毛利新田

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毛利新田の開発前後の比較地図

毛利新田(もうりしんでん)は、明治時代に三河国渥美郡牟呂磯邊・大崎の3か村にまたがる海岸の地先の洲(現在の愛知県豊橋市神野新田町)を干拓した新田である。

現在の神野新田(じんのしんでん)として再開拓される前に造られ、その後消滅した干拓地で、堤防の形と位置は神野新田が引き継いだので、毛利新田は現在の神野新田と同じ形状、面積であった。

第百十国立銀行(後の山口銀行)取締役であった山口県の毛利祥久が、明治21年(1888年)に銀行の融資事業として開拓工事を開始し、明治23年(1890年)に堤防は完成して、豊橋の昔の名前である吉田から吉田新田と名付けられたようである。

しかし、近隣住民は毛利が作ったので毛利新田と呼んでいた。

しかし、翌明治24年(1891年)に濃尾地震で堤防の破損、その翌年の明治25年(1892年)に波浪による堤防崩壊により新田は元の海原に戻り、復旧のめどが立たてられず開拓を断念した。

工事開始から新田消滅までの5年間だけ存在した新田であったため、毛利新田の詳細を知る人は少ない。

その後、初代神野金之助が新田に関する全権利を買い取り、再開拓となる。

神野新田は毛利新田の基本設計を引き継いだが、脆弱であった堤防は毛利新田のノウハウから、巨大化[1]人造石による表面保護で強固なものに改良した。

地理的背景[編集]

地理的背景[編集]

豊橋市を流れる豊川(とよがわ)を中心にした河口は三河湾に広がる六条潟[2](ろくじょうがた)と言い、川からの土砂が冬季の西風による打ち寄せる波で海岸に洲ができた遠浅の海である。

そのため、江戸時代初期から干拓事業が盛んで江戸時代末期までに合計25の新田が作られた[3]

干拓は豊川にできた洲、および三河湾沿岸の洲を西へ西へと広げてきた[3]が、冬季の強烈な西風による波浪で堤防が破壊されるため、明治以降は海岸の西に延びる広大な洲がありながら、新田開拓はあきらめられていた[1]

しかし、強固な堤防で囲えば江戸時代に作られた25の新田の総面積に匹敵する、1千町歩(1,000ha)を超える広大な新田が確保できることを愛知県庁は認識していた[4]

江戸時代に開発された新田[編集]

江戸時代に開発された25の新田(50音順で括弧内は完成年)[3]

  • 青木新田(1693年)
  • 青竹新田(1770年)
  • 梅村新田(1704年)
  • 老松新田(不明)
  • 茅野新田(1697年)
  • 茅場新田(不明)
  • 加藤新田(1696年)
  • 清須新田(1663年)
  • 下野新田(1703年)
  • 中富士見新田(1821年)
  • 中村新田(1707年)
  • 西浦新田(不明)
  • 西富士見新田(1821年)
  • 高須新田(1665年)
  • 津野新田(不明)
  • 土倉新田(1665年)
  • 富田新田(不明)
  • 浜新田(不明)
  • 東富士見新田(1821年)
  • 藤井新田(1704年)
  • 牧新田(1698年)
  • 松島新田(1667年)
  • 元屋敷新田(不明)
  • 薮下新田(1667年)
  • 山内新田(1731年)

時代的背景[編集]

旧長州藩士が金禄公債を元にし、明治11年(1878年)に第百十国立銀行(後の山口銀行)を創立し、初代頭取には毛利祥久の養父の右田毛利家12代当主、毛利親信(養子で姉と結婚)が就任した。

明治13年(1880年)の頃、愛知県庁土木課の山口県人の岩本賞壽が、牟呂の海岸沖の寄り洲が干拓に適していることを発見した[4]

明治18年(1885年)に親信が亡くなって祥久が家督を相続し、第百十国立銀行の取締役に就任したが、銀行は融資先が無く困っていた。

同年、山口県人の勝間田稔が愛知県令(後に知事と改称される)に赴任したので県土木課の岩本賞壽は、同県人で先輩である勝間田稔に牟呂海岸沖の寄り洲の事を報告した。

勝間田は長州藩の元家老家が取締役をしている第百十国立銀行が融資先に困っている[4]ので、明治19年(1886年)に愛知県庁も全面支援するとの条件で、牟呂海岸沖の新田開拓を勧めた[1]

明治20年(1887年)、毛利は第百十国立銀行の資金をもって新田開拓を決意した[5]が、大工事のため愛知県庁から監督を出してもらうよう願い出た。

その頃、八名郡(現・新城市)の一鍬田から豊川の水を取り入れるために、日照りで困っていた賀茂、金沢、八名井の3か村が用水工事を開始したが、資金不足で補助を愛知県庁に願い出ていた。

勝間田県令は新田に必須の水を賀茂、金沢、八名井用の用水を新田まで延長するのが都合が良いと毛利に勧め、毛利にとっても渡りに船と新田工事に先立ち、毛利は明治20年(1887年)に用水工事を開始した。

新田工事は、明治21年(1888年)愛知県庁が毛利祥久の願いを聞き入れ、県庁工事に準ずる扱いとし、監督も県庁から派遣することとし、同年に県庁主体で新田工事の起工式を行った。

明治23年(1890年)に数回の天災を克服して堤防が完成し、工事の山場がクリアーできたので愛知県庁は工事から手を引き、工事全権を毛利に返還した。

新田は正式名は吉田新田、通称は毛利新田と呼ばれ、翌年の明治24年(1891年)濃尾地震で新田の堤防が破損したので何とか復旧したが、その翌年の明治25年(1892年)に地震で傷んでいた堤防が暴風雨による波浪で壊滅し、毛利新田は元の海原に戻ってしまった。

