐賀藩がこれを導入した事がはじまりである。

その後、幕末・維新の動乱期に各藩で洋式軍制の導入が試みられた際には、欧州各国の歩兵操典が重要な情報源となり、多くの洋学者・兵学者はこれを研究して自らの流儀とした為、日本における軍事研究とは長らく歩兵操典の翻訳と同義であった。また、後に欧州人軍事顧問に直接指導を仰ぐ際にも、共通認識を得る土台としてイラスト入りの歩兵操典が重要な役割を果たした。

廃藩置県が完了するまでの間、日本国内の各軍(藩兵)は様々な軍制が導入されていたが、大まかな区分として新政府内の旧長州藩部隊では蘭・仏式を混成させた大村益次郎の独自体系を導入しており、旧薩摩藩では英式(英米系)の体系が、旧幕府諸軍には蘭・仏・英の各式部隊が混在し、最後発ながら薩長を脅かす大勢力に成長した旧紀州藩のみが普(プロイセン)式を採用している状態だった。

1871年(明治4年)に薩摩の西郷隆盛と長州の山縣有朋が協力して御親兵が創設されると、その兵制は薩摩の英式とされた [1] が、御親兵はまもなく近衛に改組され、日本における英式歩兵部隊は極めて短命に終わった。

陸軍創設・仏式陸軍[編集]

1872年(明治5年)に、一般人を対象とした徴兵による日本陸軍が誕生するが、これを指揮する士官達の出身は様々であったため、最大公約数的に仏式が採用 [2] され、仏陸軍歩兵操典と第二次仏軍軍事顧問団の仏軍人達による指導が始まる。

日本陸軍の公的記録の中で、歩兵操典について記されている最も古い記録には、1872年(明治5年)兵部省によって1870年版フランス陸軍歩兵操典 [3] が採用された事が記されており、次いで1874年(明治7年)には陸軍省によって1872年版の同操典が採用 [4] ・出版 [5] された事が記録されている。

その後、1876年(明治9年)に操典が改訂 [6] された事が記録されているほか、1887年(明治20年)にも1884年(明治17年)版フランス操典に類似したものが発布されたとされる。

憲法発布・独式陸軍[編集]

1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布され、日本は近代国家としての体裁を整えた。憲法を作成する過程で欧州各国の研究が進むと、日本が目指す近代国家の導入モデルは、共和制のフランスから君主制のドイツへと遷移して行った。

1885年(明治17年)に来日したメッケル参謀少佐の影響を強く受けた日本陸軍は、1891年(明治24年)に発布された操典では独陸軍歩兵戦術が取り入れられた。この操典は、ほぼ1888年(明治21年)版独陸軍操典のコピーであり、この操典をもって守勢的な鎮台運用から攻勢的な師団運用へと転換し、日清戦争での成功を導き、太平洋戦争の終焉まで日本陸軍の歩兵は独式で運用され続けた。

また、この時期に欧州諸国の歩兵部隊で連発式小銃が本格的に採用 [7] されはじめており、各国の歩兵操典はこれに合わせて改訂されはじめた。

1898年(明治31年)には日清戦争の戦訓および三十年式歩兵銃の採用 [8] による変更から改正され日露戦争を迎えた。

日露戦争〜第二次大戦[編集]

塹壕陣地や機関銃といった新しい軍事技術の前に苦戦させられた日露戦争での戦訓や、建軍以来蓄積された日本陸軍独自の戦法やノウハウを盛り込んで、1906年(明治39年)に操典草案が作られ、1909年(明治42年)11月8日に軍令陸第7号として操典が制定発布された。

