水木しげる

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水木 しげる
Shigeru Mura 201011.jpg
文化功労者選出に際して
公表された肖像写真
本名 武良 茂(むら しげる)
生誕 1922年3月8日
日本の旗 大阪府大阪市
死没 (2015-11-30) 2015年11月30日(93歳没)
日本の旗東京都三鷹市
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家妖怪研究家
称号 紫綬褒章
旭日小綬章
文化功労者
東京都名誉都民
調布市名誉市民
活動期間 1958年 - 2015年
ジャンル 妖怪漫画戦争漫画
代表作 ゲゲゲの鬼太郎
河童の三平
悪魔くん
のんのんばあとオレ
日本妖怪大全
受賞 第6回講談社児童漫画賞(『テレビくん』)
第13回講談社漫画賞(『コミック昭和史』)
第25回日本漫画家協会賞文部大臣賞(『ゲゲゲの鬼太郎』)
第29回星雲賞アート部門
第7回手塚治虫文化賞特別賞
第5回織部賞グランプリ
第34回アングレーム国際漫画祭最優秀作品賞(『のんのんばあとオレ』)
2008年度朝日賞
第36回アングレーム国際漫画祭遺産賞(『総員玉砕せよ!』)
2012年度アイズナー賞最優秀アジア作品賞(『総員玉砕せよ!』)
公式サイト げげげ通信
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水木 しげる(みずき しげる、男性、1922年[注 1]3月8日 - 2015年11月30日[1])は、日本漫画家文化功労者傷痍軍人。本名は武良 茂(むら しげる)。

大阪府大阪市住吉区出生[2][3]鳥取県境港市入船町出身[2][4]東京都調布市在住。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市で経営していたアパート「水木荘」から名付けた[5]1958年に漫画家としてデビュー。代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。

概要[ソースを編集]

「山高帽の水木先生」像(鳥取県境港市

1922年(大正11年)に大阪で生まれ、鳥取県境港市で育つ。幼少時、まかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受ける。

高等小学校卒業後、画家を目指して大阪で働きながら学ぶ。やがて徴兵年齢に達し、体躯壮健ながら近眼であった事から乙種合格となり補充兵役編入。1943年召集され、帝国陸軍の軍人()として太平洋戦争下のニューギニア戦線ラバウルに出征。過酷な戦争体験を重ね、米軍の攻撃で左腕を失う。一方で現地民のトライ族英語版と親しくなり、ニューブリテン島に残ることも希望したが、周囲の説得で日本へ復員した。

復員後は貧窮により画家の修行を諦め、生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。1958年貸本漫画ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。1960年から断続的に『墓場鬼太郎』シリーズを発表し始める。

1961年飯塚布枝と見合い結婚。1963年、『悪魔くん』を貸本の東考社から出版。1964年、『ガロ』で商業誌デビュー。1965年に『テレビくん』が講談社児童まんが賞を受賞したほか、貸本時代に描いていた『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載され、以降、妖怪を扱った作品により人気作家となった。1966年には『悪魔くん』がテレビドラマ化。最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より5度テレビアニメ化されている。1993年、幼少期を過ごした境港市に町おこしとして水木しげるロードが建設され、2003年には水木しげる記念館が開館した。

長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、1991年紫綬褒章2003年旭日小綬章を受章。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また1973年に執筆した『総員玉砕せよ!』がアングレーム国際漫画祭遺産賞、米アイズナー賞最優秀アジア作品賞をそれぞれ受賞している。妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任。調布市名誉市民、東京都名誉都民2010年文化功労者にも選ばれた。2013年、『水木しげる漫画大全集』の刊行が開始される。

2015年11月30日多臓器不全により死去。93歳没。

生涯[ソースを編集]

生い立ち[ソースを編集]

3歳の頃の水木しげる

1922年大正11年)3月8日、大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区東粉浜[3])に生まれた[2]。父・武良亮一、母・琴江の次男。水木によれば、当時父親の亮一は、親戚が大阪の梅田駅近くで経営していた印刷会社で働いていたという[3]。身重の母親・琴江は夫に会うために境港からやってきて、大阪で水木を産んだ[3]。父は共同経営者とともに農機具輸入販売する会社を興す為に、妻子をいったん故郷の鳥取県西伯郡境町入船町(現在の境港市入船町)に帰した[2]。境港に戻った理由は「大阪は空気が汚れていて乳の飲みが悪い」からという[3]。水木が境港に戻った年齢についてははっきりとわかっていないが、生後まもなくから2歳ぐらいのときとされている[注 2]

その後間もなく父は事業に失敗して帰郷、結局は一家全員が境港に落ち着くことになった[2]

5歳の頃のある日、「死」に興味を抱き、3歳の弟をに突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の大叔母)に「やいと(灸)」をすえられた[9]

少年時代[ソースを編集]

比較的に恵まれた環境で育つが学校の勉強はできる方ではなく、両親が尋常小学校入学を1年遅らせたほどだった。自身も認める超マイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという変わった生徒だった。当時、「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。また、を自在に出すことができ、朝礼のおりなどに放屁して子供たちをワッと笑わせるのが得意だった[10]。そんな調子から成績は振るわず体育と図画以外は「総崩れ」だったが[11]、一歳年上で体格が大きかった為に腕っ節は強く、明るい性格もあってガキ大将として君臨した[10]

尋常小学校卒業後は5年制[注 3]の中等教育学校であった旧制中学校[注 4]への進学を志望していた。昭和初期の農村部の子供は殆どが初等教育で社会に出たが[12]、水木によれば地元の境港は貧しい港町ながら教育熱心な土地柄であったらしく、多くの者が中等教育に進んでいた。水木の母も学歴を気にする性質であったため教育に熱心で、実際に成績優秀な兄と弟は旧制中学校に進学を果たしていた[13]。勉強そっちのけだった水木も漠然と旧制中学受験を希望したが[13]、進路相談で教師は水木の母に「そりゃあ、無理じゃろう」と即答したという[13]。僅かに将来への不安を覚えたが、中等教育の予備校でもある無試験の高等小学校に進むとすぐに忘れて遊び回る子供に戻っていった[13]

高等小学校時代も図画の成績は良く、小学校の教頭の勧めで公民館で授業で描いた絵の展覧会が開かれ、新聞に掲載されたこともあった[14]。学内コンクールでも金賞を何度も取り、鳥取二科展の審査員でもあった先の教頭からは油絵の道具を譲ってもらったりと可愛がられた[15]。高等小学校卒業後も旧制中学校には進めず、社会に出て働き先を探す為に故郷を離れる事になった。生命保険会社に勤めて神戸に単身赴任していた父を頼りに近畿に移り、親戚の紹介で出生地の大阪に舞い戻った[16]

たった一人でふるさとを離れて働きに出る水木のことを不憫に思う母は、兄や弟と違って要領の悪い次男を心配して「お前はこれからどうなるんだろう」「中学に行く人たちとの差は開くばかりだよ」「務まるかなあ」と心配そうに嘆いたという[17]。しかし当の水木は至って平静で、むしろ田舎から都会に出て働くのを楽しみにしていた[17]

青年時代[ソースを編集]

大阪では都会の立ち並ぶビルと行き交う人の多さに圧倒され、夜の街の光には「まるで祭りのようだ」と思ったという[17]。谷町(現・大阪市中央区)にあった石版印刷会社の田辺版画社に住み込みで勤務したが[16]、マイペースさから仕事に付いて行けず僅か2ヶ月でクビになった[18]。次は寺田町にある小村版画社に入社したがこれも配達の道順が覚えられず、やっと道を覚えると今度は下町の職人達の手仕事を見物している内に荷物を届けるのを忘れる有り様で、二度目の会社も解雇された[19]。その後、親戚の家に居候している時に体調を崩して黄疸の症状が出た為、療養すべく鳥取へと戻る事になった[20]。帰郷後、息子に労働は向いていないと思った父親は好きな道(絵の勉強)に進ませる事にした。水木は「もう職探しはやめて絵の勉強を…」という父の言葉に躍り上がったと回想している[21]

18歳ごろの水木しげる

水木は勉学が苦手な自分の気質を考慮して、様々な美術学校から「試験や入学資格の無い所」を探したという。やがて大阪の上本町で、京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)で学んだ画家の松村景春が設立した精華美術学院という、当時としても珍しい無試験の美術専門学校を見つけて入学した[22]。しかし学院は美術学校というには小さな建物で、職員も校長が教員と事務員を兼任するという個人塾のような所で、授業内容も実践的な図案講習会に近かった[23]。立派な画家になるんだと思い詰めて一心不乱に独習を重ねてきた自身の方が、もったいぶって教える先生より技量が上と感じたという[23]。失望から程なく学校には行かなくなり、近所の森や山で時間を潰す日々を送った。ちなみにこの学院には画家の丸木位里も学んでいた記録が残っている[22]

上記の反省から学校を選び直す事を思い立ち、美術系の旧制専門学校である東京美術学校(現・東京藝術大学)で学んで画家になりたいという大きな夢が膨らんだ[24]。高等小学校卒の水木には旧制専門学校の受験資格はなかったので、まずは旧制中学校を再び目指し[24]、精華美術学院を退校して大阪府立園芸学校(現・大阪府立園芸高等学校)を受験した[24]。幸運にも同年の筆記試験は国史(日本史)の一科目だけであり、参考書をほとんど丸暗記して試験に臨んだ[25]。加えて定員50名に対し受験者51名(つまり一人だけが落ちる)という低倍率[25]で、絶対に合格すると自信満々で結果すら見に行かなかったが、父が確認すると不合格だった[26]

水木は不合格の原因について、面接で「卒業したらどうするんだ」と聞かれ、「満蒙開拓義勇軍に入ります」というのが模範回答だが、旧制中学校卒の資格が目当てであって別に園芸や農業に興味はないと正直に答えたためではないかと推測している[27]。流石の水木も惨めな思いをしたが、父は怒らず「本当に満州行きになったらどうするんだ」と優しく慰めてくれたという。

1940年昭和15年)新聞配達で働きながら別の学校(日本鉱業学校採掘科)を受験、今度は合格する。しかし例によって専門科目に全く興味が抱けず、成績不振且つ欠席が多く半年で退学処分となった[18]。間もなく新聞配達も辞め、大阪の朝日ビルディングの中にあった中之島洋画研究所に通っていた。水木は両親と今後を話し合い、両親から日本大学付属の旧制大阪夜間中学校(現・大阪学園大阪高等学校)への進学を勧められ、同校に入学した[18]。昼間には『支那通信』というガリ版新聞を配達する仕事をし、休日には宝塚ファミリーランド動物園や昆虫館、宝塚歌劇によく足を運んでいた[28]。そうした中、太平洋戦争が勃発する。