住民を含む多くの死者も出るなど壊滅的被害となり、復旧のめどが立てられず、 毛利祥久は新田開拓を断念し、第百十国立銀行は毛利新田の工事費40万円の損失を出し、毛利新田を売りに出した。

明治26年(1893年)に毛利新田に関する全権利を神野金之助が購入し、再開拓とすることになる[1]

新田開拓の年表[編集]

  • 明治11年(1878年)11月25日、第百十国立銀行(後の山口銀行)が資本金60万円で設立、初代頭取は毛利祥久の養父毛利親信(藤内)が就任[6]
  • 明治13年(1880年)愛知県庁土木課の山口県人の岩本が牟呂海岸沖に開拓に適した広大な洲を確認[1]
  • 明治18年(1885年)毛利祥久が養父の親信没後家督相続、および第百十国立銀行の取締役となった[1]
  • 明治18年(1885年)1月、山口県人の勝間田稔が愛知県令として赴任、岩本が牟呂海岸沖の洲を報告した[1]
  • 明治19年(1886年)頃、勝間田は毛利祥久に県の全面的支援を約束し、銀行の融資案件として牟呂海岸沖の新田開拓を勧めた[1]
  • 明治19年(1886年)三河国八名郡加茂、金澤、八名井の3ヶ村は日照対策のため、同郡の一鍬田村から豊川の水を引く用水路工事に着手したが、工事費用が不足し、愛知県庁に補助金を陳情した[1]
  • 明治20年(1887年)11月、毛利祥久は第百十国立銀行の支配人草刈隆一の名義で新田開発事業が決まった[7]
  • 明治20年(1887年)毛利祥久は10月に「海面築立開墾願」と「目論見書」を愛知県知事勝間田稔に提出し12月に許可された[2]
  • 明治20年(1887年)新田用の水を加茂、金澤、八名井の3ヶ村の用水路を新田まで延長する案を勝間田が祥久に勧め、祥久は11月に出願、同月に許可、直ちに工事に着手した[1]
  • 明治21年(1888年)新田用水路(後の牟呂用水)により豊川の水量が減り差し障りが出ると船頭や荷問屋が用水路を許可した勝間田知事を訴えたが、和解金や各種取り決めをして解決した[1]
  • 明治21年(1888年)祥久は大工事であることから愛知県に監督を請願し許可され、県直轄工事扱いとなった[1]
  • 明治21年(1888年)4月15日、愛知県庁は毛利氏よりの願いにより築堤起工式を挙げた[1]
  • 明治22年(1889年)7月5日、3ヶ所の澪留工事をしたが大波で2ヶ所が破壊された[1]
  • 明治22年(1889年)7月7日、2次澪留工事が完了した[1]
  • 明治22年(1889年)9月14日、未曾有の大津波が起り、近隣諸国の新田もことごとく堤防が破壊される被害に遭遇、毛利新田も激しく押寄せる波で全て破損し、工事の跡形が無くなってしまった。開墾事務所やその他の建造物も全て滅亡、作業者数十名が亡くなってしまった[1]
  • 明治22年(1889年)11月、3次澪留工事が完了したが、西風の季節風が厳しく工事が進まない[1]
  • 明治22年(1889年)11月26日、季節風による大きな波浪で澪のいくつかが破損する[1]
  • 明治22年(1889年)12月、4次澪留工事が完了した[1]
  • 明治23年(1890年)3月3日、主要工事が一段落したため愛知県の監督を解く、後任は毛利配下の桑原へ[1]
  • 明治23年(1890年)5月、数回の天災を克服して堤防が完成した[1]
  • 明治23年(1890年)試作として新田内の牟呂村本村の附近にて数町歩の土地に稲の苗を植付けた[1]
  • 明治23年(1890年)新田内の養魚税を明治23年(1890年)より明治25年(1892年)までの3年間で金3,700円と決めた[1]
  • 明治23年(1890年)7月5日、民有地さげ渡しの許可が出る[1]
  • 明治24年(1891年)1月31日年付をもって新開墾地の租税免除をその筋に出願し、同年4月14日付をもって明治23年(1890年)より向こう50年間を租税免除とするとの指令があった[1]
  • 明治24年(1891年)10月28日の濃尾地震で毛利新田の堤防が破損し、復旧を急いだ[1]
  • 明治25年(1892年)移住者が130余戸となり、570余町歩に植付できるようになったこと、当年は降雨が多く用水が十分、塩分がほとんど除去されていたので豊作が確実視されていた[1]
  • 明治25年(1892年)9月4日、暴風雨の波浪により地震で傷んでいた堤防が壊滅し浸水して、多大な被害が発生し死者も多数出て、復旧のめどが立たず新田開発を断念した[1]
  • 明治25年(1892年)開墾事業の40万円が損失となった第百十国立銀行の救済は井上馨が取りまとめた[8]
  • 明治26年(1893年)毛利新田に係わる全権利を神野金之助に41,000円で譲渡した[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 神野新田紀事. 神野金之助. (明治37年(1904年)7月). 
  2. ^ a b 豊橋百科事典”. 豊橋市. 2019年8月1日閲覧。
  3. ^ a b c 知るほど豊橋【その九】”. 豊橋市. 2019年8月1日閲覧。
  4. ^ a b c 開校廿周年記念東三河産業功労者伝「毛利祥久」. 豊橋市立商業学校. (昭和18年(1943年)). 
  5. ^ (株)山口銀行『山口銀行史』(1968.09)
  6. ^ 山靴銀行史、5ページ”. 山口銀行. 2019年8月1日閲覧。
  7. ^ 山靴銀行史、10ページ”. 山口銀行. 2019年8月1日閲覧。
  8. ^ 山口銀行史、13ページ”. 山口銀行. 2019年8月1日閲覧。