毛利安子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
毛利安子

毛利 安子(もうり やすこ、天保14年3月8日1843年4月7日) - 大正14年(1925年7月24日)は、江戸時代幕末期から大正時代の女性。長州藩最後の藩主でのちに公爵毛利元徳の正室。長府藩毛利元運の二女で、長州藩主毛利敬親の養女。初名は銀姫。公爵毛利元昭ら5男1女の生母。

生涯[編集]

天保14年(1843年)、江戸日下窪の長府藩邸にて生まれる。母は正室欽子(土浦藩主・土屋彦直の娘)。嘉永4年(1851年)7月16日、9歳で宗家長州藩主・毛利敬親の養女となる。安政5年(1858年)1月18日、徳山藩毛利広鎮の十男・定広(元徳)を婿に迎え、江戸桜田の藩邸で婚儀を挙げた。元徳は嘉永4年11月に敬親の養子となっている。このため夫妻は双方ともに養子、いわゆる夫婦養子にあたる。

文久2年(1862年)、幕府が禁制を緩和して大名妻子の国許居住を許可したため、江戸を離れ長州に下った。翌文久3年(1863年)の下関戦争の際は、先頭に立って家内を盛り立てたという。続いて元治元年(1864年)7月の禁門の変により長州藩は朝敵となり、幕府により2度の長州征伐が行われた。こうした中、元治2年(1865年)2月、第1子の長男・元昭を出産した。結婚8年目で生まれた男子のため、元昭の入浴まで自ら行い、愛育した。慶応3年(1867年)、倒幕の密勅により長州藩は朝敵から一転して朝廷側となり、敬親と元徳の官位も回復した。養父と夫がともに京や江戸に赴き、国許を留守にすることが多い中、国許に知らせが届くと率先して安子が応対したという。明治2年(1869年)6月4日、敬親の隠居により元徳が長州藩主となったが、17日には元徳は山口藩知事となった。

華族となり東京に移住した後は、婦人教育や慈善活動に力を注ぎ、明治23年(1890年)から大日本婦人教育協会会長を務め、日本赤十字社の要職も務めた。大正11年(1922年)、勲四等[1]に叙勲。大正14年(1925年)に没した。享年83(満82歳)。

血筋[編集]

栄典[編集]

演じた女優[編集]

参考文献[編集]

  • 『カメラが撮らえた幕末三〇〇藩 藩主とお姫様』p136-p141 (新人物往来社、2012年)ISBN 9784404042149
  • 『日本女性人名辞典』(日本図書センター、1993年)ISBN 4820571281

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 官報 1922年12月27日
  2. ^ 『官報』第3123号「褒章」1922年12月27日。
  3. ^ 『官報』第3879号「叙任及辞令」1925年7月28日。

関連項目[編集]

  • 乃木希次 - 守役、安子の母に仕えた土浦藩士の娘を後妻とする。