民法典論争

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旧民法(財産法)起草者、ボアソナード

民法典論争(みんぽうてんろんそう)は、1889年明治22年)から1892年(明治25年)の日本において、旧民法(明治23年法律第28号、第98号)の施行を延期するか断行するかを巡り展開された論争。

ドイツの法典論争とどの程度共通するかは学説上争いがある。

本項では、その対象となった旧民法及び民法典編纂の歴史についても扱う(民法 (日本)参照)。

目次

概要[編集]

日本民法典起草者右から穂積陳重(英法派・延期派)、梅謙次郎(仏法派・断行派)、富井政章(仏法派・延期派)

この論争と前後して、商法典刑法典の制定、及びその是非を巡る論争(商法典論争刑法典論争)も行われて、旧商法の施行延期・一部施行と旧刑法の改正着手が行われた。

商法典論争を含めて「法典論争(ほうてんろんそう)」[1]又は「法典争議」[2]と呼称するが、文脈によっては、もっぱら民法のみを指して法典論争(法典争議)と言うこともある[3]

政府(第1次山縣内閣)によって公布された旧民法は、梅謙次郎(断行派)も指摘するように、「立法者の苦心[4]」の末に生まれた妥協[5]の法典であった。

そこで、延期派は、

  • (一)旧民法の形式が簡明でなく、
  • (二)内容が過度に特殊フランス法的なのを飽き足りないものとし[6]
  • (三)拙速主義に依らず、不平等条約改正事業と切り離して慎重に法典を編纂するべきであると主張[7]したのに対し、

断行派は、

  • (一)旧民法の形式に問題があるのはある程度認めるが[8]
  • (二)内容面では十分日本の慣習に基づいており、そのような極端なものではない[9]
  • (三)既に法律として公布された旧民法の断行が、国策たる条約改正及び司法権の確立に資すると反論したのである[10](旧民法が進歩的で素晴らしいから賛成したのではない[11])。
人事編には戸主あり家族あり隠居あり養子あり庶子あり、毫も従来の習慣上に存するものを廃せず、唯其規定に至り幾分の時勢に伴ひて更改せしものなきに非ずと雖も、力めて激変を避けんと欲したる立法者の苦心は章々節々に現れたり[12] — 梅謙次郎「法典実施意見」(明法志叢第3号、明治25年5月21日)

延期派勝利に終わった論争の結果、

  • (一)ドイツ民法第一草案を始めとする比較法研究の成果を踏まえ、旧民法(特にその財産法部分)の形式上の欠点を克服して成立したのが現行日本民法典である

と解する点で、法学者はほぼ一致している[13]後掲外部リンクも参照)。

  • (二)内容面については、延期派の穂積八束の「民法出でて忠孝亡ぶ」のスローガンによる反対論の結果、旧民法の家族法部分につき、戸主権の強化を中心として半封建的に修正して成立したのが明治民法(戦後の大改正前の現行民法典)であった

との理解が講座派マルクス主義法学者平野義太郎玉城肇、法制史学者星野通らによって主張されており、マルクス主義的歴史観[14]唯物史観[15])の強い影響により、戦前から戦後へかけての日本で一時通説の地位を占め、発展史観[16]の浸透と共に、戦後の教育界にも広く受け入れられた。

しかし、旧通説は主観的・イデオロギー的に過ぎ実証性を欠くとして、法学上は既に少数説に転じ、

  • (二)家族法部分については、旧民法からの根本的修正は無かった

とするのが法学上の通説[17]である。

何故にフランスやドイツの民法典を範としたかについて一言する。明治のはじめに、わが国に伝承された欧州の法律学は、主として、オランダ及びフランスのそれであった。政治理論においては、イギリスの学説が大いに輸入されたけれども…(※中略、以下同じ)…ことに、フランスの法律学は、徳川時代の最後に幕府の使者に随行した箕作麟祥たちによって輸入された。

……それなら新たに起草委員に任命された穂積富井の三人が、何故に、ドイツ民法典の第一草案に範をとったかといえば、その草案は、ナポレオン法典施行後の百年の間の民法学の大きな進歩を取り入れ、その編別と体裁において、フランス民法典よりも優れていたからである。

なお、細かな点では、三委員の作った新しい草案が……旧案に比して一層家族制度的なところもないではない。そのことを指摘・強調する学者もいる。しかし、それほど顕著なものとは思われない[18]

— 我妻栄(現行家族法改正法起草者)
  • (三)新民法の制定もまた条約改正と切り離すことは出来なかったが、条約改正の進展は両派の協調・妥協を呼び起こすことになった[19]

旧民法の呼称について[編集]

旧民法起草者の一人、磯部四郎(仏法派・断行派)

民法典論争でその対象となった明治23年法律第28・98号、いわゆる「旧民法」の内、最も激しく争われた家族法部分(98号)は財産法の起草者ボアソナードの起草ではなく、磯部四郎日本人委員の起草である為、全体について「ボアソナード起草「旧民法」[20]」(平野)と呼ぶのは誤りだと批判されている[21]

人事、相続、贈与と遺言、夫婦財産契約の部分は、もっぱら日本人法律家の作品です(その何人かは、幸いにも、パリの法学部、リヨンディジョンの法学部の法学博士であります)。この部分はまだフランス語に翻訳されておりません。私が学部長に送る部分については「公式の翻訳文」という言葉は一つのフィクションです。・・・しかし、残りについては、それは確かにフランス語訳であり、この翻訳は遅れております[22] — ギュスターヴ・エミール・ボアソナード、1891年(明治24年)パリ大学法学部長宛の手紙

もっとも、人事編(概ね親族法に相当)を始めとする旧民法家族法(身分法)部分についても、法制史学者石井良助の主張によれば、ボアソナードの起草ではないにしてもその査閲を経たと推測される[23](疑問視する見解[24]もある)ことから、旧民法全体がボアソナードの法典編纂事業の一角をなすものとして、そのような呼称も全くの誤りとは言えないとも指摘される[25]

しかし、ボアソナードと無関係なところで原案が大修正されて旧民法となった事実を無視して、あたかも旧民法全体がボアソナードの意思のままに成立したかのような印象を与えるもので、家族法を含めて「ボアソナード民法」と呼ぶのはミスリーディングであるとも主張されている(中村菊男[26]

そこで、旧民法家族法の起草はあくまで日本人委員が主導的地位にあったと理解する立場(我妻、大久保泰甫など)[27]からは、「ボアソナード民法典」を意識的にボアソナード起草部分だけに限定して指称される[28]

以下本項では、それ自体に争いのある「ボアソナード民法」の呼称を用いず、「旧民法」で統一する(Wikipedia:中立的な観点#深刻な論争がある主張を事実として記さない)。

民法典論争理解の焦点[編集]

論者によって、旧民法・明治民法、及びその祖であるフランス法・ドイツ法・ローマ法・ゲルマン法の理解に大きな差がある事[29]と、何をもって進歩的というべきか確定しないことが、民法典論争の理解を困難にしている原因である[30]

例えば、明治民法で初めて、又はより強く封建的規定が現れたとみる立場からは、「民法出でて忠孝亡ぶ」に代表される旧民法延期派の保守的言動が論争の評価に決定的な意味合いを持つことになるし、旧民法編纂過程で既に強く封建的傾向が現れていたとみる立場からは、別の意味合いを検討すべきことになる[31]

特に、明治民法の戸主が「強力[32]」(玉城)であったか、「空虚[33]」(我妻)であったかは重要である[34]

また、旧民法が「フランス民法をそのまま再現したもの」[35]、「フランス民法(code civil)の日本語版」[36]であったとみるときは、これに対する延期派の反発は、フランス民法典及びフランス法思想に対する反発と同一視されることになる(近江幸治[37]

一方、ボアソナードもまた日本の伝統を尊重した人であり、独自の立場から日本の実情とヨーロッパ法理との調和を目指して努力したとみるときは、その努力が完全でなかった為に民法典論争が起きたと理解されることになる[38]

同様に、旧民法とフランス民法典を同一視しつつ、「市民革命の結果として成立し、人間の自由と平等を旨とした」[39]男女平等[40]の進歩的法典であるとみるときは、民法典論争の本質は「民法出でて忠孝亡ぶ」に象徴される半封建派のイデオロギー的反発であることになる(但し明治民法で保守化したかは別問題)[41]

しかし、植木枝盛以来指摘されてきたように、フランス民法典を典型的な男尊女卑の法典とみる[42]、或いはフランス革命自体、有産市民階級(ブルジョワジー)が、自らの利益を最大化する為に障害となる封建制を打倒したに過ぎず、全ての人間の自由・平等を目指したものではなかったとみるときは、進歩派対保守派という図式に一元化すべきでないことになる(松本暉男)[43]

更に、ドイツ民法典についても、その法思想をプロイセン法思想と当然に同一視する[44]のか、プロイセン法思想を否定した法典とみる[45]、或いは、近代個人主義を徹底させてフランス民法典を改良した進歩的法典とみる[46]のかによっても、何故民法典論争を経てフランス法からドイツ法へ転換したかの理解は異なってくる[47]

なお、家長権の絶対は儒教ではなくローマ法に由来し[48]家父長制はフランス民法典及び旧民法にも存在した事実[49]や、ドイツ民法が個人主義・自由主義の法典[50]であることは旧通説の論者によっても承認されているが、その点を誤認して民法典論争を論じるものが学術的信頼性の低い書籍には頻出である(戸主権や家督相続制は日本固有法[51])。

旧民法人事編243条1項

  • 戸主とは一家の長を謂ひ家族とは戸主の配偶者及び其家に在る親族、姻族を謂ふ

フランス民法旧213条1項前段(1938年改正法)

  • 家族の首長たる夫は家庭の住居を選定する権利を有す[52]

(※原文旧字体を適宜修正、濁点補充。以下同じ。Wikipedia:表記ガイド参照)

家父長制度を明文化したフランス民法旧213条は、1970年の改正に至るまで、市庁舎における結婚式で読み上げられる程フランス社会に浸透していた[53]

財産法を巡る論争[54]や、商法典論争を重視する事によっても、法典論争は「民法出でて忠孝亡ぶ」の一言では語り尽くせないものとならざるをえない[55]

明治維新前の状況[編集]

「大政奉還図」 邨田丹陵

明治以前に民法典が存在しなかったからといって、「民法」という名の一国の統一法典が無かっただけに過ぎず、古くは701年大宝律令は民法的規定がその要部を占めていた[56]

律令制(養老律令)が衰退した後、一国の統一法典が無かったのは、その基盤となる中央集権体制を欠いた為である[57]

郡県制から封建制へ[編集]

東洋では始皇帝によって創始された郡県制は、中央政府から官憲を派遣して法による統治を行う中央集権体制であったが、儒学の発達によって、諸侯が地方に分散して各自独立の統治単位を形成する封建制王朝創始)こそが仁政の実現に適するものと理論化され、定着[58]

以後日本国内の統一法典制定の基盤となる中央集権体制の確立は、明治維新における版籍奉還を待つことになる[59]

上世法の中核であった養老律令に代わって中世社会で重きをなしたのが自然発生的な武士及び各荘園ごとの不文の慣習法であり、成文法はその基礎の上に、特定の重要事項を明文で定めるのが任務とされた[60]

特にその代表である鎌倉幕府の御成敗式目貞永式目)は室町幕府にも継承され、戦国時代分国法にも大きな影響を与え、江戸時代においても、寺子屋の教育を通じて広く一般民衆に浸透[61]。これら日本固有法は明治民法起草においても参照された[62]

所領分割の弊害が意識され、長子相続制が確立したのはこの時代である(律令制は分割相続・選定相続)[63]

近世江戸時代)においても、地方ごとの慣習法重視は同じであるが、江戸幕府の徳川百箇条などの小法典のほか、商工業の発達に対応して、単行法が激増[64]

しかし、裁判制度は整備されておらず、江戸時代後期においては訴訟の増加と遅延が目立っていた[65]

もっとも、為替手形小切手船荷証券につきイタリアと並び世界最古かつ最高峰の慣習法体系を有していたことが外国人研究者によって明らかにされており、当時の日本法が遅れた、野蛮なものであったということはできない(福島正夫[66]

封建制から郡県制へ[編集]

フランス民法典制定者ナポレオン・ボナパルト

ヨーロッパにおいても、ローマ帝国の崩壊後、封建制が各国で確立していたが、マルティン・ルター宗教改革1517年)において、カトリック教皇権に対抗して世俗的君主権の強化が説かれたことから絶対主義が確立[67]

1532年グーテンベルグ活版印刷術によるローマ法学の普及の成果として、諸侯や都市当局による不当な逮捕・処刑を改善すべく、刑事訴訟法分野につき、神聖ローマ帝国最初の統一法典カール5世の刑事裁判令』(カロリーナ法典)が成立[68]

しかし、諸侯の抵抗が強く法の統一には至らず、啓蒙主義の影響を受けた君主が官僚を利用して法典編纂事業を本格化させるのは18世紀中葉以降である[69]

封建時代に於ては一郡一村毎に君主のやうなものが有りました。……尤も……オホアタマが無かったといふ国は有りませぬ。フランスにはフランスの国王があり、……また日本にも……天皇陛下といふものが有ります。ドウして封建が立ったかといふと、蒸気もなく電信もなく鉄道もなく、命令をするものが其の命令を忽ちに下に達するといふことが出来なく、オホアタマの適用する権力もなく、また方法もないから、君主を配る必要が起ったので有ります……君主権は分かつべからざるものであります。……分ったにしても、互にイクサをしていけませぬから、それで君主権は分かつべからざるものといふことは、其の頃から起こりました。……然れば其れは何人が適当で有るかといふと、幼年といふわけにもいかず、また女といふことでも無く、ここに於いて長子に与へるといふことが、これが封建制の長子権の起る原因で有りませう。併しながら……日本では商業人まで長子権は持って居りますがエウロッパでは平民……にはありませぬ。

……此の封建政体を……エウロッパに於てブチコワスに付ては四百年の星霜を要しました。アナタの国では両三日でおコワシなすったが……エウロッパの大名が非常に強くって、日本のお大名は大変に弱かったからでありました[70]

— ボアソナード、明治20年明治法律学校第五回性法講義(通訳磯部四郎)

延期派の穂積八束が、このような封建制への回帰を主張していないと指摘されていることは後述する。

1748年、フランスのモンテスキューが『法の精神』を著し、各地の自然文化風俗などに応じた法形態があることを指摘し、個々の国での自然法の具体的適用が理論化される[71]

フランスのルイ14世は、絶対王政を背景に1767年1772年に北部ゲルマン法系慣習法・南部ローマ法系成文法の廃止・統合を試みたが、諸地方の抵抗に合い、王令は全国的には適用されなかった[72]

日本の明治維新の本質を封建制から絶対主義への移行期に相当するものと理解し、その半封建性を強調するのが平野・玉城ら講座派マルクス主義である[73]

1789年のフランス革命を経て、1793年にはフランス民法第一草案が成立[74]

明治維新もまた、フランス革命に準じるブルジョワ革命であったと考える[75]のが労農派マルクス主義である。

1799年ナポレオン・ボナパルトクーデターにより権力を掌握、従前の草案を破棄し、1800年から本格的に法典編纂を開始[76]

革命の熱狂を背景に起草された第一草案は、修正によって大きく反動化[77]

1804年3月、フランス民法典(ナポレオン民法典)が成立[78]。5月、ナポレオンが即位しフランス第一帝政開始。

民事訴訟法典(1806年)、商法典(1807年)、治罪法典(1808年)、刑法典(1810年)もこれに続いた[79]

このフランス民法典は、革命後の社会の混乱を統一する妥協の法としての側面を持ち、必然的に、新し過ぎるという批判と、古過ぎるという批判とに晒される運命にあった[80]

欧米列強と東洋諸国の動向[編集]

東洋の法で裁かれることを嫌う欧米列強は、不平等条約ことにその治外法権(領事裁判制度)について、現地の国が西洋法的な法典を有しておらず、裁判の予測可能性がたたないことを名目としていたが、これは各国の主権を侵害するものであり、日本を含むアジア諸国において、領事裁判制度撤廃の動きが出てくることになる[81]

法典編纂の動機[編集]

五箇条の御誓文

対内的な国内法の統一と、対外的な不平等条約改正という二つの要素が法典編纂の動機である[82]

明治初期においては、江藤の言動からすると、国内法の統一に重きを置いていたと考えられる[83]

内的要因[編集]

1868年(明治元年)、明治維新がなると、五箇条の御誓文において、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」ということが新政府の基本方針の一つとなる[84]

そこではまず、人民の権利を確保して不公平を無くすことと、地方ごとの法制度を全国的に統一し、種々の不便を無くし社会基盤を整備することが意識された[85]

もっとも、建前とは別に、明治政府は当初から祭政一致の前近代的な「神権王国」を目指していたとの歴史観に立つ論者(岡孝[86]、松本[87]など)や、逆に最初期の明治政府は江戸幕府と異なる独自の「イデオロギーの貧困」が目立ったとする論者(熊谷開作)[88]もいる。

外的要因[編集]

当時、一国の統一的な民法典がないという状況自体はイギリスアメリカドイツスイスロシアなどにおいても同様であった[89]

日本が特に法典編纂を急いだのは、不平等条約を背景にした一部外国人の行状が国民感情を悪化させており[90]、諸外国との不平等条約改正して一日も早くしたいというのは当時一般社会の熱望する所であったが、治外法権撤去を行うには、民法・刑法をはじめとする泰西(西洋)の主義(ウェスタンプリンシプル)に基づく諸法典を制定するということが、必要条件の一つとして要求されたからである[91]

仏法導入の動機[編集]

学者の説明[編集]

明治政府がその法典編纂事業において、まずフランス法に依ろうとしたのは、当時のフランス法、特にその刑法典・民法典が世界的に模範法典とされていたから自然なことであった[92]が、更に進んで、フランス法が中核とする自然法思想が、旧弊を脱し、新しい時代を創ろうとする当時の日本人の思想に合致した為であると説明される[93]

マルクス主義からは、日本の進歩的な一部のブルジョワ自由主義派により、ヨーロッパの先進資本主義国であるフランスのブルジョワ法制を継受することで、立ち遅れた日本の資本主義の封建的障害を打破しようとしたためであると説明されている(平野)[94]

或いは、フランス法輸入=進歩的性格の現れとする平野・星野らを批判して、フランス民法典の内容の進歩性ではなく、中央集権的画一性が評価された為だとの主張もある(遠山茂樹[95]

歴史的経緯[編集]

津田真道(延期派)

明治初期のフランス法の輸入は、江戸幕府の置き土産である[96]

1858年安政5年)、アメリカ・ロシア・オランダ・イギリス・フランスとの間で、列強の軍事力を背景に関税自主権放棄と治外法権を含む安政の不平等条約締結[97]

1862年文久2年)、開国後、西洋法知識の習得の必要を痛感した江戸幕府によってオランダ津田真道西周が派遣され、西欧法への関心が高まる[98]。津田は「民法」の訳語の創始者である[99]。法典論争では延期派[100]

1867年2月(慶応3年)、フランスの援助を頼みとする幕府は、フランス(フランス第二帝政)のパリ万国博覧会徳川昭武を派遣[101]

この時、フランスにおける迅速な裁判を目にした外国奉行の栗本鋤雲によって、儒教的な聖賢の道に通じるものとして「ナポレオンコード」(民法以外を含む)が高く評価され(『論語顔淵第十二句、『大学』第二章四の句)、翻訳が計画されていたことが1869年(明治2年)出版の『暁窓追録』で明らかにされており、後の江藤による法典編纂事業にも影響を与える[102]

儒教を介したフランス法理解の是非は、民法典論争の論点の一つである(後述)。

使節団の在仏中に大政奉還が成ったため、幕府による法典編纂事業はなされなかったが、1869年(明治2年)、維新政府は、徳川昭武と共にフランスへ渡っていた旧幕臣の箕作麟祥にフランス五法典の翻訳を命じた[103]

旧民法以前の編纂事業[編集]

箕作麟祥(仏法派・断行派)

ボアソナードらに依る旧民法編纂の前に民法典編纂の中心となったのは、江藤新平箕作麟祥である[104]

同時代の資料には矛盾・不明点が多い[105]が、旧民法制定以前の主要な民法草案としては、

  • 明治4年頃の制度局『民法決議
  • 明治5年司法省明法寮『皇国民法仮規則
  • 明治6年3月司法省『民法仮法則
  • 同年後半左院『民法各規則草案』
  • 明治10年・11年成立の司法省『民法草案』

があり、前三者が江藤時代の法典編纂事業の産物である[106]

この時代の草案は学習的要素が強く、法典よりも単行法の基礎となった[107]

なお、執筆時の情報不足から、江藤時代の成果として『民法仮法則』のみを挙げる書籍[108]もある[109]

法典制定前の民法[編集]

当時の日本が私法領域につき無法状態だったわけではなく、明治維新から現行民法典施行までの間、膨大な単行法令が制定・改正されており、民法典や特別法にも継承されたものが少なくない[110]

また、1875年(明治8年)太政官布告第103号裁判事務心得3条により、単行成文法がない場合においても慣習により、慣習も無い場合は条理に従って裁判すべきものとされていた[111]

民法施行前にはどうして裁判をして居ったかと云ふ問題が自然起ると思ひます。私も大学を出てすぐ四年間裁判所に居った経験から観ても、所謂裁判法・判例法と云ふものが自づから在った。是は自然の事ですけれども、前に判決例がなければ斯うであるべきだと云った考へで裁判をしたものです。

然らば、どうしてさう云ふ考へが出て来たかと云ふと、英法をやった人もあれば、フランス法をやった人もある。然らば英法又は仏法の思想かと云ふと必ずしもさうではない。つまり、自から裁判所の考方と云ふものがあった。尤も大体にはフランス法の思想が行はれたと思ふのです。それは司法省の法学校を出た連中が相当に裁判所に入って居たからでしゃう。世の中が幼稚で法律生活が単純でありますから、難しい問題は起らぬと言って良い位ですから夫で済んだのです。只人事上の問題に就ては従来の慣例があるからそれに依って居った[112]

— 仁井田益太郎(現行日本民法典起草補助委員)「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」

この非法典時代の裁判実務を悲観視する立場(梅)からは、法典断行論に結び付くことになる[113](後述)。

刑法領域については、新しい刑法が出来る迄は、大政奉還直後においても幕府法及び各藩の法が暫定的に利用されている[114]

江藤新平制度局出仕時代[編集]

江藤新平

明治初年度の立法機関には種々の変遷がある[115]が、1869年(明治2年)には副島種臣による『新律綱領』(刑法)の編纂が開始されている[116]

副島が箕作麟祥にナポレオン刑法典の翻訳を命じたのはその頃である[117]

同年9月、明治政府の脆弱を背景に、日本とオーストリアとの間で、安政の不平等条約より更に劣悪な通商条約締結[118]

列強も最恵国待遇によって同じ利益を受ける事になり、日本の法律は外国人は守る義務が無いとの見解さえ採られるようになる[119]

1870年(明治3年)には太政官の制度取調局において、箕作のフランス民法典翻訳進行と共に、江藤を会長とする民法編纂会議が開催された[120]

実に五里霧中で、翻訳をして居る中に、明治新政府は、頻に開明に進み、其翌年、明治三年には、太政官の制度局と云ふ所に其時、江藤新平と云ふ人が中弁をやって居りましたが、民法を、二枚か三枚訳すと、すぐ、それを会議にかけると云ふありさまでありました。これは変は変だが、先づ、日本で、民法編纂会の始まりました元祖でございます、(喝采)

其時分「ドロワ、シビル」と云ふ字を、私が民権と訳しました所が、民に権があると云ふのは、何の事だ、と云ふやうな議論がありまして、私が、一生懸命に弁護しましたが、なかなか激しい議論がありました。幸に、会長江藤氏が弁明してくれて、やっと済んだ位でありました[121]

— 箕作麟祥、明治20年9月15日明治法律学校、始業式演説
南白乃ち之を弁明して曰く「活さず殺さず、姑く之を置け、他日必ず之を活用するの時あらん」と。此一言に由り、辛うじて会議を通過することを得たりと云ふ[122] — 的野半介『江藤南白 下』

同会議には制度局員であった津田真道、加藤弘之(法典論争延期派[123])、田中不二麿(断行派[124])、副島種臣、森有礼福羽美静らが参画したとみられ、「民権」の訳語に反発したのは国学者の福羽と推測される(星野)[125]

これは、民に権利があるとは思いもしなかった日本の後進性を表すエピソードだとの見解(山中永之佑[126]と、仏語の「ドロワ、シビル」(droits civil)の訳語としては、自由民権運動にいうような公法的意味での「民権」ではなく「私権」が適当であり、実際誤訳であったとの見解(石井)[127]がある。

西洋の法律用語に相当する日本語の訳語の無い時代であり、箕作は、翻訳の困難に直面したことからフランス留学を申し出たが、政府は、他に適当な翻訳者の無いことから許可せず、仏人法学者ジョルジュ・ブスケを招聘して援助に当たらせた[128](来日前のボアソナードと混同する文献があるが誤り[129])。

ブスケを周旋したのはお雇い外国人アルベール・シャルル・デュ・ブスケ(ジブスケ[130]、ヂブスケ[131])だというのが従来の通説[132]であったが、近時の学説はフルベッキらであると論じている[133]

民法決議[編集]

1871年(明治4年)頃、制度局において、『民法決議第一』(全80条、1944年(昭和19年)に石井良助により発掘)と、『民法決議第二』(全108条、1959年(昭和34年)に利谷信義により発掘)から成る『民法決議』が成立[134]

フランス民法典は、ナポレオンの軍事体制を背景に軍人の身分に関し詳細な規定を置いていた[135]が、フランス国外在住の兵士についての規定はさすがに『民法決議』には採用されておらず、また華族についての規定も若干あり、当時においても文字通りそのままフランス民法典を直輸入したのではない(石井)[136]

その他、1965年(昭和40年)に手塚豊によって発掘された『御国民法』があり、『民法決議』の修正版と推測されるが、未確定[137]

戸籍法との衝突[編集]

ナポレオン民法典の冒頭主要部分は、後の日本法では戸籍法、ドイツ法では身分証書法による別法典で制定されており[138]、『民法決議』も、後世の目から見るときは民法典草案というよりは戸籍法草案としての性格が濃厚であった[139]

ところが、フランス(及びドイツ)における身分証書は、教会による身分統制の独占に対するアンチテーゼという歴史的理由を背景に持ち、「個人」を基本単位として、出生・婚姻・死亡を別々に登録するもので、日本においては歴史上の根拠を持たない上に実務上も不便であった[140]

1871年(明治4年)4月、民部省(民部大輔大木喬任)によって作成された戸籍法が公布される[141](翌年から施行)。

これは、「戸」即ち現実の世帯を基本単位として、住所地を同じくする人々の身分関係を一括して記載するものである[142]

日本固有法である戸主権は、江戸時代以前の旧慣や明治民法典制定ではなく、この戸籍法によって初めて成立したとの理解に立つ論者もいる(福島、利谷)[143]

マルクス主義の立場からは、戸籍法の制定は「封建的政治を全国的規模で継承せんとしたもの」と評されるが(平野)、少なくとも直接的には、全国の戸口調査、浮浪人取締による治安の回復・維持を目的としたものであったとも指摘される[144]

仏法学教育の開始[編集]

1871年(明治4年)9月、楠田英世の提唱により、江藤や山内容堂後藤象二郎らの賛同を得て、司法省内に法学研究考査の目的で明法寮設置[145]

日本初の仏法教育機関である[146]。長官は楠田[147]司法省法学校の前身、後の東京大学法学部仏法科[148]

磯部四郎らが大学南校から転学[149]

江藤新平司法省時代[編集]

ジョルジュ・ブスケ

1871年(明治4年)7月14日廃藩置県が決定、29日太政官職制発布、明治18年12月の内閣制まで存続する太政官制が確立[150]

江藤の建議により、立法機関として左院設置。江藤は副議長(実質議長)。制度局は同8月に吸収合併された[151]

江藤時代の左院は期間が短く、民法典編纂には目立った成果が確認されない[152]

1872年(明治5年)4月、江藤が司法卿になると、民法編纂事業は司法省において行われることになった[153]

顧問はブスケ及びデュ・ブスケ[154]

司法省時代の江藤は、制度局時代及び左院時代に比して若干慎重な態度を見せており、フランス法は天理人道に基づき、国情の異なる日本においても実施に支障無しとのブスケからの回答を得て初めて編纂に着手している[155]

明治五年に、江藤新平が司法卿でやって来て、さうして、其時の議論は、西洋と日本とは風俗も違ひ、慣習も違ふけれども、日本に民法と云ふものがある方がよいか、無い方がよいかと云へば、それはあるに如かずと云ふ論で、それから仏蘭西民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい。さうして、真に頒布しよう[156] — 磯部四郎
南白の転じて司法卿と為るや、初めて組織ある法典編纂局を設けて五法の編纂を完成せんことを期したりき。

……箕作に命じて訴訟法、商法、治罪法等を翻訳せしめたり。而して箕作少しく翻訳に難んずるや、南白之を促して曰く「誤訳も亦妨げず、唯速訳せよ」と。箕作は南白の命に依り、拙速主義を以て翻訳に従事せしが故に、其の翻訳稿中、往々誤訳あるを免れざりき。而も南白は此の訳稿を基礎として、急に日本の民法を制定せんとて、先づ『身分証書』の部を印刷に附したりき[157]

— 的野半介『江藤南白 下』

この「誤訳をも妨げず、唯速訳せよ」発言(的野の伝聞、情報源不明[158])については、初出の的野文献がいう「司法卿」時代ではなく、江藤が箕作にナポレオン法典全部の翻訳を命じた1869年(明治2年)[159]、或いは制度局時代の1870年(明治3年)であった[160]との事実認識に立つ法学者もいる。

江藤は前年出発した岩倉使節団の後を追い、欧米の司法制度を視察することを希望、政府の辞令を得ていたが、政情と多望の為に自ら参加することができなくなり、随員のみが派遣された[161]

この時フランスで来日前のボアソナードに憲法・刑法の講義を受けたのが、岸良兼養鶴田皓川路利良井上毅(延期派)、名村泰蔵(断行派)と、文部省から派遣されていた今村和郎(断行派[162])である[163]

井上はその後も終始一貫して私的にはボアソナードと強い信頼関係にあったが、法典論争では延期論に立つことになる[164]

皇国民法仮規則[編集]

1872年(明治5年)10月、司法省明法寮において、確認される限り二度の改訂を経て『皇国民法仮規則』が成立[165]

2085条(欠番あり実質全1185条)で終わる大法典であり、一応日本最初の本格的民法草案と考えられる[166]

大木遠吉の記憶談に依れば明法寮草案の原案起草者はブスケ(建前は楠田)であったが、明治5年10月に出来上がった草案の原案を2月に来日したブスケが起草するのは非現実的だと指摘されており[167]、津田真道の主導を推測する見解[168]もある。

財産法はほぼフランス民法典の模倣であるが、家族法ではフランス法が大幅に取捨選択され、長男単独相続制が採用されるなど、家族主義的な内容になっている[169]

分割相続制との衝突[編集]

長男単独相続制については、封建制を捨て郡県制に移行した以上、フランス民法流の分割相続制を採用して経済発展を図るべきとするブスケの主張と、富国強兵の基本政策を推し進めて諸外国に対抗するには資本の集積を行わねばならず、分割相続制を採れば、当時の日本の国力ではそれをなしえないと反論する江藤の見解が対立していた[170](但し江藤は家父長制に批判的[171])。

もっとも、単独相続制といっても、あらゆる場合に跡嗣ぎ以外の取り分が全然発生しないわけではなく、実質は「特権的相続制」とでも称すべきものである[172]

ボアソナードに依れば、ユダヤ・キリスト・イスラム教圏の長男子権は古くは旧約聖書に由来し、キリスト教以前の古代ギリシャ・ローマでは男子は平等分割、一方北部フランスに侵入したゲルマン人フランク人)には、長男子権が有ったと推測されるが、封建制度下において庶民の間では柔軟な相続形態が選択されていた[173](実は明治初年度まで、日本もほぼ同様であったとも言われる[174])。

その子たちに自分の財産を継がせる時、気にいらない女の産んだ長子をさしおいて、愛する女の産んだ子を長子とすることはできない。

必ずその気にいらない者の産んだ子が長子であることを認め、自分の財産を分ける時には、これに二倍の分け前を与えなければならない。これは自分の力の初めであって、長子の特権を持っているからである。

— 申命記21章16、17節(口語訳)

日本には既に封建制維持の必要性も確たる宗教的理由も無いのだから、長子相続制が維持されるべき謂れは無いということになる(ボアソナード)[175]

もっとも、先祖伝来の有限の家産の上に成り立ち、多数人の緊密な協力を有する産業、農業や小規模商工業を中核とする社会においては、個人主義・自由主義・平等主義はその経済的基盤を欠いており、家長による統率と、家産の同一性を維持するための単独相続制が導かれることは、ほとんど全ての民族が経験したことである(我妻)[176]

1860年代のフランスでも、ナポレオン民法典が徹底していた均等分割相続制を批判して、遺言者本人の意思を尊重すべきとする遺言自由主義の立場が台頭、平等の観点から均分相続制を維持徹底すべきとする立場との論争が起こっていた(ボアソナードも後者の立場[177])。

百姓の家では、先祖伝来の田圃、畑、牛、馬、農具、納屋、そういうものを持って農業生産に従事する。だから百姓の家においては、家は社会の生産単位である。……百姓の財産である田圃、牛、馬、畑などを三つに分けたらどうなるか。分けた兄弟は皆共倒れでしょう。……一緒にしておくから一家族が暮して行けるのだ。

このことは、フランスが最も苦い経験を嘗めたところである。フランスの百姓が子供の出来るたびに農地を平等に分けて、零細分割をして、猫の額のような小さい、葡萄を作ることすらできない家産になった。同じような苦い経験は支那でも示されている。

