毛利弘元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利弘元
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 応仁2年(1468年
死没 永正3年1月21日1506年2月13日
改名 千代寿丸(幼名[1]→弘元
別名 通称:少輔太郎[1]
戒名 悦叟常喜大禅定門[1]
墓所 悦叟院(広島県安芸高田市
官位 受領名治部少輔[1]、備中守[1]
主君 大内政弘義興
氏族 大江姓毛利氏
父母 父:毛利豊元[1]、母:不明
兄弟 弘元兼重元鎮
正室福原広俊の娘[1]
継室杉大方
側室佐々木氏の娘、難波元房の娘、有田氏の娘
興元[2]元就[2]相合元綱[3]
北就勝[4]、見付元氏、宮姫(武田氏[2])、八幡新造(渋川義正室)、相合大方(井上元光[3])、松姫(吉川元経[4])、竹姫(井原元師室[4]

毛利 弘元(もうり ひろもと)は、室町時代から戦国時代にかけての武将安芸国国人領主毛利氏当主。吉田郡山城主。父は毛利豊元。子に毛利興元毛利元就相合元綱北就勝

生涯[編集]

応仁2年(1468年)、安芸国国人である毛利氏の当主・毛利豊元の長男として生まれる[5]毛利氏周防国長門国守護大名大内氏の勢力下である安芸国人領主の一人であった。

文明8年(1476年)、父・豊元が死去し家督を相続する。文明11年(1479年)に大内政弘の加冠を受けて元服し、「弘」の偏諱を与えられて「弘元」と名乗る[6]

明応4年(1495年)に大内政弘が死去すると、後を継いだ大内義興嫡男興元と共に従った。だが、その立場は管領細川氏と大内氏の間で揺れ、さらに明応8年(1499年)には明応の政変で失脚した前将軍・足利義稙を保護した大内氏と、将軍・足利義澄を擁する室町幕府との間で揺れる[5]

対立の激化した大内氏と細川氏の両者からの協力要請から逃れる為、明応9年(1500年)に嫡男・興元に家督を譲って隠居し、次男の元就らを連れて安芸国多治比の猿掛城へ移り住んだ。隠居先を猿掛城としたのは、吉田郡山城の西の拠点を確保し、北方に位置する国人・石見高橋氏に備えるためとも考えられている[5]

しかし、その心労と酒毒により、永正3年(1506年1月21日に死去した[5]。享年39。墓所は広島県安芸高田市の悦叟院。

脚注[編集]

[ヘルプ]

参考文献[編集]

関連作品[編集]