毛利親衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利親衡
時代 南北朝時代
生誕 不詳
死没 南朝:文中4年、天授元年/北朝:応安8年、永和元年(1375年8月[1][2]
改名 親茂(初名)[1][2]→親衡→宝乗(法名)[1][2]
別名 孫太郎(通称)[1][2]
戒名 宝乗大禅定門[1]
墓所 広島県安芸高田市吉田町[1]
官位 従五位下[1][2]、陸奥守[1][2]、備中守[1][2]
主君 南朝→北朝→足利直義
氏族 毛利氏
父母 父:毛利貞親
兄弟 親衡、妙玄[3]、親秀[3]、泰秋[1]
長井三田入道の娘[1][2]
元春[4][2]、坂匡時[4][2]、直衡[4]または直元[2](有冨氏祖[2]

毛利 親衡(もうり ちかひら)は、南北朝時代武将。安芸国吉田荘地頭職[4][2]

生涯[編集]

南北朝の戦乱が勃発すると、父の貞親とともに南朝方として越後で活動した。しかし、後に祖父の時親の取り成しで北朝方に帰順し[5]、一族とともに安芸に下向した。毛利氏の総領は祖父の死後、子の元春が継いでいたため[6]、親衡は日下津城を築いて別家を起こし、子孫は坂氏を名乗り、安芸毛利氏の有力支族(庶家)の一つとなった。

武勇に優れ、かつ反骨心に富む人物であったようで、南朝:正平5年/北朝:貞和6年、観応元年(1350年)に勃発した観応の擾乱の際には反幕府方として活動し、周防大内氏と同盟して九州に出陣した子の元春の留守を攻撃し[7]、また、日下津城に攻め寄せた安芸守護武田氏信の軍勢を籠城の末撃退する[8]技量を見せている。

脚注[編集]

[ヘルプ]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 時山弥八編 1916, p. 62.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 田村哲夫編修 1980, p. 6.
  3. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 61.
  4. ^ a b c d 時山弥八編 1916, p. 63.
  5. ^ 延元1年10月12日条「大日本史料」6編3冊832頁。毛利文書
  6. ^ 建武4年1月16日条「大日本史料」 6編4冊53頁。毛利文書
  7. ^ 応安7年7月19日「大日本史料」6編41冊53頁。毛利家文書
  8. ^ 文和1年11月8日「大日本史料」6編17冊184頁

参考文献[編集]