……民法で農家の財産は分けるな、サラリーマンの財産は分けろと定めようかとしても、日本の全家族がサラリーマンと百姓の二つに分かれているものならそれでもよいかもしれないが、この二つの両極端の間に幾多の段階がある。……サラリーマン家族との間に中小商工業の家族もある[178]

— 我妻栄

1961年(昭和36年)、この問題に対処する為、農業基本法が制定された[179]

極度の法治主義との衝突[編集]

また、フランス民法典は、裁判の迅速・画一性の反面、契約の解除(1184条)・無効(1304条)に裁判所の判決を要し、弁済の提供にすら公証人等の関与を必要とする等(1258条7号)、種々の専門家の関与無しには成り立たないという特殊性を有しており、特に協議離婚をはじめとして家族法領域の手続の繁雑は「人間不信の極致」とも称すべきものであったから、そのまま日本に適用することは不可能であった[180]

民法仮法則[編集]

江藤は皇国民法仮規則にも満足せず、民法編纂会議を司法省の付属機関である明法寮から司法省本省へ移管[181]

1872年(明治5年)10月、既に施行済みの戸籍法に代わるべく、ブスケも関与して『民法仮法則』が成立[182]

ところが、1873年(明治6年)3月、全国の戸籍につき、壬申戸籍が完成[183]

戸主が家族の身分変動を届け出るものとされた[184]

民法仮法則は施行されずに終わる[185]

批判・評価[編集]

江藤の拙速主義は、ブスケからも批判を浴びることになった[186]

法律というものは、ある土地から他の土地へ移植されるものではない。法律は、すでに生まれている要望……本能……習俗に、正確に答えるという条件においてのみ、永続もし効果もあるものなのだ。

……日本の大臣たちは……フランス法典こそがすぐれて文明諸国民の法律であるように思われ、彼らはできるだけ短い期間内にこれを翻訳し公布すること以外にはとるべき道をほとんど認めていなかったのである。

……私は間もなく、ひとがやろうとしていた性急な仕事の空しさを認識し、それを指摘するようになった……革命的なやり方では何も建設されない、そして実力行為は政治の状況を変えることができても、精神的な面では国民を結合させずに、これをして途方に暮れさせるだけである。……この企ては、一言で言うなら、熟していず、それには長い忍耐強い準備を必要とする[187]

— ジョルジョ・ブスケ

また、津田は、

江藤は太閤秀吉尾張城普請の様に一夜で日本五法を作り上げようとしたが、これは無理な話で到底できるものではない。私にもやれと言ふたが、私は出来ぬと断った。 — 津田真道

と言ったという[188]

法典だけ公布しても、それを解釈適用する法官がいなければ無意味だというのが津田の慎重論の論拠である[189]

先生の遠見は実に敬服の至りである。……国民性の発現なる法律は、一夜のうちに変えることは出来ない。しかしながら、始めに江藤氏の如き進取の気象の横溢した政治家があって突進の端を啓き、鋭意外国法の調査を始めたからこそ、後年の法制改善も着々その歩を進めて行くことが出来たのである。我邦の如く数千年孤立しておった国民が、俄然異種の文化に接触した場合には、種々の突飛な試験をして見て、前の失敗は後の鑑戒となり、後ち始めて順当なる進歩をなすに至るのは、やむを得ぬ事である。

現に民法の沿革からいうても、初めは江藤氏の敷写民法で、中ごろ大木伯の模倣民法となり、終に現行の参酌民法となったのである。

— 穂積陳重『法窓夜話』61話「フランス民法をもって日本民法となさんとす」

左院の法典編纂事業[編集]

伊地知正治(薩摩閥)

左院においては、明治六年政変により江藤が下野した後も『皇国民法仮規則』が再検討され、1873年(明治6年)後半から1874年にかけて、家族法部分につき『左院民法草案』が成立[190]

同草案においては、新副議長伊地知正治を中心に、日本固有法を基礎に仏法を斟酌する事を基本方針とした結果、戸主による統率や家督相続制度を始めとして、保守的色彩の強いものになった[191]

ただし、婚姻や戸主以外の死亡時の遺産相続など、分野によっては専ら仏法準拠の上、左院に依る二度の憲法草案は西洋法の模倣に過ぎるとして廃棄されたという側面がある[192]

大木喬任の法典編纂事業[編集]

1873年(明治6年)、大木喬任が司法卿に就任、大木も法典編纂事業を意図していたが、司法省内部からも、江藤の強引な民法編纂への反対論が起こり、大木もまた江藤と反対の慎重派の性格であったことや、箕作及び日本に着いたばかりのボアソナードらが台湾出兵の後始末に追われた事等から、司法省主導の民法編纂事業は約2年停滞[193]

英仏両派の形成[編集]

現在の東京大学

1874年(明治7年)、ボアソナードが既存の刑事法典に代わる刑法治罪法刑事訴訟法)起草を依頼される[194]

また、明法寮の後身たる司法省法学校(後の東大法学部仏法科)において、ボアソナードが自然法の講義を開始[195]

この法学校は、井上正一磯部四郎、梅謙次郎、木下廣次光妙寺三郎栗塚省吾田部芳、末弘厳石など数多い人材を各方面に輩出、特に法曹界、法学会において支配的影響力を誇った[196]

同年、開成学校(後の東大法学部英法科)で英法学の講義が開始[197]

英法導入の動機[編集]

これは、当時の大英帝国が世界最多の人口を支配しており、東アジアにおいて占める政治上・通商上の地位を無視できなかった為である[198]

一方、マルクス主義的歴史観に立つ論者の側からは、明治政府は、帝国大学で学ぶ未来の官僚群に、英法学(後に独法学)を教えることによって、仏法学のブルジョワ自由主義に対抗できると考えたのだとも主張される(松本、宮川澄)[199]

立憲主義の形成[編集]

1869年(明治2年)に岩倉具視が『政体論』を著した時、君主の個人的資質に依存する絶対君主制ではなく、制度によって為政者の恣意を制限する政治制度が構想されていた[200]

江藤の法典構想も同様の意図を持つものと理解されうる[201]

1875年(明治8年)、明治六年の政変で下野した木戸孝允板垣退助と、政府側の大久保利通・伊藤博文が大阪で会見した大阪会議を受けて、4月14日、漸次立憲体制へ移行することを宣言する詔勅が出される[202]

ここでは、元老院及び地方官会議を置き、国会開設の準備をすること、大審院の設置、参議と各省卿の分離によって天皇に対する輔弼責任と行政事務を分離するなど、近代的な三権分立体制確立へ向けての改革という基本方針が決定され、法典整備もその一環として行うことになる[203]

左院は廃止され、法典編纂は司法省の管轄になる[204]

戸主による家族統制[編集]

1875年(明治8年)12月、当事者の合意に依るものであっても、戸籍に登録しない身分変動は無効とされ(太政官第209号達)、届出権を持つ戸主に依る家族統制が強化される[205]

但し、この時点における戸主は、絶対的な権力者ではなく、家族団体の為に働く事を要求され、浪費行為等により家の利益を害するときは戸主の地位を追われ(廃戸主)、全財産をも失う弱い存在である[206]

家父長制にも、家長自身すら団体の法理に拘束される団体主義のゲルマン法型と、家長個人が構成員に対して強大な権限を有する個人主義のローマ法型とが存在[207]することは後述する。

諸法典の編纂[編集]

大木喬任(断行派)

江藤の編纂事業を引き継いだ司法卿大木喬任は、司法省に五局二十二課を置き、民法・刑法・治罪法(刑事訴訟法)・商法・訴訟法(民事訴訟法)の編纂に着手[208]

1876年(明治9年)から翌年7月までの間に、ボアソナードが刑法原案を起草、治罪法についても、同7月から翌年(明治11年)末までの間に起草し、ほぼ完成した[209]

当時のフランス刑法では、不貞行為をした妻が現場で夫に殺害されても、夫は無罪という規定[210]がある等、過酷な一面を有していたが、ボアソナードがナポレオン刑法典に批判的であった事から、フランス刑法のみならずベルギー刑法、ドイツ刑法、イタリア刑法草案の影響が強く、また鶴田皓ら日本人委員の努力もあり、ヨーロッパ法理と日本の慣習との調和が図られている[211]

1877年(明治10年)太政官に伊藤博文を総裁とする刑法草案審査局が設置されて司法省の刑法草案を修正、1880年(明治13年)には元老院の審査に附され、激論の末規定や官吏讒毀罪を削除[212]

上奏を経て旧刑法は7月には治罪法と共に公布され(太政官布告36号)、1882年(明治15年)から施行された[213]

一方、商法典の編纂は、1876年(明治9年)にオランダ人アダム・ラパール(Adam Rappard)に委嘱したが、イタリア商法典のオランダ語訳を作った程度で、起用は失敗した[214]

1878年(明治11年)、駐独公使青木周蔵の周旋によって、後に明治憲法成立に貢献し、旧商法起草を担当するドイツ人学者ヘルマン・ロエスレルが外務省の公法顧問として来日[215]

明治11年民法草案[編集]

民法については、司法省の機構を再編し、箕作麟祥、牟田口通照に編纂させた[216]

また、起草を命じたのは明治何年か(古くは明治8年説が多い)、箕作、牟田口以外に起草者がいたか、につき学者間で記述が分かれている[217]

明治九年になりまして大木君が司法卿になられました。そのとき民法草案を編纂してみるがいいと云ふことで一人の相手と粗末ながら草案を作りましたが其れも其の儘になりました。

併し今日から見れば其の儘になりましたのが幸ひで有って若し其れが行はれたら其れこそ大変でありませう[218]

— 箕作麟祥、明治20年9月15日明治法律学校、始業式演説

実際に大木が司法卿になったのは「明治九年」ではなく明治六年であるため、「明治九年」は草案開始時期について述べたものとも推測される[219]

1877年(明治10年)5月、大木は委員を各地に派遣し民事慣例を調査させ、『民事慣例類集』が成立[220]

同年9月、箕作、牟田口の民法草案の一部が上程され、1878年(明治11年)4月に全部につき完成[221]

明治11年草案[222]、明治10-11年民法草案[223]、箕作牟田口草案[224]等と呼称され、日本初の全編完成民法典法案である[225]

しかし、日本の国情に合致するようにという大木の期待に反して、誤訳や省略を含むフランス民法典の殆ど引き写しに過ぎず、箕作自身も認めていたように、実際の施行に耐えない完成度の低いものであった[226]

なお、一部の論者は、同法案が廃棄されたのは、不出来だったからではなく、近代市民法の影響が強い進歩的草案だった為であると主張[227]している。

1877年(明治10年)には、不平等条約により関税収入を得られず、財政難に苦しむ明治政府が過度の地租負担を農民に課したことを背景に(ビンガム)、西南戦争が勃発している[228]

大木喬任の旧民法編纂事業[編集]

1879年(明治12年)1月、11年草案を修正すべきことが民法会議で決定されたが、結局修正した程度では到底使い物にならないと結論付けられた[229]

大木は、民法典制定は国家の一大事業であり、外国の立法例及び学説を参酌して、最も整った新法典を制定したいと考え、刑法・治罪法の起草を終えたボアソナードに民法草案の起草を依頼した[230]

ボアソナードの旧民法編纂開始[編集]

どのような経緯により、何時ボアソナードに対する草案起草の委嘱が行われたのかは資料が少なく、明治13年説[231]もあるが、明治12年説が通説的である[232]

其れから明治十二年になりまして司法省で民法会議が初りました。其の時にはモウ、ボアソナード先生が来て居られましてボアソナード先生の草案を議することになりました。続いて十三年に政府で民法編纂局と云ふものを置かれました[233] — 箕作麟祥、明治20年9月15日明治法律学校、始業式演説

概ね明治13年から15年の間に財産法第一次案ができ、明治15年から20年にわたって手が加えられ、完成されたと考えられる[234]

民法草案の構成[編集]

  • 第一編、人事
  • 第二編、諸般の財産
  • 第三編、権利を得るの方法
  • 第四編、従たる契約
  • 第五編、証拠[235]

これに対し、フランス民法典の編成は[236]

  • 第一編、人事
  • 第二編、財産及財産所有の種類
  • 第三編、財産所有を得る種々の方法

草案が「証拠」編を設けたのは、証拠はフランス民法では契約の中に入っているが、それは人事にも関係するからという理由であった[237]

原型であるローマ法大全の『法学提要』の構成は[238]

  • 第一編、人事
  • 第二編、財産
  • 第三編、訴訟

フランス民法典が、同じく『法学提要』に基づくプロイセン一般ラント法を参照して確立した法典形式をインスティツティオーネ方式と呼ぶ[239]

大木時代の起草体制[編集]

司法省[編集]

1879年(明治12年)2月、パリ大学法学部を卒業した磯部四郎が帰国[240]

以降、一貫してボアソナード、箕作らと共に旧民法編纂に中心的活躍、後の民法典論争でも断行派の主役を担う[241]

1880年(明治13年)4月、民法編纂局を置き、数名の委員をして、ボアソナードの民法草案を討議させる[242]

この原案は、条文にボアソナードによる注釈を加えたものがProjet de code civil pour l'empire du Japonと題してフランス語のまま出版されており(いわゆる『プロジェ』)、その後も第二版、新版と版を重ねている[243]

日本語版の第一回民法草案は物権の部と人権(債権)の部から成り、当該文書では『ボアソナード氏起稿民法財産篇』及び『仏国法律博士「ボアソナード」氏起草日本民法草案』と題されているが、仮に『日本民法草案』と呼ばれる[244]

ただし、旧民法中には誤訳の為に原案と内容的に逆転して成立した例(再調査案367条1項、財347条)があることが指摘されており、研究に当たっては日本語の草案よりもフランス語の原案を重視すべき事も主張されている(池田真朗[245]

7月、明治10年成立の『民事慣例類集』の補遺を追加整理した『全国民事慣例類集』が成立[246]

元老院[編集]

同6月には、大木の主導の下、民法編纂局が司法省から元老院(左院の後継)中に移設される[247]

主な委員は、箕作麟祥、黒川誠一郎、磯部四郎、杉山孝敏、木村正辞[248]

第一課から四課までは、それぞれ(一)原案の翻訳、(二)語彙の収集、(三)日仏文法を比較し文字の修正、(四)日本の慣習民法の収集に当たった[249]

元老院民法編纂局ではなく「司法省蔵版」とされている前記『民事慣例類集』と『全国民事慣例類集』の編纂に第四課分任員の生田精が関わっていたか不明であるが、慣例類集を民法編纂局に活かそうとしていたことは伺われる[250]

1881年(明治14年)8月に生田が死去すると、漢訳仏国民法典を参考に文字の修正を行う事を任務とする帰化清国人鄭永寧(司法省御用掛准奏任取扱)が第四課の後任となる[251]

以後日本の慣習尊重姿勢は減退し、専らボアソナード原案の翻訳に比重が移る[252]

旧民法財産法の起草方針[編集]

財産法起草のボアソナードの方針は、

  • フランス民法典(1804年)を基礎とし、その欠点は判例学説を採用してためらわず修正する。
  • イタリア民法典(1865年)にも従う。仏民法典を改良した点が多いからである。
  • 仏・伊両民法と異なる規定を置く場合は、理由を明示する。
  • ベルギー民法の特別な規定(不動産譲渡登記と1851年抵当法による修正)は利用する。
  • ドイツ民法典が完成すれば、参照する(ボアソナードの起草中に完成せず)。
  • 日本の「よき有益な旧慣」を保存する[253]

日本人が家族法を起草した理由[編集]

民法中、人事篇及び財産取得篇中の相続・贈与・遺贈・夫婦財産契約に関する部分はボアソナードに依頼されなかったが、家族法領域は特に日本固有の民族慣習を考慮する必要があるということから、日本人委員に起草させるべきと考えられたからである[254]

ボアソナード自身も、憲法親族法分野については万国共通の自然法によって規律されるべきではなく、もっぱら各国の事情を基礎とすべきとの立場であった[255]

但し、家族法中相続法については、財産法の延長と考えており、全面的に分割相続制度を採る方が経済上も有利であり、前述の農家及び商工業の家産分割の弊害については、会社の活用や、相続人間の賃貸借で経営を維持できると主張しており、財産法案中にも分割相続制を予定する規定を設けたが、後の修正過程において削除された[256]

明治十四年の政変[編集]

1881年明治十四年の政変が起きる[257]

ボアソナードは、政府の諮問に応えて、大隈重信が主張するイギリス流の議院内閣制度の即時採用は時期尚早であると主張、政府の方針決定にも影響を与えている[258]

その後、商法はロエスレルに(明治14年)、民事訴訟法はテッヒョーに(明治17年)、裁判所構成法はオットー・ルドルフ(明治21年)に、いずれもドイツ人に起草が委嘱された[259]

政変後に、フランスを参考に参事院が設置され、伊藤博文が議長に就任した際、民法編纂総裁が伊藤に代わる可能性があったが、元老院議官の水本成美や津田真道が岩倉具視に働きかけたことにより、依然として大木がその地位に止まることとなった[260]

大木は、明治前半期の流動的な政治状況の中で、商法や訴訟法の編纂からは手を引くことになったが、民法編纂局の体制は保持し続けたのである[261]

なお、同年1月に明治法律学校(仏法派・断行派)が創設されている[262]

穂積陳重(英法派・延期派)が転学先のドイツから帰国[263]

ロエスレルの旧商法編纂開始[編集]

商法については、1881年(明治14年)に太政官中に商法編纂委員を置き、同時にドイツ人ヘルマン・ロエスレルが草案起草を開始[264]

既に刑事法典を完成させた実績のあるボアソナードが商法典を起草しなかったのは、経済的・政治的事情によりその成立を急ぐにもかかわらず、民法起草に取り掛かったばかりで手が空いていなかったという事情による[265]

後に梅謙次郎(結論的には旧民商法断行派)がフランスの雑誌に寄稿して批判したように、国家学(経済、財政、行政、政治学など)、強いて言えば現在の日本でいう経済学教授に相当するロエスレルがなぜ商法典の起草を担当したかは問題であるが、商法についての学識も或る程度有していたことと、当時既に不平等条約改正を巡る外交交渉の一環として商法典編纂事業が位置付けられつつあったから、外務省の顧問であった彼が前任者ラパールのリリーフとして起用される必然性があったと説明される[266]

なお、これに先立ち、1880年(明治13年)には山脇玄平田東助によって、後に日独の民法典に多大な影響を与えるロマニステン法学者ベルンハルト・ヴィントシャイトの著書の和訳が出版されている[267]

旧民法草案の一部完成[編集]

伊藤博文(長州閥・延期派?)

1882年(明治15年)には「条約改正予備会議」が発足、民法編纂事業にも影響を与えたと推測され、民法編纂事業が性急に過ぎることを危惧したボアソナードの提案により、原案の見直しがされる[268]

『日本民法草案』は更にボアソナードの手で修正され、1883年(明治16年)までには再閲民法草案が作成されている[269]

また、民法典中の家族法部分は、編纂局中に日本人委員の主任を定めて起草を開始したが、起草は困難を極めた[270]

同年、伊藤博文が欧州における憲法調査の旅から帰国[271]

1883年(明治16年)、参事院が刑法修正案を上申[272]富井政章[273]、熊野敏三が留学先のフランスから帰国[274]

1884年(明治17年)、司法省学校は文部省の管轄に入って東京法学校と改称、翌年東京大学法学部に吸収合併され、東京大学フランス法学部、のち帝国大学法科大学仏法科となった[275]

1885年(明治18年)には、初代第1次伊藤内閣が成立。外相井上馨(辞任後は大隈重信)、法相山田顕義

1886年(明治19年)2月には梅がリヨン大学に入学、「日本人には富井、梅のやうな法律の神様のやうな人間が居る」と畏れられた程の学識を示す[276]

同7月、英吉利法律学校(英法派・延期派)創設[277]

1886年(明治19年)3月、財産編及び相続法を除く財産取得編の両編草案が完成、内閣に提出される[278]

家族法起草の継続[編集]

財産法二編完成を受けて元老院民法編纂局は廃止され、家族法部分は日本人委員により司法省で引き続き起草されることになった[279]

この時点での起草委員は磯部四郎・高野真遜・熊野敏三菊池武夫(英法派・延期派[280])・小松濟治・今村信行南部甕男井上正一光妙寺三郎[281]

後に熊野敏三らが合流するまでは、草案らしい草案はできなかったようである[282]

井上馨の法典編纂事業[編集]

井上馨(長州閥)

1886年(明治19年)8月6日、不平等条約改正の為、第1次伊藤内閣外相井上馨の下、外務省の管轄で諸法典を編纂することになり、井上を委員長とする法律取調委員会が設置される[283]

委員は、ボアソナード、ロエスレル、モンテーギュ・カークード、オットー・ルドルフ、アルベルト・モッセ、ベルヒマンらお雇い外国人や、西園寺公望陸奥宗光、箕作麟祥、三好退蔵、今村和郎、栗塚省吾都築馨六らである[284]。               

井上馨の基本方針[編集]

この時期においては、前述の法典編纂に依る国内法の統一という動機よりも、外務省主導の下、条約改正の為ということが強く意識された[285]

既成草案の扱い[編集]

1886年(明治19年)12月6日、元老院に財産法議案が下付され審議が行われたが、審議未定のまま放置されることとなった[286]

諸法典は各自の起草により矛盾抵触する部分も少なくなかった為、法律取調委員会は統一整理する必要ありと決議し、翌4月14日井上は民法草案議定中止を稟議し、第1次伊藤内閣もこれを認めた為、元老院内でも強い反発があったが、院内編纂局より提出済みの民法二編を一旦廃棄せざるをえなくなったのである[287]

井上馨の挫折[編集]

1887年(明治20年)3月31日第24回条約会議において、列強の従前からの主張に基づき、裁判所構成法、刑法、治罪法(刑事訴訟法)、民法、商法、訴訟法を「泰西主義」(ウェスタンプリンシプル)に基づいて制定し、少なくとも条約批准交換後16か月以内に英訳正文を各国に「通知」すべきことが、正式の外交文書によって認めさせられている(後に撤回)[288]

列強の要求は更にエスカレートし、真にウェスタンプリンシプルであるかにつき、列強の「査定」をも要するものとされた[289]

また、条約批准後二年内に諸法典は制定されなければならないとされたことから(批准はされなかった)、一事項に付き結論が出るまで会議を中止せず、委員に食事も出さない"兵糧攻め"をしてまで井上は法典編纂を猛烈に急がせたという[290]

しかし、外国人判事の受け入れ等を内容とする井上馨の条約改正に対して、主権の侵害であると批判するボアソナードや谷干城らによる反対運動が起き、外務省主導の法典編纂事業が頓挫する[291]

この期間の成果は裁判所構成法草案の完成のみに止まり、民法典編纂はほぼ手つかずであった[292]

山田顕義の法典編纂事業[編集]

山田顕義(長州閥・断行派)

1887年(明治20年)10月21日、法律取調委員会は外務省から司法省に移管され、司法大臣山田顕義(第1次伊藤内閣)が委員長に就任[293]

山田顕義の基本方針[編集]

山田においても、国内法統一の動機よりも、不平等条約改正の為の法典編纂事業であることが強く意識された[294]

既に完成済の財産法の残余部分、債権担保編・証拠編を引き続きボアソナードに、商法についてもそのままロエスレルに起草させ、人事編については主に熊野敏三、財産取得編中の相続、贈与、遺贈、夫婦財産契約は主に磯部四郎に担当させた[295]

山田時代の民法編纂事業においては、ボアソナード原案の忠実な翻訳に重きを置いた大木時代と異なり、法律取調委員会を主な主体に、条文の削除を中心とするボアソナード財産法草案の「枠内手直し」が行われたが、法典の早期成立の観点から、ボアソナードの原案からの逸脱は原則禁止され、「法理得失実施の緩急、文字の当否は之を議論するを許さ」れず(法律取調委員会略則1条後段)、「一日十五条づつを議了することを要す」(会議規則)ことが基本方針とされ、なるべく仏語原案の直訳調の法文にすべきことも要求された[296]

旧民法家族法の起草者[編集]

磯部は家族法起草者として自身と熊野の名しか挙げていないが、各条文の立法理由を説明した司法省蔵『民法草案人事編理由書』の記述者から推定される家族法の起草者は以下の通り[297]

  • 第一編、人事
    • 第一章、私権の共有及び信用(熊野)
    • 第二章、国民分限(熊野)
    • 第三章、親属及び姻属(熊野)
    • 第四章、婚姻(熊野)
    • 第五章、離婚(熊野)
    • 第六章、親子の分限(熊野)
    • 第七章、縁組(光妙寺)
    • 第十一章、禁治産者(光妙寺)
    • 第十二章、戸主及び家族(黒田綱彦)
    • 第十三章、住所(熊野)
    • 第十四章、失踪(熊野)
    • 第十五章、身分証書(高野)
  • 第二編、財産獲得
    • 第十三章、相続(磯部)
    • 第十四章、包括名義に於ける生存者間の贈与及び委嘱贈遺(磯部)
    • 第十五章、夫婦財産契約(井上)

但し、完成した第一草案はあくまで共同合議の結果であることが指摘されている(手塚)[298]

財産法の起草者ボアソナードは、委員会には殆ど出席していない[299]

ヨーロッパの家族観[編集]

ローマ法の家族観[編集]

キリスト教以前の古代ローマでは、家父長の家族員に対するタテの関係を中心とする。祖父の家長権が孫にも及び、家長でない父母の子に対する親権の併存は認められない[300]

民法典論争にける穂積八束の主張もこの立場である[301]

婚姻については、極端な契約的婚姻観に立ち、当事者の意思の合致のみで婚姻が成立・解消するが、私通・秘密婚の弊害が横行した[302]

キリスト教の家族観[編集]

楽園から追放されるアダムとイヴギュスターヴ・ドレ画)

家庭を福音伝道及び信仰生活の単位として重視したイエス・キリストにおいては、婚姻関係は親子関係から独立して、社会における一個の新しい基本単位を為すものとされた[303]

しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。 — マルコによる福音書10章6-9節[304]、新共同訳

しかし、ローマカトリック教会においては、イエスの婚姻観は離婚の絶対的禁止として理解されたに過ぎず、基礎となったのは使徒パウロの家族観であった[305]

男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。 — コリントの信徒への手紙一11章9節[306]、新共同訳
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 — エフェソの信徒への手紙5章22節[307]、新共同訳

すなわち、男を惑わせ道を誤らせる「女は罪深きもの」(創世記参照)、婚姻は「必要なる悪」であるから、肉体と不純を浄化する為に、教会の「秘蹟」に依らなければならないと考えられ、世俗的な事実婚を否定して、法定の手続を婚姻の成立要件とする方式主義(要式主義)が確立[308]

フランス革命においても、教会による身分行為の独占や離婚の絶対的禁止が否定されたにとどまり、カトリックの伝統的家族観はフランス民法典にも大きな影響を残したのである[309]

このように、伝統的なキリスト教の婚姻観は、男女平等に結び付くものではなかったので、ヨーロッパ法系においては、女性の権利は何らかの形で制限されていた[310]

夫婦は一体となる、婦が消えて夫だけとなる[311] — イギリス普通法の法諺

近代ヨーロッパ市民法の基礎が、妻に対する優越的な夫権を定める家父長制であったことは、近年では既に通説の地位を占めている[312](財産関係における男女平等が実現したのは、ドイツでは1976年、フランスでは1985年であり、日本より遅い[313])。

そのような状況において、旧民法が最終的に家父長制度を採用したのは自然であった[314]

ルソーの家族観[編集]

フランス革命の理論的指導者であったジャン=ジャック・ルソーは、カトリック以上の徹底した男尊女卑思想の持ち主であり、家父長制擁護論者であった[315]

女をして価値あらしめるのもやはりわれわれ男である。さればこそ女自身には何の価値もない[316] — ジャン=ジャック・ルソー

ナポレオン民法典の家族観[編集]

フランス民法典が近代的といわれるのは財産法であって、家族法は必ずしもそうではない[317]

成立当初の原始規定においては、一部の過激派によって兄弟姉妹間の近親相姦の自由すら主張された革命の熱狂期に対するカトリック的反動と、ナポレオンの軍事的体制の故に、男権優越・家長制度を当然の前提としており[318]軍国主義的規定も若干あり[319]旧時代の価値観に立脚した規定も少なくなく、1970年代に根本的に修正されるまで、近代法典中稀にみる程の不平等の性格を持ち合わせたものであったことが多くの法学者により指摘されている[320]

フランス民法旧757条

  • 法律は、私生児に対して、其の父又は母の血族の財産に関し何等の権利をも与へず[321]

特に、妻の地位に関する原始規定は、「中世の慣習をそのまま書き下ろした」かのようだと評される[322]

フランス民法旧214条

  • 1.妻は夫と同居する義務を負ひ、夫が居住するに適せりと為す如何なる地へも夫に従ふべき義務を負ふ[323]

夫との同居義務に従わない妻を警察力で強制できるというのがフランスの判例・通説であった[324]

妻に自由を与へることはフランスの国風に反する。夫は妻の行為を監視し、外出すべからず、劇場へ赴くべからず、この人かの人と交際するべからず、と命じることができなければならない[325] — ナポレオン・ボナパルト
独創的であることが必要なのではなく、明晰であることが必要なのである。なんとなれば、われわれが作るべき立法は、一個の新興国民のためではなく、齢10世紀以上もの古い社会のためなのだからである[326] — フランス民法起草委員ポルタリス

そのナポレオン民法典ですら急進的に過ぎると捉えられた為に、王政復古期の1816年にはカトリック的反動によって離婚制度は早くも一時全廃された[327]

フランス法学の理論状況[編集]

近世自然法論の二大潮流[編集]

哲学者ジャン=ジャック・ルソー
哲学者トマス・ホッブズ

1625年オランダで長引く宗教戦争を背景に、グローティウスの主著『戦争と平和の法』において、古代以来キリスト教神学と密接な関わりを持っていた自然法の世俗化が主張される[328]

政教分離的・啓蒙的なグローティウスの自然法論の影響を受けた学者の内には暴君放伐論及び反逆権を主張した一派があり、これが後にフランス革命の理論的中核となる[329]

君主が暴虐な政治を行う場合には、君主は社会契約に背反するものだから、反逆を行うのは人民の当然の権利である、というのが主旨である[330]

植木枝盛はこの系統である[331]

一方、同じく自然法論及び社会契約論を採る学者の中でも、イギリスのホッブズ国権の絶対化による人類の保全を主張していたが、契約の絶対性を強調することで所有権及び契約の自由原則を樹立、1804年のフランス民法典に結実した[332]

日本で天賦人権論に立ちつつ国権の強化を説くのは福沢諭吉(延期派)である[333]

自然法や天賦人権論が共和制や反国家思想に当然に結び付くものではないが、ルソー流の思想を採るときはアナキズムに陥ると警戒されることになる[334]

ボアソナードの自然法論[編集]

自由主義経済学者アダム・スミス

ボアソナードの法思想はその何れにも属さず、聖トマススコラ神学を基盤とする宗教的自然法思想であった[335]

もっとも、離婚の認容や死刑廃止論等、伝統カトリックと異なる面をも有していた[336]

彼は、人間を全生物の長とするカトリック神学を背景に、人間は自然的に善であると考える[337]

つまり、悲観主義カール・マルクスに対比される、人間の善性を信じる楽天主義の立場にあり、アダム・スミスの流れを汲む自由主義経済の信奉者であった[338]

このような思想はキリスト教的要素を捨象した上で梅ら法典断行派に受け継がれ、延期派及び後世の学者からの批判を受ける事になる(後述)。

良き経済学派に、すなわち契約の自由に賛成である……無知な、あるいは悪しき社会主義者の学派が、賃金と地代の問題を、暴力により、略奪により、放火によって解決しようとしているのに対して……需要と供給の自由な活動にすべてを期待する。かれはストライキは許容するが組織的反乱を非難する[339] — ボアソナード「経済学者としてのラ・フォンテエヌ」(パリ、1872年)

なお、ボアソナードが支持したアダム・スミス[340]自身の主張が単純な自由放任主義であったかは異論がある(国富論#見えざる手参照)。

自然法学の受容[編集]

フランス民法典が基礎とした自然法思想は、日本でも、儒学を媒介して理解されることによって、キリスト教特有のイデオロギーではなく、普遍的な性格を持つものとして受容されていた[341]

オランダから帰国した西周、津田真道らが、自然法と言わずあえて「性法」と訳出したのはその現れである[342]

天の命、之をと謂い、性に率う、之を道と謂い、道を修むる、之を教と謂う[343]。天命に則り性法に率ふと謂う[344] — 『中庸』第1章

こうした性法思想の支配的傾向は、1887年(明治20年)頃まで続く[345]

仏法派の男女平等論[編集]

岸本辰雄(仏法派・断行派)

明治初期の日本においては、かつての開国派かつ佐幕派の旧士族達を中心に、キリスト教(新約聖書)の一夫一婦制イデオロギーがカトリック的男尊女卑を捨象した上で受容され、民法典論争においては、開明的観点からの断行論を唱える一派に影響を与えた[346]

旧民法人事編の起草者熊野敏三は男女平等の実現に至らないナポレオン民法典及びフランス社会に対して批判的であったし[347]、ボアソナードも、ナポレオン民法典における妻の無能力制度に批判的であった[348]

旧民法断行派の岸本辰雄らも、完全夫婦平等論を説く森有礼の思想的系譜にあったと考えられ[349]、岸本の翻訳したフランスの急進派共和主義者エミール・アコラースの著書は、家制度全廃と男女平等の実現を説く植木枝盛の論文「如何なる民法を制定す可き耶」に影響を与えた[350]

植木枝盛のナポレオン民法典批判[編集]

植木枝盛

植木の民法論の本旨に関わるのは、フランス法典の制定者ナポレオンが、決して女性の保護者ではなかったという逸話である[351]