この1909年改定版から以降、日本陸軍には欧米からの翻訳に依存しない独自体系の運用が追加され始め、操典の文章も著しく異なったものとなっている。

第一次世界大戦の勃発は歩兵戦術に多大な変化をもたらすこととなった。従来の散開戦闘方式は破棄され、各国では戦闘群戦法などの新戦術が採用された。これらの変化を研究した日本陸軍も操典改正の必要に迫られ、1920年(大正9年)草案、1923年(大正12年)草案、1928年昭和3年)操典が相次いで制定され、軽機関銃や重機関銃、歩兵砲、擲弾筒などを広範に導入し、従来よりも比較的疎散な隊形を用いた疎開戦闘法が採用された。

その後、満州事変での戦訓や、日本陸軍最大の仮想敵とされた対ソ歩兵戦闘の研究成果を盛り込み、戦闘群戦法を採用した1937年(昭和12年)草案が発布され、1940年(昭和15年)に最後の歩兵操典が制定されたが、操典が制定されるまでに張鼓峰事件ノモンハン事件が発生すると、日本陸軍の対ソ戦準備は現実から遊離したものである事が明らかになっていた。

これ以降、日本陸軍の歩兵操典は大東亜戦争終戦に至るまで改正されることはなかった。

第二次大戦後[編集]

ベトナム独立戦争を戦うベトミン軍のために井川省少佐によって翻訳される。

内容[編集]

昭和15年改定の歩兵操典では、以下のような構成になっている。

  • 勅語
  • 綱領
  • 総則
  • 第一篇 各個教練
    • 通則
    • 第一章 基本
      • 第一節 不動の姿勢、右(左)向、半右(左)向、後向
      • 第二節 担銃、立銃、行進
      • 第三節 着剣、脱剣、小銃及び軽機関銃の弾薬の装填、抽出
      • 第四節 射撃
      • 第五節 手榴弾の投擲
    • 第二章 戦闘
      • 要則
      • 第一節 射撃
      • 第二節 運動、運動と射撃の連携
      • 手榴弾の投擲
      • 突撃
    • 第三章 夜間の動作
    • 第四章 戦闘間兵一般の心得
  • 第二編 中隊教練
    • 通則
    • 第一章 密集
      • 第一節 隊形
      • 第二節 密集の動作
    • 第二章 戦闘
      • 要則
      • 第一節 分隊
        • 第一款 攻撃
        • 第二款 防禦
      • 第二節 小隊
        • 第一款 攻撃
        • 第二款 防禦
      • 第三節 中隊
        • 第一款 攻撃
        • 第二款 防禦
    • 第三章 夜間戦闘
      • 第一節 攻撃
      • 第二節 防禦
      • 第三節 追撃、退却
    • 第四章 弾薬及び資材の補充、弾薬小隊の行動
  • 第三編 機関銃及び自動砲教練
    • 通則
    • 第一章 密集
      • 第一節 隊形
      • 第二節 密集の動作
    • 第二章 射撃
      • 機関銃
      • 自動砲
    • 第三章 戦闘
      • 要則
      • 第一節 分隊
      • 第二節 小隊
        • 第一款 攻撃
        • 第二款 防禦
      • 第三節 中隊
        • 第一款 攻撃
        • 第二款 防禦
        • 第三款 追撃、退却
    • 第四章 夜間戦闘
    • 第五章 弾薬の資材の補充、弾薬小隊の行動
  • 第四編 歩兵砲教練
    • 通則
    • 第一章 密集
      • 第一節 隊形
      • 第二節 密集の動作
    • 第二章 射撃
      • 第一節 連隊砲、大隊砲
      • 第二節 速射砲
    • 第三章 戦闘
      • 要則
      • 第一節 分隊
      • 第二節 小隊
        • 第一款 攻撃
        • 第二款 防禦
      • 第三節 中隊
        • 第一款 攻撃
        • 第二款 防禦
        • 第三巻 追撃、退却
    • 第四章 夜間戦闘
    • 第五章 弾薬及び資材の補充、弾薬小隊の行動
  • 第五編 大隊教練
    • 通則
    • 第一章 集合隊形
    • 第二章 戦闘
      • 要則
      • 第一節 攻撃
      • 第二節 防禦
    • 第三章 夜間戦闘
      • 第一節 攻撃
      • 第二節 防禦
      • 第三節 追撃、退却
    • 第四章 弾薬及び資材の補充、大隊弾薬班の行動
  • 第六編 通信隊教練
    • 通則
    • 第一章 密集
      • 第一節 隊形
      • 第二節 密集の動作
    • 第二章 通信
      • 第一節 分隊
        • 要旨
        • 第一款 基本
        • 第二款 戦闘
      • 第二節 小隊及び通信隊
        • 要旨
        • 戦闘
  • 第七編 連隊教練
    • 通則
    • 第一章 集合隊形
    • 第二章 戦闘
    • 第三章 夜間戦闘
    • 第四章 弾薬及び資材の補充、連隊弾薬班の行動
  • 第八編 附録
    • 其の一 観兵の制式、刀及び喇叭の操法
    • 其の二 対戦車肉薄攻撃
    • 其の三 拳銃の操法
    • 其の四 十一年式系機関銃の操法
    • 其の五 九四式眼鏡照準具の操法
    • 其の六 輓馬編成大隊砲及び速射砲教練
    • 其の七 平射歩兵砲教練
  • 附図
    • 第一
    • 第二