軍隊時代[ソースを編集]

鳥取連隊(陸軍二等兵)時代
(父・母・弟と)

20歳になった水木は徴兵検査を受け[29]、結果は体は頑健ながら近眼により乙種合格で[30]、補充兵役に編入され現役入営(入隊)はしなかった。だが戦争が激化する中で(甲種合格の現役兵主体では兵員不足のため)次第に召集対象者の枠は広がっていき、やがて自分も召集され入営する可能性が高まっていった。「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えていた水木は哲学書を乱読し、仏教書や聖書など宗教文献を読み漁った[31]。その中で一番気に入ったのが、ドイツの詩人ヨハン・エッカーマンゲーテとの対話』で、これは戦地にも持っていった。21歳の時、夜間中学3年生の補充兵役であった水木に召集令状が届き[29]本籍地の鳥取の歩兵第40連隊留守隊に入営した[29]。なお、在学していた夜間中学は自動的に退校処分となった(後述)。

軍隊生活でもマイペース振りはそのままで、その大胆な態度から風呂で幹部と間違われて古年兵に背中を流してもらった[32]。初年兵教育を終えると喇叭手になったが上手く吹けず、自ら配置転換を申し出た[33]。最初は取り合ってもらえなかったが、三度目に曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた[33]。国内配置についての事だと考え、寒いのが嫌いなので「南であります」と答えた[34]。てっきり九州など国内南部の連隊への配属になると思っていたが、南方のラバウル行きが決定したと告げられて青ざめた[34]。楽天家の水木も南方戦線の惨状は知っており[34]、異動命令の直後に二泊三日の外泊が許されて両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという[34]

歩兵第229連隊(岐阜県。第38師団隷下)所属となった水木をパラオからラバウルまで輸送したのは、日露戦争で活躍した老朽船の「信濃丸」だった[35]。敵潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ、水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後にラバウルに派遣された部隊は全て途中で沈没させられているため、水木の部隊がラバウルに到着できた最後の部隊であった[36]。ラバウルに着いた時、上陸できた奇跡から気が緩んで「ここは何処でありますか」と尋ねてしまい、上官から猛烈な往復ビンタを食らった[37]。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で[38]、特に上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた[38]。配属部隊の上官はなぜか茨城県出身者が多く、強い訛り言葉を水木が聞き取れないとそれもまた鉄拳制裁の理由になった[38]

基本的に軍隊生活と馴染めなかった水木だったが、所属していた第2中隊の中隊長である児玉清三中尉(30歳代後半の材木屋出身の予備役将校)からは、その腕を買われ似顔絵を描く事をよく頼まれていた[39]。他に下士官の宮一郎軍曹軍医の砂原勝己大尉[40]など、親切に接してくれる人物もいた。

ニューブリテン島での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。ニューブリテン島ズンゲンの戦いにおいて、優れた装備と圧倒的な物量の連合軍の前に、所属する支隊の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、児玉中隊長の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。しかし、支隊本部の総員玉砕報告に反して生存者が出たことから、児玉は責任を取って自決した。また島の住民にも襲われそうになった。バイエンに配属され、決死隊として夜間の見張りをしていたとき、敵の飛行機から機銃掃射された[注 5]。さらに逃げていた所を原住民ゲリラに発見され、あわてて海に飛び込んで逃げた[注 6]。水木は銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、落ち武者狩りをやりすごしつつ、奇跡的に生還した[41]。九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられた。「なぜ死なずに逃げたのか」と不機嫌な態度で詰問され、呆然としていると「死に場所は見つけてやるぞ」と言い捨てられた[42]。これ以降、戦場ですら朗らかだった水木も流石に塞ぎこんで虚無主義的な考え方をするようになった[43]

陰惨な日々は続き、帰還してまもなく行軍中に風邪を引いた際にマラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく行方不明になりそうにもなった[43]。追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた[44]。1945年の初め頃、他の傷病兵と後方に送られる。傷病兵の間では「役立たずになった兵士はまとめてどこかに捨てられる」との噂が立っており、水木も少し不安だったが辿り着いたのはナマレに設置された野戦病院で、治療の傍ら畑仕事などに駆り出された[45]

最前線に比べれば安全な土地で死の恐怖が和らぐと、島の原住民であるトライ族と交流する余裕ができた。他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。事ある毎に自分を罵倒していた上官の大尉からは「あいつは頭がおかしいぞ」と陰口を叩かれたが、先述の砂原勝己大尉が庇ってくれたという[46]

8月25日、部隊長から「ポツダム宣言受諾」についての訓示を受ける。水木も他の兵士達も意味する所が理解できず「戦争に勝ったのか?」との囁きが漏れたが、程なく「戦争に負けた」という話だと判った[46]。軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だった[47]。カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ[48]、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった[49]。砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意した。

1946年3月、24歳の時に駆逐艦雪風」で浦賀港に入港し、日本へ復員した。

美術学校時代[ソースを編集]

水木が治療を受けた国立病院機構相模原病院

3年振りに帰国した水木は国立相模原病院(旧・神奈川臨時第3陸軍病院、現在の国立病院機構相模原病院)に入院して、応急処置の段階だった片腕の本格的な治療を待っていた[50]。医者や物資の不足で一向に順番が回ってこないので一旦故郷の境港に戻り、養生する日々を送った。両親は水木が片腕を失った事を知らなかった為、事実を知った後に母が片腕を使わずに家事をしたり、父が片腕無しでも務まる仕事を探して「灯台守なんかどうじゃろう」と知恵を絞ったりと、次男の不幸を悲しんでいたという。しかし水木自身は生き抜いた喜びと「絵を続けられる」という希望を胸に抱き、出征前に目に焼き付けておいた故郷の風景を眺め、清々しい気持ちで過ごしたという[51]。翌年、治療の順番が回ってきたので相模原病院に戻った。

病院直営の染物工場で絵付けの仕事で入院中の生活費を稼いでいたが、雀の涙にしかならなかった。やがて他の患者と闇米の買い出しで生活費を稼ぐようになり、本格的に闇屋家業で一財産を得ようと目論んで東北に食料の買い付けに向かった事もあったが、見事に失敗して「どんな道でもプロになるのは険しい」と反省した[52]。他に病院仲間から誘われて「新生会」という「傷病兵の明るい未来」をスローガンに掲げ、様々な事業を繰り広げていた傷痍軍人団体に加盟し、復員兵による廃墟ビルへの居座りや募金活動などに参加した。この内、居座りについては政府から軽くあしらわれて失敗したが募金活動は上々の成果を挙げ、元気よく軍歌を歌って募金を集めた。だが上層部の内紛で加盟員の離脱が相次ぐと、水木も配給制において政府の許可制である魚屋の資格を申請して転職した[52]。予め契約を取った家庭に魚を届ける形式で、ようやく復員後の生活が安定するようになった。なお、魚屋をはじめる際に荻洲立兵より「突撃あるのみ」と叱咤激励されている。

経済的に余裕が出ると絵に対する思いが湧き上がり、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)が学生を募集中と知る。すぐに入学を思い立つが、旧制専門学校であった同校には旧制中学もしくは新制高校の卒業資格が必要だった。水木は件の夜間学校に掛け合ったが、「出征により退校」となっていた事から卒業資格は与えられないと回答された[52]。それでも在学証明書を貰って美術学校に直談判し、特別に入校を許可される。1948年、26歳の時に入学した美術学校は敗戦直後という事もあって学生の服装は古びていて、技術や年齢層も不揃いだったが懸命に学んでいたという。

仕事の方は新たに輪タク業を始めるべく魚売りの権利を売り、その金で輪タクを四台購入して一日五百円で貸し出し、また弟と協力して米軍物資の横流しなど闇市での商売も続けた[53]。学業と仕事に明け暮れたが、商売はやはり素人商売ゆえに大手に押されてどちらもジリ貧になり、店じまいとなった。起死回生を狙って「新生会」の副会長と二人で全国募金行脚を挙行するも、思っていた程に集まらず、神戸に辿り着いた時には這々の体であった[54]。学業の方も絵で食べていく事の経済的な厳しさを痛感する中で徐々に見切りを付け始め、数年後に中退した[55]。これが水木にとって最後の学業への試みとなり、「色々学校に行ったが、結局は高等小学校卒という事になった」と回想している。

紙芝居時代[ソースを編集]

復員後の道が定まらない状況を過ごしていたが、先の募金旅行で辿り着いた神戸市で滞在した安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらえんやろか」と購入を持ちかけられた。既に抵当が付いていたが、その代わりに格安の値段であったので購入を決意し、輪タク業など今までの事業で貯めた資金をかき集め、足りない分は父に借金して代金を調達した。このアパートが神戸市兵庫区水木通にあった事から「水木荘」と名付け、大家業を始めた。勝手が分からずとにかく不動産屋に頼んで募集の広告を掲載した所、水木と同じ変わり者ばかりが入居し、家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が中々軌道に乗らず副業を探していた所、29歳の時に紙芝居作家の弟子をしているという青年がアパートに入居した。

一度は諦めた絵に対する熱意もあって、その青年から紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。水木曰く「内容がゲイジュツ的」だった為か評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された[56]。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが紙芝居業は非常に薄給で、ましてや実績のない無名の新人作家にはまともな代金は支払われなかった[57]。加えて貸元も絶えず夜逃げの危機にある零細企業であり、その僅かな代金の支払いすら滞りがちであった。暫くして鈴木が林画劇社から独立して自身の貸元「阪神画報社」を設立すると水木も引き抜かれて専属作家の扱いになった。当初は本名で活動していたが、鈴木が水木の本名(武良茂)を覚えてくれずいつまで経っても「水木さん」と間違って呼ぶため、そのまま「水木しげる」のペンネームを使い始めた[57]。専属作家になっても相変わらず薄給のままで、人気の紙芝居作家であった加太こうじの助手なども務めながら本業の収入に頼る状態が続いた。

1953年、ついにアパート経営にも行き詰まると水木荘を売却して購入時に引き継いだ借金を精算し、大家業から手を引いて西宮に引っ越した[58]。それからは紙芝居の専業作家として脇目も振らずに作品作りに没頭し、少しづつノウハウを掴んで「空手鬼太郎」「河童の三平」など後年の活躍に繋がる作品を制作した[59]。しかし水木が紙芝居作りのコツを覚えるのと平行してテレビ貸本漫画など他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退していった。紙芝居に見切りを付けて漫画家への更なる転身を決め、1957年に西宮から上京して貸本の版元に持ち込みを行った。自身と同じく紙芝居から離れていた加太こうじの推薦もあり、兎月書房という小さな出版社から別の作家が書き残した「赤電話」という漫画を完成させる仕事を受注した[59]