我輩は……法典の編纂すべきことを信ずるものなり。外交のためにこれを急にすべしといわば与して以て潔しとすること能わざるのみ。あらかじめその草案を社会に公示することもなさず、未だ国人をして十分に自由の言論を以てこれを討議することもなさず、世論……も揆(はか)らずして卒かにその事を果たさんとする者あらば拍手してしかして賛すること能わざるのみ。

……数年前より邦司法省において作成せられたる民法草案もし親族篇に至りては……仏律に学ぶことを潔しとせざるもの無きにあらざるなり。

彼れ……いかなる者ぞや……婦人の味方にてありしか……かつて叫んで曰く、

天性より論ずれば婦人は即我が奴隷なり……妄りに男女同権の説を唱うる汝等婦人の思想はこれ狂暴なり。何となれば婦人汝等こそすなわち我輩男子の所有物なれ我輩丈夫は決して汝等婦人の所有物に非ざればなり」と。

……我輩は新制の民法に対してかくの如きの思想を吸収せよと忠告せず、断然同権の主義を確信する……ものなり[352]

— 植木枝盛「如何なる民法を制定す可き耶」

植木の目からすれば、ナポレオン法典は既に古過ぎて、理想とすべき法典ではなかったのである[353]

自然法学の斜陽[編集]

かつて世界の最先端の法典として各国の法典に影響を与えたフランスのナポレオン民法典であったが、百年近い年月を経て次第に欠点が明らかとなり、素朴な法文が、社会の急速な進歩に対応しきれなくなっているという欠点があった[354]

例えば、平等の観点から徹底していた均分相続制は、農地の細分化を招いて農家を困窮させていた[355]

また、私法の大原則であった契約自由の原則も、貧富の差を招いて経済的弱者を圧迫する強者の自由に外ならなくなり、所有権絶対の原則も公共の福祉の観点から様々な制約を受けざるをえないものとなる[356]

ナポレオン民法典における男尊女卑等の不平等の規定の数々も、不合理に過ぎるものとして批判され始める[357]

このように、フランス民法典が当のフランスにおいてさえそのままでは通用しなくなったことで、自然法説も説得力を減じ、影響力を失うこととなった[358]

また、その解釈・運用方法についても、過去の立法者の意思のみに囚われるフランス註釈学派の方法論は既に限界を迎え、判例研究による新しい方法論(自由法論、科学学派)が勃興しようとする前夜であったから、そのような状況でフランス民法典を模範とすることは、もはや新興日本の採るべき道ではなくなりつつあった[359]

1888年(明治21年)、法科大学(東大)独法科を新たに設置[360]

家族法第一草案[編集]

黒田清隆(薩摩閥・断行派)

1888年(明治21年)4月、黒田内閣成立。第一次伊藤内閣の法相山田、外相大隈は留任。

首相黒田清隆は、法典論争では断行派[361]

日本人起草の家族法部分の第一草案は、1888年(明治21年)10月頃完成[362]

熊野、磯部ら日本人委員の起草した家族法原案は、法技術的にフランス民法典に多くを学びつつも、その差別的規定を批判する立場に立つ、極めて急進的な性格のものであった[363]

旧民法家族法第一草案の特色は、

  • 妻や未成年の子を含む全ての人に完全な権利能力を保証する。
  • 戸主・家族は形式上存在するが、法的関係は無く、戸主の家族に対する身分統制権は予定されない。
  • 婚姻に対する両親の承諾はナポレオン民法典と異なり、未成年者に対してのみ要する。
  • 姦淫に依る法定離婚について、ナポレオン民法典と異なり性差別を設けない。
  • 人事編理由書によると、親権は戸主でなく両親が有する。
  • 家督相続は存在するが、家督相続以外の普通相続人を認め、実質的に均分相続に近いものとする。
  • 家督保有者以外の相続人死亡時の遺産相続は完全に平等。
  • 基本的に身分証書の制度を採用し、戸籍は付随的な地位しか認めない[364]

同草案の内容は、植木枝盛の思想に合致するものであったと言われる[365]

フランス民法旧148条

  • 男25歳未満、女21歳未満父母の同意を要し、意見一致せぬ場合には父の同意あれば足りる[366]

旧民法第一草案47条

  • 1.成年に至らざる男女は父母の承諾を得るに非ざれば婚姻を為すことを得ず
  • 2.父母其意を異にするときは父の許諾を以て足れりとす
  • 3.父母の中一方死去し又は其意を表すること能はざるときは他の一方の許諾を以て足れりとす

10月16日付で同草案が全国の司法官及び地方官に回付され、意見が求められ、翌年半ばまでには意見が出揃ったが、多くは批判的であった[367]

これは、一つには、家族団体の共有する家産を中心とした団体主義的な前述の戸主による家族統制が、地券や公正証書等の個人所有を認める個人主義的な明治政府の諸改革と矛盾衝突をきたしていたところへ、急進的な同草案が一気呵成に前者を一掃しようとした為であった[368]

法典論争前哨戦[編集]

旧民法は批判の多い法典であったが、その問題は、編纂当事者自身によっても認識されていた[369]

法律取調委員会の家族法修正[編集]

熊野・磯部ら起草の家族法原案には政府内からも異論が多く、その修正作業は、戸主の死亡に左右されない家族経営の維持存続を可能にすると共に(団体主義)、一般の財産関係(個人主義)との整合性を図ることを目的とするものであったと解される[370](後述)。

旧民法家族法(明治23年法律第98号)の特徴は、

  • 外国人を含む全ての人に完全な権利能力を認める(イタリア民法に倣ったもの[371]
  • 既存の家族経営維持の為に長男子相続制度が確立。
  • 廃戸主制が無くなり、戸主に集中された財産は、家の制約を脱し個人財産としての性格が保障された。
  • 戸主の家族員に対する権利と義務が強化された。
  • 成年の子に対しても父母の同意権が規定された。
  • 妻と異なり、夫の姦淫による法定離婚は著しく悪質なものに限定された。
    • フランス民法典(旧229・230条)がこの立場である[374]
  • 戸籍法が民法に不可欠のものとされた[375]

フランス民法現8条

  • 総てのフランス人は私権を享有すべし[376]

旧民法人事編1条

  • 凡そ人は私権を享有し、法律に定めたる無能力者に非ざる限りは自ら其私権を行使することを得

旧民法人事編38条

  • 1.子は父母の承諾を得るに非ざれば婚姻を為すことを得ず
  • 2.父母の一方が死亡し又は其意思を表する能はざるときは他の一方の許諾を以て足る

旧民法人事編246条

  • 家族は婚姻又は養子縁組を為さんとするときは年令に拘らず戸主の許諾を受く可し

フランス民法旧229条

  • 夫は妻の姦通を理由として離婚の訴えを提起することを得[377]

フランス民法旧230条

  • 妻は夫が共同の家に其の情婦を引入れたる場合に、夫の姦通を理由として離婚の訴えを提起することを得[378]

旧民法人事編81条

  • 離婚は左の原因あるに非ざれば之を請求することを得ず
    • 第一 姦通但夫の姦通は刑に処せられたる場合に限る

政府が公布した旧民法もまた妥協の法典であり、その内容は、新し過ぎるという批判と、古過ぎるという批判に晒されるに値するものであった[379]

法律取調委員会の財産法修正[編集]

審議の過程においてボアソナードの財産法案の体裁・文体・内容(特に物権法分野)への不満が続出したにもかかわらず、ボアソナードが帰国を仄めかしてまで自説を貫徹させた為、法典の早期成立の観点から、ボアソナード草案の基本的枠組みは維持され、法律取調委員会の中に大きな不満を残すこととなった[380]

特に、用益権物権(財産編)の中に入れたことや[381]農業経済上有益であるとの観点から[382]、フランスの少数説を立法論的に採用して賃借権一般を物権としたこと[383]は深刻な論争を生み出し、ボアソナードに依れば、自身の門下生たちでさえ、師の説に批判的であった[384]

箕作麟祥の旧民法批判[編集]

箕作麟祥(仏法派・断行派)ですら、松岡康毅と共に原案の内容的変更を含む『別調査民法草案』の起草に着手し、一時はボアソナード原案の廃棄が検討された程であった[385]

村田保の旧民法批判[編集]

村田保(英法派・延期派)

一旦はボアソナード原案の維持を基本路線とする方針を支持した村田保(法律取調委員会委員、元老院議官)も、大隈重信の暗殺未遂事件を受けて、法案の早期成立より欠点の修正を重視すべきとの考えに転じる[386]

そこで、個々の条文を挙げて、具体的な修正提案をしたものの容れられず、強引に審議を進める山田と対立・決裂、以後法典論争では徹頭徹尾延期派に立つことになる[387]

村田はその後もシーメンス事件山本権兵衛内閣を瓦解に追い込む等、貴族院における反政府勢力の頭目として奮闘する[388]

尾崎三良の旧民法批判[編集]

尾崎三良(英法派・延期派)

同委員の尾崎三良(英法派、延期派[389])は、ボアソナードの財産法案が晦渋難解であることと、日本の実情に適さないこと、委員会による修正も小手先に過ぎないことを批判し、財産法の根本的修正が必要であるとして、法典論争に先駆けて、伊藤博文大隈重信らへの働きかけを行っていた[390]

その後も、法典論争(商法を含む)における延期派は、高橋健三(英法派)らを中心に、法典編纂が国家の大事であるとの観点に立ち、直接世論に訴えるというよりも、政府要人をはじめとする朝野の有力者に働き掛ける事を基本戦略とするようになる[391]

伊藤博文の旧民商法批判[編集]

井上馨の辞任を受け、明治20年10月5日付けで伊藤から山田に送られた書簡においては、仏人ボアソナードの財産法案はelaborate(入念)に過ぎ、独人ロエスレルの商法案もcomplicate(複雑)に過ぎ、その内容はあたかも学説理論の実験場のようであり、「両人共に学問上の高尚論に流れ、日本の現況に不適当なる新工夫を提出したるの謗」を免れることはできない、としてその出来に不満を示し、お雇い外国人の草案を放棄して、独自に「ナポレオン法を基礎とし、日本に適否を考慮し修正」して日本法を制定すべきではないか、との立場を示している[392]

山田は時間が無い事を理由に拒否[393]

元老院の動向[編集]

明治19年(1886年)12月、元老院に財産法議案が下付され審議が行われたが、条約改正の為の拙速な立法ではないかという不信感が示されており[394]、一貫して元老院は旧民法草案を慎重に討議したい旨希望していたが山田顕義に容れられず、拙速主義の編纂過程に大きな不満を抱いていた[395]

旧民法家族法第一草案については、既に法律取調委員会による修正が行われていたが、元老院は「慣習にないこと」(三浦安)「美風を損しますること」(小畑美稲)を徹底的に削除するという立場から、思い切った大修正を行っており、その結果当初の原案と立法精神を大きく異にする半封建的法典が出現したと指摘されている(手塚)[396]

加えて、確定案のはずだった元老院の議定案は、更に政府によって改変されており、旧民法典編纂に自ら加わったはずの村田保、三浦安等の元老院議官が、民法典論争において延期派に回る一因となったと推測されている[397]

枢密院の動向[編集]

枢密院に関しては、法案の早期完成の観点から、法定された「諮詢」を省略しようとした山田の動きと、これを違法な拙速主義として警戒する伊藤博文などの動きの対立があったことが指摘されている[398]

伊藤の後任の枢密院議長大木喬任は、枢密院を無視して法典成立を強行するのは無謀に過ぎた事から、枢密院の同意を得て『枢密院議事細則』に「大体議」という制度を追加し、「大体議に止むる」ことによって円滑な審議を進めることとした[399]

枢密院が民法草案に実質的な修正を加えたかどうかは争いがある[400]

伊東巳代治(独法派・延期派?[401])は、ロエスレルの旧商法についても枢密院へ廻す様運動して大木と対立し、この決着は長引いて、商法典の公布(4月26日官報号外掲載)が民法より五日遅れる一因となった[402]

法典論争[編集]

条約改正事業への国民の不信感があるところへ、政府は、帝国議会の審議にかけて時間を費やすことを嫌って、議会の成立する直前に駆け込み的に法典を成立させようとしたため、多くの反発を招き、法典編纂事業への不信感を誘発するに至った[403]

法典論争(商法も含む[404])の発端は、公布前の1889年(明治22年)5月15日、法学士会から意見書を総理大臣ならびに枢密院議長に提出したことに始まる[405]

英法派の開成学校、及びその後身たる東大法学部出身者(判事、代言人、行政官等[406])で組織される法学士会では、民商法典完成の近いことを、同会春季の総会において、全会一致を以って延期の決議をした[407]

その主旨は、拙速な法典編纂を戒め、緊急に必要なものに限り単行法を規定するに止め、法典全部の完成は、民情風俗の定まるを待ち、予め草案を発表して広く批評を受け、十分な審議を経た上で完成すべし、というものであった[408]

あくまで政府の拙速主義を批判したものであり、近代的な法典編纂そのものに反対したわけではない[409]

日本の思想状況[編集]

陸羯南(延期派)
徳富蘇峰(断行派)

1889年(明治22年)、ジャーナリズム運動から新思潮が生み出される[410]

素朴な復古主義や排外的な攘夷論ではなく、近代化の必要性は認めつつも、鹿鳴館に象徴される政府の極端な欧米化政策に疑問を呈し、日本の在り方を見つめなおそうというものであり、国民主義を唱えた陸羯南や、平民主義を唱えた徳富蘇峰らが代表的論者である[411]

このような思想的背景から、自然法思想に疑問を投げかけ[412]、ヨーロッパ法系の旧民法や旧商法について、日本の国情を慎重に考慮すべきという議論が起きたものと考えられる[413]

もっとも、これらの論者が直ちに延期論に立ったわけではなく[414]、特に徳富蘇峰は、植木枝盛の革新思想の系譜を受け継ぎ、断行論に立ったとも指摘されている[415]

また、陸羯南は仏法派の司法省法学校で教育を受けた経験を持ち、感情的なナショナリズムとは一線を画した延期論を展開している[416]

仏法派と英法派の対立[編集]

民商両法典の争議において、英法派の法律家はほとんど延期派に属し、仏法派は概ね断行派に属していたから、論争は仏法派と英法派の争いという一面を有していた[417]

当時我邦における法学教育の有様はどうであったかと言うと、明治五年に始めて司法省の明法寮に法学生徒を募集してフランス法を教授したのが初めであるが、これに次いで帝国大学の前身たる東京開成学校では、明治七年からイギリス法の教授を始めることとなった。これがそもそも我邦の法学者が二派に分れる端緒である。その後ち司法省の学校は、明治十七年に文部省の管轄となって一時東京法学校と称したが、翌年に東京大学の法学部に合併されてフランス法学部となった。明治十九年に帝国大学令が発布せられ、翌年法科大学にドイツ法科も設けられた。故に前に挙げた法典の発布された時分には、司法省の学校を卒業したフランス法学者と、大学を卒業したイギリス法学者とが多数あったが、民間にもまた一方にはイギリス法律を主とする東京法学院(今の中央大学の前身)、東京専門学校(今の早稲田大学の前身)等があり、また一方にはフランス法を教授する明治法律学校(今の明治大学の前身)、和仏法律学校(今の法政大学の前身)等があって、互に対峙(たいじ)して各多数の卒業生を出しておった。当時の法学教育はかくの如き有様であって、帝国大学の法科大学には英、仏、独の三科があり、……ドイツ法律家はまだ極めて少数であったから、あたかも延期問題の生じた時分には、我邦の法律家は英仏の二大派に分れておったのである。

かくの如き有様のところへフランス人の編纂した民法とドイツ人の編纂した商法とが発布せられ、しかも商法の如きは千有余条の大法典でありながら、公布後僅に八箇月にして、法律に慣れざる我商業者に対してこれを実施しようとしたのであるから、これについて一騒動の起るのは固(もと)より当然の事であった[418]

— 穂積陳重『法窓夜話』97話「法典実施延期戦」

ただし、延期派・英法派の岡村輝彦山田喜之助は仏法系の明治法律学校や和仏法律学校でも教鞭を取り、断行派・仏法派の磯部、梅、本野一郎は英法派の東京専門学校でも講義を行っていたという側面がある[419]

上の私学四校に専修学校(明治13年創設)、又は後にできた日本法律学校(明治22年創設)を加えて、五大法律学校と称されている[420]

英仏両派共に、法律雑誌のみならず一般の新聞紙でも論争を展開し、また演説会も行われた[421]

其の断行派の本拠が和仏法律学校でなしに、明治法律学校であったと云ふのには、特別な理由があると思ひます。 — 平野義太郎
それは明治法律学校にはフランス法を修めた人が大部分行って教鞭を取って居たからです。東京法学校の主催者中富井さんは延期論者で、梅さんは断行論者であったから東京法学校は学校として活動していません。 — 仁井田益太郎

(※私立東京法学校は和仏法律学校の前身)

断行派の中心人物は誰ですか。今伝わって居るのは梅先生のやうになって居りますが。 — 穂積重遠
私共の観る所では仏法出の岸本辰雄と云ふ人等が主宰し教鞭をとってゐた明治法律学校が主力であった。梅さんは東京法学校の方で、此の方は学校としても元々大した活動はしないのですから、梅さんはあまり背景は無いと思ふ。明治法律学校は全体として断行論を唱へておった。 — 仁井田益太郎
……英吉利法律学校の方ではどんな人人でしたか。 — 穂積重遠
それは江木衷とか山田喜之助、松野貞一郎、奥田義人・・・。 — 仁井田益太郎
花井卓蔵氏は居りましたか。 — 穂積重遠
あれは漸く卒業した位です。 — 仁井田益太郎
穂積八束なんかがどう云ふ理由で加ったのでせうか。例の「民法出でて忠孝亡ぶ」とまで反対した・・・。 — 穂積重遠
穂積八束さんに就ては余り知りません。同氏個人の考へに依ることと思ひますが、英吉利法律学校に教鞭を採って居た人々との関係もあったと想像します[422] — 仁井田益太郎「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」
学友花井君法学新報の発刊に際し僕に寄稿を望む。……林に入れば木を看て林を看ず。民法家或は民法の条項を見て民法を看ざるの歎なきを保せんや。局外者の見亦排斥すべからざるなり[423] — 穂積八束「国家的民法」『法学新報』第一号

仏法派の動向[編集]

明治法律学校(仏法派・断行派)

私学仏法派[編集]

1889年(明治22年)5月、東京法学校と東京仏学校が合併され、和仏法律学校と改称[424]法政大学の前身。

断行派の有力な論文の一つ『法典実施断行意見』は、同校校友会名義で出ている[425]

1891年(明治24年)3月、明治法律学校明治大学の前身)を中心に「法治協会」が結成され、機関誌として「法治協会雑誌」を発行し、法典即時断行・法治国家実現をスローガンとした[426]

会長に大木喬任、副会長に名村泰蔵、評議員に磯部四郎、井上正一、栗塚省吾今村信行、亀山貞義、岸本辰雄、箕作麟祥ら断行派の主要メンバーが名を連ねるほか、大井憲太郎、塩入太輔などの自由党員、立憲改進党員も加わっていた[427]

また法律経済研究を目的として飯田宏作、富井政章、梅謙次郎、栗塚省吾、黒川誠一郎、熊野敏三らにより結成された仏法派の団体として「明法会」があり、封建慣習打破、法律改正をスローガンとし、機関誌「明法志叢」を通じ、和仏法律学校を本拠に断行論を展開[428]

ただし、明法会員の内、仏法学者富井、木下廣次は、独自の立場から延期派に属した[429]

木下の延期論については、感情論に陥りがちな民法典論争にあって、富井・加藤弘之と同じく純理的議論であるとみる(星野[430])か、単なる保守派の言いがかりとみる[431]かは論者により評価が分かれる。

『法政誌叢』、『法律雑誌』(時習社)も論争に盛んに利用された[432]

官学仏法派[編集]

官立東京法学校の後身たる帝国大学法科大学仏法科(後の東京帝国大学法学部仏法科)においても、若槻禮次郎安達峰一郎荒井賢太郎、入江良之、織田萬岡村司等の学生が、東京府下の代言人有志百余名と共に断行派に合流し、断行意見書を発表している[433]

英法派の動向[編集]

現在の中央大学

私学英法派[編集]

その当時英吉利法律学校――法窓夜話には東京法学院とありますが、あれはその前身と云ふ意味で書かれたものと思ふ――が延期派の本拠であり、それに対して明治法律学校が断行派の本拠であった。そして盛んに論争をした[434] — 仁井田益太郎

英吉利法律学校は明治22年1月機関雑誌『法理精華』を発行、以来関係者は一貫して延期論を唱えたが、政府当局(第1次山縣内閣)によって弾圧され、翌23年7月第38号をもって発行禁止とされた[435]

1889年(明治22年)10月、英吉利法律学校が東京法学院に改称し、英法の教授から日本法の教授に方向転換[436]

1891年(明治24年)4月、東京法学院が『法学新報』を発行[437]。後に穂積八束の有名な論文が掲載されたのはこの雑誌である[438]

一方、東京専門学校及び専修学校は、法律学校としては当時あまり振るわなかったから、法典論争では目立った動きは無いと言われる(仁井田、星野)[439]が、論者によっては、東京専門学校も延期派の本拠の一つとして位置付けられる[440]

英法派の断行論者としては、島田三郎がいる[441]

官学英法派[編集]

帝国大学法科大学においては、英法科(官立東京法学校の後身、東京大学法学部英法科の前身)の学生が延期派に属したと推測されている(具体的活動は確認されていない)[442]

延期派の本陣はあくまで私学の東京法学院(英吉利法律学校)であり、穏健派の官学は法学士会の意見書を除いて影が薄かったと考えられている[443]

英法派・延期派の具体的主張[編集]

穂積陳重(英法派・延期派)

増島六一郎は、1889年(明治22年)、英吉利法律学校の『法理精華』に「法学士会の意見を論ず」という講演内容を発表。法律学の普及発展、人材育成こそ急務であると主張し、民法典編纂公布の時期尚早を論じた[444]

山田喜之助は、同7月、『法理精華』に「立法の基礎を論ず」とする講演内容を発表。西洋諸国の多様性を指摘しつつ、歴史法学派の立場から、立法の基礎は外国法の模倣ではなく、当該国の人情慣習に依るべきものとする[445]

江木衷は、同10月から12月にかけて、『法理精華』に「民法草案財産編批評[446]」を発表、物権と人権(債権)の定義・区別が不明瞭であること、総則にも古風な定義が多く、財産編修正は必至であると批判[447]

財産法案中の「無形人」を改めて「法人」とすべきというように、江木の主張の内には結果的に旧民法公布案や現行民法が採用したものもあり、内容的には説得的なものを含む反面、その挑発的文体は論争の混迷を招いた[448]

草案第6条には、に有体なるあり無体なるありと云ひ、無体物中には物権は勿論、人権其の他有体物を包含すと謂ふことなれど、財産権を分って人権物権の二種と為しながら……其の言の葉の未だ乾かぬに、夫れは嘘ぢゃ、物権も人権も区別はないと云ひたるは、我輩に「スカ」若くは「ポカン」を食わせたるものか、冗談にも程がある……に化かされて蛞蝓赤飯と味ひ、団子と心得へたるの趣あり。

……然りと雖も……狐狸の妖術…には曰く因縁あることなり……少年の法学生徒をして、法律上所謂物なる語の意義を誤解せざらんが為に附註せるを見るべし。……通俗の意義と混同すべからずと……日本人民に教へ示すが為めと推察し奉るなり[449]

— 江木衷「民法草案財産編批評」

旧民法財産編1条

  • 1.財産は各人又は公私の法人の資産を組成する権利なり
  • 2.此権利に二種あり物権及び人権是なり

同6条

  • 1.物に有体なる有り無体なる有り
  • 3.無体物とは智能のみを以て理会するものを謂ふ即ち左の如し
    • 1.物権及び人権

1890年(明治23年)、旧民法公布後、江木は『法理精華』に「新法典概評」を発表、新民法が共和主義のフランス法典を日本に移植した点を批判[450]

ただし、これは共和主義そのものへの批判ではなく、フランス民法典をそのまま継受したならまだしも、ボアソナードの独自説に基づき中途半端な改変を加えた為に、かえって適用上の困難を生じていることを攻撃したものである(星野)[451]

全然仏国民法典を採用せば或は可なりしならんに、之に多少の変更を加へ却って紛擾を来すの種を播きたるは不幸中の不幸なり[452] — 江木衷「新法典概評」

前者と異なり、具体的な法律論には踏み込んでいない[453]

花井卓蔵は、1889年(明治22年)10月『法理精華』に「嗚呼民法証拠編[454]」を発表。主法(実体法)である民法の中に助法である手続法を置いているのは立法の主義を誤ったもので、民法と起草者を同じくする既存の刑法と治罪法(刑事訴訟法)における設計思想とも矛盾すると批判[455]

また花井には、1892年(明治25年)に発表した論文「法典と条約改正」があり、法典編纂と不平等条約改正は外交の一政略に過ぎず、法典が実施されれば必ず条約改正が成るわけではないと主張[456]

花井は大正の家族法改正事業でも一方の論陣を張っており、穂積八束の系譜に連なる保守派の典型と見る[457]か、足尾鉱毒事件大逆事件で弁護士として奮闘するなど、英法の影響を受けた人権擁護論者としての側面を強調する[458]か、は論者により評価が異なる。

穂積陳重は、1890年(明治23年)に『法典論』を刊行し、更に一橋大学講堂で「法典編纂論」なる講演を行い、ヨーロッパ各国の法典編纂の歴史、方法を網羅し、法典の拙速主義を批判、断行論者をして反省足らしめるに足るものがあったと言われ[459]、その法典論は後の現行民法典制定における理論的基盤となっている[460]

土方寧は、1891年(明治24年)7月の国家学会月次会演説にて、英法学者としての見地から、大部の法典を一度に編成するのではなく、必要に従って漸次単行法を出す方法が最良であると主張[461]

法典論と非法典論[編集]

英法派は旧民法(仏法系)のみならず、旧商法にも反対しており、一方仏法系の多くが属する旧民法の断行派は旧商法(独法系)についても断行派であった[462]

つまり、梅謙次郎が強調したように、仏法派と英法派、断行派と延期派の対立は、そもそも一国の統一的な法典を早急に制定すべきか、それともかつてサヴィニーが主張したように、必要に応じて単行法の制定のみにとどめて判例法・慣習法の発展によって暫時補いつつ、まずは学問の発展を待つべきかというという法典非法典論(法典編纂慎重論)の対立でもあり、日本における法典論争の当時激しく議論されていたものであった[463]

ただし、延期論者が最終的な法典制定までを否定したわけではなく、延期派中の多くの論者が、民法典論争決着後、法典の修正に向けて直ちに動き始めていたことも明らかにされている[464]

イギリス法派の主張が、イギリス法に在るから法典を主にしない慣習法論・判例主義であるといふわけでもないのですね。 — 平野義太郎
延期派は元来がフランス法派の法典を嫌ふのですから、法典を編纂する事に就ては少しも反対ではない。結局フランス法の臭ひのある法典が嫌ひなのです[465] — 仁井田益太郎

英法派に属しながらも、法学士会の意見書に正面から反対し、少しずつ単行法を出すよりも一度に法典を編纂すべきであり、草案に賛成すべきかは別問題と主張した論者として、鳩山和夫がいる[466](結論的には延期派[467])。

英米法学の理論状況[編集]

ジョン・オースティン
ヘンリー・メイン

1236年イングランド議会は、ヨーロッパ大陸に波及したローマ法の継受を拒否し、コモン・ローの伝統を固持することを決定、しかしローマ法及び大陸法の影響は間接的ながらも受け続けることになる[468]

フランス革命の影響も限定され、不動産法においては単独相続制(特権的相続制)が維持されていた[469]

ジェレミ・ベンサム(後述)は、1789年の主著『道徳及び立法の原理』を初めとして、法典編纂を理論化[470]、現行日本民法典起草者穂積陳重(英法派・延期派)にも大きな影響を与えた[471]が、21世紀に入ってなおイギリスは非法典国であり、統一民法典は存在しない。

近代英法学の二大潮流[編集]

法典論争時最も有力であったのが、オースティン分析法学と、ヘンリー・メインのイギリス歴史法学である[472]

オースティンはドイツ留学者であり、歴史法学のサヴィニーや自然法学のティボーとも交流してローマ法及びドイツ普通法学の影響を受けていた[473]が、結論としては古い自然法学説に対して、法典編纂論のベンサムと異なり現行法主義(法実証主義)を主張するものであり、フランス法を輸入せずとも日本には日本の慣習法があるという一種の国粋論と結びついたとの主張[474]がある(岩田新)。

明治民法の起草者たる穂積陳重(延期派)は、イギリスでオースティンの中にドイツ法学の影響を認め、これがドイツ転学の理由の一つとなったし、また、分析法学の法実証主義の考え方は、仏法派の富井政章にも一定の影響を与えていることが指摘されている[475]

もっとも、穂積陳重がより強い影響を受けたのが、オースティンに批判的なヘンリー・メインによるイギリス歴史法学である[476]

法は主権者の命令によって作られるものではなく、歴史的に生成する、というのがその基本的立場である[477]

このイギリス歴史法学は英国において全く独立に成立したものではなく、その歴史的な方法は、やはりドイツのサヴィニーに遡る。これも穂積がドイツに転学した理由の一つである[478]

このように、当時の日本の英法派には分析法派と歴史法派の両方が含まれており、何れも旧民法に反対したのである[479]

アメリカ法学の理論状況[編集]

当時のアメリカではイギリス法と異なる傾向を見せておらず、分析法学が有力であり、特に東大法学部の教授(担当:英法)であったアメリカ人弁護士ヘンリー・テイラー・テリーは、1878年(明治11年)、社会主義の観念すら浸透していない当時の日本の状況において、自然法は共産主義の根源ともいうべき危険思想であるとの言を残すなど、強烈な反自然法論者であった[480]

自然法とは、ヨーロッパ大陸諸国の法学者の関心を大いにひいてきた疑似的な法の一種であり、法の分野において少なからぬ混乱と不明確さをもたらし、また、これらの諸国の政治の分野においても、乱暴で馬鹿げた理論化、そして不幸なことにひとしく乱暴な行動をもたらした源泉である。

それは共産主義の主な根である。自然法は、アメリカの独立宣言の冒頭のきらびやかな一般論のうちに姿をあらわしているし、またあらゆる型のデマゴーグが好んで用いるアピールであるけれども、幸いなことには、それは、英米の法思想のなかで確固たる地位を占めたことはなかった[481]

— ヘンリ・T・テリー

このような強烈な反自然法思想に育てられた日本の英法派が、自然法を基礎とする仏法派に批判的になることは自然であった[482]

また、慶應義塾大学法律学科の礎を築いたアメリカ人法学者ジョン・H・ウィグモアも歴史法学的要素に加えて分析法学を重視しており、自然法に批判的であった[483]

英法派の男女平等論[編集]

英法派が当然に保守的であったわけではない。当時、男女平等論が主張されていたのは主にイギリス・アメリカにおいてであった[484]

宗教改革後においても、ルターが妻の姦淫による法定離婚を認め、カルヴァンが夫にも貞操義務を認めたに止まり、キリスト教社会は依然として夫優位の思想であったが、イギリスの清教徒たちは婚姻を罪とは見ず、人間の完成の為に必要な制度と考えた[485]

英米の男女平等論は明治初期の日本にも影響を与え、男女平等を徹底すべきとの論が主張され、一時一世を風靡していた[486]

特にスペンサーの論は植木枝盛にも影響を与えている[487]

これに対して、ベンサムは、不合理な男女不平等についてはこれを批判すると共に、一方で形式的に男女平等を徹底することはかえって弊害が大きいと批判し、親子や後見人被後見人の関係と同じく、一定の限度でのみ上下の関係を設ける方が合理的であると論じ(男女殊権論)、小野梓などの日本の英法派の学者に影響を与えていた[488](ベンサムは後に夫婦同権論に改説[489])。

独法派の動向[編集]

法典論争の時点では、1887年(明治20年)に設立された帝国大学法科大学独法科(東京大学法学部独法科の前身)の他、私立の獨逸学協会学校獨協大学の前身)があって平田東助などが独法の講義をしていたが、独法派の法律家は極めて少数であったので、法典論争においては独立一体の活動をしていない[490]

「独逸法学が我国に入ったのは日が浅かった為独逸法学派と云ふが如きものは特に存在しなかった[491]」とまで断ずるのは、現行民法典起草補助委員仁井田益太郎である(東大独法科卒)。

獨逸協会学校の勢力は零でした。それに大学の方も漸く明治二十三年独法科の卒業生を出した位ですから、学派の対立に於てはドイツ法派と云ふものは問題にならなかった[492]

……レースレルは商法を編纂したが、云ふ迄もなく私法に関する思想の根底は民法にあるので、其の思想は商法では喧伝されてゐない。

……ドイツに留学した人は司法省の法学校を出た人に沢山ある。田部芳と云ふ人はさうでありますけれども、民事訴訟法を主として研究した。それから冨谷鉎太郎氏等は主に商法をやって居られた。

— 仁井田益太郎
……みな民法ぢゃないのですね。 — 平野義太郎
前に述べた人々は民法に就てドイツ法の思想を鼓吹するとか云ふ方には努めても居らないし、又ドイツ法の思想が是等の人から伝はったと云ふ程ではないのです[493] — 仁井田益太郎

後年独法派に分類される法典調査会委員の内、横田国臣、本尾敬三郎、木下周一旧民法断行派であり、延期派としては、穂積八束岡野敬次郎がいる[494]

独法学者平田東助は、仏法系議員と共に商法典論争では断行派に属した[495]

1889年(明治22年)、穂積八束がドイツから帰国[496]

ロエスレルの意見書[編集]

