歩練師

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

歩 練師[1](ほ れんし、? - 238年)は、三国時代の大帝孫権の妃嬪。徐州臨淮郡淮陰県の人。生前は夫人の一人であり、死後に皇后の位を追認された。子に孫魯班孫魯育。同族に歩騭歩協歩闡らがいる。

生涯[編集]

前漢の淮陰侯の末裔とされるが、後漢の末に母親に連れられ廬江に移住した。199年建安4年)12月に廬江が孫策に破られると、母娘共に江南へ移った。

容貌が美しかったため、孫権に見初められて側室となった。その寵愛ぶりは後宮中第一であった。孫権との間に2人の娘を産んだ。嫉妬を知らぬ性格であり、常に他の女性たちを薦めたため、孫権からも長く愛されることとなった。

221年黄初2年)、孫権は王位に就くと、練師を王后にしたいと考えた。さらに229年黄龍元年)、帝位に就いた時には皇后にしたいと考えたが、太子の孫登や重臣たちはみな、徐夫人を皇后にすべきだと進言した。そのため孫権は思い悩み、この問題に決着が付けられないまま10年余りが経過した。しかし宮中では、誰もが歩夫人のことを皇后と呼び、親戚の者たちが上奏する際も彼女を中宮(皇后のいる宮殿、転じて皇后自身を指す)と呼んだ。

238年赤烏元年)死去した。臣下たちは孫権の意向を受け、彼女に皇后の位を追贈するよう申し入れた。同年閏12月1日、練師に皇后の印綬が贈られ、策命が下され、蒋陵に葬られた。

小説『三国志演義』には登場しない。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『建康実録』