この仕事を無事に終えた後、1958年に正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版し、35歳で紙芝居作家から貸本漫画家となった[59]

貸本時代[ソースを編集]

貸本時代初期の水木は主に戦記漫画やギャグ漫画などを中心に制作しており、『飛び出せピョン助』『戦場の誓い』などを兎月書房から刊行した。他にもホラー漫画SF漫画ギャグ漫画少女漫画時代劇などの多彩なジャンルをさまざまなタッチで描き分けている。また作家が他の出版社から作品を出すのを嫌がる傾向があったので、水木しげる以外にもむらもてつ東真一郎など複数のペンネームを使い分けていた。貸本漫画は一冊120ページ程度の作品につき2万5000円から3万円程度の報酬が出版社から支払われたが、これは当時の国家公務員の初任給が1万足らずで、紙芝居が1作200円から1000円であった事を考えればかなりの高給だった[60]。ただしそれは毎月作品を量産でき、なおかつ作品が毎回採用された場合の話であった。遅筆の水木が一ヶ月で作品を仕上げれる事はまずなく、完成しても売れる見込みのある作品でなければ出版社は買い取らなかった。そればかりか他の出版社にも不評の噂が回って締め出しを食らうという過酷な実力社会だった。しかも紙芝居の貸元同様に貸本出版社も零細企業が多く、どうにか納入が決まっても例によって代金の支払いは滞った[61]。懸命に働いても生活は楽にならず、家賃の滞納や質屋通いが続いた。

作品が評価されず不遇の生活が続く内に暗く陰惨な作風が強まり、それが出版社から「作風が暗い」と敬遠されて余計に生活が苦しくなるという悪循環に陥っていった。一時は「水木しげるの名では売れない」と堀田弘竹取おさむなど勝手に作者名を変更される屈辱を味わった。この貧乏生活のさなか、すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、島根県能義郡大塚村(現在の島根県安来市)出身の飯塚布枝見合いをし、同年に結婚した。間に立ったのは布枝の母の弟で、この叔父の妻の実家が武良家の遠縁だった[62]。結婚する最初で最後の機会と考えた水木は「普通の会社員の二倍稼いでいる」と仲人口で見栄を張って洗練された都会人を装ったが、気が緩んだ拍子に方言を連発してしまったという。見合いから結婚式までわずか5日というスピード婚で[63]、式場は米子の灘町後藤のお屋敷が用いられた[64]新婚旅行の余裕すらなく大急ぎで東京に戻り、作品制作を再開した。

この頃の水木は戦記漫画が一番の売れ筋であり[65]兎月書房の貸本用雑誌である『少年戦記』で水木しげる作戦シリーズなどを連載し、また雑誌の編集役を請け負って小松崎茂坂井三郎らとも交流している。しかし肝心の原稿料は出し渋られ、紙芝居業界につづいて貸本漫画業界も衰退すると益々生活が苦しくなっていった。あまりの貧しさに、訪れた税務署員は「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑ったが、水木は質札の束を突きつけ「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と怒って追い返した。結婚の翌年に長女が生まれた時は真剣に漫画家を辞める事も考えたという。そうした中でかつて紙芝居作家時代に描いた「鬼太郎」を題材にする事を思い付いた。

1960年、兎月書房から『墓場鬼太郎』シリーズの執筆を開始し、第一作となる「幽霊一家」が貸本雑誌『妖奇伝』に掲載された。後年の鬼太郎とは全く違う、紙芝居時代に近い陰鬱な怪奇物に仕上げ、当初は全く売れず『妖奇伝』も第2号で打ち切りとなった。だが打ち切り後に一部の読者から熱心な連載再開を要望する手紙が届き、倒産間際だった兎月書房は最後の希望を託して『墓場鬼太郎』シリーズの刊行を継続した[66]。これが人気作となり、徐々に水木しげるの名が知られていく契機となった。水木は「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と述べている[67]

人気作家へ[ソースを編集]

名が売れると多少は強気の姿勢に出られるようになり、『墓場鬼太郎』の原稿料を支払わない兎月書房から三洋社に移籍して『鬼太郎夜話』を刊行した[68]。『鬼太郎夜話』も人気を得たが、三洋社の長井勝一社長が結核で入院して経営が混乱した事で打ち切りになってしまい、既に納入していた5巻目の「カメ男の巻」は原稿自体が行方不明という幻の作品と化している。『鬼太郎夜話』に次いで東考社から『悪魔くん』を出版したが、思ったより人気が出ず、全5巻の予定が3巻目で打ち切りとなった[69]。貸本版の『悪魔くん』は経済的な貧しさから生じた過激な社会風刺に満ちており、「間違っている世の中を倒して、革命を起こす」という過激な思想は当時の水木の「懸命に働いても貧乏が続く」自身の生活の悲しみと憤りから発している[70]。『悪魔くん』の後は兎月書房とも和解して鬼太郎と共に紙芝居時代の作品である『河童の三平』を漫画化した。水木が得意とする妖怪漫画の原型は紙芝居から貸本漫画時代にかけて形作られている。

1964年、復帰した長井勝一から新しく漫画雑誌を作る予定を聞かされ、水木にも参加して欲しいとの依頼を受けた。同年9月に現代漫画の源流の一つとなる『月刊漫画ガロ』の第1号が出版され、水木は創刊号で「不老不死の術」を掲載した[71]。以降、個性派揃いの作家陣が揃うガロにあって、白土三平つげ義春らと並んで雑誌の看板作家として名を上げた。加えて翌年には講談社からもW3事件の影響で「劇画路線」を採用した『週刊少年マガジン』での連載を依頼される。当初は「SF物」との縛りがあった事から悩んだ末に辞退したが、半年後に作風を限定しないとの譲歩を得て執筆を承諾した[72]。貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのに苦労するが[73]、『別冊・少年マガジン』に掲載された『テレビくん』を掲載した。1965年、『テレビくん』が第4回講談社児童漫画賞を受賞して、45歳にして人気作家の仲間入りを果たした[74]

水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界は一大妖怪ブームとなる。また民俗学での専門用語だった「妖怪」が、一般に伝わる経緯ともなった。また、『週刊少年マガジン』で「大図解」を担当していた大伴昌司も、水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。急増した仕事に対処するため、1966年に水木プロダクションを設立。つげ義春や池上遼一鈴木翁二らが参加し、アシスタントを多数使えるようになったため、水木漫画おなじみの「点描が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した非常にユニークなものである。なお、それまでの貧乏生活で、質屋に入れていた物品は質札3cm分にもなっていたが、雑誌連載の原稿料ですべて返済し、質流れになることなく取り戻すことができた。ただ、最初に質屋に入れた背広は、10年経って変形していたので外につるして置いたら、ドロボウに盗まれてしまったという[75]1970年には連載が11誌に達してテレビやイベントの仕事も引き受けるなど時間に追われる日々を過ごした。

気侭な人生をモットーとする水木はどんな状況でも睡眠時間だけは十分に取っていたが、この時期だけは徹夜に次ぐ徹夜で目眩や耳鳴りの症状が出る程だった[76]。またプロダクション設立後は運営経費の捻出にも悩まされ、「漫画では大金持ちにはなれない」と痛感したという[77]。そんな時に軍隊時代の恩人で、戦後は阪急電車の職員になっていた宮一郎元軍曹と26年振りに再会し、二人で戦地を尋ねる旅行に出向く事になった[78]。再訪したニューブリテン島ではトライ族の集落も訪れ、久しぶりに牧歌的な生活を見るにつれて自身のマイペースさを失っていた事に気付き、帰国後すぐに仕事をセーブする事を決めた[79]。またこの時期に本人が最も思い出深いと語る戦記漫画『総員玉砕せよ!』を執筆している。

仕事を抑えた事に加えて初期のブームが一段落した1980年代初期には低迷期を迎え、水木家では夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほど経済的にも遣り繰りが厳しくなったという。一時は水木も「妖怪なんていないんだ」と言い出すなど霊的世界への興味や創作意欲を失ったが、次女修学旅行で「目々連」を目撃した話をしたところ、水木は喜んで立ち直ったという[80]。それから鬼太郎を筆頭に全盛期に描いた妖怪漫画の度重なる映像化や再放送などで人気が復活し、やがて世代を超えた知名度を得ていった。また連載を減らした時からアシスタントには趣味でもあった妖怪絵巻の制作を手伝ってもらい、膨大な数の妖怪画を蓄積していたが、こうした妖怪に関する考察や資料も作品の再評価に繋がった[79]

鳥取県境港市「水木しげる氏顕彰碑」

晩年の活躍[ソースを編集]

水木しげるの墓(当初は生前墓として建てられた)(2015年12月)

ブーム再燃後は『のんのんばあとオレ』『コミック昭和史』など自らが描きたいと思う作品を選びながら執筆するようになり、個性派作家としての人気を確固たるものにした[81]1991年紫綬褒章を、2003年旭日小綬章をそれぞれ長年の漫画家としての活躍を讃えられて受章している。水木の特異なキャラクターと昭和と戦後漫画の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、水木自身について興味を抱かれる機会も増えた。1993年、縁の深い鳥取県境港市の町おこしに協力し、水木しげるロードの建設が開始され、2003年に水木しげる記念館の開館によって完成した。同地は鳥取県における観光名所として発展している。2010年、文化功労者に選出される。

90歳を超えてなお新作漫画を発表し続け、晩年の主な作品としては、長年の課題としていた出雲を描いた『水木しげるの古代出雲』、泉鏡花の生涯を漫画化した『水木しげるの泉鏡花伝』、最後の連載漫画となった『わたしの日々』などがある。『ゲゲゲの鬼太郎』の実写映画や貸本版『墓場鬼太郎』のテレビアニメなども実現した。2010年、妻・布枝の著書『ゲゲゲの女房』がNHK連続テレビ小説としてテレビドラマ化、および映画化されるなど改めて水木の人生に注目が集まった。海外での評価も高まり、フランス・アングレーム国際漫画賞、米アイズナー賞などを受賞している。2011年、東日本大震災について考察した絵を描き、ニューヨーク・タイムズに掲載された。