1887年頃、伊藤博文に提出されたものとみられるロエスレルの意見書においては、旧民法が範とするフランス民法は個人主義・民主主義に傾き過ぎた為に、アナキズムに陥って社会が混乱したが、農村社会を基盤としたゲルマン法は親族関係を厚く保護するなど保守的性格を持ち、立憲君主制と親和的であるから、当時の日本により適合すると主張されていた[497]

しかし、ドイツ民法典(1900年施行)のゲルマン法からの離脱は、親族法において最も顕著である[498]

ドイツ法学の理論状況[編集]

神聖ローマ帝国の分裂[編集]

1648年ヴェストファーレン条約以後、ドイツでの法典編纂事業は、独立の国家主権を認められた各領邦を中心に行われるようになる(領邦絶対主義)[499]

1692年ハレ大学のシュトリックにより『パンデクテンの現代的慣用』が著され、ローマ法の条文を絶対視するのではなく抽象化して、「現代」に相応しく適用するパンデクテン法学の手法が確立[500]

1751年にはバイエルン王国で刑法典、1753年に訴訟法典、1756年には民法典が成立[501]

プロイセン一般ラント法[編集]

旧民法は説明的な法文の啓蒙教科書法典であり、その為に批判を受けたが[502]1794年の巨大法典プロイセン一般ラント法(プロイセン国法)は、後期自然法の影響を受けた啓蒙教科書法典の最たるものであった[503]

例えば、「従物は主物の処分に従う」(日本民法87条2項)ことについて、現行日本民法は、「従物」とは「物の所有者が、その物の常用に供するため、自己の所有に属する他の物をこれに付属せしめたときは、その付属させた物」であると抽象的に示すのみであるのに対し(1項)、

プロイセン法は何が「従物」かにつきほぼ70条にわたり例示し、

プロイセン一般ラント法第1部第2章58条

  • 通常の鶏、ガチョウ、鴨、鳩および七面鳥は、農地の従物に組み入れられる。

という如きものであるが、それ以外の有益な鳥類は「従物」に含まれないのかという疑問を直ちに生じることは明らかである[504]

その他にも、母親には授乳の義務があることを法文でわざわざ明記するといったような、滑稽と言える程カズイスティック(個別具体的)な規定を置いていた[505]

これは、君主が法の定立を独占するという絶対主義、及び啓蒙主義の観点から、特別法や学問による法典の補充を否定して、法典が判例・学説・教科書の役割の役割を全部担おうとしたものであるが、その結果条文が極度に肥大化し、一般人にも法律専門家にも使いにくいものとなって破綻し、根本的改修を余儀なくされたのである[506]

フランス民法典も同じく具体的説明の多い啓蒙教科書法典であるが[507]、文章そのものは簡潔明瞭な名文であった[508]。その長所を、旧民法は継承できなかったのである[509]

なお、プロイセン法典は、夫にも性的忠実義務を課し、その姦通が離婚原因となる事を認め、妻の行為能力も一般的に制限しない等、ナポレオン民法典のような極端な男尊女卑を採っていない[510]

ドイツ法典論争[編集]

ローマ法学者サヴィニー

1806年ナポレオン戦争によりベルリンが陥落して神聖ローマ帝国が名実ともに消滅、ドイツのフランス軍占領地域では、フランス法の適用を受ける[511]

ナポレオン体制崩壊後のドイツでは、どのような国家体制を確立させるか問題となる[512]

ここで、日本の民法典論争とも比較されるドイツの法典論争が起きる[513]

1814年、ハイデルベルグ大学教授のティボーが『ドイツ一般市民法の必要性』を著し、啓蒙期自然法学の立場に立ちつつ、「一帝国一法律」のスローガンを掲げて、速やかにドイツ統一法典を制定し、全国ばらばらの錯綜した法制度を廃止すべきことを主張した[514]

これに対し、同年ベルリン大学のサヴィニーは、法はあたかも言語の様に民衆の生活から生まれるもので、いきなり君主や学者が恣意的に制作して、これを民衆に押し付けるべきでないと批判[515]法学の充実こそ先決であるとして時期尚早論を唱えた(『立法と法学に対するわれわれの時代の使命について』)[516]

時と場所を越えた普遍的法を人間の理性によって発見できるという自然法学に対し、法はまず習俗及び民族の確信、次に法学によって生み出されるものとする法学上の立場を、サヴィニー自ら名付けて歴史法学という[517]

この論争の結果、統一法典編纂は見送られることとなったが、両者はローマ法を基本にドイツの統一法典を編纂すること自体は一致しており、ただサヴィニーが時期尚早論を唱えて拙速な法典編纂に反対したに過ぎず、方法論の違いに過ぎない[518]

しかし、ハノーヴァの大臣であったアウグスト・ヴィルヘルム・レーベルグのように、近代的な統一民法典編纂それ自体に反対した論者も存在したことが指摘されている[519]

ゲルマン法学の確立[編集]

この後、歴史法学の中から、ローマ法もまた外来の法であり、ドイツ固有法、特にゲルマン法を重視すべきという立場が出現する(ゲルマニステン[520]

元々は外来思想ながら土着化して独自の発展を遂げたものとして、ドイツのローマ法に対応するのが日本の儒学であり、一方ゲルマン法は国学に相当する[521]

穂積八束の宗教思想上の立場は、仏教等の外来思想に批判的な国学を起点としたものである[522](後述)。

1863年パンデクテン方式を採用し、後の日独民法典にも体裁・内容共に多大な影響を与えるザクセン(サキソン)民法典が成立[523]

ドイツ民法典の設計思想[編集]

ライン川流域において進展した産業革命の結果、市民階級の発言力が高まったことを背景に、ドイツ統一及び統一民法典編纂事業が実現[524]

1874年、ドイツ帝国民法編纂委員会が発足、「民法は成るべく原則、副則、変則等に止め、細目に渉らざるを以てその主義」とする基本方針が決定される[525]

当時既に法典による啓蒙は楽観的に過ぎることが認識されていたから、民法典自体はパンデクテン法学の成果でありながら、それを土台とするに止め、法学の発展を阻害しないよう、特定の学問的立場を表明する事を意識的に避けようとしたのである[526]

この概括主義は、ドイツ民法において必ずしも徹底されなかったが、社会の変遷に速やかに対応しうるものとして1890年(明治23年)の主著『法典論』で高く評価したのが日本民法典起草の法理学的指導者穂積陳重である[527]

1888年(日本では明治21年)1月、ロマニステンの代表的法学者ベルンハルト・ヴィントシャイトの主導により、ドイツ民法典第一草案が成立[528]

ところが、社会の転換期であるが故に、このドイツ民法草案(及びドイツ民法典)もまた、新し過ぎるという批判と、古過ぎるという批判とに挟撃されることになる[529]

ドイツ民法典論争[編集]

ゲルマン法学者ギールケ

1889年(日本では明治22年)、団体主義法理を基礎とするゲルマニステンのオットー・フォン・ギールケにより、第一草案があまりにローマ法的・個人主義的・古典的自由主義に過ぎ、農村由来の伝統的なゲルマン法を無視しており、またその文体が抽象的・学術的に過ぎ、民衆的でないとする激しい批判がなされる[530]

家長権所有権に対する個人主義のローマ法と団体主義のゲルマン法の基本的考え方の違いが根底にある[531]

1890年には、社会主義者アントン・メンガーにより、第一草案は近代社会主義を知らないローマ法を基礎にしており、形式的平等主義が無産階級に不利益をもたらすとの批判もなされる[532]

この大論争と時を同じくして日本でも法学士会の意見書に始まる法典論争が起きており、ドイツの議論が日本にも影響を与えたと推察される[533]

ローマ法的個人主義を弱肉強食の法と批判し、「個人」ではなく家族団体即ち家を「法人」として社会の基礎単位とせよというのが、日本の民法典論争における穂積八束らの主張でもあった[534]

ローマ法とゲルマン法の性質[編集]

共産主義経済学者カール・マルクス

ローマ法の家長権は奴隷制度を背景として、家族団体の構成員に対する生殺与奪の権をも有する絶対的なものであった[535]

家族員の稼ぎは原則として家長個人の所有に帰し、財産の帰属が明確で処分も容易である為、商工業及び都市生活に適合する[536]

これに対し、ドイツのゲルマン法における家長は家族員に対する重い責務を負い、家族団体の財産は家長個人ではなく家族員全員の総有になるのを基本とし(日本の入会権に類似)、農業共同生活に適する[537]

ゲルマン法の性質をどう解するかは大きな問題であり、外来のローマ法に対する民族法としての位置付けから、ナチスによって戦争体制に利用された側面はあるが[538]、ドイツ民法典が多くの点で排斥したゲルマン法は民衆法であり弱者の法であるとして高く評価し、近代民法典の基礎であるローマ法は君主の法であり、かつ近代資本主義の基礎となった弱肉強食の法であるとして批判するのは、共産主義カール・マルクスと平野義太郎である[539]

また、一般に、ゲルマン法はドイツ固有の法と考えられる[540]ことが多いが、フランスの語源となったフランク人はゲルマン民族の一種であり、フランス北部慣習法を介在して、伝統ゲルマン法はフランス民法典への部分的影響が顕著という側面がある[541]

日本古来の家長はローマ法型の絶対的権力者ではなく、ゲルマン法型であったとの主張(中田薫)があることは後述する。

旧民商法の完成[編集]

山縣有朋(長州閥・断行派)

1889年(明治22年)7月、民法草案ボアソナード担当部分が元老院で議定を終わり、天皇に上奏される[542]

同10月18日、条約改正案が井上案と大同小異だとの非難を受けていた外相大隈重信の暗殺未遂事件が起き[543]、政府内でも拙速な条約改正・法典編纂事業への反省が起こる[544]

25日、大隈の暗殺未遂事件を受け、黒田首相は条約改正の中止を決定し、総辞職[545]

1889年(明治22年)11月、大日本帝国憲法(明治憲法)公布[546]

プロシア(プロイセン)憲法を模範とする憲法制定による立憲主義の確立を、自由民権運動の敗北と見るか、勝利と見るかは争いがある[547]

同12月、第1次山縣内閣が成立。法相山田は留任。大隈に代わる外相は青木周蔵

1890年(明治23年)4月、法律第28号を以って財産法公布。署名者は明治天皇、山縣、西郷従道(海軍大臣)、山田、松方正義(大蔵大臣)、大山巌(陸軍大臣)、榎本武揚(文部大臣)、後藤象二郎(逓信大臣)、青木、岩村通俊(農商務大臣)[548]

家族法案は法律取調委員会で修正されて再調査案となり、更に整理の上、1890年(明治23年)4月に内閣に提出された[549]

山縣内閣はこれを元老院に付し、同年9月元老院は人事編550条の内200条余りを大量削除した上でこれを議定[550]

家族法部分は同年10月7日に公布され、先の公布諸編と併せて1893年(明治26年)1月1日施行の予定とされた[551]明治23年法律第28号、第98号)。

署名者は海軍大臣樺山資紀、文部大臣芳川顕正、農省務大臣陸奥宗光に代わった以外は財産法と同じ顔触れである[552]

後年、ボアソナードは、財産編公布から施行まで2年半もの期間を空けたのは長過ぎた、速やかに施行していれば法典論争は起きなかったであろうと述懐している[553]

一方、ロエスレルの旧商法草案は2年を経て脱稿し、その後取調委員の組織などに種々の変遷があったが、結局元老院の議決を経て、1890年(明治23年)3月に成立、翌1891年(明治24年)1月1日より施行されることとなっていた[554]

1890年(明治23年)10月、教育勅語が成立。江戸時代初期に有力化し、それ以前の儒教では孝経を除き必ずしも一致しなかった「忠」と「孝」が一体化する教説が確立[555]

商法典論争[編集]

旧民法が施行延期に至った経緯に絞るとしても、先ず、旧民法の施行延期と密接な関係があった旧商法の施行延期について述べる必要性が指摘される[556]

明治23年における商法延期戦は、言わば天下分け目の関ヶ原役であって、これに次いで当然起こるべくして起った25年の民法商法延期戦は、あたかも大阪陣の如きものであったのである。天下の大勢は関ヶ原の一戦に依って既に定まったものの、なお大阪の再挙はどうしても免れることが出来ない勢いだったのである。そしてこの大阪陣を経て始めて大勢一に帰したのである[557] — 穂積陳重『法窓夜話』97話「法典実施延期戦」

旧商法(独法系)について延期派・断行派だった者は概ね旧民法(仏法系)についても同様であったが、例外としては鳥尾小弥太(旧商法延期派、旧民法断行派)がいる[558]

旧商法の問題点[編集]

1890年(明治23年)に公布された商法施行期日は、民法に先立つ明治24年1月1日とされていた[559]

しかし、ドイツ人ロエスレル起草の旧商法は、日本の商慣習、従来の商業用語を無視し、法典全体としても統一を欠く等、様々な欠点を持っていた上、千余条に及ぶ大法典が公布後僅か8ヵ月で公布されることになった為、実業界、法学会に猛烈な反対運動が起こる[560]

また、旧商法は、民法に歩調を合わせて仏法系の編成を基本とし、比較法の産物[561]ではあったが、各国法の調査は十分でなく[562]、編別は仏法系であっても内容的には大半独法系であり、それが一因となって仏法系の旧民法との矛盾抵触が問題となったと言われている[563]

民法は仏人が仏国法に則りて、商法は独人が独国法に倣ひて綴りたるが故に、両法の規定相抵触し前后権衡を得ざるもの多く、又仮令抵触せざるも既に民法に規定せる事にして亦た商法に規定するもの甚だ多く相重複せるが為に無量の疑問を惹起し頗る之を実地に適用するに苦しむの虞れあり[564] — 梅謙次郎、明治24年

これらの問題点は、商法典論争が第一回帝国議会で延期派勝利に終わった後も引き続き問題となる[565]

商法なるものは七分は独逸の商法に依ったものであらうと思ひます、多分其理由から起ったことでありませうが、民法と矛盾して居る点がいくつもあります、……仮令ば時効と云ふもの・・・商法に於て権利消滅です。然るに民法に於ては……唯一の推定証拠である、其結は随分著しく違ふものであります[566] — 富井政章、第三回帝国議会貴族院演説

英仏両派の動向[編集]

英法派は商工会等の実業団体と連携を取りつつ、明治22年に英吉利法律学校を改称した東京法学院を本拠に延期運動を開始、一方仏法派は明治法律学校を本拠とし、商の普遍性世界性を強調して断行論の論陣を張った[567]

両派はあらゆる手段を尽くして多数派工作に及び、中には議員に対して脅迫がましい書状を送った者さえあった[568]

元老院の対応[編集]

1890年(明治23年)、法律取調委員の一員でもあった元老院議官村田保は、商法施行期日を民法と一致させ、明治26年1月1日まで延期する事を求める意見書を起草、賛成者53名の連署を集め、明治23年6月25日、元老院議長宛てに提出、岡内重俊議官(断行派[569])の反対もあったが、6月28日に議決され、首相山縣有朋に提出された[570]

同7月10日、山縣内閣は、法相山田の意見を十分考慮した上、元老院の意見書不採用を閣議決定、21日上奏、裁可を得ている[571]

8月、梅謙次郎が留学先のドイツから帰国、帝国大学法科大学教授兼和仏法律学校学監に就任[572]。伊藤博文にも重用される[573]

商法典論争の決着[編集]

宮城浩蔵(仏法派・断行派)
西郷従道(薩摩閥・断行派)

1890年(明治23年)11月、明治憲法施行。これに伴い、第1次山縣内閣の下で第一回帝国議会が開かれる。

凶作・米価高騰による恐慌が日本を覆う中で、衆議院は反政府派が多数を占める状況であった[574]

12月、衆議院において、永井松右衛門により、本来は、商法の内容的修正を必要と考えるが、施行期限が迫っていることから、さしあたり民法典施行日まで商法施行延期を求めるとの理由により、「商法及商法施行条例施行期限法律案」が提出され、15日の審議に付された[575]

延期派議員元田肇岡山兼吉らと、断行派・仏法派の井上正一宮城浩蔵末松三郎らの激論の末、189対67の大差でこれを可決[576]

貴族院では、20日に審議開始。傍聴した松岡康毅(前記『別調査民法草案』の共同起草者)によれば、議長伊藤博文は公然延期説をリードしたという[577]

延期派の加藤弘之穂積陳重の演説が功を奏したこともあり、104対62の大差で可決された[578]

明治23年4月法律第32号商法及同年8月法律第59号商法施行条例は明治26年1月1日より施行す[579] — 商法及商法施行条例施行期限法律案

同日、伊藤より裁可を奏請された山縣内閣では、翌23日に閣議を開き、司法大臣山田顕義、海軍大臣西郷従道の署名拒否に依る強硬な反対もあったが、裁可上奏することを決定[580]

25日には山田が辞任、急遽臨時に大木喬任が司法大臣に就任して稟議書に署名[581]

26日裁可され、「商法及商法施行条例施行期限法律案」(法律第108号)、関連法律についての施行延期法律(法律第109号)が成立[582]

商法典論争直後の政治状況[編集]

1891年(明治24年)1月、旧刑法の起草者ボアソナード自身による改正案を基に作成された「明治23年刑法改正案」が帝国議会に提出されるが、審議未了となった[583]

商法典の施行延期を受け、1891年(明治24年)2月10日、小畑美稲により、民情慣習に背き、難解不明瞭の旧商法・旧民法は一時延期に止まらず、その修正をも受けるべきであり、政府は委員に実業家を加えた修正員会を組織すべきとする「民法及商法を審査する為委員を構成する建議」が出され、同13日、貴族院において議決[584]

大日本帝国憲法第40条の規定「両議院は法律又は其の他の事件に付各々其の意見を政府に建議することを得」に基づき、山縣首相に提出された[585]

山縣内閣は、時間が無い、両法典に問題は無いとの理由で却下[586]

同意見書で実業家を委員に加えるべき事については、法典論争決着後の法典調査会の委員構成に影響を与えたとも考えられる[587]

産業界の動向[編集]

関税自主権の回復を強く要望していた経済界の有力者によって組織されていた大阪や神戸の商法会議所は断行論を唱え、一方東京商工会や京都・名古屋・大垣・長崎などの商法会議所はいずれも延期論を主張していた[588]

東京商工会の中心人物は渋沢栄一[589]

ところが、東京商工会に代わって設立された東京商業会議所は、1892年(明治25年)6月発布の民法商法施行条例修正案を発表し、従前の延期論から、商法を一部修正しての断行論に転向する[590]

旧商法の一部施行[編集]

そこで、このような経済界の動きを背景として、翌年7月の商法及商法施行条例中改正並に施行法律の施行によって、旧商法の一部、第1編第6章の商事会社及び共算商業組合、第12章手形及び小切手と第3編破産の部分が暫定的に施行されることになった[591]

こうして、間もなく、民法の施行と商法の全部施行が具体的日程に上ってくるのである[592]

民法典論争の激化[編集]

既成法典の施行延期戦は商法に付ては延期軍の勝利に帰したが、同法は民法施行期と同日まで延期されたのであるから、断行派が二年の後を俟(ま)ち、捲土重来して会稽の恥を雪がうとしたのは、尤も至極の事である。

又延期派に於ては、既に其第一戦に於て勝利を占めたことであるから、此勢に乗じて民法の施行をも延期し、悉く既成法典を廃して、新たに民法及び商法を編纂せんことを企てた。

故に其後は何と無く英仏両派の間に殺気立って、山雨来らんと欲して風楼に満つの観があった[593]

— 穂積陳重『法窓夜話』97話「法典実施延期戦」

民法出テゝ忠孝亡フ[編集]

穂積八束(独法派・延期派)
フュステル・ド・クーランジュ

民法出テゝ忠孝亡フ」のセンセーショナルな題の論文で世の耳目を集めたとされるのが、公法学者の穂積八束である[594](誤って「ぶ」と書かれることがあるが、原文は「フ」)。

この論文は、1891年(明治24年)8月25日の「法学新報」に掲載された。

比較的短い論文で、法文の具体的検討を加えたものではなく、個人本位の民法を批判したもので、一般的には復古的主張であると理解されている[595]

我国は祖先教の国なり家制の郷なり、権力と法とは家に生まれたり……氏族と云ひ国家と云ふも家制を推拡したるものに過ぎず。

……要するに我固有の国俗法度は耶蘇教以前の欧羅巴と酷相似たり。然るに我法制家は専ら標準を耶蘇教以後に発達したる欧州の法理に採り殆んど我の耶蘇教国にあらざることを忘れたるに似たるは怪しむべし[596]

— 穂積八束「民法出テゝ忠孝亡フ」

古代ギリシャ・ローマが祖先教及び家父長制度を基盤とする社会であり、それが祖先崇拝を偶像として排斥するキリスト教によって破壊されたとの八束の主張は、論文「耶蘇教以前ノ殴洲家制」で引用されるフランス人歴史学者フュステル・ド・クーランジュ古代都市』の説くところに基づく[597]

一連の論文で示される八束の主張の大綱を述べれば(我妻)、

  • 祖先教は日本の国家体制の基礎である
  • 個人ではなく、家を以って社会の基本単位とせよ
  • 家産を一括して長男子に承継させる家督相続を維持せよ
  • 女戸主は認めない
  • 戸主権は親権や夫権と併存させず、それらを吸収すべき[598]

しかし、ナポレオン民法典は夫の妻に対する強力な優越を基本とする家父長制を採っていたという理解を前提とし、八束が旧民法・仏民法は自由平等の法典だと理解し批判したと解すると、議論が嚙み合わないことになる(松本)[599]

従来、八束の主張は多数派工作の為の政治的プロパガンダに過ぎず[600]、学理的には全くの的外れ[601]であるとされ、不評であった。

もっとも、彼にはこれに先駆けて発表した論文「国家的民法」においては、家族法についての議論は一切無く、古典的自由主義の限界を指摘していることが注目される[602](後述)。

留学前は二大政党の交替に依る政党内閣制を当然視していた八束だったが、彼が留学していた1884年から89年までのドイツはビスマルク時代の末期に当たり、議会は特定階層の利益代弁者と化し、政府は超然主義に立って議会と対立しつつ、議会外の労働者層に対しては、社会政策と社会主義者法との飴と鞭政策を採っていた。そこで、八束は、国家の責務は、貧民を現実に食わせる事であり、議会の求める権利・自由等は虚名・画餅に過ぎないと考えるようになる[603]

そして、絶対的支配者が無ければ弱肉強食の争いに陥るという性悪説的立場に立ちつつ、ホッブズ流の国権及び家長権の絶対化を主張したのであった[604]

八束が理想とした日本社会が実際どこまで日本的であったかは疑問もあり、日本社会がタテ社会であり、ヨーロッパ社会がヨコ社会という観察は妥当であるにせよ、日本型タテ社会の君主が絶対的支配者ではなく、倫理道徳に拘束された調整者に過ぎなかったという歴史認識(中根千枝)からは、八束説は寧ろユダヤ・キリスト教的、西洋的に過ぎたとの批判の余地がある[605]

もっとも、彼の説く「忠孝」は儒学ではなく国学であり、国学の教義自体、キリスト教的一神教の影響が指摘されている(村岡典嗣)為、八束説が一見国粋主義的に見えてその実西洋的なのは当然だということになる(長尾龍一[606]

封建制の江戸時代ではなく、上古への回帰が理想とされていたようである[607]

教育界の動向[編集]

福沢諭吉(延期派)

教育界も民法典論争には関心を寄せ、大日本教育会は、「新法典と倫理」との関係について委員を集め調査報告させたが、二派の主張に分かれた(明法誌叢1巻7号、明治25年)[608]

能勢栄は、個々の条文には好意的姿勢も示す一方で、細目に渉る法律によって親族間の関係を規律することはかえって倫理の荒廃を招くから、大綱を掲げるに止めて、細部は道徳に委ねるべきとし、結論的には延期論を採る[609]

一方、元良優次郎は、旧民法はキリスト教の風俗の移植であるとか、個人主義に過ぎるとの延期派の主張を的外れなものとして非難する[610]

最終的に能勢派の見解に修正が加えられて同会の意見とされたが、大正・昭和の家族法論争において一方の主役を張ったのに比べると、その姿勢も影響力も弱いものであったと見られている[611]

また、慶應義塾の設立者福沢諭吉はボアソナード起草の旧刑法については高く評価しつつも[612]、民法商法については条約改正事業と切り離して慎重に制定すべきとして、延期論であった[613]

大審院の動向[編集]

児島惟謙(仏法派・断行派)

大審院長児島惟謙ほか大審院判事主流派29名は断行派として法典実施建議書を提出したが、西川鉄次郎は延期論に賛成して署名を拒否した[614]

第三回帝国議会における院内論争直前、児島や岸本辰雄、栗塚省吾、亀山貞義、高木豊三、磯部四郎ら法典断行派・仏法派の大審院判検事らが花札賭博をした醜聞「弄花事件」は、断行派の信用を失墜させた[615]

条約改正事業の状況[編集]

1892年(明治25年)、ジュネーブで開催された国際法学会に民法、商法、憲法、民事訴訟法、裁判所構成法の欧訳版が提出され、金子堅太郎により条約改正の条件としてこれらの法典が適切である旨説明される[616]

同学会は、翌年ハンブルグで開催された総会において日本における領事裁判権の撤廃を決議、これに法的拘束力は無いものの、山田による強引な法典編纂事業が一つの実を結ぶ事になった[617]

院外論戦最終局面[編集]

江木衷(英法派・延期派)

この頃法典論争はピークに達し、学問的な法論理の巧拙よりも、多数派を形成することに比重が置かれるようになる[618]

法典実施延期意見[編集]

1892年(明治25年)5月、『法学新報』の社説に「法典実施延期意見」が発表される[619]

延期派中の江木衷、高橋健三、穂積八束、松野貞一郎、土方寧、伊藤悌治、朝倉外茂鉄中橋徳五郎奥田義人岡村輝彦、山田喜之助の十一名が連名したもので、激烈な論調で七か条より成る長文の法典反対理由を挙げ、法典の大修正の為の実施延期を強調したものであり、延期派の最も代表的な論説である[620]

  • (一)新法典は倫常を壊乱す
  • (二)新法典は憲法上の命令権を減縮す
  • (三)新法典は予算の原理に違う
  • (四)新法典は国家思想を欠く
  • (五)新法典は社会の経済を攪乱す
  • (六)新法典は税法の根拠を変動す
  • (七)新法典は威力を以て学理を強行す

一は、主にその人事編がキリスト教的個人主義に過ぎるとするもの、

二は、旧民法が公法的規定を置くこと、

三は、第31条の動産公用徴収の規定が憲法の予算規定と矛盾するというもの、

四は、旧民法がルソーの天賦人権論に基づく共和主義法典であるというもの、

五は、ローマ法的自由主義が弱肉強食の経済社会を招くとするもの、

六は、所有権者ではなく用益権者を直接の納税者としたため、常に小作人が納税の負担を負うことになること、

七は、学問的な定義の多用が法典の錯雑を招くと共に、特定の学問上の立場を強制すること、である[621]

特に、平野・星野説を批判する遠山茂樹が問題の本質を突いたものとして高く評価[622]する(五)は以下の様に述べる。

欧州中世の封建制度破れて商工業の自由興り優勝劣敗の盛伏を呈するや器械製造の業大に起り、大工大売の跋扈至らざる所なきに反して小資本家は漸く其業を浸奪せられ、個人主義の法律に依りて自由を得るも同時に其食を奪はるるの惨域に陥れり。是に於て……中等以下の人民にして封建制度の復古を絶叫せしむるに至れり。

吾人は固より世の風潮に逆て封建政略を復活せしめ以て貧富知愚を均一せんと欲するものに非ずと雖も欧州今日の患難を鑑みて我国社会の情勢を抑圧観察するときは宜しく……策を講じ制法の際大に斟酌を加ふべきを知るなり。

我立法者の模範とせる羅馬法は古羅馬の小市府に於けるの法律なり。個人の外、団体組織の広く行はれざりし社会に適せざる法律なり。抑も我国の社会は大に之に反し、古来を以て建国の基本とせり。実に土地の耕作は衣食の原質なり。……市府の法を以て地方村落に適用せんとするは素より其当を得べからず[623]

— (五)新法典は社会の経済を攪乱す

この時期の法典論争は、商法典論争で施行期限をいったん旧民法と同日に延期された旧商法を、旧民法と共に修正の為更に延期させようという戦いでもあるので、同論文には旧商法についての批判も含まれている(商業帳簿、破産法等)[624]

主に江木の手に成ったと言われ、論理の是非はともかく、世論を延期派に傾けることに大の効果があったとも言われる(星野)[625]

江木は、当時内務大臣の秘書官の地位にありながら、反政府運動の急先鋒として活動したのであり[626]、「法典実施意見」の公表に当たっては、井上馨に充てて「此意見書に依り免職せらるるとも刑に処せられるるとも小生共之本望に有之」との強い決意を表明している[627](翌年、実際に失職した[628])。

なお、同じく延期派・東京法学院関係者でありながら、増島六一郎(初代院長)、菊池武夫(二代目院長)、及び穂積陳重は署名しておらず、同意見書が延期派・英法派の総意ではない事も指摘されている[629]

法典実施断行ノ意見[編集]

これに対して、岸本辰雄、熊野敏三、磯部四郎、本野一郎、宮城浩蔵、杉村虎一、城数馬など、法治協会の断行派が直ちに『法律雑誌』(第883号)に発表した「法典実施断行ノ意見」は、一層激烈であった[630]

  • (一)法典の実施を延期するは国家の秩序を紊乱するものなり
  • (二)法典の実施を延期するは倫理の壊乱を来たすものなり
  • (三)法典の実施を延期するは国家の主権を害し独立国の実を失はしむるものなり
  • (四)法典の実施を延期するは憲法の実施を害するものなり
  • (五)法典の実施を延期するは立法権を放棄し之を裁判官に委するものなり
  • (六)法典の実施を延期するは訴訟粉乱をして叢起せしむるものなり
  • (七)法典の実施を延期するは各人をして安心立命の途を失はしむるものなり
  • (八)法典の実施を延期するは国家の経済を攪乱するものなり

これは、内容的には国家社会の秩序維持のためには法典の完成の不可欠なことを強調し、或いは退廃の危機に瀕する人倫道義を救うには、道義維持者たる民法典を完備することが必要であると説く自然法学的法典実施論であるが、同時に延期論者を痴人狂人と罵る非理性的感情的なものであったと言われる(穂積陳重、星野)[631]

法治協会の意見書を支持する後世の論者としては、青山道夫牧野英一がいる[632]

当時我輩も、法理上から民法の重なる欠点を簡単に論じたものを延期派の事務所に送って、意見書中の一節とせられんことを請うたが、事務所から「至極尤もではあるが、この際利目が薄いから御気の毒ながら」と言うて戻して来た。なるほど前に挙げた意見書でも分るような激烈な論争駁撃の場合に、法典の法理上の欠点を指摘するなどは、白刃既に交わるの時において孫呉を講ずるようなもので、我ながら迂闊千万であったと思う。

要は議員を動かして来るべき議会の論戦において多数を得ることであった。その目的のために大なる利目のあったのは、延期派の穂積八束氏が「法学新報」第5号に掲げた「民法出デテ忠孝亡ブ」と題した論文であったが、聞けばこの題目は江木衷博士の意匠に出たものであるとのことである。双方から出た仰山な脅し文句は沢山あったが、右の如く覚えやすくて口調の良い警句は、群集心理を支配するに偉大なる効力があるものである。

— 穂積陳重『法窓夜話』97話

なお同時期に、和仏法律学校校友会から「法典実施意見」(『法律雑誌』884・885号)が出ているが、延期論に具体的根拠を挙げて逐一反論したものである[633]

ボアソナードの断行論[編集]

ボアソナードもまた旧民法公布案(特に相続法)の内容には不満であり、完全に満足していたわけではない[634]

それでもなお、延期派の「法典実施延期意見」に対しては、当時箱根にいたボアソナードは、「日本新法典、法律家の意見書及び帝国議会における異見に対する答弁」なる長文の答弁書を発表し[635]、旧民法延期派が旧民法の特にその家族法(日本人起草)を攻撃して「倫常ヲ壊乱ス」云々といった非難に対しては、

民法は忠実に日本古来の家族制度、相続権に関する長子の優越権等を尊重し、只例外として之に些少の変更を加へたるに過ぎないのである[636] — ボアソナード

と述べて、延期派の批判が的外れであると反駁している[637]

また一方で、財産法については、時代・場所の如何にかかわらず普遍的に妥当すべき法理(自然法)のある事を論じた[638]

その他、ボアソナードが、旧民法の註釈に着手した本野一郎、城数馬、森順正らに送った書簡が、明治23年6月5日『交詢雑誌』第368・369号に掲載されている[639]

特に日本が外国人に対する法権及び裁判権に関して其独立を全ふせんと力むる時に当り明確適理、就中公正の法律を携へて条約改正の場に臨むは日本の為め実に必要なるに非ずや。此れに察せず漫然期日を立てず法典編纂の延期を望むは是れ恰も国家が永久に恥辱の境遇……を希ふものと異ならざるべし……故に真正なる愛国の士は斯の如き非難を排斥するを力めずして可ならんや[640] — ボアソナード

条約改正事業における法典編纂の重要性を述べたもので、断行派、特に政府当事者の意見と相通じるものがあり、断行派の雄梅謙次郎の最も強調する点である[641]

梅謙次郎の断行論[編集]

梅謙次郎(仏法派・断行派)

梅の断行論は、法典施行がひとたび延期されると成立がいたずらに長引くおそれがあるところから、不完全であっても施行し、欠点は後から修正すればよいという拙速論であり、梅が旧民法の内容それ自体についての"賛成派"だったとするのは事実誤認である[642]

