毛利広盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移動先: 案内検索

毛利 広盛(もうり ひろもり、天文2年(1533年) - 元和2年(1616年))は、戦国時代後期の武将。美濃国八神城主。のち尾張藩藩士。本姓源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏棟梁鎮守府将軍源義家の七男源義隆にはじまる陸奥七郎義隆流毛利氏。通称は掃部または小三郎という[1]

来歴[編集]

当初、美濃斎藤氏に仕えていたが、織田信秀の家臣に転じ、その後織田信長豊臣秀吉徳川家康徳川義直に仕える。最終的には尾張藩士となって先祖代々の地を安堵され、尾張藩の重臣として重要な役割を果たした。先祖は河内源氏の棟梁、源義家の七男・源義隆の子毛利義広といわれ、源姓毛利家13代当主となる。広盛と同じく斎藤家から織田家へと転じた森氏の当主・森可成とは同じ祖先を持つ関係にある[1]

毛利家の家伝である『毛利文書』によると、天文6年(1537年8月6日、織田信秀が毛利広盛に八朔祝儀を謝すと記録されている。ただ、広盛はこの折には幼少のため、父毛利広包の誤りか、もしくは父の代参として名義が使われたか、詳細は不明である。

永禄6年(1563年)、織田信長が広盛に対して合戦で討死にした親(毛利広雅、つまり毛利広包のこと)の忠節を讃えるという。天正12年(1584年6月21日、主君・秀吉より毛利広盛へ忠節により新知及び本知都合2660貫文を宛行うとされ、同日、広盛へ知行方目録が下された。さらに、同文書によると、天正17年1589年11月19日には、豊臣家五奉行増田長盛により、同じ豊臣家中の伊藤秀盛へ毛利広盛に対して知行を渡すよう指示があり、同日中に伊藤秀盛、毛利広盛へ増田長盛の指示により大須・八上・八上川東・野方を渡す旨が記録されている。当時、毛利家は八神村に3000石を知行した[1]

関ヶ原の戦いの前哨戦となる東軍方による岐阜城攻め(城主は信長嫡孫織田秀信)があった折、広盛は西軍に就き、援軍として杉浦重勝の竹ヶ鼻城の二の丸を守っていたものの、攻め寄せてきた福島正則の降伏の勧めに従い開城したと記録されている(竹ヶ鼻城の戦い)。その後、徳川家康の家臣となり、家康の命によりその九男で尾張藩祖となる義直の重臣として仕えることとなった。関ヶ原の後、1000石の減知があって2000石となるが、旧領の八神村を安堵され、八神城主として存続する。広盛の子には毛利広之、毛利広義(広高とも)、毛利広重がおり、それぞれ尾張藩士となっている[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 阿部猛・西村圭子『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社1990年) 775頁参照。

参照文献[編集]

  • 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年) ISBN 4404017529

関連項目[編集]