2013年、自身初の全集となる『水木しげる漫画大全集』が講談社から刊行開始。同年には近況を綴った『わたしの日々』の雑誌連載を『ビッグコミック』誌で開始、90歳を超えて新連載を始めるのは異例の記録となる[82]。その後も、2015年4月より、93歳で『』に小泉八雲の原作に絵をつけた作品である『怪画談』の連載を開始(水木しげる+水木プロダクション名義)。同年12月発売の『怪 vol.0046』に発表された第3回が遺作となった。第4回からは水木プロダクション作品として連載が続けられ、2016年7月発売の『怪 vol.0048』に掲載された第5回で完結した。

死去[ソースを編集]

2015年11月11日、東京都調布市の自宅で転倒して頭部を強く打ち、都内の病院に入院した[83]。頭部打撲による硬膜下血腫を治療する為に緊急手術を受け、入院治療中で、頭部打撲は回復したものの[84]、同年11月30日未明に容体が急変し、午前7時18分に多臓器不全のため入院先の東京都三鷹市杏林大学医学部付属病院で死去した[84][1][83]。93歳没。

通夜、葬儀・告別式は近親者のみで営まれた[85][86]。翌年の1月31日には東京青山葬儀所にて「お別れの会」が開かれ、親交のあった著名人や一般弔問者など約7800人が参列した[87]。戒名は「大満院釋導茂(だいまんいんしゃくどうも)」[87]。弔辞は野沢雅子さいとう・たかを松田哲夫らが読み上げた[87]

人物[ソースを編集]

妖怪研究家として[ソースを編集]

1966年から『少年サンデー』連載の「ふしぎなふしぎなふしぎな話」で妖怪画を発表し始める。やがて、『少年マガジン』増刊の『日本妖怪大全』を経て、1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も「妖怪図鑑」の類を多数執筆している。

水木は妖怪を題材にするにあたり、古い文献や絵巻などから多くの伝承や妖怪画を蒐集してゆく。そして、鳥山石燕など古典の画が存在する場合は参考にして描き、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」など文字の記録のみで古典の画が存在しないものは、水木によって初めて絵として描かれていった。そのため多くは水木が創造した形であり、現在の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の作品から大きく影響を受けている。

大衆の中で失われていた多くの妖怪を救ったともされ[88]、こうした仕事に対しては、水木を妖怪文化の継承者にして布教者などと評す声もある[89]。一方、出典が不詳のため、創作の可能性を指摘されている妖怪(樹木子など)も幾つか描いている[90]

また、2007年8月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明したように、近年の研究で水木の創作以前の絵が発見された例もある。

1980年代には『水木しげるの妖怪事典』(正・続)、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。1992年には『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となる。1998年からは、1600点以上の妖怪画を収録した『妖鬼化』シリーズの刊行が開始。

水木の周囲に妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年世界妖怪協会を設立して会長となる。荒俣宏京極夏彦多田克己らが会員となり、「世界妖怪会議」が開催される。1997年からは、世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『』(角川書店)が刊行開始。水木も漫画を執筆している。

それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカマリ共和国ドゴン族マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族オーストラリアアボリジニメキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。その際、祭りなどがあるとビデオ撮影や録音をして、自宅で何度も鑑賞している。旅先で購入した仮面なども蒐集しており、自宅などに展示している。

大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『日本妖怪大全』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。それらの結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えるようになる。

のんのんばあと水木[ソースを編集]

のんのんばあとは彼がベビィ(水木語で“子供”の意味)の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことである[91]。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていた[91]

景山ふさの素姓について、水木の母・琴江によると「(松江の)士族の娘。貧乏侍。…親父は足軽」という[92]

ふさは子供たちを集めてはお化け妖怪地獄の話をしてくれた[91]。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている[91]。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。

ふさは水木が小学5年生の時に死去した。

幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名が『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。

2015年9月に中四国のTBS系列局とBS-TBSで放送された特番『水木しげる93歳の探検記 〜妖怪と暮らした出雲国〜』では、ふさの出身地でもある島根県出雲地方を訪れた水木が荒俣宏と共に初めてのふさの墓参りを行った。同年11月に水木は死去したため、これが最初で最後の墓参であった。

戦争[ソースを編集]

戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』が放送された。

水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官である砂原勝己軍医大尉に現地除隊を申し込むほどだった。砂原は2004年(平成16年)1月28日に逝去したが、1999年(平成11年)7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。

また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的にラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。それでも、アドバイスに従い、大戦前期の戦果を挙げた戦闘に取材した漫画も描いたが、題材が敗色濃厚になる末期に移るにつれ、案の定売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた[93]

『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた[94]。片腕を失ったことに対しては「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。

2015年5月、水木が出征前に書いたとされる手記が発見され、文芸誌『新潮』2015年8月号に掲載された[95]

人柄・性格[ソースを編集]

  • 晩年の一人称は「水木サン」だった。「私」や「僕」、「俺」を使っていたこともある[注 7]
  • アシスタントであったつげ義春が水木に最後に会ったのは2009年 - 2010年頃で場所は地元の神社であった。水木がいきなり「つまらんでしょ?」と話しかけたので、つげも「つまらんです」と相槌を打つと、「やっぱり!」と答えたという[96]
  • 「胃が丈夫だった」と称し、幼少時から大食漢であり、「ズイダ」というあだ名(「何でも食べる浅ましい者」という意味)がある。そのため、戦中、戦後の食料不足の際は、非常に辛い思いをしたという。90歳を過ぎても食欲は非常に旺盛で、特に病気もなく健康そのものだった。自身のツイッターでも食事や間食の様子がたびたび書かれていた。
  • 座談が面白いことで有名で、多忙な水木のために水木プロには「面談30分」という貼り紙があったが、実際には水木自身がそれを無視して来客と何時間も会話を楽しんでいたという。また、テレビ番組に出演したこともあったが、ダイナミックに左右に体を動かして話すため、テレビのフレームからはみ出して喋っていたこともあった。
  • 自身を漫画のキャラとして登場させることが多いが、『コミック昭和史』のような自伝的作品を除いて、「左手はある」ように描かれている。また水木の自画像は「現在の顔」と比べると細長く描かれているが、実際に貸本漫画家時代の水木は貧しくて十分な食事が取れなかった事情もあり、やせて細い顔をしていた。
  • 初期の作品には、海外の短編小説等からストーリーを転載したものが多かったが、当時はまだ著作権に対する認識が浸透していなかった時代であり、特に問題とはならなかった。ただし、1966年に朝日ソノラマから刊行された『猫又』に収録された短編「太郎稲荷」は、星新一作品とのストーリーの類似が指摘され、水木は盗作を認めて謝罪。朝日ソノラマが和解金を星に支払い、単行本『猫又』は「太郎稲荷」が削除された版が刊行された[97]
  • 家を改築するのが好きで、気が向くままに自宅を改築した結果、トイレ5つ、風呂場3つ、階段5ヶ所の2階建て、しかも一部分は3階建てという迷路のような家になってしまったという。その影響によるものか、『東西奇ッ怪紳士録』には「二笑亭主人」「フランスの妖怪城」(郵便配達夫シュヴァルの理想宮)の建築道楽の2篇が収録されている。
  • 売れない貸本漫画家時代から、膨大な「絵についての資料」をスクラップ・ブックにしてコレクションしていた(貸本漫画家時代は100冊。晩年は300冊を超えるという)。また、「ハヤカワ・ミステリ」などの書籍も「ネタになる」と、多数購入していた。妖怪関連書も神保町の古本屋で、古いものまで集めていた。それを見た桜井昌一は、「この人は絶対、世に出る」と感じたという。のちに、若き時代の呉智英などが、その資料の整理を手伝った。
  • ゲゲゲの鬼太郎の主題歌そのままに朝寝を好んでいた。NHKの『あさイチ』で水木プロダクションから生中継が行われた際も、当初から妻の布枝だけが出演する約束になっており、水木本人は普段通り就寝していた。
  • 水木自身、長生きの秘訣として普段から睡眠の重要性を説いており、自分はどんなに忙しくても1日10時間は寝ると語っていた。逆に、自分より年下の手塚治虫石ノ森章太郎(共に60歳で死亡)は徹夜ばかり続けていたために早死にしてしまったと、エッセイ漫画「睡眠のチカラ」においてコメントしている。また、水木と同じく長生きの漫画家として知られたやなせたかしも水木の意見に賛同している。
  • 評論家の呉智英は、「ひょっとしたら、水木しげるの最高傑作は水木しげるかもしれない」と賞賛(『犬儒派だもの』所収)し、作家の京極夏彦もラジオ番組(TOKYO FMサントリー・サタデー・ウェイティング・バー』2010年7月3日放送分より)で同様の発言をしている。
  • 見合いから結婚式の間までは、水木は母親の厳命で左手に義手を付けていたが、彼自身は義手が大嫌いであり、結婚後は義手を付けることはなかった。結婚後も身体の不自由さについて愚痴を言うことなく、あらゆる事を人の手を借りずに行おうとする態度に妻の布枝は感嘆したという。
  • 布枝は上京して、水木のあまりの貧乏生活に驚いた。水木は母親が上京してくるのを恐れて自分の家族にさえ貧しさを隠していたため、見合いの際には「東京でそれなりの暮らし」と偽っていた。だが、布枝は水木の非常に熱心な仕事ぶりを見るうち、次第に尊敬の念が湧き、器用だったため漫画のアシスタント役もこなした(『墓場鬼太郎』など)。また、夫婦で「連合艦隊の再現」を目指して「軍艦の模型作り」を楽しんだりもしたという。

境港市・調布市との関係[ソースを編集]