私は欧羅巴に居る時から我邦の法典の草案を見、又発布になってから後は其明文を見て随分不完全の法典であると云ふことは云ひましたが、……不完全の所は跡から直すことが出来る。種のないことは出来ぬから何でも種を一つ拵へて置かないといけないと云ふことを中したのである[643] — 梅謙次郎「法典に関する述顧」
当時の法典が完全とは思はざりしも、当時法律家中に大に学派分れ、英独仏の各派に加へて、又守旧派などもあり、もし一度之を延期すれば、更に法典の施行を見るは難からんかと思はれたり。しかるに当時の時勢は、吾人の宿望たる条約改正将に行はれんとし、而して法典之は行はれず。又内国にても、裁判を為すに当り成文は極少、極悪にして、且つ慣習も不明にて、旧民法と雖も、此状態に比すれば勝れり。即ち無きには勝ると考へて、速に実行せんことを主張せしなり[644] — 梅謙次郎、明治40年3月6日東京帝国大学民法講義

法典制定以前の単行法が実際に「極少、極悪にして、且つ慣習も不明」であったかは異論があり、膨大な単行法が民事法の全領域に存在していたことが指摘される[645]

法規の無い場合でも、1896年(明治8年)太政官布告第103号「裁判事務心得」に基づき、条理に従った裁判も、当時の人々の懸命な努力によって相応に機能していたから、決して無法状態の暗黒時代ではなかったとも言われる[646]

しかし、梅に依れば、その「条理」の解釈を巡って、仏法を学んだ者と、英法を学んだ者とで、判断を異にする場合があったという[647]

そこで、梅は、その不統一を耐えがたいものとし、一応の裁判の統一基準としての法典施行が早急に必要であり、それが国策たる条約改正にも資すると主張したのであった[648]

梅の八束らに対する反論を要約すれば(我妻)、

  • 長子相続は既に旧民法の確認するところである
  • 農業よりも商工業の保護育成が急務である
  • 家族団体を社会の基本単位とすることは時代遅れである
  • 親族関係を道徳のみに委ねず法で規律することは、法治主義の観点からも望ましい
  • 忠孝の道徳を支えてきた神道・仏教・儒教が衰退しつつある今、忠孝の道徳を守る為に民法が必要である
  • 家族制度を戸主と家の構成員の関係のみに一括せず、親子や夫婦間の関係をも尊重することは日本の人倫道徳に適する[649]

長子相続もまた変遷されるべきとの梅の見解は、民法典論争時ではなく、明治民法制定後に初めて明瞭になる[650]

民法典論争院内戦[編集]

松方正義(薩摩閥・断行派)

1891年(明治24年)5月、第1次松方内閣成立。

外務大臣は青木周蔵が留任。民法典論争院内論戦時は榎本武揚。法相は当初山田であったが、大津事件の責任を取り辞任し、民法典論争院内論戦時は田中不二麿[651]

大木喬任は、民法典論争院内論戦時は文部大臣の地位にあった[652]

政府・議会の状況[編集]

榎本武揚(断行派)
井上毅(延期派)

1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙において、松方内閣の内相品川弥二郎らによる暴力による選挙干渉が行われ、強硬派の薩摩閥及び長州閥の山縣系(断行派)と、柔軟路線の長州閥の伊藤系(延期派?)の対立が鮮明になる[653]

政府の財政基盤は脆弱であり、地租改正の重い負担によって農村は疲弊していた[654]

明治政府が重い負担を農民に課し、その負担の下で資本主義を発展させざるを得なかったのは、アメリカ公使ジョン・アーマー・ビンガムカナダ外交官ノーマンらの指摘によれば、不平等条約により正当に得られるべき関税収入を得られなかった為にその負担を農民に課さざるを得なかったことが主因である[655]

これに対比して、イギリスやフランスのような国々では外国貿易と初期の植民地利潤を通じて資本の蓄積が実現された。この理由から、先進国の農民階級は日本の農民が背負わなければならなかった負担をある程度免れたのである[656] — E・H・ノーマン『日本における近代国家の成立』(岩波版99頁)

例として、1891年(明治23年)における日本の内国税収入と海関税の比率は100:6.43であるのに対し、アメリカ合衆国は100:169.03[657]

歳入の内、地租の占める割合は、イギリスの1.27%に対し、日本は58.07%にも及んでいた[658]

政府・民党共にこの問題は認識されており、帝国議会において、積極財政主義による救済をすべきか、緊縮財政主義によって民力休養・政費節減を図るべきかで激しく対立していた[659]

井上毅(政府非主流派)は、地租維持はやむを得ないまでも、農村の安定化を図って市場経済に対応させるべきであり、そのためには戸主の権限を強化して家制度を確立し、農家の解体を防ぐことが合理的であるとの構想に至り、政府の方針に反して旧民法延期論に回った[660]

また、伊藤博文はナポレオン法典自体は高く評価していたが、旧民商法の出来に不満を示しており[661]、商法のみならず、民法についても延期論であったと推測される[662]

議会の多数を占める民党側でも、農村保護・家族経営の安定化の観点自体は一致していたことから、旧民法は弱者保護の観点が(特に財産法において)不十分であるとして延期論を支持する勢力が出現した[663]

自由党板垣退助は断行派であったが、党員内にも延期論者が少なくないことから、党として断行論を採ることには否定的であった(断行派による多数派工作に応じず)[664]

貴族院[編集]

民法典論争最大の山場となったのは、第三回帝国議会貴族院であった[665]

1892年(明治25年)5月26日、貴族院において、「民法商法施行延期法律案」を提出した村田保は、延期論を要約して次のように述べた[666]

  • (一)倫常を紊(みだ)ること(財取36条担216217条人26・27条[667]
  • (二)慣習に悖(もと)ること
  • (三)法律の体裁を失すること
  • (四)法理の貫徹せざること
  • (五)他の法律と矛盾すること

その提案理由が広い範囲にわたり説明された[668]

時事新報』(福沢諭吉創刊)の報道によれば、政府は、同案が成立すると条約改正事業に容易ならない影響を及ぼすであろう事を大いに憂慮し、高島鞆之助陸軍大臣を除き松方内閣閣僚は皆出席[669]

もっとも、陸羯南の『日本』によれば、政府松方内閣は選挙干渉に失敗して苦境にあったことから、法典問題を重要問題として扱う余裕が無く、田中・榎本・大木の三大臣を除き断行論に熱心でなかったともされる[670]

初日の段階では、その三大臣の反対演説があって、延期論がやや色を失った感もあったが、翌27日には延期派が盛り返す様子を見せた(時事新報)[671]

天賦人権論論争[編集]

加藤弘之(延期派)
鳥尾小弥太(旧商法延期派・旧民法断行派)
谷干城(延期派)

貴族院論争初日、冒頭の村田演説に続き、法相田中、元法律取調委員渡辺元が断行論を述べた後、帝国大学総長加藤弘之が演説[672]

帝大総長の演説とあって、議場はあたかも学校のような雰囲気に包まれた(國民新聞[673]

加藤は、自身は専門の法学者ではなく素人考えである事を断りつつも、民法の精神は自然法を大本とし、そこから天賦の人権が人民に付与されると理由書に書いてあると指摘、一方憲法(明治憲法)の精神は、公権・私権の区別無く全て国家の主権から生じるものと解されるから、民法は憲法と矛盾抵触している、と主張[674]

更に、天賦人権説がヨーロッパでも既に時代遅れの説として衰退しつつあることを指摘した[675]

これに対して、貴族院の保守党中正派を率いる退役陸軍中将、鳥尾小弥太(旧民法断行派)が演説、加藤の国家主義を批判して、人民相互の権利(私権)は人が人たるの所以から生じるものであると主張[676]

鳥尾に続いて大木文相が登場、村田の延期論に各論的に反駁しつつ、更に加藤にも反論

又先刻加藤君が申されましたことも……鳥尾君が其方は余程弁駁になりましたから本官は申上げませぬが、国家の主権のために人民の権利を動かし得らるると云ふことがござりませうか。独逸にさう云うことがござりませうか。……人民は各個各個の権利で決して財産身体の保護上に於きましては則ち天然の道理に拠たざるを得ない、それから人民天然の道理を規定したもので、是が普通の道理であります。それ故に外国に対しても交通が出来るのでござります。

然るを国家のために権利を折らるると云ふやうなことであれば、人民が国家の奴隷と云ふものであるが、なんぼ独逸でも日本でも左様なものではない。それ故に裁判が左様なことになれば畠山重忠板倉周防守か・・・それは加藤君一人で悉くあると云ふ訳には行かない。併ながら独逸国に左様なことがあると云ふやうな御感触では甚だ驚入ったことであります[677]

— 大木喬任、第三回帝国議会貴族院演説

普段は口下手な大木が、この日に限っては堂々の演説をしたことは驚きをもって報じられ、各新聞社においても好意的に報道された[678]

翌27日、谷干城(延期派)は、大木喬任の天賦人権論は儒教を介在した日本独自のもので、ヨーロッパのそれと異なることを指摘している[679]

天賦人権云々の議論がありましたが、是れはどうも大木さんが間違っちょらうと思ふ。……大木君も鳥尾君も……漢学主義の人であって、中庸にある……天命に則り性法率ふと云ふ、斯う云ふ所から来た人道論で決して西洋で謂う人権論から来たのでは無かろうと思ひます。是れは其方の・・・人間の本分と云ふ所であろうと思ふ。是は人権論の誤解ぢゃらうと思ふ。それで大木さんの御論は一向何であったか我々にはわからなかった[680] — 谷干城、第三回帝国議会貴族院演説

翌28日、谷から財政支援を受ける陸羯南の『日本』は、「天賦人権、大木伯」と題する社説で、私法についてのみ天賦人権説を主張する大木のご都合主義みならず、加藤の極端をも批判している[681]

国家の主権に歴史上の重きを置くは独逸主義に於て之あるも、国家ありて而後に権利ありと云ふ説は、恐らくは独逸法理の是認する所にあらじ。

一切の法律(原注、憲法も)宇宙自然の道理に近か寄らしむるは仏国主義に於て之れあるも夫の大木伯の説の如く、独り私法のみ天然の道理に拠りて規定すとは、是れ又た仏国の法理にあらじ[682]

— 陸羯南「天賦人権、大木伯」『日本』(1892年5月28日)

院内論争においては、大木の議論はフランス法理の誤解として批判されるにとどまったが、教育界の一部においては、文部大臣が危険思想を唱道したものと受け止められ、激しい反発を受けた[683]

富井政章の延期法案賛成演説[編集]

富井政章(仏法派・延期派)

最終的に、感情論に奔らず純理的観点から延期論を述べた、貴族院における富井の貴族院演説が延期派勝利に大きく寄与したとも伝えられる[684]

民法に最も反対であります……学問の進歩……を参考にして居ることが実に少い、殊に独逸民法草案であるとか白耳義民法草案とか云ふものは全く参考していない……是は寧ろ前置であります。

……新民法は条文が頗る繁多にして分り悪い、其中立法者の言ふべからざることをいって居る……此民法は殆ど起草者の著書と云ふ如き体裁を以て居ると思ふ、臣民の権利義務を定むると云ふ法文の体裁は全く失って居ると思ひます。其定義とか区別と言ふものが間違って居らねばまだしもであるが、実に非難すべきものが多い……例へば此財産篇の第一條……今日に於ては殆ど間違ひであると云ふことに学説の定まったことであります、……決して一つの物の上に行はるる権利一つの人に対向する権利と云ふものでは決してない、……それから権利を物権人権の二つに区別し置きながら債権の所有権と云ふものを認めて居る、是は財産篇取得篇の第二十四條及び第六十八條を見れば一目瞭然であります……財産篇の二百九十六條に契約と云ふものは物権を移す合意ではない、人権と義務を造る合意を言ふと云ひながら、取得篇の第二十四條に至って売買の定義を下すに当って物権の所有権を移転する契約と云ふ様なことを云って居る、契約と云う如き言葉さへも其意義が一定して居らぬ

……自然義務と云ふものを義務の定義の中に掲げて法律に鄭重に規定したと云ふことは古今何れの国の法律に於ても其例を見ざる所であります、昨日自然法の義務の説明を承りました、併し私が今日まで解する所の自然法の思想とは全く違って居ると思ひます、自然義務とは全く違って居る、……形式主義の制度が行れて……外形の手続を欠いた時は何程意思が明瞭であっても其為したる所の契約は無効である是が羅馬法の主義であった。然るにそれでは不公平であると云ふことからして、此自然義務と云ふものを認めてさうして実際の弊害を矯めたのである、今日の法律に於ては全く謂れのないものである、今日の法律に所謂自然義務と称するものをば一種法律上の義務として規定したならばまだそれで論理は立つが自然義務として規定したと云ふことは全く了解することの出来ぬことである。

……一般学校の教師が生徒に向かって云ふことを立法者が一つ一つ規定して居る、是は実際の弊害のない様なことである……と云ふ人が定めてあらうと思ひます、……けれども……若し此の如き講義録体の錯雑とした法典を実施すれば世間何処の学校も皆此法典の弁別、順序、定義等に括られて仕まって此法律を解くと云ふことになると思ひます……沿革的の法学……又我国に此学問のために最も必要である所の比較的研究と云ふことも衰へてしまう、以上申しましたことは誠に迂遠の議論の様でありますけれども、私が始から此民法に反対した所の最重大の理由であります、……此点が直らぬ限はどこまでも私は反対である

……それから人事篇……は最も攻撃を受くる部分であります、元来此人事のことと云ふものは律令を以て細かに規定すべき性質のものではないと思ふ、特に我国の如き昔の家族制度が段々と変って来る時代であります……然るに此画一の制度を設けて親族の人事の関係を定めてしまうと云ふことは甚だ危険なことであらうと思ひます、……今日斯く迄攻撃の烈しい法典をばどうしても実施しやうと云ふ必要は何くにあるんでありませうか。

昨日から出ました、人民を試験の道具にすると云ふが如きことをせずして、三年や四年後れても……十分の修正を加へらるるが当然のことであらうと思ひます、

それから条約改正と云ふことであります、昨日外務大臣の演説を承はりました、併し……第一今より修正に著手すれば果して条約改正の望がなくなるか、……第二は此法典さえあれば必ずしも条約改正は出来るか、……条約改正は出来るとした所で……如何にも法権回復と云ふことは私共の深く希望する所である、併し……少くとも内地雑居を許さなあるまじ、之に伴ひて商工業の競争と云ふものが起る、其条約改正をした経済上の結果はどうであらう……仮令に……日本に十分の利益があるとしても……法典を拵えると云ふことは決して条約改正のためでない、日本国の法典を作るんであります。

……私は此法典をば殊に民法をば十分に修正するには四年位は掛らうと思ひます、併し法典のある部分殊に会社法破産法と云ふ部分は速に修正を加へ一日も早く実行になることを望む者である、それ故に此四年とあっても修正の出来た部分は議会の協賛を経て直ちに実施すると云ふ……修正案が出れば私は直ちに賛成を表する積であります、

……民法商法を行ふことは……日本国の歴史の上に於て実に特筆大書すべき大変革であらうと思ひます、それ故に此民法商法は十分の修正を加へられて……又議会も大多数を以て通過……後に実施することを切に希望するものであります[685]

— 富井政章

この富井演説は、後世の仏法派民法学者(杉山直治郎、池田真朗大村敦志)からも、相応の説得力を持つものとして高く評価されている[686]

貴族院論戦の決着[編集]

論争が進むにつれて、延期派の中心村田保は院外断行派から激しく敵視され、襲撃に備えて警官の警護を要した程であった[687]

普段は閑散としている傍聴席は700人を超え、議場は騒然とし、議長蜂須賀茂韶非常鈴を鳴らして事態の収集に努めなければならず、貴族院未曾有の事態であった[688]

貴族院第二読会において、延期派の発議により、原案に「但し修正を終りたるものは本文期限内と雖も之を断行することを得」とする但書を加えた上で、123対61の賛成多数で貴族院を通過[689]

衆議院[編集]

衆議院(議長星亨)では、民党や吏党の中心人物河野広中(自由党)、島田三郎(改進党)、渡辺洪基(吏党、慶応義塾出身)、曾禰荒助(吏党)らが何れも断行論者であったことから、断行派は必勝を期していたが、結果はまたも延期派の勝利であった[690]

読売新聞』は「法典論は党派問題にあらず、条理の勝敗なり」と報じ(30日)、『国民新聞』も同じく単純な党派問題でない事を指摘している(28日)[691]

第二読会では、妥協案として断行派から家族法部分のみを施行停止とし、財産法については断行するという一部断行論が主張されたが、結局原案通りの全編延期が152対107の賛成多数で可決した[692]

貴族院に比べ議論が低調であった[693]か否[694]かは評価が分かれる。

衆議院議員延期派内訳[編集]

  • 自由党:総数94名、延期派39名(41%)
  • 改進党:総数38名、延期派14名(37%)
  • 独立倶楽部:総数31名、延期派16名(52%)
  • 中央交渉部:総数95名、延期派51名(54%)
  • 無所属:総数42名、延期派25名(60%)[695]

自由党の延期派議員としては、山田武甫、岡田孤鹿

改進党の延期派議員としては、箕浦勝人尾崎行雄鳩山和夫高田早苗が挙げられる(但し高田は玄洋社員に襲撃され負傷し、採決には未参加)[696]

院内論戦の決着[編集]

明治23年3月法律第28号民法財産篇、財産取得篇、債権担保篇、証拠篇、同年3月法律第32号商法、8月法律第59号商法施行条例、同年10月法律第97号法例、及び第98号民法財産取得篇、人事篇はその修正を行ふため明治29年12月31日まで其施行を延期す

但し修正を終りたるものは本分期限内と雖も之を施行することを得[697]

— 民法商法施行延期法成案

あくまで期限付き延期である為、期間内に修正案が出来ない場合、旧民商法がそのまま適用されることになる(村田)。

一般的には、院内論争における延期派の勝利を以て、民法典論争の決着とされる[698]

民法典論争最終戦[編集]

田中不二麿(断行派)
西園寺公望(仏法派・断行派)

ところが、延期派が議会で勝利した後も、なお政府松方内閣は上奏して修正の為の延期を乞うか、修正するとしても家族法部分のみ修正するか決めかねており、ボアソナード、田中不二麿の主張により、延期法案を握りつぶして旧民法全部を断行することさえ検討された[699]

1892年(明治25年)8月8日、第2次伊藤内閣成立[700]。法相は山縣有朋。

同年10月、ようやく首相伊藤博文は西園寺公望(断行派)を委員長とする「法典施行取調委員会」を設置、断行派・延期派両方に配慮して、断行派の横田國臣・岸本辰雄・長谷川喬・熊野敏三・梅謙次郎らと、延期派の木下廣次・富井政章・松野貞一郎・穂積八束・小畑美稲・村田保ら両派同数の委員をして、両院通過の延期法律案上奏可否につき討議させた[701]

伊藤との関係が悪化しており[702]、延期派中の過激派とみなされた高橋健三は委員から排除された[703]

ここでは、主に延期派の富井政章と断行派の梅謙次郎との間で激論が戦わされた[704]

  • (一)旧民法が模範とするフランス民法典が古過ぎる
    • フランス民法典施行後の判例・学説の進歩をも取り込んでおりさほど古くない
  • (二)最新のドイツ、ベルギー民法草案が参考されていない
    • ドイツ民法草案公布後1年しか経っていないのでやむをえない
  • (三)法律の進歩を妨げる恐れあり
    • 一概には言えない
  • (六)自然法説は前世紀の遺物である
    • 反自然法説は定説ではない
  • (十五)法典さえあれば条約改正が必ず成るわけではない
    • 法典が無ければ条約改正は必ず成らない
  • (十六)安易な条約改正は望ましくない(現行条約励行論)
    • 条約改正は国家の悲願である
  • (十七)条約改正の為でなく国内の需要に応じて実施すべき
    • 条約改正も内地の需要によるものである
  • (十八)延期法案は修正事業を誰に委ねるか明言しておらず無責任とは言えない
    • 政府に修正事業を丸投げしており無責任である

結局、上奏御裁可を乞うべき旨を政府は決断、同年11月24日には天皇の裁可があって、法律案はここで初めて正式に法律として確定、民法は明治29年12月31日まで全編修正の為の施行延期に決定し、四年に及んだ法典論争に終止符が打たれた[705]

もっとも、旧民法は第9回・12回帝国議会で正式に廃止される迄の間、裁判所において事実上の法源として活用され、かつ国家試験の主要科目の対象でもあった[706]

延期派の勝因[編集]

穂積八束論文のプロパガンダが多数派形成に有力であったことを強調するのが通説的である[707]が、

  • 江木ら連名の論文が世論を大きく動かしたことに加え、貴族院における三博士(富井・加藤・木下)の純理的議論が延期法案通過の「大きな原動力」となったことは「争はれない事実」だとするもの(星野)[708]
  • 上記三博士中富井のみを挙げるもの(杉山、池田)[709]
  • 村田保の延期法案に多数の賛成があった時点で、貴族院での延期派勝利は決定的であったとするもの[710]
  • 仏法派が直接世論に訴える事に比重を置いたのに対し、英法派が朝野の有力者に対する多数派工作に重点を置いた戦略が功を奏したとするもの[711]
  • 旧民商法、特に旧民法人事編が日本の慣習に反する規定を多く含んでいた為とするもの(梅)[712]
  • 日本の後進性・封建性によるとするもの[713]
  • 旧民法は確かに不出来であり、尾崎三良にすら難解と感じられるようでは到底実際の施行に耐えなかったとするもの[714]
  • 鹿鳴館外交や拙速の条約改正事業に対する反発から生まれたナショナリズムという背景を強調するもの[715]
  • 伊藤博文の政治的影響力に依るとするもの[716]
  • 副次的理由として、大審院の花札賭博事件の影響を指摘するもの[717]

等も主張されている。

民法典論争の争点[編集]

延期派が旧民法に反対した理由は、以下の三点に帰することができる(梅)[718]

  • 倫理・慣習に反する条項がある事(内容面)
  • 学理的欠点がある事(形式面)
  • 法典編纂に多くの人を集めず、慎重さを欠いた事(手続面)

また、最も純粋な学問的立場からの延期説に立った富井は、旧民法の欠点につき、七項目を挙げている[719]

  • 民俗・慣習違反の規定が多い
  • フランス・イタリア民法を模範とするに止まり、最新の立法学説が参照されていない
  • 商法との重複・矛盾抵触
  • 包括的規定を置かず、条文が繁雑
  • 民法で規定すべきでない訴訟法的規定や公法的規定を多く含む
  • 定義、説明、引例など、有害無益の教科書的規定が多い
  • 法文全体が翻訳調で不明瞭

断行派の論者も、旧民法が立法技術的・法理的難点を有していたことは或る程度認めていたから、問題はそれが施行延期に値するかどうかであった[720]

家族法法典化の是非[編集]

  • 倫理慣習の変遷期であり、民法典で事細かに規定すべきではない(富井[721]、能勢栄[722]
    • 法典による慣習の統一が必要である(法治協会[723]、梅[724]
      • 人事編規定は錯雑・不統一に過ぎる(奥田[725]

家族法部分を民法典で規定せず、別個の法典に委ねる立法方式としては、モンテネグロ民法[726]の他、ソ連や中国などの社会主義民法の場合がある[727]

扶養の義務[編集]

  • 扶養は道徳に委ねるべきであり、法律で強制すべきでない(能勢)[728]
  • 再婚して他家に入った親子間においてなお扶養の義務を免れないのは親族間に紛争を招きかねず、不合理である(江木ほか[729]
    • 道徳上の扶養の義務が履行されない時、法律がこれを放置することはかえって人倫の退廃を招く(ボアソナード[730]、和仏法律学校校友会[731]
    • 離別離縁にかかわらず親子関係を保持することは、寧ろ日本の人倫人情に合致する(梅[732]、元良[733]
      • 親不孝の息子でも親に対し、不逞の弟は兄に対して訴訟によって養料を請求できるのは倫理の荒廃を招く(村田[734]

問題の本質は、親子兄弟が助け合うべきは当然としても、それを強制力を有する法律上の義務にすべきかであり、これに反対する説は、戦後においては法律上の家制度全廃論者によって主張されている(我妻)[735]

親属会議[編集]

  • 後見人の他に後見管理人、親属会議を定めなければならないのは、庶民には繁雑に過ぎる(村田)[736]
    • 親属会議の開催は大した負担ではない(大木)[737]

夫婦間の契約取消訴権[編集]

  • 夫婦間で売買契約をしたり、金銭貸借のときに代物で返済をした場合、民事上違法となり錯除の訴権がもう一方の配偶者に発生するが(財取35、36条)、配偶者が死亡時はその「相続人又は承継人に属す」るため(同36条)、親子間で訴訟が発生してしまう(村田)[738]
    • 妻の特有財産制度を実効化する為の制度であり、訴訟を要するのはやむを得ない(箕作[739]
      • 旧民法が夫婦間の売買契約を禁じた(取35条)のは、執行逃れの財産隠しのような脱法行為の予防の為であるが、贈与(取367条)との間に差異を設け、しかも当然無効とせず、いちいち裁判所への訴えを要する旧民法の規定は確かに不合理である(梅)[740]

倫理・慣習との調和[編集]

  • 旧民法はキリスト教的個人主義に過ぎる(穂積八束、江木ほか)[741]
    • キリスト教的個人主義ではなく、ローマ法の家族主義を基礎とするので的外れな批判である(和仏法律学校校友会[742]
    • 家族法部分は日本人の起草に成るもので、倫理・慣習を十分尊重しており、そのような極端なものではない(梅[743]、大木[744]、ボアソナード[745]、法治協会[746]、元良[747]
      • 旧民法は慣習風俗を相当に取り入れていることは確かだが、慣習の扱いに一定の基準が見られず、成文法と慣習法の調和が取れていない(陸羯南)[748]
民法の所謂家なる者は耶蘇教俗の家なり。数千年来吾人の認了せる一法人にあらずして夫婦同居せる一族の総称たるに過ぎざれば民法は飽迄個人を以て権利の主体とせり。

試に人事編の規定を見よ、父死亡するときは母をして当然後見人たるの権利を有せしめたり。故に一家の財産は悉く未亡人の意思を以て自由に之を処分することを得是れ家を重んじ家を以て一法人とする家制に適するものと謂ふべきか。華族に在ては其家憲、豪族旧家に在ても家法たるものありて厳然適任の後見人を選定し、専ら未亡人の左右すること能はざるもの比々少なからず[749]

— 江木衷ほか「法典実施延期意見」(一)新法典は倫常を壊乱す

『全国民事慣例類集』によると、寡婦が幼少の男子が成長する迄戸主を務めるのは全国で二例(陸中胆沢郡、丹後加佐郡)しか無く、親族中相応の人が親族会議で後見人に選任されるのが一般の慣習であった[750]

答。父死する時、別に後見人を後見人を選定するは、士以上の風俗に止り、中等以下においては、後見人を選むことなし。仮令、之れあるも、名義のみにして、其実は母あらば、母自ら、後見の実務をとるは、本邦の習慣なり[751] — 文学博士元良優次郎

延期派の能勢らもこの点については同様の見解を採り、母が子を教導するのが望ましいとする[752]

キリスト教の性質[編集]

全部又は一部の旧民法延期論の本質を、キリスト教排撃論に求める神学者[757]や民法学者[758]の見解もある。

なお、富井政章は無宗教であり、法思想に宗教的影響はみられない[759]。梅は非クリスチャン[760]

準正[編集]

  • 準正は婚姻に依らない私通を奨励するもので不当である(江木ほか[761]

準正は、契約的婚姻観を徹底した為に私通が氾濫し、社会倫理が荒廃した帝政ローマ[762]の政治的配慮に由来するものであり、後には後悔は過失を消滅させるというキリスト教思想に基づき、父母の婚姻により、内縁の子に限って嫡出子の地位の取得が認められたものである[763]

社会道徳維持の観点から、姦通・乱倫によって生まれた庶出子(私生児)の準正・認知を禁じるのがフランス民法典(フランス民法旧331・335条)を含むキリスト教以後のヨーロッパ法の伝統であったが、親の過失を子に帰する非人道的規定との批判が強かった[764]為、日本の旧民法(人103条)はその制限を廃しており、このことが過度の個人主義の現れとして批判された[765]

一方、明治初期迄の日本では、母の近縁者の男性の実子として入籍するのが一般的な慣習法であった為(脱法行為ではない)、法律上庶子はあっても私生児はほぼ存在せず、準正の制度も無かった[766]

延期派の能勢が旧民法の準正規定に批判的[767]であったか、否[768]かは評価が分かれる。

親権[編集]

  • 戸主権は親権や夫権と併存させず、それらを吸収すべき(穂積八束)[769]
    • 家族制度を戸主と家の構成員の関係のみに一括せず、親子や夫婦間の関係をも尊重することは日本の人倫道徳に適する(梅)[770]

戸主権と親権の併存を認めるのが旧民法及び明治民法の立場である[771]

  • 母が行使する場合でも父の権利を補充的に行使するものである以上、「親権」ではなく「父権」というべきである(江木ほか[772]
    • 親権は人倫に基づく父母共同の権利である(元良[773]

権」(仏:puissance paternelle)を採ったのはナポレオン民法典原始規定[774]、「親権」(独:Elterliche Gewalt、仏:autorite parentale)を採るのはドイツ民法典と日本民法典[775]、及びフランス民法1970年改正法の立場である[776]

フランス民法旧373条

  • 父は婚姻中独り此の権力を行使す[777]

嫡出推定[編集]

  • 婚姻して6ヶ月後に子が生まれると、どんなに疑わしくても実子としなければならないのは不当である(村田)[778]

フランス民法312条

  • 婚姻中懐胎せられたる子は、夫を父として、有するものとす
    • 然れども、夫は其の子の出生前第三百日より第百八十日に至る期間中、遠ざかり居りたる為、又は何等かの事故の効果に因り、妻と同棲することが物理的に不能なりしことを立証するときは、其の子を否認することを得[779]

旧民法人事編91条

  • 妻が婚姻中に懐胎したる子は夫の子と推定す
    • 婚姻成立の日より百八十日後又は婚姻の解消より三百日以内に生まれたる子は婚姻中に懐胎したるものと推定す

現行民法772条(旧820条

  • 妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する
    • 婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する

財産法の基本的性格[編集]

  • 法典は古典的自由主義に立脚しており、弱肉強食の競争社会を招く(江木ほか、穂積八束)[780]
    • 契約自由の原則の尊重は法典の長所であって、欠点ではない(ボアソナード)[781]
    • 法典が無ければかえって弱肉強食の無法社会を招く(和仏法律学校校友会)[782]

債権譲渡[編集]

  • 債権の自由な譲渡を許すときは、親友同士の金銭の貸し借りだったものが、高利貸しとの金銭消費貸借にすり替わってしまう(江木ほか)[783]
    • そのような事態を恐れるあまり、債権譲渡そのものを禁止するのは不合理である(和仏法律学校校友会)[784]
    • 高利貸しに債権譲渡するような親友は親友ではない。高利貸しに委任状を与えて代わりに請求させても同じことであり、従来の慣習に反しない(梅[785]

後世の学者からは、高利貸しによる取り立ては過酷な取り立てが予想されるので、親友に対する債務と同一視する断行派(梅)の反論は説得力が無いと批判されている(岡)[786]

非金銭的利益の保護[編集]

  • 金銭に見積もれない契約を無効とし(財333条)、金銭上の損害が発生しなければ法律上の保護が無いとしたのは正義に反する(江木ほか)[787]
    • 同条の意義が不明瞭なのは確かだが、不当に名誉・信用を傷つけた場合は財370条により対応されるので問題無い(梅[788]

物権法の不備[編集]

  • 地役権永小作権入会権・相隣関係などの重要問題が特別法や慣習に丸投げになっており、法典による裁判規範の統一という立法目的に合致しない(江木ほか)[789]
    • 入会権の不備は修正後の明治民法でも大差無いので、何の為の民法典論争だったのか不明である(磯部)[790]

用益権、使用権・住居権[編集]

  • 物を収益する権利を所有権の一部とするが、日本の慣習に無い上ヨーロッパでも廃れており不要(村田)[791]
    • 似た慣習はあると聞いている(箕作[792]

旧民法編纂過程では、用益権類似の慣習は日本において絶えて久しく、施行すれば弊害が多いとも報告されていた[793]

なお箕作自身が松岡と共に作成した前述の別調査民法草案では、用益権は人事編において必要という理由で維持されている[794]

  • 所有権者ではなく用益権者を直接の納税者としたため(財89条)、常に小作人が納税の負担を負うことになる(江木ほか)[795]
    • 同条は虚有者(所有者)と用益権者の私法上の関係を定めた標準に過ぎず、直ちに公法的意味を持つものではない(和仏法律学校校友会)[796]

賃借権の物権化[編集]

  • 賃借権を債権でなく物権としたことによって、所有者の許可無く又貸しが可能になる等賃借人の権利が強くなり過ぎ、所有者の権利が不当に害される(村田)[797]
    • 賃借権を今より強固にする方が宜しいというのでこうした(箕作)[798]

賃借権については、これを債権ではなく対世権たる物権とすると、借主の地位が強化されるが、抵当権が設定され繁雑である(所有権絶対原則の重大な例外となる)のと、フランス民法典の文理解釈上無理がある事から、フランスの通説は債権としている[799]

フランス本国でも、旧民法の賃借権規定については困惑を以って受け止められた[800]

箕作・松岡の「別調査案」では、用益権を更に分解した使用権・住居権は削除され、賃借権や永借権は人権(債権)になっている[801]

明治民法でも原案起草担当の梅によって賃借権は債権になっている[802]

先取特権[編集]

  • 抵当権や質権よりも先取特権の効力を高くしたのは、抵当権者・質権者の期待に反する(富井)[803]
    • 先取特権は自然法に適うが、人定法による確定を要する(ボアソナード)[804]

主物と従物の処分[編集]

  • 田畑を売る約束をすると鋤鍬牛馬、庭を売るなら石灯籠や水鉢も自動的に売られたことになるが、当事者の意思、慣習に合致しない(村田)[805]

法人[編集]