参考文献[編集]

  • 平櫛孝『戦略戦術』ダイヤモンド社、1943年
  • 『歩兵操典』池田書店、1940=1982年復刻
  • 『歩兵六書』厚生堂、1913年(1909年改定の歩兵操典およびその他典範令)
  • 『歩兵操典』厚生堂、1904年(1898年改正の歩兵操典)

脚注[編集]

  1. ^ 外務省 明治1年〜明治4年 太政官
    「卿 議判 公書課 輔 辛未(1871年)十二月二十五日第十二字副島外務卿邸ニ於テ外務卿首蘭公使@獨@代任公使フアンドルフーヘント応接目次 一和歌山県雇入孛国教@@ 一米輸出@@ 出席 花房外務少丞 通@ ケンプル@@ 筆記 近藤外務@大録 握手の礼相等済過日申上置候和歌山藩雇入教師の義政府御見込如何ニ御坐候哉承知仕度候 右は津田正常(津田出)陸奥帰之助(陸奥宗光)両人へ是迄の手続問糺候処右両人より御断り申上候趣意は是迄我国兵式一定ならず藩ニ於て思ひ思ひに調練致し候処今般薩藩と相求め候に付テは兵式も一定セザるを得ず故ニ不得意御断り申入れ候なり 右の趣御聞き故相来り候上政府の御見込は如何既に両人申述べ候通り種々の兵式を相集め候テは区々にて〜」
  2. ^ ナポレオン戦争以降の欧米各国では、欧州を席巻した仏陸軍が研究され、これを範とする事が半ば伝統化しており、新旧大陸の軍は程度の差こそあれ仏陸軍の構成を模倣した存在だった。
    この状況が一変するのは普仏戦争プロイセンが劇的な勝利を遂げてからであるが、日本陸軍がプロイセン軍制へ移行し始めるのは1885年(明治18年)以降の事である。
  3. ^ 公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年〜明治八年・第十一巻・明治四年〜明治八年
    兵部省 明治5年2月12日
    「東京鎮台歩兵練兵式ヲ定ム 東京鎮台 其台本営歩兵之儀西暦一千八百七十年式ニ相定候間歩兵操典ニ基キ可致練兵候事衆規淵鑑
  4. ^ 陸軍省大日記 「大日記 諸寮司伺届弁諸達 1月金 陸軍第1局」
    陸軍省 明治7年1月
    「但仏書右此戸山出張所ニ於テ入用ニ付至急貸渡相成度此段相伺候也 曽我兵学頭代理六年十二月二十三日 兵学助 保科正敬山縣卿殿伺之通但買上下貸渡事 一月十三日 第六十九号千八百七十二年式仏歩兵操典 三部右歩兵科教師通弁課之者職務用必要ニ付至急御貸渡相成度尤御貯蔵乞之候事 実上御渡相成候様致度此段相伺候也」
  5. ^ 陸軍省大日記 明治7年 「大日記 官省使府県 送達11月土 陸軍第一局」
    陸軍省 明治7年11月
    「三好市臣過日来上京之処御用相済昨十二日出発帰台致候旨届出候条此段御届申候也 明治七年十一月十三日 陸軍卿山県有朋 太政大臣三条実美殿 第二千二百九号 歩兵操典第二版上梓ニ付御届 一、歩兵操典第二版大隊之部二部 右於当省今般上梓致候付此段」