水木プロダクション中国支部(境港市入船町)
境港本町アーケード商店街
境港市
故郷の鳥取県境港市に「水木しげるロード」がある。ロードに沿って妖怪オブジェが並び、水木ロード郵便局(既存局を改称)もある。なお、境港郵便局をはじめ市内7郵便局の風景印は全て鬼太郎らのキャラクターがデザインされている
設置されていた86体の妖怪を100体にするために1体100万円としてスポンサーを募集し、2009年現在、合計120体となった。このオブジェの「目玉の親父」は度々盗難に遭うため現在は台座に固定されている。合わせて「水木しげる記念館」も開館している。また同市では世界妖怪協会による「世界妖怪会議」の第1回、第2回も開かれた。
米子駅境港駅を結ぶJR境線では「鬼太郎列車」が運行されている。また、同線の沿線16駅には「ねずみ男駅」(米子駅)「鬼太郎駅」(境港駅)の他、全国各地の妖怪をモチーフにした愛称が付与されている。
境港市の観光協会による「第1回妖怪人気投票」で水木本人が3位になっている。
2007年3月22日、妖怪のブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」の振興に役立てて欲しいと水木プロダクションは境港市に2000万円を寄付した。水木プロは2004年にも200万円を市に寄付している[98]
調布市
『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターが描かれた、調布市ミニバス「鬼太郎バス」の車両(京王バス東・L20623)
50年近く住んでいる東京都調布市のコミュニティバス調布市ミニバスには、『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターが車体に描かれ、愛称「鬼太郎バス」として3路線4ルートが運行されている。
2003年10月には「深大寺そば」で有名な調布市深大寺の門前に「鬼太郎茶屋・深大寺店」が開店した。「妖怪舎」(株式会社きさらぎ。本社:鳥取県米子市)が経営している。なお、元祖「鬼太郎茶屋」は境港の「水木しげるロード」内にあり、「妖怪舎」とは無関係。境港の「本店」店長は「鬼太郎音頭」の作詞者である。
水木が住む京王線調布駅北口の天神通り商店街には、ゲゲゲの鬼太郎を始めとする代表的な妖怪のオブジェが並んでいる。商店街入り口の目印は街灯に腰掛けた鬼太郎。
鬼太郎茶屋 天神通り商店街
鬼太郎茶屋
天神通り商店街
自宅近くの覚證寺には鬼太郎などが彫刻された墓[注 8]と、水木が描いた「二河白道図」が置かれている。
長年の市への貢献などから、2008年に調布市名誉市民に選ばれる。
調布市は水木の一周忌を前に、命日の11月30日を「ゲゲゲ忌」とすることを決め、スタンプラリーなどの追悼事業を実施すると発表した[99][100]

略年譜[ソースを編集]

  • 1922年大正11年)
  • 1927年昭和2年、5歳)
    • 祖父の代からまかない婦として武良家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)に可愛がられ、強い影響を受ける。
  • 1929年(昭和10年、7歳)
  • 1935年(昭和10年、13歳)
    • 境尋常小学校を卒業。旧制中学校への受験を断念し、境尋常小学校高等科(境尋常高等小学校)へ進学。
  • 1937年(昭和12年、15歳)
    • 3月 - 境尋常高等小学校卒業。鳥取県を離れて大阪府の石版印刷所に入社するが2か月で解雇になり、叔父のツテで寺田町にある版画社に再就職するがこれもすぐに解雇になる[19]
  • 1938年(昭和13年、16歳)
    • 画家を志し、精華美術学院に入学。
  • 1939年(昭和14年、17歳)
  • 1940年(昭和15年、18歳)
    • 日本鉱業学校採掘科に合格。しかし授業内容に興味が持てず、半年で退学する。
  • 1941年(昭和16年、19歳)
    • 日本大学付属大阪夜間中学(現・大阪学園大阪高等学校)に合格。夜学び、昼働く勤労学生としての生活を送る。
  • 1943年(昭和18年、21歳)
  • 1944年(昭和19年、22歳)
    • 爆撃により左腕を失う。ニューギニアの病院で療養し、現地人のトライ族(水木いわく「土人」)たちと仲良くなる。
  • 1945年(昭和20年、23歳)
    • 敗戦。水木は現地人たちと仲良くなっていたため、「現地除隊」を申し出るが、説得され断念する。
  • 1946年(昭和21年、24歳)
  • 1948年(昭和23年、26歳)
    • 武蔵野美術学校に入学を許可される(卒業はせず)。私生活では輪タク業や魚屋など職を転々とする。
  • 1950年(昭和25年、28歳)
    • 神戸で「水木荘」という抵当付きの古いアパートを資金を集めて買い取り、大家業を始める。
  • 1951年(昭和26年、29歳)
    • 大家業の傍ら、副業として下宿人の紹介で紙芝居制作を始める。
  • 1953年(昭和28年、31歳)
  • 1957年(昭和32年、35歳)
  • 1958年(昭和33年、36歳)
  • 1959年(昭和34年、37歳)
  • 1960年(昭和35年、38歳)
    • 『少年戦記』の売れ行きが上々ゆえに兎月書房から水木が新たに責任編集したSF専門誌『宇宙少年』と怪奇専門誌『妖奇伝』が新創刊された。前者には『ベビーZ水人間現る』を後者には鬼太郎の誕生編を描いた第一話『幽霊一家』第二話『幽霊一家・墓場鬼太郎』を発表。
  • 1961年(昭和36年、39歳)
  • 1963年(昭和38年、41歳)
  • 1964年(昭和39年、42歳)
  • 1965年(昭和40年、43歳)
  • 1966年(昭和41年、44歳)
    • 少年漫画路線が当たり、44歳にしてようやく人気を集め始める。『悪魔くん』が実写でテレビドラマ化。最初の放送は、実家の両親も上京して一緒に正座してテレビを鑑賞し、感激して番組終了後は拍手をしたという。またこの頃からプロダクション制をとり、調布の自宅を水木プロとする。
  • 1968年(昭和43年、46歳)
    • 『墓場の鬼太郎』を当時の東映テレビ部長であった渡邊亮徳(元東映副社長)等のアドバイスにより『ゲゲゲの鬼太郎』と改名することで、スポンサーが了解してテレビアニメ放送開始。この時も、初回放送は一家で正座して鑑賞し、終了後拍手をしたという。以降、何度もリメイクを繰り返す長寿シリーズとなる。
  • 1971年(昭和46年、49歳)
    • ゲゲゲの鬼太郎』が2度目のアニメ化。
    • 偶然再会した元上官の宮軍曹や戦友の石橋と3人で、26年ぶりにパプアニューギニアを訪れ、現地人たちと再会する。以降、何度もニューギニアを訪れ、「ニューギニアに移住したい」と言うまでに惚れ込む。
  • 1985年(昭和60年、63歳)
  • 1986年(昭和61年、64歳)
    • ファミリーコンピュータ』用ゲームソフトとして『ゲゲゲの鬼太郎』が初のコンピュータゲーム化(ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境)。
  • 1987年(昭和62年、65歳)
    • ファミリーコンピュータ』用ゲームソフトとして『ゲゲゲの鬼太郎』が2作目のコンピュータゲーム化(ゲゲゲの鬼太郎2 妖怪軍団の挑戦)。
  • 1989年平成元年、67歳)
    • 『悪魔くん』がアニメ化。
  • 1990年(平成2年、68歳)
    • 紙芝居作家から数えて画業生活40周年を迎える。『水木しげる画業四〇周年』(籠目舎)が刊行される。
    • ファミリーコンピュータ』用ゲームソフトとして『悪魔くん』がゲーム化(悪魔くん 魔界の罠)。
  • 1991年(平成3年、69歳)
  • 1992年(平成4年、70歳)
  • 1993年(平成5年、71歳)
    • 宮田雪の案内で、ホピ族等のアメリカ・インディアンを探訪。この頃以降、「世界の妖怪」を求めて、自費で海外の奥地を「冒険旅行」するようになる。
  • 1994年(平成6年、72歳)
    • 「水木しげるの妖怪道五十三次 妖怪と遊ぼう」展が開催される。以降、各地を巡回。
  • 1995年(平成7年、73歳)
  • 1996年(平成8年、74歳)
  • 1997年(平成9年、75歳)
  • 1998年(平成10年、76歳)
  • 2003年(平成15年、81歳)
    • 境港市に「水木しげる記念館」開館。
    • プレイステーション』用ゲームソフトとしてコナミエンタテインメントより『ゲゲゲの鬼太郎』がゲーム化(ゲゲゲの鬼太郎 逆襲!妖魔大血戦)。
    • プレイステーション2』用ゲームソフトとしてコナミエンタテインメントより『ゲゲゲの鬼太郎』がゲーム化(ゲゲゲの鬼太郎 異聞妖怪奇譚)。
    • ゲームボーイアドバンス』用ゲームソフトとしてコナミエンタテインメントより『ゲゲゲの鬼太郎』がゲーム化(ゲゲゲの鬼太郎 危機一髪!妖怪列島)。
    • 上記のゲームソフトは、「水木しげる生誕80周年記念作品」として2003年12月11日に三作同時発売。
  • 2004年(平成16年、82歳)
    • 荒俣宏・京極夏彦プロデュースによる「大(Oh!)水木しげる展 なまけものになりなさい」が鳥取県立博物館で開幕。以後、2006年まで全国巡回。
  • 2005年(平成17年、83歳)
  • 2006年(平成18年、84歳)
    • テレビ・ドキュメンタリーのため、荒俣宏とパプアニューギニア・セピック河へ。
  • 2007年(平成19年、85歳)
  • 2008年(平成20年、86歳)
  • 2010年(平成22年、88歳)
  • 2013年(平成25年、91歳)
  • 2015年(平成27年、93歳)
    • 多臓器不全のため死去。

別名義[ソースを編集]

貸本時代の水木は、出版社や作品などによって複数の名義を使い分けていた。特に自身が編集を任されていた貸本誌では、多数の作家が執筆しているように見せるため、1冊の中で複数の作品を別名義で書き分けていた。

以下の出典は、名義の一覧と簡単な使用歴など[102][103]

東真一郎
西宮時代に階下を貸していた歯科医の名前「東」と、兄の長男の名前「真一郎」を合わせた名前。兎月書房以外の出版社で多数使用。
むらもてつ
少年時代に名乗っていた雅号から付けた名前。戦記漫画で使用。
関谷すすむ
短編漫画、読み物、イラストなどで多数使用。
武良茂、武良しげる
水木の本名。短編漫画、読み物、イラストなどで多数使用。
米替富夫
貸本時代のアシスタントの名前をいじったもの。短編漫画で使用。
戦記屋三平
戦記読み物やイラストで使用。
なんでも屋三平
科学読み物やイラストで使用。
萩原治、堀田弘
出版社が勝手に付けた名前。時代劇漫画で使用。
猿飛佐一
忍者読み物やイラストで使用。
武取いさむ
出版社が勝手に付けた名前。戦記漫画で使用。
水木洋子
少女漫画で使用。

受賞[ソースを編集]

作品[ソースを編集]

代表作[ソースを編集]

ゲゲゲの鬼太郎[ソースを編集]