  • 会社のみを法人とし、各種組合を顧みないのは不当である(江木ほか)[806]
    • 本来人でないものを人とする以上(法人擬制説)、法律に依り限定的に運用すべきである(梅)[807]

穂積陳重も法人擬制説であったが、明治民法起草段階で法人本質論は議題に挙がっていない(仁井田)[808]

相続法の性質[編集]

  • 日本固有法の家督相続と仏法系の遺産相続の二本立てになっており、法理が一貫していない(村田)[809]
    • あくまで家督相続が主、財産相続は従なので、的外れな批判である(大木)[810]

相続法の体系[編集]

  • 家督相続を本体にしながら、それを売買契約等と同じ財産取得編に組み込んだのは不自然(木下)[811]
  • 相続法は人事法と財産取得法に跨って混淆させるべきではなく、家族法の中に一括して置かれるべき(穂積陳重)[812]
    • 法典の構造は些末な問題である(梅)[813]

旧民法の体系上相続法が財産取得編に組み込まれていることは、延期派の激しい批判を受けた[814]

相続編を読んで見ますると……家督相続が本体になって居ります、然れば既に本体となって居りますれば日本人の観念よりして是は親族法の一部分ではなくしてはならぬと云ふことは格別思を費さずして起って参りまする、然るに新法典に於きましては財産取得編の一となって居ります、他の売買交換金銭の以て引取りをしまする手段と一緒のものに数へて居りまするのは私何分是は受取れぬ訳で決して日本人の思想を以て相続を以て売買と同様の品位に置くと云ふことは万々なからうと存じまする[815] — 木下廣次、第三回帝国議会貴族院演説

相続の性質に関しては、純然たる権利の承継か、それとも地位人格の継承かという、ローマ・ゲルマン法両体系にまで遡ることのできる一大論点がある[816]

相続を遺産に対する単純な財産相続と解するのはゲルマン法であるのに対し、ローマ法は『法学提要』では体系上は財産取得方法として扱っているが、実際には祭祀等も継承の対象としている為、実は一貫しない[817]

旧民法はフランス民法典と同様、ローマ法の『法学提要』式編別を採り、相続をして体系上財産取得方法としたが、家督相続のような明らかに財産以外の継承を含むものを財産取得編に含んだことは理に適っておらず、ローマ法のパンデクテン方式によって、財産法から独立した一編に収めるべき法理論上の理由があった[818]

訴訟法との矛盾・抵触[編集]

  • 手続法たる民事訴訟法に委ねるべき規定が多い(花井[819]、土方[820]
  • 訴訟法に送るといいながら訴訟法に無い場合がたくさんある(富井)[821]
  • 厳格な拘束主義を採り、実際の慣行と著しく違う(富井)[822]
  • 公正証書の効力が強過ぎ、日本社会の実際に不適合(富井)[823]

商法との矛盾・抵触[編集]

  • 商法と民法の間で矛盾抵触が多数ある(時効など)(松野[824]、富井[825]

時効[編集]

  • 長期の占有の効果として他人に所有権を侵されることになるのは、憲法違反(大日本帝国憲法第27条)である(村田)[826]
    • 長期の占有を以って、適法な所有権取得を推定させる証拠としたに過ぎない(箕作)[827]
      • 当事者の意思によって時効が成立したりしなかったりすると、利害関係を持つ第三者が不足の損害を被りかねず取引安全が害されるから、万人を保護するために設けた公益上の制度が時効の制度趣旨であり、当事者間の「証拠」に位置付けるのは正しくない(富井)[828]

時効制度は明治5年布告第300号「不及裁判」に始まるもので、それ以前の日本には存在しなかった為に、現行民法典成立後も長く非難された[829]

憲法との矛盾・抵触[編集]

  • 「動産の公用徴収は毎回定むる特別法に依るに非ざれば之を行ふことを得ず」とする旧民法財産編31条1項は、租税は改正・廃止しない限り永久の税法に基づくとする大日本帝国憲法第62条に矛盾抵触する(江木ほか)[830]
    • 「動産の公用徴収」とは美術品、歴史上の文書等を公益の為に強いて譲り受けるものと解すべきであり、租税とは異なる(梅)[831]
  • 行政法で規定すべき性質の条文が多く、不当に憲法の命令権を減縮させる(江木ほか)[832]
  • 「特別法」「行政法」とあるのは(財3、33、35、232条)、憲法にいう「法律」のみを指すのではなく、規則を含むと解すべきである(梅)[833]

国家思想[編集]

  • フランス民法典はルソー流の共和思想を前提にした民法であり、立憲君主制の日本に適合しない(江木ほか)[834]
    • フランス民法典が行われた90年間中63年は帝政であり、共和制は27年間に過ぎない上、民法は私法の基本法であり、公法とは無関係である(ボアソナード)[835]

年表

  • 1789年、フランス革命
  • 1791-1792年、立憲王政
    • 1791年、フランス憲法、婚姻の世俗化を宣言
  • 1792-1804年、第一共和政
    • 1792年、離婚法成立
    • 1793年、フランス民法第一草案成立
    • 1799年、ナポレオンが権力を掌握
    • 1800年、ナポレオン法典編纂開始
    • 1804年3月、フランス民法典全編施行
    • 1804年5月、ナポレオン即位
  • 1804-1814年、第一帝政
  • 1814-1830年、復古王政
    • 1816年、フランス民法離婚法全廃
  • 1830-1848年、七月王政
  • 1848-1852年、第二共和政
  • 1852-1870年、第二帝政
    • 1867年、栗本鋤雲の渡仏
    • 1870年、江藤新平の民法編纂会議開始
  • 1870-1940年、第三共和政
    • 1872年、ブスケ来日
    • 1879年、ボアソナード旧民法起草開始
    • 1884・1886年、フランス民法典離婚法一部復活(協議離婚廃止は維持)[836]
    • 1889年、法典論争開始

実際には、婚姻の世俗化と離婚の絶対的禁止の緩和を除いて、共和思想のフランス民法典への影響力はさほど強くない[837]

フランス民法典の協議離婚制度も、王朝の開始を目論むナポレオンの個人的事情によって、養子縁組と共に創設されたものである[838]

この点の延期派の主張は、旧民法・仏民法典の実状とは無関係に、当時のフランスが偶々共和制国家であったことへのイデオロギー的反発でしかなかったとの印象を後世に与える事になった[839]

天賦人権、自然法[編集]

  • ヨーロッパでも批判の強い自然法及び天賦人権説を正面から立法化すべきではない(富井)[840]
    • 自然法思想は社会生活に最も適する(塩入太輔)[841]
基礎となって居る……自然法……天賦人権と云ふ考……は今日の学問の上から見れば全く歴史上……の遺物である、既に十八世紀の夢と消えた考である、例へば財産篇の第三十條を読むに所有権と云ふものは自然法に依りて我々が所有する権利であると云うことは明に分る、第三十條の第二項に所有権と云ふものは法律を以てするにあらざれば制限するを得ずとある……既に法律よりも前に我々の持って居る権利であると云ふようなことを云って居る、此三十條の第一項の草案を見まするに草案には正直に自然の権利なりと書いてある、夫故に第二項とよく調和して居る、所が第一項の自然の権利なりと云ふ字を削って仕まった、併し第二項に其精神は依然として残って居る、それから二百九十三條に義務の定義が掲てある義務の定義にも自然法の覊絆なりと自然法を認めて居る[842] — 富井政章、第三回帝国議会貴族院演説

教科書法典の是非[編集]

  • 法典中に無用の学問定義を多数置くのは、法典を錯雑とさせ、特定の学問的立場を法によって強制するもので弊害が大きい(江木ほか[843]、富井[844]
  • 例えば「財産」とは「権利」であると注釈する財産編第1条によると、何々権と名前が付いてないと財産的保護を受けられないことになる(村田)[845]
    • 定義、例示、区別を逐一示すのは諸外国の立法例にも珍しくない(ボアソナード)[846]
      • その定義が適切ならまだしも、契約のような基本概念すら意義が一定しない(富井)[847]

法典は同時に判例・学説・教科書を兼ねるべきか、冗長で説明的な法文はかえってかわりづらいのではないか、自然法的啓蒙法典プロイセン法以来のこの問題は、2010年代の民法・債権法改正事業においても再燃した[848]

法典の難解[編集]

  • 難解に過ぎ理解困難、公布期間も短すぎる(元田肇、商法典論争での主張[849]
    • 万人が分かる法典は不可能事であり、「痴人の夢」でしかない(高梨哲四郎、商法典論争での主張[850]
    • 分からなければ法律の専門家に聞けば良い(磯部)[851]
      • 裁判官といえどもわかるか疑問である(富井)[852]
モー一つ文字が六つかしいから分るやうにして呉れと云ふ御注文である。……どうして一般の人は療治をして居るかと云ふに各大切なる生命を御医者と云ふ専門家に任せて居るではござりませんか。……医者のことが分らぬものは医者に聞けば宜しい。財産が危うければ財産の危くならぬやうに、法律専門家に治療を頼むが宜い。自分で法律が分ったならば世の中に法律家は無い訳である[853] — 磯部四郎「新法制定の沿革を述ぶ」『法治協会雑誌 第三号』(明治24年9月15日発行)
元来此一般の人民が……裁判官と雖も能く此法典が分るでありませうか、私共は分らぬことが屡々あるのです、其時は原書と比べて原書に想像を及ぼしてアー、成程あのことを云ふ積であるのかと云ふことで漸く分ることが屡々ある、……同じことを云ふにも無効とか取消とか錯除とか……実に誤解を来し易いと私は思ひます[854] — 富井政章、第三回帝国議会貴族院演説

外国人起草の是非[編集]

ジェレミ・ベンサム

欧米の例を挙げて、法典の外国人起草の危険性を指摘したのは延期派の穂積陳重であった(民商法共通の論点)[855]

近世法典編纂論の始祖、イギリスのベンサムは、自国内にとどまらず、欧米諸国に対しても外国人起草の利を説き、自らをして法典編纂事業に当たらせよと提案したが、ベンサムの声望とその執拗な主張にもかかわらず、アメリカ・ロシア等欧米諸国において遂に受け容れられなかったのである[856]

外国人立案の法典は公平なり、何となれば内国人の如く党派もしくは種族などに関する偏見なければなり。外国人立案の法典は精完なり。何となれば衆目の検鑿甚だ厳なればなり。ただ外国人はその国情に明らかならず、その民俗に通ぜざるの弊ありといえども、法典の組織は各国大抵その基礎を同じうするものなるをもって、敢てこれをもって欠点となすに足らず[857] — ジェレミー・ベンサム『改進主義を抱持する総べての国民に対する法典編纂の提議』
彼の著書は既に各国語に翻訳せられ、彼の学説は既に一世を風靡し、雷名轟々、天下何人といえども彼の名を知らぬ者はなかったのである。しかも、この碩学にしてその素志の天下に容れられなかったのは何故であるか。これ他なし。法典の編纂は一国立法上の大事業なるが故に、これを外国人に委託するは、その国法律家の大いに隗ずるところであって、且つ国民的自重心を傷つくること甚だ大であるからである。

明治23年の第一回帝国議会において、商法実施延期問題が貴族院の議に上ったとき、我輩は同院で延期改修論を主張したが、上に述べた如き例を引いて、国民行為の典範たる諸法典を外国人に作ってもらうのは国の恥であると述べたのは、幾分か議員を動かしたように見えた。

— 穂積陳重『法窓夜話』72話「ベンサムの法典編纂提議」

実際の議会演説では、ギリシャの例が挙げられている。

委員構成の是非[編集]

  • 実業家を委員に加えないのは不当である(小畑)[858]
    • 民商両法典に問題は無く、審議し直す時間も無い(山縣)[859]
      • 穂積陳重・富井・鳩山・菊池武夫ら優秀な法学者を排除したことは、法典の信望を損なった(梅)[860]

立法目的の是非[編集]

  • 法典編纂は条約改正事業と切り離して慎重に討議制定すべきである(富井[861]三浦安[862]、谷干城[863]、花井[864]、福沢[865]
    • 不平等条約改正の為に迅速な法典編纂が必要不可欠である(梅[866]、ボアソナード[867]、榎本[868]
    • 延期論者は、一身上の利害関係から、又は政府攻撃の手段として法典に反対しているに過ぎない(ボアソナード)[869]
      • 一度施行すれば既得権を生み、後々まで後を引く(富井)[870]

即時断行、後日修正の是非[編集]

  • 法典の不完全、人民の困難を知りながら断行するのは立法府の政治的徳義に反する(木下)[871]
    • 天皇の大権をもって発布した法典を施行せず全面修正することは、天皇の威厳を損なう(ボアソナード[872]、山縣[873]
    • 裁判所構成法・刑法・刑事訴訟法は問題とせず、商法民法だけ非法典論を主張する理由が無い(大井憲太郎)[874]
    • 法典が不完全なのは確かだが、無いよりはましだから、一旦施行した上で後日修正すれば良い(梅[875]、和仏法律学校校友会[876]、田中[877]、和田守菊次郎[878]
      • 不都合があるか無いか、人民を試験の道具にするのは不当である(谷干城[879]、富井[880]
      • 民法は天賦人権論を基本としており、憲法と矛盾するから、後日修正すれば足りるようなものではない(加藤弘之)[881]
法典の不完全であることを認め……人民の困難を知りつつ矢張り断行すると言ふことは此立法府の責務を甚だつくして居らぬと存じます。又新法典の……中には条章について言ひましたならば今実施されても差支えないものもあるかと存じまする。それでもただ是が法典となって居ります以上は一部を修正しましても必ず修正と言ふものは他の部分にも及ぶことは当然のことでありますから、依て全部の延期と言ふことに同意を表した所以であります[882] — 木下廣次、第三回帝国議会貴族院演説

民法典論争の本質・評価を巡る論争[編集]

これらの論争がどういう意義を有するかについては、もっぱらドイツ系の穂積八束とフランス系の梅謙次郎の政治的イデオロギーの対立として記述する書籍も散見される。

しかし、そのような単純な二項対立の構造ではなく[883]、純粋な学問的論争の他に、学閥争い、政治的争いの性格を加えた複雑の要素が絡んだものであるとの理解が法学者の通説的な理解であり[884]、その複雑性をいちおう認めた上で、どのような事実認識・歴史観に基づき、どの要素を強調しようとするかの差異が生じている[885]

穂積陳重説[編集]

延期論者であった穂積陳重からは、感情論や英仏両派の学閥の争いであったという面は認めつつも、ドイツと日本の2つの法典論争の共通性を重視し、その学問的性格を強調する見解も主張されており[886]、後世においても一定の支持を得ている[887]

延期戦は単に英仏両派の競争より生じたる学派争いの如く観えるかも知れぬが、この争議の原因は、素もと両学派の執るところの根本学説の差違に存するのであって、その実自然法派と歴史派との争論に外ならぬのである。由来フランス法派は、自然法学説を信じ、法の原則は時と所とを超越するものなりとし、いずれの国、いずれの時においても、同一の根本原理に拠りて法典を編纂し得べきものとし、歴史派は、国民性、時代などに重きを置くをもって、自然法学説を基礎としたるボアソナード案の法典に反対するようになったのは当然の事である。故にこの争議は、同世紀の初においてドイツに生じたる、サヴィニー、ティボーの法典争議とその性質において毫も異なる所はないのである。

延期断行の論争は頗る激烈であって、今よりこれを観れば、随分大人気ない事もあったけれども、その争議の根本は所信学説の相違より来た堂々たる君子の争であったのであるから、この争議の一たび決するや、両派は毫も互に挟さしはさむ所なく、手を携えて法典の編纂に従事し、同心協力して我同胞に良法典を与えんことを努めたるが如き、もってその心事の光風霽月に比すべきものあるを見るべきである[888]

— 穂積陳重『法窓夜話』97話

但し、この穂積陳重説をどのように理解するかは学者によって異なり、

(一)ドイツの法典論争純粋の学問的論争と理解した上で、

  • 日本の民法典論争は英仏両派の勢力争いに過ぎないとするもの(仁井田)[889]
  • ブルジョワ自由派に対する半封建派の争いであるから、ティボーとサヴィニーの争いではなく、ティボーとレーベルグの争いに相当すると主張するもの(平野)[890]
  • 自然法学対歴史法学、進歩主義と保守主義、自由民権主義と国権主義、藩閥的官僚主義思想、英仏両派の感情的対立等の「複雑」の要素が絡んだものであるから、ドイツの法典論争のような純粋の法理戦ではないと批判するもの(星野)[891]

(二)ドイツの法典論争もまた純粋の学問的論争ではなく、一民・一国・一法律を巡る政治上の争いと理解した上で[892]

  • 陳重の認識においてもまた日本の民法典論争は純粋の学問論争ではなく、「白刃既に交わる」(穂積陳重『法窓夜話』97話)文字通りの戦争であったが[893]、日独の法典論争は何れも政治上の闘争でありつつも法の根本的な理解の相違に根差しているという意味で、確かに同一であるとするもの(堅田剛[894]、がある。

磯部四郎説[編集]

旧民法起草者の一人磯部は、明治民法と明治民法の連続性を特に家族法分野で強調している[895]

人事編と相続編との二大事項に付きては未だ何等の法按の存せざりしを以て人事編は熊野敏三君をして起草せしめまた相続編は私が起草の命を奉じました、其案は定めて無茶苦茶なもので御座いましたらうが併し現行民法の相続編と大差なかりし様に思ひまして心窃かに光栄として喜んで居ります

……善い事か悪い事かは存じませぬが、丁度25年の頃帝国大学及び幾多私立学校の方面から大々的反対運動が起って来まして、……延期の目的は更に其間に民法を鋳直す考であったと見へ其延期の理由の中に全体此民法は怪しからぬものである、古来各地方に存在する入会権と称する重大の財産権に関して一条の規定も設置せぬ実に此種の欠点多々あり斯る不完全なものを実行す可きにあらず宜しく修正を要すべしと痛く論難せり、

蓋し延期派は其目的を達し即ち伊藤博文公主裁の下に前法を鋳直したる現行法を得るに至れり此現行民法中先きの論難したる入会権に関して如何なる規定を置きしかと云ふに民法第263条及び同第294条の設定あるのみ……是丈けの事なれば有るも無きが如く無きも敢て不備を感ぜざりしものならんが読者を以て如何と為す[896]

— 磯部四郎「民法編纂の由来に関する記憶談」

現行民法263条

  • 共有の性質を有する入会権については、各地方の慣習に従うほか、この節の規定を準用する。

同294条

  • 共有の性質を有しない入会権については、各地方の慣習に従うほか、この節の規定を準用する。

仁井田益太郎説[編集]

イギリス法派とフランス法派とは仲が悪いと云ふ事がありましたか。 — 穂積重遠
……私の経験ではそれ程の事は感じなかったのです……私の感じた所では、此の争いは一種の勢力争ひである。歴史法派と自然法派の争と云ったやうな高尚の争ひではない。見様に依れば一種の勢力争ひである。なぜかといふと、英法派はボアソナードの作った仏法系の法典が嫌ひで――元来法典は嫌ひな所へ持って来て――仏法派に都合の好いやうな旧民法は大嫌ひである。尤も、人事編の方は、日本人が編纂したのですけれども、其の他はボアソナードが編纂した。仏法派は旧民法を盛り立てて行かうと云ふのですから、一種の勢力争いのやうなものであったと、私には感じられます。

……あの時の法典の断行、延期の争は、法学界始まって以来の事だと思はれる位ひ熱心にやったのです。一種の生命線と云った関係があって、法典実施を断行されては英吉利法律学校が無くなって了まふと云ふ騒ぎです[897]

— 仁井田益太郎

更に、旧民商法公布前は、判検事採用試験は英・仏・独法の選択だったのが、公布後は新法典で統一になった事を指摘している[898]

この仁井田説に対しては、十分な審議を経ることなく、帝国議会創設を待たず駆け込み的に旧民法を成立させた政府に対しての、村田保ら一部政治家の反感が論争を激化させたという側面を無視しており、一面的に過ぎるという批判がある(星野)[899]

また、仁井田発言を根拠に、法典論争は私立法律学校による「パンの争い」であったという説が形成されているが、当時の私立法律学校の講師はほとんど無報酬であったこと、講師たちのほとんどは弁護士や官僚などとの兼業であり、仮に学校が無くなっても飯の食い上げにはならなかったこと、東大の穂積兄弟や土方らの延期論を説明できない事[900]、江木衷が免職されても刑に処せられても「本望」として法典論争に臨んだこと等を説明できないと批判されている[901]

仁井田は歴史派には批判的である。

民法のみならず商法もさうですが、殊に民事訴訟法と云ふやうな形式的の法律がすらすらと行はれたのですから、そこへ行くと日本人は中々偉いと思って感服して居るのです。

……外国法の思想に依った法律を消化して誤りなく適用している。……実に驚いたものである。

— 仁井田益太郎
遡ると、大宝律令等もの律令に倣った様な次第でつまり、さう云ふ才能があるのですね日本人には。 — 穂積重遠
ドイツ民法の草案の出来る時に歴史派の主張した議論と云ふものは我民法の場合には適用しない。 — 仁井田益太郎
民法がその反証を挙げたことになる[902] — 穂積重遠

旧通説[編集]

戦前及び戦後の一時期におけるかつての通説は、法典論争において特に激しく攻撃されたのが旧民法人事編ほか家族法であったことから、延期論を採用して新たに制定された明治民法は当然に家族法部分において保守的に変容したという事実認識を前提としており、歴史上の全ての闘争は「階級闘争」である(共産党宣言とするマルクス主義的歴史観[903]の影響の下、講座派の代表的論客であるマルクス法学者の平野義太郎や、それを支持する玉城肇青山道夫、星野通らによって、旧民法断行派と延期派の争いは、英仏両派の感情的な学閥争いであるばかりでなく、何よりも梅謙次郎に代表されるブルジョワ民主主義的民権派と、穂積八束に代表される保守的封建的国権派というイデオロギーの争いであると主張されていた[904]

当時においても「通説」とまで言えたかには異論があるが、批判者(中村・手塚)が「通説」の語を用いた事から定着している[905]

ブルジョア自由民権運動に対立した憲法制定に応じて……民法制定におけるブルジョア自由主義に対抗して、封建的家族制度を再建することが、官僚的民法制定やボアソナード起草「旧民法」の施行を延期せんとする「法典争議」の核心をかたちづくる本質的要素である。……したがって、これによって修正された新民法の「親族編」「相続編」は、封建的家族制度・長子相続制を法制化し、「家」を中心に置き……封建的男性の支配、女子の無権利主義を基本としたものである[906] — 平野義太郎『日本資本主義の機構と法律』
論争は主として法典人事編の近代家族法的性格をめぐって展開した自然法学・歴史法学派の学説的抗争の感深く、また同時にそれと不可分に結びつく個人主義・自由主義と国家主義・伝統尊重主義のイデオロギー的相克であり、……感情的喧嘩でもある……そして延期派制勝裡にやがて天皇制家族国家の支柱ともいうべき家父長家族制度の明治31年民法典誕生の運びとはなったのである[907] — 星野通『民法典論争資料集』

現在も星野説を支持[908]する論者として、前述の岡孝などがいる。

もっとも、植木枝盛らの指摘するフランス人事法の保守的性格はこの立場からも承認され(青山)[909]、平野・星野らも、フランス民法・旧民法が自由平等の完全な法典であり、ドイツ民法・明治民法が全くの保守反動法であったと主張するわけではない(後述)。

戸主権強化の実例[編集]

戸主権の主要な内容は、家族員に対する居所指定権と、婚姻・養子縁組に対する同意権である[910]

旧民法人事編244条

  • 戸主は家族に対して養育及び普通教育の費用を負担
    • 但家族が自ら其の費用を弁することを得るとき又は戸主の許諾を受けずして他所に在るときは此限に在らず

明治民法749条(~昭和16年改正)

  • 1.家族は戸主の意に反して其居所を定むることを得ず
  • 2.家族が前項の規定に違反して戸主の指定したる居所に在らざる間は戸主は之に対して扶養の義務を免る
  • 3.前項の場合に於て戸主は相当の期間を定め其指定したる場所に居所を転ずべき旨を催告することを得若し家族が其催告に応ぜざるときは戸主は之を離籍することを得
    • 但其家族が未成年者なるときは此限りに在らず

戸主の扶養の義務が無くなるに止まらず、明治民法では戸主に離籍権が発生する[911]

旧民法人事編246条

  • 家族は婚姻又は養子縁組を為さんとするときは年令に拘らず戸主の許諾を受く可し

旧民法人事編250条

  • 推定家督相続人に非ざる家族たる男子が戸主の許諾を受けずして婚姻を為したるときは一家を新立

明治民法750条

  • 1.家族が婚姻又は養子縁組を為すには戸主の同意を得ることを要す
  • 2.家が前項の規定に違反して婚姻又は養子縁組を為したるときは戸主は其婚姻又は養子縁組の日より一年内に離籍を為し又は復籍を拒むことを得

同様に、戸主の同意無き婚姻・縁組に対し、明治民法で戸主が統括する家からの離籍権・復籍拒絶権が発生するのは、旧民法(人250・244条)に比べると制裁としての側面が強化されたとみることができ、旧通説はこれを戸主権強化の一大事例とみる[912]

但し、戸主の同意を得ずに婚姻・縁組しても、明治民法では戸主の同意の不存在は無効・取消要件ではない為、婚姻・縁組それ自体は有効に成立する事[913]には異論は無い(玉城)[914]

明治民法776条

  • 戸籍吏は婚姻が……第750条第1項……其他法令に違反せざることを認めたる後に非ざれば其届出を受理することを得ず
    • 但し婚姻が……第750条第1項の規定に違反する場合に於て戸籍吏が注意を為したるに拘はらず当事者が其届出を為さんと欲するときは此限りに在らず

戦後の教育界の通説[編集]

日本史の教科書等多くの書籍においては、旧通説に類似した説明が採用されているようである。

西洋を範とする法典の編纂は明治初年に着手され、フランスの法学者ボアソナードをまねいて、フランス法をモデルとする各種法典を起草させ、1880(明治13)年には刑法と治罪法(刑事訴訟法)を憲法に先行して公布した。その後も、条約改正のためもあって、民法と商法の編纂を急ぎ、1890(明治23)年には、民法・商法、民事・刑事訴訟法が公布され、法治国家としての体裁が整えられた。

これらの内民法は、1890(明治23)年に大部分[注釈 1]がいったん公布されたが、制定以前から一部の法学者のあいだで、家族道徳など日本の伝統的な倫理が破壊されるとの批判がおこり、これをめぐって激しい議論が戦わされた(民法典論争)。

1891(明治24)年、帝国大学教授穂積八束は法律雑誌に「民法出デテ忠孝亡フ」という題の論文を書き、ボアソナードの民法を激しく批判した。この結果、1892(明治25)年の第三議会において、商法とともに、修正を前提に施行延期となり、1896(明治29)年と1898(明治31)年に、先の民法を大幅に修正して公布された。こうしてできた新民法は、戸主の家族員に対する絶大な支配権(戸主権)や家督相続制度など、家父長制的な家の制度を存続させるものとなった。

— 笹山春山ほか『詳説日本史』(山川出版社、2013年)285-286頁
明治23年(1890)にはボアソナードの起草による民法(旧民法)が公布されたが、わが国の家族制度に適さないとして批判が議会の内外から起こり(民法典論争)、第三議会において施行は延期となった。論議の焦点は、公布された民法が自由主義的で、家族道徳などわが国の伝統的な倫理を破壊するという点にあった。憲法学者穂積八束は、「民法出デテ、忠孝亡ブ」という題で論文を執筆し、激しく批判した。他方で、梅謙次郎は、民法の導入を主張した。

結局、条文の修正がほどこされ、明治29年(1896)と31年(1898)に新民法(明治民法)が公布された。新民法は、家制度を維持するため戸主の権限を強くし、家督相続権に重きを置いていた。

— 渡部昇一ほか『最新日本史』(明成社、2013年)207頁
政府は条約改正の目的もあって、憲法の制定と共に、諸法典の整備を進めた。当初、フランス法の導入が積極的にはかられ、法学者のボアソナードが起草した刑法が1890(明治13)年に、民法が1890年に公布された。しかし、その民法は、個人主義をもとに夫婦を単位とする小家族主義を基調にしていたため、日本の伝統的な家族制度を破壊するとの強い反対を受けた(民法典論争)。帝国大学教授の穂積八束は「民法出デテ忠孝亡ブ」と批判し、法学者のあいだで民法典論争が展開された。

こうして民法の施行は延期され、かわってドイツ民法もとりいれた新民法がつくられ、1898年に公布[注釈 2]された。これは、家父長制的な家族制度(家制度)の維持を狙い、戸主の強い権限や家督相続などを定めるとともに、女性に対して男性を優位においた。妻の権利はほとんど認められず、夫の許可がなければ財産管理や訴訟などをすることができなかった。

— 三宅明正ほか『日本史A 現代からの日本史』(東京書籍、2013年)72頁

我妻説[編集]

旧民法家族法の方が、明治民法と比較してより「進歩的」であったという説に対して、両者の条文の比較の観点から批判したのが我妻栄である[915](以下は戦前の文章である為「現行法」は戦後の改正前の明治民法を指す)。

なるほど、戸主権の実質的内容をやや強大にし、法定推定家督相続人の去家禁止の規定を設けたこと等は、重大な点ではあろう。然し、延期論者が非難した親権、準正、扶養等の個々的制度は何れもそのままに踏襲された。……「家」の維持ということも、観念的な主張の範囲を出でず……「民法出でて忠孝亡ぶ」とまで非難された旧民法の修正としては、意外の感を抱かしめる。もっとも、一派の委員は、自分の抱懐する「家族制度」的規定を提案しても到底受理されない雰囲気を察知して、不満を抱きつつ原案の技術的検討に従事した場合が多かったようである。……「立法は妥協なり」の原理を如実に示すものである。

……一部の学者[916]は旧民法の改正につき……旧民法は「資本主義的単一家族制度」を原則とせんとしたのに対して、現行法は「家父長的大家族制度」の復活と維持とを主張する、といっている。然し私は、審議の全過程を検討して、この説を肯定する根拠は遂にこれを発見しえない。

……法典論争をもって「民主主義・個人主義に対する半封建的家族制度の固守」の争いとなすことは或いは承認しうるとしても、現行法が旧民法に比して半封建的家族制度の復活を実現したと判断することに対しては、賛成を躊躇せざるをえない。然らば、何故に延期派の主張を充分に容れない修正案が議会を通過したか、という問題になるであろうが、それはその争いが既に純学理的なものではなく、学閥、政争の色彩を有し、それが鎮静したことと、条約改正の必要という外的要素の強圧が加わったことがその原因であった、と私は考える[917]

— 我妻栄

戸主権の強化とはいっても、戸主の同意を得ない婚姻・縁組も有効に成立することを強調するときは、依然として戸主権は空虚でしかないことになる[918]

民法典論争の本質については、我妻は後述の大正・昭和の論争との連続性を強調する。

戸主を中心とする大きな家族団体に徹底すれば……家・戸主の関係だけで十分であって、その他に、夫の権利とか親の権利などを認める必要がないということになろう。

反対に、夫婦とその間の未成熟の子だけを家族的結合とすれば……家・戸主という関係を認める必要はないことになろう。

ところが、明治民法は、その両方を認める。……このことが、すでに両派の主張の妥協である。

もっとも、大家族制度……から小家族制度へ移行したのは、ある程度まですべての民族に共通の現象であって、その推移の過程に、複合的なものが存在したのも、共通のことである。したがって、明治民法……を奇型児ということはできない。

問題は……どれだけのウェートを置くかであり……家族制度の尊重論者と否定論者とが、この妥協線の左右に対陣し、押しつ押し返しつつしたのが、明治以来の家族制度論争だろいうことができる[919]

— 我妻栄

この他、石井良助も、明治民法を「旧民法と対照した場合、……全般的により一層旧慣を尊重したとはいえないように思われる。そういう場合もあるが、反って、より近代的になっている場合も少なくないのである」と指摘[920]

中川善之助(現行家族法改正法起草者)も、二、三の例を挙げ、「どっちが近代的であり、どっちが封建的であったかは一概に断定できない」としている[921]

中村・手塚説[編集]

更に、旧民法の性格を理解するには、いきなり明治民法と比較するよりも、前述の第一草案と比較すべきという主張が現れる[922]

政治学者の中村菊男は、平野らの説は旧民法の編纂過程を無視しており、実証的な根拠を欠くと激しく批判した[923]

中村に賛成して論戦に参戦し、より詳細に論じたのが手塚豊である[924]

進歩的と言いうるのは旧民法家族法の第一草案についてだけであって、公布された旧民法はそうではないというのが中村・手塚説の主旨である[925]

延期論者が最初に攻撃した人事編第一草案は、反『醇風美俗的』、いいかえればヨーロッパ市民法的色彩のきわめて強いものであった。しかるにこの草案が法律取調委員会、元老院においていくたびか修正を施されるに伴い……逐次封建的要素を加え、遂にはその性格を根本的に改変したとも考えられるのであって、それがため公布された旧民法人事編そのものは明治民法に対比して勝るとも劣らざる半封建的民法であった。

……要するに、両法典の戸主権は一言にしていえば「大同小異」と称すべきであろう[926]

— 手塚豊

更に、中村は民法典論争の本質論に踏み込んで、基本的には仁井田説を支持しつつも、結論としては不平等条約改正に対する政治的立場の違いによる争いがその本質であると主張した[927]

筆者はこの論争をもって当時存在していた仏法派対英法学派の、一面感情的にして他面極めて功利的な、学派の対立に由来するものと見るものであるが、それを助長し発展させ、あのような大論争に至らしめた原因は、条約改正に関連する政治的立場の違いであると思う。……それは一方において国権の確立のためには条約の改正がぜひ共必要であり……附帯的条件として法典の編纂が必要であるという政府……の考え方であり、他方において条約改正の手段として法典の編纂を約束することは主権の侵害であり、内治干渉を誘致するものであるとする見解である。前者が断行派に後者が延期派に加担したのであって、単に後者がブルジョア的、後者が封建的であったとはいい得ない。

