毛利就禎

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毛利 就禎(もうり なりさだ、延享3年(1746年) - 享和2年11月27日1802年12月21日))は、長州藩一門家老である阿川毛利家の8代。

父は毛利広漢。正室は宍戸広周の娘。継室は藤木土佐の娘。継々室は堤代長の娘。養子に毛利信任通称は勝九郎、宮内、伊勢。

生涯[編集]

延享3年(1746年)、一門家老毛利広漢の長男として生まれる。宝暦4年(1754年)、広漢が藩主毛利重就と対立して処罰され、隠居したため家督を相続することとなる。元服して重就より偏諱を授かり就禎と名乗る。明和2年(1765年)、後潟で38町2反の干潟の開作(干拓)を行う。明和7年(1770年)1月、当職毛利広圓が没し、代わって当職(執政・国家老)となる。安永9年(1780年)、隠居して家督を養子の信任に譲る。享和2年(1802年)11月27日死去。享年57。

参考文献[編集]

  • 石川卓美著「防長歴史用語辞典」
  • 小川國治著 「毛利重就」