  • 墓場鬼太郎(1960年 - 1964年、兎月書房 貸本漫画)
  • 墓場の鬼太郎(1965年 - 1967年、週刊少年マガジン)
  • 鬼太郎夜話(1967年 - 1969年、月刊漫画ガロ)
  • ゲゲゲの鬼太郎(1967年 - 1969年、週刊少年マガジン)
  • 鬼太郎のベトナム戦記(1968年、月刊宝石)
  • ゲゲゲの鬼太郎(1971年、週刊少年サンデー)
  • 鬼太郎とねずみ男(1973年、いんなあとりっぷ)
  • 死神大戦記(1974年、学研劇画文庫)
  • 鬼太郎の世界お化け旅行(1976年、少年アクション)
  • 続ゲゲゲの鬼太郎(1977年、週刊実話)
  • ゲゲゲの鬼太郎挑戦シリーズ(1977年、漫画サンデー)
  • 新ゲゲゲの鬼太郎 スポーツ狂時代(1978年、週刊実話)
  • 新ゲゲゲの鬼太郎(1978年、週刊実話)
  • 大ボラ鬼太郎(1980年、DONDON)
  • 雪姫ちゃんとゲゲゲの鬼太郎(1980年 - 1981年、月刊少年ポピー)
  • 最新版ゲゲゲの鬼太郎(1985年 - 1987年、コミックボンボン)
  • 新編ゲゲゲの鬼太郎(1986年 - 1987年、週刊少年マガジン)
  • ゲゲゲの鬼太郎 鬼太郎地獄編(1987年、月刊少年マガジン)
  • 鬼太郎国盗り物語(1990年 - 1993年、コミックボンボン)
  • 鬼太郎霊団(1996年・1997年、ビッグゴールド、漫画サンデー)

河童の三平[ソースを編集]

  • 河童の三平(1961年 - 1962年、貸本)
  • カッパの三平(1966年、月刊ぼくら)
  • 河童の三平(1968年 - 1969年、週刊少年サンデー)
  • カッパの三平(1993年 - 1994年、小学一年生)

悪魔くん[ソースを編集]

  • 悪魔くん(1963年 - 1964年、貸本)
  • 悪魔くん(1966年 - 1967年、週刊少年マガジン)
  • 悪魔くん復活 千年王国(1970年、週刊少年ジャンプ)
  • 悪魔くん 世紀末大戦(1987年 - 1988年、コミックBE!)
  • 最新版悪魔くん(1988年 - 1990年、コミックボンボン)
  • ノストラダムス大予言(1993年・1994年、辰己出版)

貸本漫画[ソースを編集]

シリーズ物や、長編作品を中心に記載。

  • ロケットマン(1958年、兎月書房) - 漫画デビュー作。
  • 戦場の誓い(1958年、兎月書房)
  • 怪奇猫娘(1958年、緑書房)
  • 0号作戦(1958年、緑書房)
  • プラスチックマン(1958年、綱島出版社)
  • スポーツマン宮本武蔵(1958年、綱島出版社)
  • 怪獣ラバン(1958年、暁星書房)
  • 地獄の水(1958年、暁星書房)
  • 恐怖の遊星魔人(1958年、暁星書房)
  • 暁の突入(1958年、兎月書房)
  • 空中爆雷(1958年、兎月書房)
  • 水木しげる作戦シリーズ(1959年 - 1960年、兎月書房)
  • 水木しげる秘話シリーズ(1959年 - 1960年、兎月書房)
  • 鬼軍曹シリーズ(1959年 - 1960年、兎月書房)
  • ベビーZシリーズ(1960年、兎月書房)
  • 墓場鬼太郎シリーズ(1960年 - 1964年、兎月書房・三洋社・東考社・佐藤プロ)
  • 壮絶!特攻(1961年、曙出版)
  • 駆逐艦魂(1961年、曙出版)
  • 零戦総攻撃(1961年、曙出版)
  • 墓の町(1961年、曙出版)
  • 河童の三平(1961年 - 1962年、兎月書房)
  • 怪奇鮮血の目(1961年、曙出版)
  • 化烏(1961年、いずみ出版)
  • 人魂を飼う男(1962年、曙出版)
  • 墓をほる男(1962年、曙出版)
  • 地底の足音(1962年、曙出版)
  • 鈴の音(1962年、やなぎプロ)
  • 火星年代記(1962年、やなぎプロ)
  • 妖棋死人帳(1962年、セントラル文庫)
  • 呪いの谷(1963年、全漫プロダクション)
  • 怪談 嘆き川(1963年、セントラル文庫)
  • 花の流れ星(1963年、セントラル文庫)
  • 怪談 幻行燈(1963年、セントラル文庫)
  • 悪魔くん(1963年 - 1964年、東考社)
  • 怪談 かえり船(1964年、東考社)
  • 怪談 夜の草笛(1964年、東考社)
  • 深雪物語(1964年、東考社)
  • 地獄流し(1964年、東考社)
  • 古墳大秘記(1964年、東考社)
  • 猫姫様(1965年、東考社)
  • 呪われた村(1965年、東考社)
  • 青葉の笛(1965年、東京・日の丸文庫)
  • ゴマスリ二等兵(1965年、東京・日の丸文庫)
  • 地獄(1965年、佐藤プロ)

連載漫画[ソースを編集]

『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』は前述

  • 新講談 宮本武蔵(1965年、ガロ)
  • 子供の国(1965年、ガロ)
  • なまけの与太郎(1966年、中一コース)
  • 日本の民話(1967年 - 1969年、漫画アクション)
  • 世界怪奇シリーズ(1968年、ビッグコミック)
  • 妖怪百物語(1968年、週刊少年キング)
  • サラリーマン死神(1968年 - 1969年、ビッグコミック)
  • 水木氏のメルヘン(1969年 - 1970年、ビッグコミック)
  • 河童千一夜(1969年 - 1970年、漫画アクション)
  • 現代妖怪譚(1969年、小説エース)
  • SILENT SHOCK(1970年、現代コミック)
  • 妖怪水車(1970年、ぼくらマガジン)
  • コロポックルの枕(1970年、週刊プレイボーイ)
  • コケカキイキイ(1970年、週刊漫画サンデー)
  • 怪奇幻想旅行(1970年 - 1971年、漫画アクション)
  • 星をつかみそこねる男(1970年 - 1972年、ガロ)
  • コケカキイキイ外伝(1970年 - 1971年、週刊漫画サンデー)
  • 東スポまんが展(1971年 - 1972年、東京スポーツ)
  • 野坂昭如原作シリーズ(1971年、漫画アクション)
  • 劇画ヒットラー(1971年、週刊漫画サンデー)
  • 新・春雨物語(1973年、潮)
  • 新・雨月物語(1973年、潮)
  • 魔女モンロー(1973年、コミック&コミック)
  • フーシギくん(1974年、テレビマガジン)
  • のんのんばあ(1975年 - 1976年、週刊少年チャンピオン)
  • 縄文少年ヨギ(1976年、週刊パワァコミック)
  • 水木しげるの妖怪めぐり(1977年、どっかんV)
  • 水木しげるの幻想劇画(1977年 - 1978年、DONDON)
  • ぽけっとまん(1978年、週刊少年キング)
  • 沖田総司(1978年 - 1979年、週刊実話)
  • おばけのムーラちゃん(1979年、テレビマガジン)
  • 猫楠(1991年 - 1992年、ミスターマガジン)
  • 妖怪博士の朝食
    • 不思議シリーズ(1992年 - 1993年、ビッグゴールド)
    • 妖怪変化シリーズ(1993年 - 1995年、ビッグゴールド)
  • ようかい百ものがたり(1994年、小学一年生)
  • 東西奇ッ怪紳士録(1996年 - 1997年、ビッグゴールド)
  • 神秘家列伝(1997年 - 2004年、怪)
  • 木槌の誘い(1998年 - 1999年、ビッグゴールド)
  • カランコロン漂泊記 (1999年、ビッグコミック)※活字エッセイは97年から
  • 妖怪大戦争(2004年 - 2005年、怪)
  • 神秘家 水木しげる伝(2006年 - 2007年、怪)
  • 水木しげるの異界旅行記(2008年 - 2009年、怪)
  • 水木しげるの遠野物語(2008年 - 2009年、ビッグコミック)
  • ゲゲゲの不思議草子(2010年 - 2012年、怪)
  • ゲゲゲの家計簿(2011年 - 2012年、ビッグコミック)
  • 水木しげるの日本霊異記(2012年 - 2014年、怪)
  • わたしの日々(2014年 - 2015年、ビッグコミック)

長編描き下ろし漫画[ソースを編集]

  • 総員玉砕せよ!(1973年、講談社)
  • 東海道四谷怪談(1974年、学研劇画文庫 日本の妖異)
  • 死神大戦記(1974年、学研劇画文庫 日本の妖異)
  • 耳なし芳一(1975年、学研劇画文庫 日本の妖異)
  • コミック昭和史 全8巻(1988年 - 1989年、講談社)
  • のんのんばあとオレ 全2巻(1992年、講談社)
  • ノストラダムス大予言 全2巻(1993年・1994年、辰己出版)
  • 今昔物語 全2巻(1995年・1996年、中央公論社 マンガ日本の古典)
  • ボクの一生はゲゲゲの楽園だ 全6巻(2001年、講談社)
    • (改題)完全版 水木しげる伝 全3巻(2004年、講談社漫画文庫)
  • 水木しげるの古代出雲(2012年、角川書店)
  • 方丈記(2013年、小学館 マンガ古典文学)
  • 水木しげるの泉鏡花伝(2015年、小学館)

短編読み切り漫画[ソースを編集]

  • 不老不死の術(1964年、ガロ)
  • 勲章(1964年、ガロ)
  • ねこ忍(1964年、ガロ)
  • 神変方丈記(1965年、ガロ)
  • 幸福の甘き香り(1965年、ガロ)
  • テレビくん(1965年、別冊少年マガジン)
  • はかない夢(1965年、ガロ)
  • マンモスフラワー(1965年、ガロ)
  • 宇宙虫(1965年、別冊少年キング)
  • 福の神(1965年、ガロ)
  • 怪物マチコミ(1966年、漫画天国)
  • 河童(1966年、少年サンデー増刊) - 貸本版のリメイク
  • 猫又(1966年、週刊少年キング) - 貸本版のリメイク
  • 未来をのぞく男(1966年、ガロ)
  • 古道具屋の怪(1966年、週刊漫画サンデー)
  • 丸い輪の世界(1966年、ガロ)
  • 合格(1966年、文春漫画読本)
  • 釣り落とした魚(1966年、漫画娯楽読本)
  • 錬金術(1967年、ガロ)
  • 「幸福」という名の怪物(1967年、週刊アサヒ芸能増刊)
  • 最初の米・よみのくに(1967年、週刊少年サンデー)
  • 星をあやつる男(1969年、サンデー毎日)
  • 原始さん(1969年、文春漫画読本)
  • 一番病(1969年、ビッグコミック)
  • 終電車の女(1970年、週刊女性)
  • 敗走記(1970年、別冊少年マガジン)
  • ベーレンホイターの女(1970年、漫画アクション)
  • 糞神島(1971年、漫画アクション)
  • 偶然の神秘(1971年、COM)
  • ヘンラヘラヘラ(1971年、希望の友)
  • 血太郎奇談(1972年、希望の友)
  • 不思議な手帖(1973年、コミックミステリー)
  • 姑娘(1973年、リイドコミック増刊)
  • 突撃!悪魔くん(1973年、月刊少年ジャンプ)
  • 快傑くまくす(1973年、週刊漫画サンデー)
  • 落第王(1974年、週刊漫画サンデー)
  • 漫画狂の詩-池上遼一伝-(1975年、週刊少年サンデー増刊号)
  • 死神マボロシちゃん(1976年、マンガ少年)
  • キンドコング(1977年、週刊パワァコミック)
  • 花町ケンカ大将(1978年、週刊少年キング)
  • 地獄と天国(1979年、月刊少年ワールド)
  • レーモン河畔(1980年、ビッグゴールド)