……旧民法・明治民法両者を比較すると旧民法の内容が如何に反動的なものかわかる。……この法典をブルジョア民主主義的として打ち出すことは誤りである[928]

— 中村菊男

この観点からすると、穂積八束の「民法出でて忠孝亡ぶ」(及び加藤の天賦人権論批判[929])は、進歩的な旧民法に対する保守派の反発ではなく、保守的な旧民法に対する誤解ということになる(中村、大久保)[930]

旧民法の方が反動的であることの根拠としては、例えば、旧民法では協議離婚に付き父母、祖父母又は後見人の許諾を要していたことが(人事79条)、妻の地位を大家族制度の中に縛る封建的規定の最たるものだと主張される[931]

旧通説で戸主権強化の実例とされた戸主の離籍権については、明治民法では行使しないことも出来るのに対し、問答無用で家から追放される旧民法の方が制裁としての性格が強いとも主張されている(手塚)[932]

また、明治民法では戸主の同意無き婚姻・養子縁組も有効に成立するのに対し、旧民法では差止を怠った戸籍吏が処罰される(人74・75・136条)、無効訴権が生じる等の障害があり、同意無き婚姻・縁組を強行するのは実質不可能であり、実質的には旧民法の戸主権の方が強力だと主張されている[933]

星野・中村論争[編集]

これに対し、星野は、明治民法よりもなお進歩的と見るべきであると反論[934]

例えば、

  • 戸主権規定を人事編の後方に置く旧民法の方が、戸主権規定を親族法の先頭に置く明治民法より個人主義的である[935]
  • 戸主権の行使を拒否された時の制裁として離籍権が明文化されたため、旧民法よりも明治民法の方が強力になっている[936]
  • 婚姻の効果として、旧民法は夫婦の双方に同居義務があることを当然の前提としているのに対し(人事65条)、妻のみに同居義務を明示する(かのように読める)規定(明治民法788条)は、明治民法にあって旧民法には無い為、明治民法の反動性の表れである[937]

と主張したが、批判説は、

  • 旧民法の戸主権が人事法の末尾近くに配置されるのは、進歩的な第一草案の構成がそのまま利用されたに過ぎず、内容までが進歩的とは言えない[938]
  • 離籍権の追加は戸主権の観念的強化[939]ではあるが、実質は大差無い[940]
  • 夫婦の同居義務については、旧民法人事編元老院提出案第82条は旧民法と同様の規定であり、(おそらくは当然の事として)元老院で削除されたのを看過している[941]

と反論している。

なお、明治民法789条は、梅の説明に依れば、夫婦相互の同居義務の確認規定である[942]

この他、明治政治史の観点から、平野・星野らの歴史認識を批判する遠山茂樹や石井金一郎らの参戦もあった[943]

1952年(昭和27年)に始まった星野・中村論争は、両者が自説を撤回することなく終息したが、星野も、中村が提起した旧民法家族法における草案の変質という問題提起を肯定せざるを得なくなった[944]

星野・中村論争の影響[編集]

旧民法と明治民法のどちらがより封建的・反動的であったかは水掛け論の様相を呈し、決着していない[945]が、マルクス主義法学の中からさえも、旧通説は実証性を欠き妥当でないと批判する論者(熊谷開作など)が出現[946]

第一草案を巡る手塚説は法学会の定説として確定し、正面からこれに反対する論者は殆どいなくなっている[947]

そこで、現在の法学上の通説は、論争本質論と一旦切り離した上で、明治家族法は旧民法からの根本的修正を受けていないと解している[948]

これに対し、なお旧通説に同調する論者において、旧民法と明治民法の違いの根拠とされているのが、明治憲法を基礎とする絶対主義的政治体制を背景としているかどうかである[949]

そこで、旧通説の側からは、仮に旧民法と明治民法の半封建性が大同小異だとしても、民法典論争のイデオロギー性を全く否定するのも妥当でない(青山)との反論がされている[950]

あるいは、手塚説の「大同小異」論には賛同しつつも[951]、中村説は旧民法から明治民法への財産法上の変化を不当に軽視しており[952]、賃借権を物権と構成して賃借人の保護を図る等、旧民法の財産法は明治民法よりも進歩的と見るべきであるとの主張がある(熊谷開作、福島)[953]

家族法についても、明治民法による修正が戸主権の「観念的強化」(手塚)に過ぎないとしても、半封建的規定が意識的に整備されたことに重大な意味があり、その反動的性格は否定できないと主張されている[954]

このような立場は依然として有力であるが、結論ありきで自己の歴史観を述べたに過ぎず客観性が無い[955]天皇制国家が絶対主義的体制であったという歴史観自体見直される現状において、そのまま受け入れることは出来ない[956]などと批判されている。

戦後の有力説[編集]

延期論の是非は別としても、単なる保守的・封建的イデオロギーに尽きるものではなく、旧民法・現行民法が採用した古典的自由主義の限界を見据えた上での、財産法にも一体となって及ぶ弱者保護の観点からの立論であり、ティボーとサヴィニーの法典論争よりも、ドイツ民法第一草案を巡るヴィントシャイトとギールケ、メンガーらの論争と共通の性質を持ったものとして再評価する動きがある(利谷、福島、長尾龍一藤田宙靖など)[957]

未来の民法をして少しく国家的ならしめよ。……民法は社会財産の分配法なり。……近代の民法は基本位を個人に取り……殆ど社会の富は社会の成果たることを忘れたるが如し。……個人本位の民法は富者をして益々富み貧者をして益々貧ならしむるの成績ある事は証し得て明かなり。社会の優族をして民法制定せしむ勢の然らしむる所怪むに足らず。若し社会の劣族をして民法の制定に干渉せしめば或は其本位を国家的ならしめんか、欧州十九世紀末日の労力社会の立法運動は民法家諸家の注意を惹くべきもの多し[958] — 穂積八束「国家的民法」『法学新報』第一号(明治24年4月25日発行)

実際、八束は、社会党に共感を示してさえいたのである[959]

このような観点からは、「民法出でて忠孝亡ぶ」ではなく、「新法典は社会の経済を攪乱す」こそが延期論の真髄だという事になる(遠山)[960]

これに対しては、八束がメンガーを読んでいた(福島)かどうかは重要でなく、延期派の主観的意図においては、単に政権批判の為の論法に過ぎなかったとの批判がある(熊谷)[961]

保守対進歩という構図の問題点[編集]

旧通説の問題点のもう一つは、延期派=保守派、断行派=進歩派という図式を当てはめてしまうと、それでは説明の付かないあまりに多くの例外を認めることになってしまう点である[962]

賃借権・起草者の評価[編集]

例えば、現行民法が旧民法と異なり賃借権を債権と構成するなど、小作人が不利になり得る立法を採用したのは、明治政府の権力基盤であったブルジョワ寄生地主階級を保護する政策的意図に出たものと批判する説[963]が有力である。

ところが、賃借権の強化=進歩的、賃借権の弱化=保守的[964]、としてしまうと、賃借権の原案担当者は梅謙次郎[965]である為、旧通説の図式に依れば仏法派・断行派・進歩派であるはずの梅が実は保守派だということになってしまうが、この点家永三郎の歴史観に立脚する[966]一部の論者は、梅も所詮政府側の人間であり、保守派に妥協したものであって、その自由主義は官僚的ブルジョワ自由主義に過ぎず、真の自由民権思想とは相いれない、詰まるところ梅も八束と同じく天皇制の藩屏に過ぎなかったと主張している(白羽祐三[967]

しかし、星野説の支持者からさえも、梅と穂積八束の立場を同一視するのは大雑把に過ぎると批判されている[968]

この点、マルクス主義者平野は、自由民権運動左派の大井憲太郎(断行派)の言を引用し、旧民法の妥協的性格を根拠に、ボアソナードすらも「保守主義の法律家」であったと評し[969]、一貫して梅を官僚的自由主義派と呼んでいるが、講座派の歴史観には同調する学者(熊谷)からすらも、旧民法の編纂過程を無視しており妥当でないと批判されている[970]

なお、賃借権の債権化が地主の保護に繋がったという主張については、それは結果論であって、少なくとも起草者の主観的意図においては、物権として別個に制定した地上権が建物所有を目的とする土地賃貸借の原則形態として利用されるはずと考えていたとの説[971]、立法者または原案起草者梅の19世紀以来の経済的自由主義への共感を表すものである[972]、或いは、旧民法を単なる賃借権保護立法と見るのは適切でなく、零細な小作人の保護よりはむしろフランスにおけるような「富裕な借地農」の保護を想定しており、確かに日本の実情に適さなかったとの説[973]もある。

保守的な断行派という存在[編集]

法治協会の『法典実施断行ノ意見』「(二)法典の実施を延期するは倫理の壊乱を来たすものなり」において、旧民法の実施を男女平等・個人の尊厳に求めたのではなく、逆に「来の美風良俗の保全」に求めた事に注目するときは、断行派=進歩派という構図は疑わしいことになる(熊谷)[974]

また、政界は政府系議員、民党系議員共に各々の立場から延期派・断行派に分裂していたこと[975]、特に自由民権運動を暴力で弾圧した超反動的な松方内閣や、後に護憲運動によって打倒された清浦奎吾、典型的な保守派の論客鳥尾小弥太らが旧民法断行派であった事実を旧通説は説明できないと批判される[976]

延期派の谷干城と同様の保守的グループに属し、商法典論争で延期論に立ちながら、民法典論争で断行派に転じた鳥尾については、理論的に良いと思われた側にすぐ転向する癖があった[977]とか、政府から司法大臣の席を約束されていたという噂があったことが指摘されている[978]

旧民法公布及び商法典論争の時の首相であった山縣有朋は旧商法・旧民法共に断行派であった[979]

進歩的な延期派という存在[編集]

日本における代表的な天賦人権論者であり、自由民権論の理論的中心人物福沢諭吉が民商法共に延期派であった事実については、不徹底なブルジョワ自由主義思想が法典論争を機にその馬脚を現したために福沢が思想的変節を示し、天皇絶対主義という新たなプロレタリアート搾取の支配体制の確立に加担したという説明[980]が試みられている。

これに対しては、中村菊男により、

  • 福沢が条約改正と法典編纂を切り離すべきとして延期論に加担したのは国家主権の確立という立場からであって、福沢が延期派だから反動的封建派と見るのは正しくない[981]
  • 各国の国民主義的運動自体、反封建的運動に矛盾するものではないし、特に日本の自由民権運動の場合、国内に対しては藩閥政府に対する民権の拡大を主張すると共に、列強諸国に対して国権の拡大を目指すという二面性を当初から持ち合わせていたのであって、明治期の国民主義的・国権的運動を一概に反動的・封建的と解するのは妥当でない[982]
  • 福沢を含む延期派が、旧民法に反対して明治民法に反対しなかったのは、全体が日本人起草に成るという安心感に加えて、旧民法は条約改正交渉の要素の一つに過ぎなかったのに対し、明治民法の場合は既に条約改正が成り、施行の具体的条件として法典完成が特に急がれたために反対論が起こりづらかったに過ぎず、福沢の思想が変節したことを意味しない[983]
  • 明治政府が重い負担を農民に課し、その負担の下で資本主義を発展させざるを得なかったのは、アメリカ公使ビンガムらの指摘したように、不平等条約により正当に得られるべき関税収入を得られなかった為にその負担を農民に課さざるを得なかったことが主因であり、マルクス主義法学は日本社会内部の特殊性を強調するあまり、外国からの圧力という面を見逃している[984]

等の批判がなされている。

フランス家族法の理解[編集]

旧民法のみならず、それが範としたフランス民法が個人主義・平等主義を徹底した進歩的法典だとする一部学者の理解に対しても、民法典論争における穂積八束以来の誤解であり、フランスが革命の国であったというイメージによるステレオタイプに過ぎないとの批判がある[985]

この観点からすると、穂積八束の「民法出でて忠孝亡ぶ」は、進歩的なフランス法に対する保守派の反発ではなく、保守的なフランス法に対する誤解だということになる(松本暉男)[986]

もっとも、ナポレオン民法典は封建制の長子権を廃止し均分相続制を採った為、独身女性を原則形態とし、妻の地位の低さを例外とみることも可能である[987]

フランス民法典が自由平等の進歩的法典であったと強調する論者として、前出の近江幸治の他、星野英一等がいる[988]

明治民法により旧慣が温存されたのか[編集]

日本史教科書など多くの書物には、民法典論争による延期派の勝利によって、明治民法は封建的な家族制度を「維持」「存続」した、と書かれることが多い。前出の玉城、山中もこの立場である[989]

中田薫説[編集]

これに対し、それは素朴なイメージ論に過ぎないと批判し、戸主権は明治民法によって創造されたのであって、それ以前の家族制度とは根本的に異なると主張するのは近世法の代表的研究者中田薫である[990]

徳川時代……家の当主は家族に対して、いわゆる家長権なるものを行使する事なし。もとより彼は父として親権を行い、夫として夫権を行う。しかれどもその余の家にある伯叔父兄弟姉妹等、いわゆる厄介者に対しては、何らの権力を行うものなきとす。

ローマの家長権は権力(Potestas)にして、ゼ[ゲ]ルマン族の家長権は保護権(Mundmium)なりき。我が徳川時代に家の当主が厄介者に対する関係は、権力にあらず保護なり、権利にあらず……法律の干渉の外に独立し、しかも法律上の義務よりもさらに強大なる道徳上の職分なり。

……今日の民法は家族居住の指定、婚姻の承諾、離籍の言渡し等三、四の軽微なる権利を掲げて、これを戸主権と名づけ、戸主権と戸主の財産権との相続を称して、家督相続という、前古無類の制度というべし[991]

— 中田薫

この立場からは、戦後の家族法大改正によって伝統的な家制度が無くなったというのは誤りであり、戸主権という不純物が無くなって日本古来の本来の姿に戻っただけであると主張される[992]

ただし、明治民法と江戸時代近世法との比較においては正しいとしても、旧民法編纂過程で既に戸主権が存在していた事実を無視する点で手塚からの批判を浴びている[993]

また、玉城においては、奴隷制を前提とするローマ法の家父長権がアジア的家父長権より遥かに強力なことは認められるが、マルクス理論にいう所謂「アジア的形態」の社会においては、専制君主との結び付きがより密接な大家族制を採ることから、婚姻を中心とする小家族制を採るゲルマン社会と決定的に異なると主張されている[994]

旧慣と異なる家族制度を採用した理由[編集]

旧民法・明治民法が何故法律上の戸主権を新設し、家督相続によって継承されるものとしたかというと、家産の所有権の帰属を明確にするという政策的理由があった為であると考えられる[995]

中田によれば、日本封建法にローマ法の家長権の如きものは存在せず、家長個人は権利義務の主体ではなく、家族団体に対し重い責務を負う代表者に過ぎなかった(ゲルマン法型家父長制度[996]

一方、ローマ法では家長個人は構成員に対して強力な統率権を有し、家族団体の拘束から自由であり、先祖代々の家産は家族団体ではなく家長個人の所有である[997]

家長の権限が強いローマ法の方が寧ろ個人主義であり、家長自身すら団体法理に拘束されるゲルマン法が団体主義であるというのはその意味である[998]

有限の富の上に立つ循環型社会においては団体主義が適する[999]のに対し、諸外国に対抗する為商工業を発展させて富国強兵をなすべき場合においては、家族団体ではなく個人を社会の基本単位としてその所有権を確保し、自由競争を促進することが合理的である[1,000]

そこで、現実に存在する団体主義的な家族団体と、財産法的個人主義の要請をどのように調和させるかが旧民法編纂以来のテーマであった[1,001]

穂積陳重、梅らが狙いとしたのは、ローマ法を基礎に、個人の権利能力の完全な承認と、所有権の自由とを大原則として据えると共に(民法総則・財産法)、前述の廃戸主制度を廃止して戸主の地位を安定化することで(ローマ法型家父長制度)、現実に存在する地主制度や家族経営と、所有権の自由との平びょうを合わせ、両者を矛盾しないものに操作する事であったと理解することができる[1,002]

これに対し、旧通説系の論者により、天皇制イデオロギーを支える末端組織として明治民法の家制度が設計されたとの説も主張されたが、始めからそれを目的にしていたというのは無理があると批判されている[1,003]

民法典論争と商法典論争の関係[編集]

梅謙次郎の承認するところによれば、法典論争において延期派が勝利した主因は、新法典が日本の慣習に反する事項を多く含んでいたからであり、そしてその慣習違反は主として旧民法人事編にあったことからして、世に「人事編民法を延期せしめ、民法商法を延期せしむ」と風評されたと伝えられている[1,004]

一方、民法典論争のイデオロギー的闘争の巻き添えを受けて商法典までもが延期された、とする従前の理解に反対し、「民法出でて忠孝亡ぶ」のキャッチフレーズが後世に与えたインパクトが強すぎるあまり[1,005]、商法典論争は1891年の穂積八束論文よりもに、1890年の第一回帝国議会を舞台に争われたものであるという事実が見過ごされており[1,006]、商法典論争においては「民法出でて忠孝亡ぶ」に象徴される極度のイデオロギー的闘争は商法典論争と全然無関係であるばかりでなく[1,007]、商法典論争をして法典論争の「関ヶ原」、民法典論争をして「大阪の陣」と穂積陳重によって評されたように商法典論争こそ法典論争の「主戦場」であり、その時点で大勢は既に決し、民法典論争は延期派の「追討戦」に過ぎなかったと理解すべきである、との法学者の主張もある(高田晴仁)[1,008]

民法典論争と刑法典論争との関係[編集]

ボアソナードの起草になる旧刑法は、旧民法に先駆けて1882年(明治15年)1月1日から実施されていたが、早くも1884年(明治17年)には刑法改正事業が着手され、明治40年4月24日法律第45号をもって結実した(現行刑法)[1,009]

新刑法自体は、明治末期の時点における刑法学の理論状況や社会状況を反映したものだが、旧刑法実施後すぐに改正事業に着手されたことや、民法典論争との関係は明らかでない[1,010]

旧刑法改正事業の中身を検討する限り、とりわけ旧刑法実施直後の刑法改正事業(中心人物はボアソナード[1,011])は、単に法典としての形式を更に整頓するに過ぎなかったとも論じられている[1,012]

明治維新は絶対主義革命であったとする平野らの講座派マルクス主義史観を正面から肯定する刑法学者からも、現行刑法典は主としてドイツ刑法を参考としつつ実務の経験に基づいてボアソナードの旧刑法を改善したものであり、出版条例などの治安立法(刑法典の特別法)と異なり、絶対主義とは無関係であると論じられている(西原春夫[1,013]

改正事業が施行直後から開始されたにもかかわらず、旧刑法がそれ程不出来ではなく、かつ条約改正については諸外国が旧刑法をもって満足した為、その後急速に進展しなかったのは自然なことであった[1,014]

民法典論争研究の課題[編集]

「民法出でて忠孝亡ぶ」に目が向くあまり、法典論争それ自体についての実証的・包括的研究が疎かになっていることが指摘されている[1,015]

民法典論争の顛末[編集]

新民法典の制定[編集]

仁井田益太郎(独法派)

1893年(明治26年)3月、内閣に法典調査会を置くことになり、それに先立って総裁となる予定の伊藤博文が西園寺公望・箕作麟祥・穂積陳重・梅・富井らを招き、旧民法修正の方針を諮問[1,016]、穂積陳重により、民法の根本的改修、パンデクテン方式の採用、分担起草、委員会への実業家の採用などが答申される[1,017]

勅令第11号により『法典調査会規則』が成立、穂積陳重(英法派・延期派)、富井政章(仏法派・延期派)、梅謙次郎(仏法派・断行派)の三名が起草委員に任じられる[1,018]

なお勅令第1号とする文献があるが、11号の誤りである(仁井田)[1,019]

翌月、伊藤博文が法典調査会総裁、西園寺公望が副総裁に任命され、また数十名の主査委員と査定委員とを任命[1,020]

1894年(明治27年)3月、当初法典調査会書記であった松波仁一郎(梅附き)・仁保亀松(穂積附き)・仁井田益太郎(富井附き)が起草委員補助の役職に就任[1,021]

同4月、穂積陳重の提案に基づく『法典調査規定』が内閣で成立、更に『法典調査の方針』が法典調査会で成立して、起草の基本方針と体制が確定[1,022]、5月12日には法典調査会で第一回目の会議が行われる[1,023]

さう云ふ激しい争ひをした者が綺麗に手を握って法典編纂をやった。それは結構な訳ですが、非常にすらりと行ったものですね。 — 穂積重遠
それは英法派の人も法典が嫌ひな訳ではないのですから、のみならず条約改正が目前に迫っている[1,024] — 仁井田益太郎

磯部四郎も、委員会では当意即妙に意見をよく述べ、長谷川喬(仏法派・断行派[1,025])と共に原案の改良に大いに貢献した[1,026]

法典調査会内訳[編集]

太字は主査委員。

条約改正の一部実現[編集]

1894年(明治27年)7月16日、日清戦争の勝利で日本の国力が認められた事を背景として、安政の不平等条約に代わる日英条約が調印される[1,028](但し関税自主権回復は1911年(明治44年)[1,029])。

之に依ると五年後に改正条約が効力を生ずると云ふ事になって居ったのですが、別に外交文書で、民法・商法等の法典が完全に施行せられなければ更に実施を延期する事が定めてあった。

……所で、イギリスばかりでなく殆んど総ての外国との改正条約と云ふものは、明治三十二年七月十七日から効力を生ずる事になって居た。斯う云ふ事情ですから法典を早く作らねばならぬ。そこでもはや英法派でもない、仏法派でもない、法典編纂に就ては皆一致したわけです[1,030]

— 仁井田益太郎

ドイツ民法典論争の顛末[編集]

1895年10月、ドイツ民法第一草案に対するギールケらの批判を多少加味し、「一滴の社会主義の油」(ギールケ)[1,031]を加えた第二草案が完成。

しかし本質的変更には至らず、第一草案の基本的枠組みは維持された[1,032]

この第二草案も途中から現行日本民法典起草に参照されている[1,033]

その後、第二草案に僅かな修正を加えて成立したドイツ民法典は、妻を行為能力者とするローマ法の個人主義を採るべきでないというギールケ一派の批判を退け、ナポレオン民法典と異なり妻の行為能力、訴訟能力を認めるなど、カトリック旧勢力の抵抗に遭った為に不徹底ではあったが、妻の地位を大幅に向上させ、男女平等に大きく踏み出す当時としては極めて画期的な進歩的民法典であった[1,034]

ドイツ民法旧1356条

  • 1.妻は共同の家事を管理する権利を有し義務を負ふ
    • 但し1354条の適用を妨げず[1,035]

ドイツ民法旧1354条

  • 1.夫は婚姻上の生活に関する総ての事務特に住所及び住宅を決定す
  • 2.前項の決定が権利の濫用と見做さるべき場合に於いては妻は之に従ふべき義務を有さず[1,036]

個人ではなく、家法人をして社会の基本単位とせよという主張は退けられた[1,037]

現実に営まれている家族生活及び家産制が再評価され、正面から立法化されるのは後続のスイス民法典(1907年成立、1912年施行)の立場である[1,038]

ドイツ民法典はそのローマ法的性格の故に、国家社会主義及び民族主義の観点からナチスの激しい批判を浴び、一時廃止寸前にまで追い込まれることになる[1,039]

穂積陳重の法典構想[編集]

法律進化論[編集]

起草者三名の共通認識及びその法理学的支柱をなすのは、近い将来の家族制度の解体を予想しつつ、社会の発展に法律の発展の足並みを合わせようという漸進的社会改革論である穂積陳重の法律進化論であるといわれている[1,040]

民族の解体と国家の中央権力の成長によって家族あるいは『家』は前面に出て国家の単位をなすようになる。かくて、各社会の構成要素は次第次第に小さくなり、ついにはそれは原子あるいは個人にまで分割される[1,041] — 穂積陳重、セントルイスでの学会報告、1904年

家族主義から個人主義への転化を、キリスト教の齎す堕落と考える八束の思想とは対照的である[1,042]

身分から契約へ[編集]

陳重においては、国際化の潮流は、国是である五箇条の御誓文によって肯定的に捉えられたから[1,043]、実弟八束とは立場を異にしており、その法典構想は、近代的民法典を作るにはその編成をドイツ民法草案やザクセン民法典同様のパンデクテン方式によるべきとするものであった[1,044]

人事編を先頭に置くプロイセン国法及びフランス民法の方式から、個人主義の財産法を原則形態として先に置き、家族法をその後に置くドイツ民法典の方式への移行は、ヘンリー・メインの言う「身分から契約へ」(英:From staus to contract)の定式に合致するものであり、近代的な法律進化の現れと見られたのである[1,045]

啓蒙教科書法典から概括主義法典へ[編集]

また、社会の変動期であるとの理解からすれば、説明的で詳細に過ぎ、しばしば具体的事項の列挙を伴った旧民法では硬質過ぎて、社会の激動に耐えられないと考えられた[1,046]

そこで、前述のドイツ民法典第一委員会の決議に倣い、「法典の条文は、原則変則及び疑義を生ずべき事項に関する規則を掲ぐるに止め、細密の規定に渉らず」(「法典調査の方針」第11条)とする基本方針を上申した[1,047]

これは、起草の時間が無いから詳細に規定しなかったのではなく、立法者が全ての紛争を事前に予想し規定することは不可能である以上、学説・判例の発展を阻害しないよう、法典は必要最小限の事項に絞って抽象的に規定するに止めるべきとの意であり、それが穂積陳重のいう「根本的改修」の真の意味であったと考えられる[1,048]

比較法の結実[編集]

民法典論争で批判されたように、旧民法の欠点の一つは、フランス民法典及びイタリア民法典を模範としたにとどまり、他の欧州の法典を殆ど参照していなかったことであったから、法典調査会は極力広範囲に諸外国の立法学説を参照し、現行民法典を立案起草した[1,049]

殊に当時最も進歩的合理的と称されたドイツ民法草案を有力な資料としたことは、旧民法に比し、現行法典を内容的にも形式的にも格段に進歩せしめた(星野)[1,050]

むろん、ドイツ法のみに傾倒したわけではなく、旧民商法に批判的であった伊藤博文も、明治20年の時点においてさえ、フランス法自体は高く評価していた[1,051]から、ドイツ法一点張りで日本民法典を作成しようとは考えておらず、旧民法施行延期が決まった後には、一国の法に固執することなく、参照できるものはできるだけ広く参照して、「泰西の普通の法」を基に民法典を制定すべきと主張していた[1,052]

日本民法起草にあたって参照された他のドイツ法系の法典・草案としては、ザクセンプロイセンオーストリアスイス(債権法、州法)、モンテネグロ(独仏折衷)などがあり、フランス法系ではフランスイタリアスペインベルギーオランダポルトガルなど、英米法系ではイギリスアメリカインド法など、そのほかにもロシア民法などが挙げられている[1,053]

あの当時に、よくも方々の国の法律を調べたものですね。驚くですね。丁度私がドイツに居りました時にベルリンで国際比較法学会の二十年の記念祝典がありまして……諸君の国々は比較法学を学問として研究なさるけれども、本当に比較法学を使って法律を作ったのは日本である。現に民法を作る際にはこれこれの諸国の法律を参照したといふ話をして、参考諸国法のリストを読み上げましたところ、すべての国名が満遍無く出て来るので各国からの出席者非常に喜んだ。殊に可笑しかったのは、モンテネグロの民法と云った所が大喝采で、モンテネグロの代表者が私の所へやって来て握手をしました。 — 穂積重遠
……民法修正案理由書によると、例へば、現行法第34条・37条・41条・第95条等々について、独仏瑞白民法草案のほかにモンテネグロ、インド契約法が参考せられたことが記載されてあります。さらに、第5条が、外国法典中には稀れで、主としてイギリスのInfants Relief Act 1 [1874]に依ったことがしるされてゐます[1,054] — 平野義太郎

独法はどのように影響したか[編集]

総論的な設計思想はプロイセン国法やフランス民法、旧民法の採用した『法学提要』方式ではなく、ザクソン民法典のパンデクテン法式を採用することが穂積陳重により定められたが[1,055]、各論分野の起草において、最もドイツ法を重視したのは仏法派の富井政章であった[1,056]

起草員会で問題となったのは、代理権の授与に就ての単独行為説・委任説とである。単独行為に依って代理権を授与する事が出来るか、又委任契約に依ってのみ代理権を授与する事が出来るかと云ふ点に就ては、穂積・梅両先生は委任説を採り、富井先生は単独行為説を採られた。……此の単独行為説等は、正しくドイツ法の思想を採られたのです。……調査委員会で字句が修正され……「委任」「委任契約」なる文字がなくなり、「代理権」なる文字が用ひられ、履行の責めに任ずると云ふ事でなく、ただ其の責めに任ずと云ふ事になったのです。……詰り富井さん等の考が反映した事は疑ひない[1,057] — 仁井田益太郎
富井博士は仲々硬骨なお方で、往々独逸派の学説を主張して仏法派の梅博士と対立され、一個の問題が数週間かかってやっと解決した様なことも度々ありました。擦った揉んだの後穂積博士の御尽力により辛うじて協調するのである。民法第92条……と言ふ妙な規定の生じたことの一原因は両先生協調の結果より来てゐると思はれます。

……この規定の由って生じた来歴を知らぬ方々がその解説に悩まされるのは無理からぬことです[1,058]

— 松波仁一郎「富井先生を憶ふ」
大体ドイツ法思想で民法は出来た訳ですけれども、偶にはフランス法の考への入った所がある。どちらかと云ふと梅さんの手に成った部分がさうです。穂積さんは公平などちらにも偏らずと云ふ態度であったと思ひます。富井さんは寧ろドイツ法一点張りで行かうと云ふ気分が見えたやうです。

……富井先生は……日本民法の出来る迄は、ドイツ法の思想は少しも鼓吹されていないのです。フランス法主義の法典が出来て学校にも講訳されて居った……所がドイツ法の思想に拠った民法が出来て、此の民法を解釈し説明して行くにはドイツ法の考へに依らなければならぬので、初めて、ドイツ法の思想が入って来た。法律を学ぶにはドイツ法をやらなければならぬと云ふ事になって来たのです。詰り、ドイツ法思想の日本民法学と云ふものが出来る基礎は、民法そのものにあるドイツ法の思想があって然る後に日本民法が出来たと云ふよりは、日本民法がドイツ法の思想を輸入したと云ってよい。

……富井先生はフランスに於ける材料からドイツ法の思想を得られたのです。……尤も穂積先生、梅先生はベルリンに一年ばかり居られて、其時にドイツ法の考へを充分吸収して帰られたと思ふ。つまり、三人共ドイツ法の思想には共鳴して居られたのです[1,059]

— 仁井田益太郎

独法導入の動機[編集]

伝統的な説明によると、民法典論争を経て日本がフランス法の導入からドイツ法へ舵を切ったのは、当時ドイツの文物の輸入が盛んになったこともさることながら[1,060]、何よりもナポレオン法典が古過ぎ、一方ドイツ民法(啓蒙教科書法典のプロイセン法ではない[1,061])の設計思想が新しい時代に適合していたからである[1,062]

梅謙次郎の説明[編集]

仏国民法は……其条数2281亦浩瀚と謂うべし……古来の陋習を確信したる良規定多きは蓋し学者の認むる所なり、唯編纂の体裁其宜しきを得ず其規定亦細目に渉る……嫌なきに非ず是新民法が主として範を此法典に取らざりし所以なり[1,063]

……独逸……第一議会草案は2164条より成り第二議会草案は2359条より成れり……実に浩瀚と謂うべし故に往往細目に渉りて規定を成すことなきに非ずと雖も而も仏国民法の如く徒らに冗長に流れず又重複に渉れるも稀なり且法理の微を究め殆ど想像し得べき一切の場合を網羅して復た遺憾なからしめ又其体裁に於ても……能く学理を貫徹し……流石は現時学者の淵叢を以て称せらるる独国たるに恥ぢず、若し此法典にして終に発布せらるるに至らば実に古今独歩の美法典と謂うべし、故に新民法が尤も模範とせしは此草案に在るなり[1,064]

但各国の法律皆多少の長短あるが故に新法典は決して一模範に拘泥せず汎く各国の法律を参照し……たることは既に……論じたるが如し[1,065]

……普漏西国法は……刑法に関する部分を除き猶ほ1万7548の多きに及び……中には刑法の外諸種の公法、商法等に属する条数少からずと雖も其法文の体裁極めて平易を旨とし説明、引例常に法条の過半を占め且其規定も細目に渉れるが故に其条数の遂に万を以て数ふるに至りたるも敢て怪むに足らず故に普漏西国法は独逸法の基礎を成すに拘らず之を参照して利する所甚だ多からざるなり[1,066]

— 梅謙次郎「我新民法と外国法」

平野義太郎の説明[編集]

マルクス主義法学者平野義太郎も、明治民法がまずドイツ民法第一草案に拠ったのは、それが特殊ドイツ的だったからではなく、西洋法共通の祖であるローマ法を普遍化・現代化した法典だったからであると説明している[1,067]

我民法典は、ドイツ民法第一草案とフランス民法とを模範とし、其の長を採り短を捨て、速成の割合には完成した――或いは歴史上先例なきが如くに思ふ人も或る程の――ものである。

しかし、一般の継受法がさうであったやうに、日本が外国法を継受したのは、外国の活きた法律を継受したのではない。……何を継受したかと云へば、最も抽象された一般的の法規、即ち幾度となく篩にかけられたローマ法の継受であったので、それはローマの社会の内部的秩序でもなく、中間の継受国ドイツの法律生活を規律した規範でもなかった。それ等の内面的生活如何を顧ず凡ての場合に妥当する普遍的な判決規範の継受であって……日本法にして外国法とも間違へられるものであった[1,068]