    陸軍省大日記 明治7年 「大日記 第3号 9月より利 参謀局」
    陸軍省 明治7年11月
    「第三百八十号 一歩兵操典第二版大隊之部四部一部定価金三十七銭五厘 右出版相成候ニ付為御届前書之通差出候也 追々外ニ一部差出候処一部省書籍館江御送致相成度候也 参謀局長代理 明治七年十一月十二日 陸軍中佐浅井道博 山県陸軍卿殿」
  6. ^ 陸軍省大日記 明治9年「大日記校団裁判の部7月金陸軍省第1局」
    少将東伏見嘉彰 明治9年7月3日
    「学三百十二号 新式歩兵操典ヲ以テ教官ヘ伝習之儀ニ付伺 歩兵操典之儀近日御変更可相成趣伝承致候就テハ本年微召之学生ヘハ新式ヲ以テ教授致候ハヘ御都合筋ト被存候左候ハヘ教師ノ申出モ有之候間現業ヲ以テ教官ヘ伝習為致度右ハ一般ノ教法ニモ関係ノ儀ニ付此段相伺候也 戸山学校長 明治九年七月三日 少将東伏見嘉彰 山県陸軍卿殿 伺之趣相成度ヘ御新式伝習御届ハ事 七月十五日 学三百十二号 七月十九日 一方針 一個 右六月九日遠距離射的場ニ於テ小使寺田庄八儀十ニ取候旨届出候ニ付校中心当ノ者相尋候得共于今申出候者無之依テ該品相添此段御届申候也 戸山学校長 明治九年七月十日 少将東伏見嘉彰 山県陸軍卿殿」

    陸軍省大日記 「大日記 学校教導団裁判所 10月金 陸軍省第1局」 陸軍中佐 長坂昭徳 明治9年10月24日 「学四百弐拾号 新式歩兵操典翻訳ノ儀ニ付伺 本年三月七日付ヲ以テ新式歩兵操典翻訳之儀御達相成爾来追々翻訳為致候ニ付テハ兼 テ御渡之原書即チ生兵小隊共近日訳成可致筈ニ御座候 就テハ大隊ノ部モ引続当校ニ於テ翻訳可致候ニ御座候哉此段相伺候也 戸山学校長代理 明治九年十月廿四日 中佐長阪昭徳 山県陸軍卿殿 伺之趣猶其様可取斗事 十月廿八日」
  7. ^ 連発銃そのものは南北戦争中の米国陸軍において、兵士の私物として利用されていたが、有効射程が短く信頼性に欠けたため、20年近くに渡って歩兵銃が連発化される事は無かった。
  8. ^ 日本における連発歩兵銃の採用は、1889年(明治22年)の二十二年式村田銃が最初である。
    二十二年式村田銃は筒状弾倉を使用して再装填に時間がかかったため、戦闘中に弾倉内の弾薬を撃ち尽くすと、従来の単発銃と同じ存在になってしまったため、完全な連発化が実現された訳ではなかった。
    この欠点を克服すべく三十年式歩兵銃モーゼル式小銃を参考に、5連クリップによる装填方式を採用しているため瞬時に再装填が可能となっている。