他、多数。

著作[ソースを編集]

エッセイ[ソースを編集]

  • 娘に語るお父さんの戦記(1975年、河出書房新社)
  • のんのんばあとオレ(1977年、筑摩書房)
  • ほんまにオレはアホやろか(1978年、ポプラ社) - 2002年に新潮社から文庫版、2004年11月ポプラ社から文庫版、2010年5月に新装版で刊行。
  • 水木しげるの不思議旅行(1978年、サンケイ出版) - 1977年から1978年に掛けて『月刊小説』で連載。
    • (改題)怪感旅行(2001年、中公文庫)
  • ねぼけ人生(1982年、筑摩書房)
  • 妖怪天国(1992年、筑摩書房)
  • 水木しげるのラバウル戦記(1994年、筑摩書房)
  • トペトロとの50年(1995年、扶桑社)
  • 水木しげるのカランコロン(1995年、作品社)
    • (分冊・改題)妖怪になりたい(2003年、河出文庫)
    • (分冊・改題)なまけものになりたい(2003年、河出文庫)
  • カランコロン漂泊記(2000年、小学館文庫) - 1997年、1999年に『ビッグコミック』で連載。
  • 生まれたときから「妖怪」だった(2002年、講談社)
  • 水木サンの幸福論(2004年、日本経済新聞社) - 2003年に『日本経済新聞』で連載。
  • 水木しげるのんのん人生(2004年、大和書房)
  • ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気(2012年、保健同人社
  • 戦争と読書 水木しげる出征前手記(2015年、角川新書)
  • ゲゲゲのゲーテ(2015年、双葉新書)

画集・図鑑[ソースを編集]

  • 水木しげる妖怪画集(1970年、朝日ソノラマ)
  • 妖怪なんでも入門(1974年、小学館)
    • (改題)水木しげる 妖怪大百科(2004年、小学館)
  • 水木しげるの妖怪事典(1981年、東京堂出版)
  • 水木しげるのあの世の事典(1983年、東京堂出版)
  • 水木しげるの続・妖怪事典(1984年、東京堂出版)
  • 水木しげるの世界妖怪事典(1985年、東京堂出版)
  • 水木しげるの中国妖怪事典(1990年、東京堂出版)
  • 水木しげるの続・世界妖怪事典(2000年、東京堂出版)
  • 日本妖怪大全(1991年、講談社)
    • 図説 日本妖怪大全(1994年、講談社+α文庫)
  • 続・日本妖怪大全(1994年、講談社)
    • 図説 日本妖怪大鑑(2007年、講談社+α文庫)
  • 決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様(2014年、講談社)
  • 妖怪画談(1992年、岩波新書)
  • 続 妖怪画談(1993年、岩波新書)
    • 愛蔵版 妖怪画談(2002年、岩波書店) - 上記、妖怪画談2冊を再編集したもの。
  • 水木しげるの憑物百怪(1995年、学習研究社) - 1991年から1995年に掛けて『月刊ムー』で連載。
  • 妖鬼化(むじゃら) 全8巻(1998年 - 1999年、Softgarage)
    • 妖鬼化(むじゃら) 全6巻(2003年 - 2004年)
    • 妖鬼化(ムジャラ)完全版 全12巻(2008年 - 2010年)
  • 水木しげる 妖怪道五十三次(2003年、やのまん)
  • 水木しげるの日本全国神様百怪(2010年、小学館)

絵本[ソースを編集]

  • のんのんばあ カッパの水(1975年、文研出版)
  • のんのんばあ おばけどろぼう(1976年、文研出版)
  • 水木しげるのおばけ学校 全12巻(1980年 - 1983年、ポプラ社)
  • ゲゲゲの鬼太郎おばけのくに 全8巻(1987年 - 1988年、ポプラ社)
  • 絵巻えほん 妖怪の森(1995年、こぐま社)
  • 絵巻えほん ゲゲゲの鬼太郎 妖怪島へ(1996年、こぐま社)
  • 水木しげるのふしぎ妖怪ばなし 全8巻(2007年 - 2009年、メディアファクトリー)
  • 水木少年とのんのんばあの地獄めぐり(2013年、マガジンハウス)
  • 水木しげるの妖怪なぞなぞめくり 家の中の巻(2015年、こぐま社)
  • 水木しげるの妖怪なぞなぞめくり 山里の巻(2015年、こぐま社)

監修[ソースを編集]

  • 妖かしの宴 わらべ唄の呪い(1999年、PHP研究所)
  • ゲゲゲの鬼太郎 謎全史(2002年、JTB 、著:村上健司、佐々木卓)
  • こんなに楽しい!妖怪の町(2006年、実業之日本社、著:五十嵐佳子

作詞[ソースを編集]

その他[ソースを編集]

  • 映画『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年、高畑勲監督) - 井上ひさしらとともに資料提供などに協力しておりエンドロールの「協力」にクレジットされている。この映画に登場する水木先生のモチーフともなっている。
  • てれび絵本 えほん寄席 死神』(NHK教育) - アニメーションの原画を担当。死神のデザインは「サラリーマン死神」のものと酷似。落語家のデザインはねずみ男に似ている。目玉おやじもゲスト出演。

テレビ番組[ソースを編集]

水木が出演した番組[ソースを編集]

  • ETV8 妖怪たちはどこへ行った 〜水木しげるのねぼけ人生(NHK、1989年)
  • 妖怪博士水木しげるの夢探検シリーズ(テレビ東京、1990年 - 1992年、年1回)
  • いのちの響「妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論」(BSジャパン、2006年)
    主演:水木しげる 朗読:和久井映見(悦子役)
    出演:荒俣宏呉智英南伸坊京極夏彦佐野史郎、武良幸夫(水木しげる弟・マネージャー)、武良布枝(水木しげる夫人)、武良悦子(次女・悦子)、村沢昌夫(水木しげるアシスタント)
  • 知る楽「人生の歩き方・100歳まで生きるでしょう」(2008年6月 NHK教育テレビジョン
    水木夫妻のこれまでの人生を松本和也とのインタビュー形式で綴った講義。
    2010年NHKデジタル衛星ハイビジョンプレミアム8」で「水木しげるのなまけ者になりなさい〜ゲゲゲの女房とののほほん人生〜」と題して、未収録・新規の撮り下ろしのインタビューを交えた再編集版を放送
  • 水木しげる93歳の探検記〜妖怪と暮らした出雲国〜(2015年9月、山陰放送、JNN中四国ブロック(9月5日)・BS-TBS(9月6日))

ゲゲゲの女房』がヒットした2010年には『あさイチ』(NHK総合、2010年5月19日)、『ボクらの時代』(フジテレビ、2010年8月15日)などに夫妻で出演。

テレビドラマ・映画[ソースを編集]

水木を扱った番組[ソースを編集]

  • BSマンガ夜話悪魔くん千年王国」(NHK、1998年8月27日)
    • 出演:大月隆寛いしかわじゅん夏目房之介岡田斗司夫北野誠清水ミチコ
    • 夏目房之介は、水木しげるの作品に通底するテーマを世界に対する不合理と不可思議であると指摘し、前者が『悪魔くん』に代表される革命漫画、後者が『鬼太郎』に代表される妖怪漫画の系譜に至っており、1970年代以降は後者の作品が残っていった点を指摘している。また、絵柄の特徴として細密な背景と単純な線で描かれた人物キャラクターの対比され、これが「卑小な人間」と「革命」や「偉大な自然」などテーマの対比にもなっている点を指摘している。
    • また、夏目やいしかわじゅん、岡田斗司夫らは、『悪魔くん』の革命思想は1960年代の左翼運動や白土三平の影響がありつつも、水木自身は上記の「卑小な人間」の観点から革命の成就に関して諦観をもっている点を指摘している。

テレビドラマ・映画[ソースを編集]

DVD[ソースを編集]

  • 水木サン大全 - 水木しげると荒俣宏の対談 2004年
  • 妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論(同テレビ番組のDVD版)

CM[ソースを編集]

家族・親族[ソースを編集]

武良家[ソースを編集]