— 平野義太郎『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』

戦後の学者の説明[編集]

これに関しては、明治14年以後のフランス法からドイツ法への転換は、明治14年の政変に伴うプロイセン流の国家思想への接近を反映したものだとの見解[1,069]も戦後には有力に主張されており、憲法や行政法の場合ならともかく、日本民法がドイツ法の影響を受けて成立・発展したのは、単にドイツ法学の優秀性が高く評価されたに過ぎない[1,070]とする見解と対立している。

旧民法はどのように影響したか[編集]

「旧民法」を「修正」すると云ふ建前ですから必ず先づ旧民法を攻撃して然る後に修正原案を維持する訳を述べた。ですから、旧民法の採るべき所は採ると云ふ事に勢ひなる訳です。殊に親族・相続法は相当に日本の旧慣を参酌して出来たものですから、親族・相続は旧民法に大分似て居ります[1,071] — 仁井田益太郎

登記の効力については、それを欠いた不動産の物権変動を「無効」とするドイツ法の主義は日本の実情に合わないという理由で、結果的に仏法系の対抗要件主義が維持されている(現177条[1,072]

仏法系の先取特権滌除も維持[1,073]

財産法についても旧民法及びフランス法の影響を強調する法学者として、戦前の杉山直治郎[1,074]、戦後の星野英一がいる[1,075]

英法はどのように影響したか[編集]

英法派が延期派の中核であったにもかかわらず、現行民法に対する英法の影響は僅少である[1,076]

その理由としては、穂積陳重以外の起草者二名が英法に十分精通していなかったこともあるが、ベンサムの主張にもかかわらずイギリスが遂に体系的な法典を制定せず体系的な緻密さを欠いたこと、不動産法における部分のように、英法に封建法的要素を残した部分があり、近代法の観点から不適当だったことが挙げられる[1,077]

民法典論争で勝利した英法派は、現行民法典成立によって、その後凋落することになった[1,078]

財産法はどのように修正されたか[編集]

新時代への対応[編集]

  • ドイツ民法草案に倣い、パンデクテン方式法律行為理論を採用し、
  • 公法・手続的法規定、商法との重複規定を削除して私法の基本法としての性格を貫徹し、
  • 旧民法に多数あった定義、民法の大原則、分類などの教科書規定をほとんど削除して条文数を大幅に圧縮し、解釈の弾力性を高めて、激動する社会の変化に備えた[1,079]

冗長な教科書的規定が一掃されたことで、確かにわかりやすくなったといわれている(利谷、福島[1,080])。

ホッブズ流の国家主義も、ルソー流の個人主義も、近世自然法論はいずれも法人を個人と国家の間に位置する中間団体と見て敵視していたから、フランス民法典は法人に敵対的姿勢を採っていた[1,081]が、法人設立許可主義の原則を特別法で緩和しようという構えを見せた旧商法の立場から一歩進めて、ドイツ民法草案を参考に、

  • 明治民法は準則主義へ転換し[1,082]
  • 来たるべき資本主義社会の到来に備えて、民法上の法人の規定を拡充させた

のも重要である[1,083]

政治的中立性[編集]

ドイツ民法草案及び成案は、「総則」の後、パンデクテン法教科書やザクセン民法の立場を退け、「物権」ではなく「債務」法を先に置く[1,084]

バイエルン民法草案の立場を採用したものであるが、これには極度の重商主義の現れとするギールケからの批判があった[1,085]

日本民法はザクセン民法の主義を採用している[1,086]

もっとも、当初債権は旧民法同様「人権」の語が採用されており、ドイツ法に倣い「債務」とすべきではないかという磯部や穂積八束らの提案もあったが多数の支持を得ず、最終的に穂積陳重によって、天賦人権論を想起させる人権の語を避け、政治的に無色・無難な「債権」が採用されたという経緯がある(星野)[1,087]

倫理への配慮[編集]

旧民法が従来の慣習・倫理に反するとの批判への対応として、明治民法は個別の制度についても修正を加えた[1,088]

  • 慣習法が成文法に優先すべき場合のあることを個別・例外的にのみ認めるのではなく、一般原則として認める(現92条[1,089]
  • 金銭に見積もりえないものについても債権の目的となることを認める(現399条[1,090]
  • 精神的損害等の無形的損害についても、不法行為による損害賠償の対象に含める(現710条[1,091]
  • 裁判上の「錯除」に依らなければ効力を生じないとする旧民法の主義は改められ、「法律行為」の「取消」は、「相手方に対する意思表示」のみで効力を生じるものとなっている(現123条[1,092]

旧民法の債権譲渡自由が個人主義に過ぎ、弱肉強食の経済社会を招くとの批判に対しては、

  • 譲渡自由を原則としつつも、「性質上」できないものがあることを明示し、また当事者の「特約」によって予めこれを禁止できる(現466条)ものとした[1,093]

慣習への配慮[編集]

旧民法編纂過程から大きな批判を浴びた物権法分野についても、ボアソナードの土地法構想は大きく修正されている[1,094]

  • 日本の慣習に反すると批判された旧民法の賃借権[1,095]・用益権・使用権などを廃止して所有権を拡充し[1,096]
  • 賃借権を債権と構成して、借地関係については債権たる借地権と、物権たる地上権の二元主義にした[1,097]

これは、物権と債権を明確に区別するパンデクテン方式の帰結の一つである[1,098]

また、かつて石造建築が主であった西洋諸国と異なり、木造建築が多く、土地と建物を一体と見ない日本独自の制度として[1,099]

普通の土地賃貸借契約による債権と、物権として事実上所有者と大差無い保護を受ける永小作権とに二分する形を採っている[1,101]

(もっとも、債権的な借地権しか持たなければ、借地人は特別法の制定無しには地主が交替した場合に直ちに借地権を失う弱い存在であったかというとそうではなく、両者の中間的存在として、債権的な借地権にも第三者対抗力がありえたことが明治初期の判例群から伺われる[1,102]。)

旧民法は農村に不適合で、その現れとして入会権について全く規定していないとの批判に対しては、膨大な慣習調査の結果を咀嚼する時間の無いことから、やむをえず妥協的立法で済ませている(現263294条[1,103]

この不備は、権利思想・個人主義の発達と相まって、全国の山林を禿げ山にする弊害を生んだ[1,104]

なお、成文法が日本の慣習法の集大成ではなく、外国法の再構成であることから、日本の慣習をどの程度成文法に優先すべきかは、起草者以来の難問となっている[1,105]

古典的自由主義の徹底とその限界[編集]

個人主義・自由主義を採り、ヨーロッパ的な所有権絶対の原則・契約自由の原則を採るということは、個人の創意・競争心を刺激して資本主義社会の発達に資する反面、必然的に富の偏在、貧富の格差を産むということでもある[1,106]

明治民法は最新の立法の主義を採用した一方で、民法典が古典的自由主義に傾きすぎ、弱肉強食の過当競争を招くとの批判に対してはこれを退け、国法は私人間の関係になるべく介入するべきでなく、また民法は私法の基本法に徹するべきであるから、当事者の自律的な温情・徳義に期待して、社会政策的な規定は民法典に盛り込まないという立場を採っている[1,107]

これは、法律と道徳のバランスをどう取るかの問題でもある[1,108]

穂積陳重の立場[編集]

穂積陳重が採ったのは、イギリス流の社会ダーウィニズムの影響を受けた法律進化論であり、そこから導き出されるのは家族生活の段階的解体[1,109]のみならず、穂積八束が批判した、自由競争の促進による適者生存の原理であったと解しうる[1,110]

ただし、穂積陳重の法律進化論は、「法律」も進化する、というだけであって、その方法は単純な生物学上の進化論(社会進化論)の応用ではなく、あくまでも比較法学であり(進化主義)、弱肉強食・自然淘汰のダーウィン理論をそのまま当てはめようとしたわけではないことも指摘されている[1,111]

梅謙次郎の立場[編集]

梅謙次郎の場合、利息制限法の民法典への組み入れや、独占禁止法労働法の制定に反対し、ビスマルクに賛同して社会主義者鎮圧法の制定に賛成するなど、重商主義的見地から経済的自由主義を徹底して、弱肉強食は経済発展上むしろ是認奨励されるべきとの立場であった[1,112]

梅ら断行派が古典的自由主義の貫徹による近代化政策に楽観的に過ぎたことは、マルクス主義の観点からも強い批判を受けている(遠山)[1,113]

契約から身分へ[編集]

一方、ドイツ民法第二草案は、ギールケらの批判を受けて僅かに社会主義への兆しを見せたが、平野義太郎が主著『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』で強調するように[1,114]、明治民法はドイツ第一草案と同じくローマ法的なままに、したがって自由主義的なままに成立したのである[1,115]

我民法起草時には、我にはギールケがなかった。従て、ギールケの非難に値した諸規定は其のまま継受された。だが、経済的自由主義の勃興しかけた当時の日本にとっては、左程不幸事ではなかった。寧ろ権利を尊重し個人を自由に活躍せしめることは必要でもあり、従ってまた祝福されるべきものであった[1,116] — 平野義太郎『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』

このように明治民法がフランス民法・ドイツ民法第一草案と同じく19世紀の楽観的自由主義を採って、近代的な所有権絶対の原則契約自由の原則を維持徹底し、権利本位の社会を構築したことは、刑法の罪刑法定主義と共に、明治の目覚ましい経済発展の礎となったが[1,117]、反面、資本主義社会の急速な進展に伴い、必然的に小作争議の激化や環境問題などの弊害と、特別法や判例による修正を生み出すこととなった[1,118]

ここにおいて、「身分から契約へ」のテーゼは、修正を余儀なくされたのである(身分から契約へ、契約から身分へ[1,119]

家族法はどのように修正されたか[編集]

「民法出でて忠孝亡ぶ」の標語が影響して旧民法が施行延期されたからと言って、直ちに法典調査会が反動化したわけではなく[1,120]、副総裁であった西園寺公望から、旧慣に基づく戸主制度の全面撤廃論が出され、渋沢栄一や磯部四郎らがこれに同調するなど、家制度廃止論者が攻勢を強める局面すらみられた[1,121]

一方、起草者らも積極的に家制度を法律的に保全しようとしていたわけではなく、現に社会慣習としての家制度が存在する以上、法律によって強引にその廃止を図ることこそすべきでないものの、他方明治維新後の社会変動によって、旧来の家制度は暫時瓦解することが予想されるから、法律によって永続的に家制度を保全すべきでもなく、近い将来の家族法改正を見越して過渡的な暫定規定を置くべきだという認識で起草委員三者は一致していた[1,122]

親続編調査の方針は……一方に於て弊害なき限りは従来の制度慣習を存することにし、又一方に於ては社会の趨勢に伴って社会交通が開け其他種々の原因よりして社会の状況が少しく変れば直ちに法典を変へねばならぬと云ふやうなことにならないこと……を以て編纂することが必要であらうと考へます、既成法典は此二点から見れば多少修正を加ふべき点はありませうけれども、根本的に改正を加へねばならぬと云ふ程の点はないやうに思ひます[1,123] — 富井政章、法典調査会『民法議事速記録 第四拾貮卷』第124回法典調査会(明治28年10月14日)
昔かしの家族制は私は断言します、今日及び今日以後の社会には到底適しない、固より今日法律を以て家族制度を砕くといふことは宜しくありますまい……唯だ無闇に家族制度を強くすると云ふ方に偏傾してはならぬと云ふことに確信しております[1,124] — 富井政章

起草当事者側からの説明によれば、旧民法と大きく異なるほぼ唯一の点としては、婚姻・養子縁組の成立につき、慣習無視をあえて進めて、届出主義を採用したことが挙げられている(仁井田)[1,125]

新民法典の構成[編集]

パンデクテン方式を採用し、相続法編を独立させて財産法から明確に分離したことは、家督相続を柱とする相続法を売買契約などと同じく財産取得法の一種とする法体系は不自然であるという延期派による批判への回答にもなった[1,126]

これを法律進化論に基づく漸進的社会改革論として高く評価する[1,127]か(星野通もこの立場[1,128])、保守派への妥協であって官僚主義の現れと見るか[1,129]は評価が分かれている。

また、民法典論争で最も激しく争われた家族法領域を後回しにして、先に財産法を成立させることで、法典の早期成立を図ったとか[1,130]、あるいは、家族法は過渡期の立法であり早々に改正が必要になると予想していたことから、体系上財産法と分けることで、改正しやすくしたとの側面も指摘されている[1,131]

戸主権の修正[編集]

民法典論争で最も激しく争われた親族法分野については、家制度・戸主権を前提としつつも、その弊害をできるだけ少なくしようとする努力が行われた[1,132]

戸主の同意を得ない身分行為を無効や取消原因にすべきだという主張は、明治民法の立法において、家族制度擁護論者からすら現れていない[1,133]

旧民法で不鮮明だった離籍権を明治民法が明文化したのは、行使の結果戸主が扶養義務を免れるに留まる為、離籍される事、扶養を受けなくなる事の痛くない者には睨みが効くものではなく、実害は無いとの考えであった[1,134]

前述の戸主届出の原則は、明治民法によって当事者届出制度に改められた[1,135]

法律は、依然として、戸主といふものを認めてゐるが、唯だ、其一家の代表者として認めてるほどの事で、決して、生殺与奪といふが如き、強力の権力を認めてゐない。故に、家族に対して、懲罰権をもたぬのみか、……戸主は、相続によって、其家の財産を持ってゐるから、家族を扶養する義務を負はした。かうなってみれば、其財産は、たとへ、戸主の名義でも、其実は、其一家の共有と同じ事だ。……要するに……戸主といふ者は、殆んど、必要がない様になった

……新民法施行以前は、別段、之といふ法律もなく、唯、慣習でやってゐた所から、婚姻などは……随分、公けに認められぬ夫婦があった。是は、男女が、互に、想ひ想はれて夫婦になり度いといふても、戸主、又は、親が許さぬといふ場合に、其男女が法律以外に夫婦の状態を為すのである。……新民法では、斯る場合には、其戸主の監督を離れて離籍する事の出来るやうにしてある[1,136]

— 梅謙次郎(引用者、平野義太郎)

その結果、家族に対する明治民法の戸主権は、極めて貧弱なものとして、引き続き批判されることとなった[1,137]

親権の修正[編集]

戸主権に吸収されるべきとの主張や、「親権」を認めず父権とすべきという延期派の主張は採用されていない[1,138]

一方で、延期派から槍玉に挙げられた母の財産管理については、親族会の同意を要する旨定められ(886条)、父母の不平等が拡がる結果となった[1,139]

もっとも、親権者と子の利益相反規定(888条)、並びに親権喪失規定(896条~899条)は旧民法に存在しないことから、この点では明治民法の方が子の利益を良く保護しているといえる(手塚)[1,140]

旧民法第一草案の規定が明治民法で復活したものである[1,141]

婚姻・養子の修正[編集]

婚姻の成立要件につき、旧民法編纂過程で元老院に削除された個人主義的規定が復活している[1,142]

旧民法人事編38条

  • 1.子は父母の承諾を得るに非ざれば婚姻を為すことを得ず

明治民法772条

  • 1.子が婚姻を為すには其家に在る父母の同意を得ることを要す
    • 但男が満三十歳女が満二十五歳に達したる後は此限りに在らず

また、旧民法は西洋諸国の場合と同様、法定の届出の後、慣習に則った「儀式」(典型例:教会での宣誓、神前での三三九度の杯)を行うことによって成立するとしていたが(人43条以下、67条)、繁雑に過ぎ現実的でないとの理由から、明治民法はあえて慣習を無視して簡略化し、届出のみをもって婚姻が成立するとしている[1,143]

養子縁組の場合も同様の変更が行われた[1,144]

婚姻の効果については、明治民法は、旧民法で夫婦間の贈与以外の契約を禁止していたのを改め、その取り消しは、訴えを要さず、相手方に対する「意思表示」のみで当然に効力が生じるとしている(現754条)[1,145]

明治民法の婚姻法は、依然としてフランス民法典を介してカトリック教会法の間接的影響が指摘されるが(旧765~771条、778条1号等)、伝統キリスト教が蛇蝎視した協議離婚制度を旧民法から継承した為、キリスト教的観点からも非難に値するものとなった[1,146]

妻の財産的行為能力を日常家事行為まで含めて一般的に否定するフランス民法の極端な立場は退けられ、重要事項にのみ夫の同意を要求するイタリア民法の主義が採用されている[1,147]

フランス民法旧217条

  • 妻は、共有財産制の下に在らざるときは、又は別産制の下に在るときと雖も、行為に於ける夫の協力又は書面に依る同意なくして贈与、有償又は無償名義に依る譲渡、抵当権設定行為、取得行為を為すことを得ず[1,148]

旧民法第一草案68条

  • 婦は夫の允許を得るに非ざれば贈与を為し又は受諾し不動産を移付し書入し又は質入し借財を為し元本を譲渡し質入し又は領収し保証を約し及び使役の賃貸を為すことを得ず
  • 並びに右の諸般の行為に関して和解を為し仲裁を受け及び訴訟を起すことを得ず

明治民法14条

  • 1.妻が左に掲げたる行為を為すには夫の許可を受くることを要す
    • (※元本領収・利用、借財・保証、不動産・重要動産の得喪、訴訟行為、贈与・和解・仲裁契約、相続承認・放棄、贈与・遺贈、身体を羈絆する契約)
  • 2.前項の規定に反する行為は之を取消すことを得

明治民法804条(現761条)

  • 1.日常の家事に付きては妻は夫の代理人と看做す

相続の修正[編集]

相続法については、旧民法でフランス法系の技術的規定と日本固有の家督相続制が矛盾衝突したため、ドイツ民法草案を介してローマ法の遺言相続主義の法理を採り入れ、学理的整備を行っている[1,149]

しかし、前述のとおり、通説は根本的修正には至っていないと解しており、相続法は旧民法以来のフランス民法の影響が最も強く残っている分野の一つである[1,150]

家督相続においては全財産の一人相続、遺産相続においては均分相続を採る旧民法の二元主義(財取294、313条)はそのまま維持された[1,151]

起草段階で大きな議論があった[1,152]か、無かった[1,153]かは評価が分かれる。

遺産相続人たる直系卑属の範囲を家に在る者に限定していた旧民法の主義(財取313条)は明治民法(994条)で改められ、家制度はこの点で無視されている[1,154]

法定推定家督相続人の去家禁止[編集]

法定推定家督相続人の去家禁止(明治民法744条)については、明治民法の方が旧民法より家制度を強化した点である事に異論は無い[1,155]

所謂「家付きの娘」は婿を取るしかできず、嫁に行くには廃嫡手続をして夫の家に入籍させなければならないことになる(旧744・975条)[1,156]

もっとも、原案では法定推定家督相続人を含む「成年の家族は戸主の同意あるときは何時にても分家を為すことを得」となっていたのが、磯部四郎の反対によって議論が紛糾した結果、分家のみならず婚姻縁組等によっても他家に入る事に制限を設けるべきとされた(法典調査会第129回法典調査会第130回[1,157]

旧民法人事編251条

  • 家督相続に因りて戸主と為りたる者は其家を廃することを得ず
    • 但し分家より本家を承継し其他正当の事由あるときは区裁判所の許可を得て廃家することを得

明治民法744条

  • 1.法定の推定家督相続人は他家に入り又は一家を創設することを得ず
    • 但し本家相続の必要あるときは此限に非ず
  • 2.前項の規定は第750条第2項の適用を妨げず

フランス民法典にも類似の規定があり、家付き息子・娘(仏:enfant de famille)の婚姻には厳格な制限があった(旧151条)[1,158]が、徐々に緩和され、1933年改正法により撤廃された[1,159]

明治の初年には合家の制度があったが、仏法啓蒙期の1876年(明治9年)頃廃止されてしまった[1,160]

新民法典の完成[編集]

日本政府は、条約に認められた最も早い時期に条約実施を達成すべく民法編纂を急ぎ、梅が危惧していた、英仏両派の対立により民法典成立がいたずらに長引くといった事態に陥ることなく、両派の精鋭に成る法典調査委員会は一致団結して努力を重ね、とうとう母法であるドイツ民法典(1900年施行)に先駆けて成立するにまで至った[1,161]

第9回帝国議会において、衆議院は、商事会社との混同を避け、「組合」の語を会社に代えて採用、また永小作権の最短期が政府案で10年だったのを20年に修正、賃貸借の存続期間も同様に延長して成立させた[1,162]

他にも、流質契約禁止規定(349条)の挿入等、細かい修正を行っている[1,163]

旧民法中の「明治二三年民法財産編財産取得法編債権担保編証拠編を廃止し」、第一編総則・第二編物権・第三編債権とする「民法中修正案」は、1896年(明治29年)2月26日の第九会帝国議会の衆議院に提出され、両院での審議を経て同4月27日に法律第89号として公布、旧民法(財産法)は正式に廃止された[1,164]

第四編・第五編の親族法・相続法については、明治29年12月31日の施行期限に起草が間に合わなかったため、いったん一部延期法を明治29年12月に成立させたうえで[1,165]、後日別個に議会に提出して成立するという形を採っている[1,166]

旧民法人事編を廃止し第四編親族・第五編相続とする「民法中修正案」は1898年(明治31年)5月21日の第十二回帝国議会の衆議院に提出、6月両院で可決・成立。21日には明治31年法律第9号として公布[1,167]

これによって、「第一編」から「第三編」までは明治29年法律第89号、「第四編」「第五編」は明治31年法律第9号という形式上別の法律になったが、これは後二編(親族・相続)は外国人に適用が無いから条約発効に好都合だというので先に前三編だけを成立させたという事情によるもので、「第四編」「第五編」とされている家族法部分が財産法と別法典だというのは全くの俗説誤解の域を出ない(梅)[1,168]

7月16日から財産法・家族法共に同時に実施され、翌32年7月16日から諸国との間の新条約が実施されることとなり、領事裁判権が撤廃された[1,169]

新戸籍法の制定[編集]

ヨーロッパ法系の身分証書と、日本の実社会との調和を如何に図るかは江藤新平以来の難題であったが、明治民法と同時に制定された明治31年の戸籍法については、同法起草委員穂積陳重の法律進化論に基づき、いずれ個人主義的な身分登記に一本化されるであろうとの予測の下、身分登記を主とし、団体主義的な戸籍簿規定が付随する二元主義を採ることで一応の解決をみた[1,170]

しかし、実務上身分登記が機能しなかった為、大正3年の戸籍法大改正で戸籍簿に一本化された[1,171]

民法典論争延長戦[編集]

立法の本質は「妥協」にほかならない(我妻)[1,172]

明治民法もまた、古過ぎるという批判と、新し過ぎるという批判に挟撃されることになる[1,173]

村田保の評価[編集]

旧民法の編纂に携わりその欠点を熟知し、貴族院議員として法典論争の延期派をリードした村田保は、第九回帝国議会(明治29年)においては、

  • 冗長な教科書法典であったのがスリム化されたこと
  • 用益権、使用権、住居権、賃借権といった日本の慣習に反する規定が削除されたこと
  • 外国人起草に依らず日本人自身の起草に成ること

を挙げて、明治民法財産法成案に満足である旨述べている[1,174]

帝国議会の明治民法批判[編集]

元田肇(英法派・延期派)
山田喜之助(英法派・延期派)

1898年(明治31年)の第十二回帝国議会において、外国人に対しても原則として権利能力の平等を認めた第2条(現3条2項)に対しての批判があり、安部井磐根や元田肇ら対外強硬派(延期派)により、原則と例外を逆転させて、「外国人は法令又は条約に別段の規定ある場合に限り私権を享有す」という修正案が出された[1,175]

フランス民法はこの立場である(星野)[1,176]

フランス民法11条

  • 外国人は該外国人が属すべき国家の条約に依りフランス人に現に与へられ又将来与へられるべき私権と同じきものをフランスに於て享有す[1,177]

日本民法3条(明治民法1条・2条

  • 1.私権の享有は、出生に始まる。
  • 2.外国人は法令又は条約の規定により禁止される場合を除き、私権を享有する。

政府委員は、今更そんな思想の法典が出来ては困ると仰天し、穂積陳重(法例起草者)、山田三良(法例起草補助者)、梅らにより説得工作がなされ、元田が撤回して事なきを得た[1,178]

また、家族法については、外国人に適用されない法領域であることから、条約改正の為に法典を急いで規定すべきでないという民法典論争以来の論点が再燃した[1,179]

これに対しては、条約発効の為に全編施行が必要不可欠であるというのが政府委員梅の説明であった[1,180]

結局、全編施行が無ければ、伊藤内閣に無用の外交上の負担を掛ける事になりかねないという鳩山和夫(英法派・延期派)の条約改正優位論が説得力を持ったようである[1,181]

内容面については、衆議院において明治民法の隠居制度や家督相続を批判する山田喜之助(英法派・延期派)の反対論があったが、多数の支持を得なかった[1,182]

明治初年に於きましては、家督権利杯と云ものは一向其考へがないで以てやりました……相続と云ふものは、凡ての子供が均一に相続するの方あると云ふのを長子のみ相続するのであると云ふことに変へまするも、凡ての子供と云ふものは、現に法律に依って得て居る権利を法律の改正のために奪取られて仕舞ふのです[1,183] — 山田喜之助、第十二回帝国議会(『大日本帝国議会誌 第四巻』所収)

更に、沼田宇源太により、ヨーロッパ個人主義と日本的家族主義の混淆に成る民法草案全部の廃棄が主張され、是松三郎の賛同を得たが、これも多数の支持を得なかった[1,184]

富井政章の明治家族法批判[編集]

富井政章は、明治民法の親族・相続法が公布された後もなお、家族法の法典化に反対する意見を開陳している[1,185]

江木衷の明治民法批判[編集]

旧民法に強硬に反対した江木は明治民法にも反感を示し、「空理空論」の独法系の現行法より仏法系の旧民法の方が余程完全だったと主張している[1,186]

穂積八束の明治民法批判[編集]

穂積八束は明治民法の審議を通じて、民法典論争以来の主張を繰り返したが、その姿勢も弱く、積極的な支持者も無く、多くの重要局面で家の論理の貫徹を阻止されたから、八束には到底受け入れがたいものであった[1,187]

民法典論争において、準正や限定承認、時効制度等、日本の国情に反するとして激しく非難されたものの多くは何れも明治民法にも採用され、その為に明治民法は引き続き民法典論争以来の非難を受ける事になる[1,188]

明治民法によって「忠孝」を全うすることは不可能となったのである[1,189]

施行間近となった明治民法に対して、八束は次の様に述べて切歯扼腕している[1,190]

欧州の範型に鋳造されたる新法典は将に其成るを告げんとす。今にして日本固有法を説くは死児の齢を数ふるに似たり。然れども予は好で法の過去を論ず。死児は蘇すべからず。我数千年の民族固有法は他日天定め人に勝つの時なきを絶望せざればなり。家といふ観念の如き蓋其一なり[1,191] — 穂積八束「「家」の法理的観念」

なお、家永三郎史観を前提に、明治民法は八束の主張を全面的に受け入れて成立した「忠孝亡ぶこと無き民法」、「国家的民法」であった[1,192]、との事実認識に立つ学者もいる(白羽祐三)。

梅謙次郎の明治家族法批判[編集]

梅謙次郎は、こと財産法については、「今後百年位は格別の事もあるまいが、幾分か今日よりも進歩する」と自画自賛する一方で[1,193]、家族制度は封建の遺風なりと断じ、これを保守しようとする明治民法(家族法)は必ず改正の必要に迫られると批判している[1,194]

家族制度の廃滅、及び、隠居制度の廃滅、それから、養子制の減少、これだけは、今日において、断言して憚らぬ。是れは、百年といはず、ここ、二十年か、三十年の中には、恐らく、実施される事で、なぜかといふに家族制度といふものは、元来、封建の遺習であって、到底、今日の社会の進歩に伴はない制度であるからだ。……こんなことをいふと、弟穂積などは、困ったものだといふかもしれないが、しかし、社会の趨勢は、滔々として、此の方向に押し寄せて来るには仕方がない[1,195] — 梅謙次郎「二十世紀の法律」読賣新聞、明治33年1月5日

つまり、「民法出でて忠孝亡ぶ」の論争は、明治民法の成立を以って決着せず、民法施行後に持ち越されることになったのである[1,196]

教育界・政界の家族法批判[編集]

奥田義人(英法派・延期派)
花井卓蔵(英法派・延期派)

そこで、明治民法は非道徳的・個人主義的に過ぎるから、忠孝の道徳と法律の実際を一致させるべきとして、旧民法と同様に改めて批判と改正論が浴びせられることとなる[1,197]

第1次山本内閣文部大臣として入閣した奥田義人(英法派・延期派)は、個人主義の国であるスイス民法で認められている程度の家長権や家産制度すら日本民法は認めていないと指摘し、貴族院議員江木千之は、明治民法は「個人主義の極端」であり、「是ほど家族制度を破って居る国は恐らくあるまい」と嘆いて、民法改正を主張した程であった[1,198]

そこで、1919年(大正8年)に開かれた臨時教育会議は、家族法の個人主義的規定を「醇風美俗」に合致するよう改正すべきと建議したが、法曹界の主導により、家族法改正事業は花井らの抵抗を押し切って正反対の方向に進んだ[1,199]

産業構造の変化に伴う家制度の崩壊[編集]

旧民法・明治民法が採用した長男「単独」相続制は、二、三男をプロレタリアとして農地から投げ出すことを強制するものだとの主張もあるが、日本の狭少な耕地と低い生産力、地租の重圧という諸条件の下で仮に法律上均等分割相続を規定したとしても、農民のプロレタリア化は免れないので、当を得ないと批判されている(川島武宜[1,200]

ところが農業が生活の基礎だという状態はだんだん少なくなって来る。社会の多くの人々の職業は何かというと、サラリーマンである。……サラリーマンの家において何か生産されるかというと何もされない。主人の月給を皆で消費する。……しからばその、社会的ファンクションは何かといえば、それは子供を育てて行くということである。それが……家に残された最後の社会的機能である。……家の承継としての相続は、……農業の家とサラリーマンの家とによって、全くその意味を違えて来る。……子孫のために美田を残すということは、サラリーマンには通用しない。……三万円の定期預金は三人の子に一万円づつ分けられると社会的損失を来たすか、来さないか……分けるということが単に兄弟の間で公平であるというだけでなく、分けることが財産の社会的ファンクションに何ら影響を与えない[1,201] — 我妻栄

資本主義の発達に伴い農村共同社会が解体され、都市に人口が流入して家族生活が変化して、複数世帯間に及ぶ戸主権を必要とする社会的実態を失っていたから、法曹界においては、現実の夫婦・親子を中心とする小家族の保護を主眼とし、戸主権の制限を加え、また女子や私生児の地位向上・男女平等を実現しようとする改正論が主流であった[1,202]

また、家督相続における長男単独相続制の問題は、「単独」相続であることではなく、法律で「長男」単独相続制を規定したことであった[1,203]

明治以前の庶民、特に農民においては、必ずしも長男相続に固定されず、具体的事情に応じて様々な相続形態が選択されていたからである[1,204]

そこで、穂積陳重や富井政章、更に陳重の息子穂積重遠らが中心となって社会の実態に合わせた改正事業に取り組み、1925年(大正14年)の「親族法改正要綱」「相続法改正要綱」への結実を経て、戸主権による居所指定に従わなかったとき「裁判所の許可」のあるときに限って離籍措置を採ることができるとして、戸主権を制限する等の改正案が成立する[1,205]

梅が予見した程には家制度の解体が速やかに進行しなかったのは、日本の殖産興業を支えた女工が「家」と深く結びついていた事と、大恐慌に際して「家」が失業者を収容し、帰農させる社会的役割を果たした為であった(福島)[1,206]

民法典論争延長戦の決着[編集]

昭和の改正事業はいったん1944年(昭和19年)に中断したものの、日本国憲法制定を受けて、遂に我妻らによる家族法の全面改正に至る[1,207]

ここでは、法律上の家制度全廃を徹底して、健全な家族道徳の保護育成を全面的に教育に委ねようとする我妻栄と、戦前の代表的な家制度緩和論者として我妻と共通の立場に立ちつつも、家庭生活の積極的な破壊までを意図したものと誤解される事を憂慮する牧野英一とで対立があり、両者共に評価の低い妥協的規定が残る事になった[1,208]

民法730条

  • 直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない。
人々は、往々、この度の民法の改正を、戦争に敗れたために心ならずもしなければならない仕事だと考えるようであります。然し、それは……歴史を知らない者であります。

……一つは民法制定当時の論争であり……現行民法は、結局、両派の妥協によって成立しました。

……その後、民法典は、一方からは、不当に家族制度を軽視すると攻撃され、他方からは……家族制度に膠着すると批難されて参りました。

……大正の末年……の改正要綱……を貫く最も大きな特色は、第一に、男女の平等への努力であります。……第二に、戸主権に向かって重大な調整を加えております。……第三に、家督相続の特異性を軽減しております。

これらの諸点は、すべて、ただいま上程されましたこの法案と、全くその方向を一にしているのであります。……この……事実こそ、本法案が、決して、敗戦の結果、心ならずも行う、あらぬ方向への改正ではない、ということを、最も雄弁に物語るものでなくて何でありましょうか。

……当院の憲法審議の最後の段階において、牧野委員から「家族生活はこれを尊重する」という一項を挿入しようとする提案がなされ……私はその修正案には反対いたしました。然し、それは……決して、「家族生活を尊重すべし」という理想に反対するからではありません。ただその理想は、教育の力によって実現されるべきものと信じたからであります[1,209]

— 我妻栄、昭和22年貴族院質問

注釈[編集]

  1. ^ 他二書と異なり、旧民法即ち明治23年法律第28・98号が、「1890(明治23)年に大部分がいったん公布された」に止まるとする意図は不明。
  2. ^ 厳密には、他二書が明示するように財産法部分は1898年ではなく1896年公布。施行は1898年。

出典[編集]

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関連項目[編集]