伯耆境港・武良惣平
木綿操綿古手類卸商 諸国回漕店 荷為換取扱所

(鳥取県境港市入船町東京都調布市

家系
“武良”(むら)という苗字は全国的には珍しいが、境港にはたくさんある[104]。武良氏は隠岐発祥と考えられており、隠岐諸島の島後(とうご)にある隠岐郡隠岐の島町(旧:隠岐郡西郷町)に“武良祭り”があり、“武良トンネル”が残っている[105]。水木は、自らのルーツを求めて、隠岐を訪問している。
水木の著書『ねぼけ人生』〈新装版〉12頁によれば、「僕の祖先のことは、マジメに調べたことはないが、武良という姓もちょっと変わっているし、古い記録にも時々出てくる。最近読んだ『出雲祭事記』(講談社)という本によると、隠岐諸島の島後(諸島の北側の島)に武良郷という村があって、ここでは、ずいぶん昔から、二年に一度村民が寄り集って“武良祭り”という祭りをやっていたらしい。隠岐と境港は海をへだてた隣どうしだから、たぶん、武良郷あたりから、空腹に耐えかねた連中が食い物を求めて境港にやってきたのだろう。それが僕の遠い先祖ではないかと、推測している。」という。
戦国時代の弓ヶ浜に高岡城というがあって、武良隣左ェ門という豪族がおり、この一族が記録に残るルーツだろうと水木は考えている[105]
当時の境港のあたりは、毛利氏尼子氏の勢力争いの場であったが尼子氏側の亀井能登守が毛利側の騙し討ちにあった時、その手引きをしたのが武良隣左ェ門だったと父から聞き伝えられている[106]
その後江戸時代になって武良惣平の代では、境港で回船問屋を営んでいた[105][107]
竹内村(高松)の武良氏について『伯耆志』には「高岡城趾と古松三幹あり。往古武良某此所に居りしと云へり。今村中其裔あり。」[108]とある[109]
水木の著書『ねぼけ人生〈新装版〉』14頁によれば「境港の竹之内には高岡城趾といわれる所があり、古松が三本はえている。『伯耆志』によると、ここが武良氏の舘の跡だということになる。米子の郷土史家の説では、僕の家の墓地のあたりが武良舘のあった所だそうだ。どっちが真実かわからないが、どうやらずっと昔に、このあたりに武良氏という一族がいて、それが僕にまでつながっていることだけは本当らしい。」という。
四方家所蔵の広告
曾祖父・惣平(回船問屋
境港で“武良惣平商店”という回船問屋を営み、一時は大層な羽振りをきかせていたが、鉄道便の発達で明治になると家業は衰えた[110]。惣平は1892年(明治25年)境町会議員に当選した[111]
境港市長中村勝治によると「水木しげる先生の曽祖父にあたる武良惣平氏は自ら交易船を所有し、繰綿や木綿などの商いを手広く営んでいたと伝えられています」という[112]
祖父(実業家)[113]
水木によると、「祖父は、米子の町長呉服商をしていた住田善兵衛の長女と結婚する。そして、僕の父の亮一が誕生するのだが、その頃には回船業がいよいよダメになり、大きな家は人手に渡ってスッカラカンになった。それでも、祖父は多少やり手だったので、また努力して、昔日のおもかげはないものの、何とか家も建てた。」という[114]
家業の回船問屋をやめて、大阪で「関自動車」というタクシー会社を経営した(後に倒産)。
また、バタビヤ(現・ジャカルタ)に渡り印刷会社を興して成功した。親類・彦一は軽食堂を閉店後、印刷会社の人員募集に応じ、バタビヤに渡っている。
住田呉服店の広告紙面
(1910年(明治43年))
祖母・(呉服商、政治家・住田善平の長女)
鳥取県米子市東倉吉町の住田家は江戸時代から続く商家(呉服商)で、米子町(現・米子市)4代目町長を務めた善平の長女が水木の祖父に嫁いだ。
大叔父・住田延寿
大叔父といっても水木の父亮一より2歳年長なだけである[115]
武良家に居候(いそうろう)していた。水木の兄宗平によると、「二階にいて、赤鉛筆片手に英語の原書ばかり読んでいたが、結局、定職に就かずに遊んで暮らした。今から見ると変人だった」という[115]
父・亮一(会社員、銀行員等)
1984年昭和59年)10月没(享年88)[116]
胃が丈夫なことから、水木は父親に「イトツ」(突出して強い胃袋)とあだ名をつけていた[117]
早稲田大学商学部[118]卒。在学中は歌舞伎や芝居見物にうつつを抜かし、町に帰ってきてからも遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)[119]。勤めに出ても、さぼって映画を見ていたのがばれてクビになり、祖父から大金をもらって始めた農機具輸入事業もあえなく失敗[119]
父・武良亮一(左)と水木しげる(右)
ラバウル行き直前)
境町に戻り、今度は銀行に勤めるようになったが、夜は近所の芝居小屋を借りて映画を上映し、銀行員が本業か映画館が本業かわからないといったぐあいだった[120]
ある時、銀行強盗が横行したことがあり、当直だった亮一は明け方まで粘ったが、恐怖に耐え切れずついに当直を放棄して家に帰ってしまった[119]。このため銀行をクビになったが「なんとかなる主義」という奇妙な主義を信じていたため全く平気だったという。なお『ねぼけ人生〈新装版〉』には“銀行強盗”となっているが、『水木サンの幸福論 -妖怪漫画家の回想-』には“脱獄囚”と記されている。
また、英語が得意だったため美保航空隊で駐留軍の通訳をした[121]
妻によると、水木が漫画で成功し、上京して一緒に暮らすようになってからは、好きな映画や歌舞伎を観るなどして、幸せに暮らしていたという[73]。死の際は「境港に葬ってくれ」と遺言があり、武良家代々の菩提寺に納めた。そのため水木はその後、境港をしばしば訪れるようになり、「水木しげるロード」誕生につながったという。
水木の兄宗平は父亮一について、「ぼんぼんの道楽者。自由人だった。少し頼りない。楽をするのが好きで、スイカを買っても自分で持たないで、我々に持たすのだ。まったくおやじは家長らしくなかった。」と述べている[122]
母・琴江
1994年平成6年)4月没(享年94)[123]
すぐ怒ることから、水木は母親に「イカル」とあだ名をつけていた。
母・琴江は江戸時代苗字帯刀を許された米子の旧家に生まれ、その家柄を誇りとしていた[124]
水木の著書『ねぼけ人生〈新装版〉』15頁によると、
「母の実家というのが三島という米子市旧家で、元禄時代から今日までの墓がずらりと並んでいるほどなのだが、これも先代でボツラクしている。この先代という人は風流人なのはいいが、俳句だの書画だのをひねくるばかりで、仕事というものを全くしなかった。」という。
グレートマザー物語』によると、琴江はしげるが左腕を失ったことを知ると自らの左腕を縛り、一時期右腕だけで生活していたという。
妻によると、戦争中に、近所でバケツ・リレーの練習をしていても「負け戦とわかっているのに無駄だ」と参加しなかったという[73]。また、水木が東京で貸本漫画家をしている時は、非常に心配し、「漫画がダメなら灯台守になれ」と薦めた。また、しばしば、心配する長文の手紙を送ったという。返事が来ないと、さらに心配して長文の手紙がくるため、水木は母親から手紙が来ると即「元気だ」という返事を書いた。また、「貧乏している」ことが母にばれないよう、軍人恩給を実家に送っていたという。また、水木が漫画家として成功して両親を呼び寄せた後は、漫画のストーリーにしばしば口を出し、『鬼太郎』にシーサーが登場するようになったのは、母親の強い薦めがあったためだという。
兄・宗平
1920年(大正9年)生 - [125]
兄の娘夫婦(境港の水木プロ中国支部担当)
弟・幸夫(水木プロ・ゼネラルマネジャー)
1924年(大正13年)生 - [126]
妻・布枝島根県安来市大塚町出身、呉服商、酒屋、政治家・飯塚藤兵衛の娘)
1932年(昭和7年)1月生[4] -
飯塚家の当主は代々飯塚藤兵衛を名乗り、呉服などを商う商家として知られていた[127]布枝の父親の藤兵衛は、若い頃から村会議員を務め、酒や塩の小売業を営みながらやがて市会議員になった人物[127]
著書『ゲゲゲの女房』(実業之日本社)
長女・尚子(水木プロ社長)
1962年(昭和37年)12月生[4] -
次女・悦子(水木プロ勤務)
1966年(昭和41年)12月生[4] -
著書
  • 『お父ちゃんと私-父・水木しげるとのゲゲゲな日常』(やのまん)
  • 『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』(文藝春秋) - (赤塚りえ子手塚るみ子との共著)

住田家[ソースを編集]

住田善平
(第四代米子町長、水木しげるの祖母の父)

(鳥取県米子市東倉吉町

住田氏は近世期中ごろから米子東倉吉町居住し、住田屋を号した[128]衣料雑貨営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した[128]

“本住田屋”の住田善平は、1896年明治29年)12月 - 1900年(明治33年)12月まで米子町町長をつとめた[129]。善平の長女が武良家に嫁いだ。

善平の息子・寅次郎(水木の大叔父)
米子で初めて東大を出たとされる[130]。寅次郎には出世(しゅっせ)欲がなく、米子で町会議員をつとめたり、製パン業を興しパンを売ったりして一生を終えたとのことである。元米子市長野坂寛治の著書『米子界隈』183頁によると、
「第四代町長住田善平氏は住田呉服店の御主人で、その令息・法学士住田寅次郎氏は町会議員として、いかなる意味でも英名を四方にはせ、晩年は酒豪としての逸話が山積する。後には転じて製パンを志され、世上これを“学士パン”と呼んだ。学士学士と書いたが、現代の諸君は“アァ学士か”とそこらに落ちている小石のように思うであろうが、明治356年ごろの学士さんはトテモドエライもので、住田寅次郎氏が法科を、筆者の叔父貴野坂康二が工科を、共に東大を卒えて帰還した年の夏、渡辺町長その他お歴々の発起によって公会堂で歓迎会を開いて頂いている。それが米子で二人も出たのだからというのですゾ。驚き桃の木サンショの木である。」という。
寅次郎の弟に絵描きの良三と、英語趣味とした延寿がいる[131]
水木によると、「父の叔父に、パリで三十歳で客死した画家がいて、父はとても尊敬していた。その叔父は松井須磨子の劇団で背景の絵を描いていて、ちょい役で出演したりしたという。祖母の実家で大金持ち住田一族の直系だから、パリ遊学にも行けたのだろう。確かに画才はあったようだ。その叔父の命日と私の誕生日がたまたま同じで、父は“生まれ変わりだ”と信じていた」という[14]
住田家の保存活用の話が進められている[132]

親類[ソースを編集]

彦一[133]
職工。大阪で軽食堂を経営していたが世界恐慌が起こりその煽りを受け閉店。水木の祖父辰司がバタビヤ(現・ジャカルタ)に渡り、印刷会社を興して成功した後、印刷会社の人員募集に応じてバタビヤに渡った。帰国後インドネシア語が話せたので軍属になり、兵隊として再びジャワへ渡る。
定(さだ)やん
水木の著書『ねぼけ人生〈新装版〉』16-17頁によると、
「祖父の方の親類に、定(さだ)やんという奇人がいた。この人は、妖怪の“倉ぼっこ”じゃないが、倉の中で一生を働かずにすごした。働かずにといっても決して暗い一生だったわけではなく、恋愛はする、読書三昧にふける、結婚もする、町会議員には立候補する、といったあんばいで、人一倍楽しい人生を送った」という。

略系図[ソースを編集]

 
 
 
 
住田善平
 
 
 
 
 
 
 
武良惣平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
住田寅次郎
 
森川桑三郎
 
祖母
 
 
 
祖父
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武良亮一
 
 
 
琴江
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武良宗平
 
武良幸夫
 
水木しげる
 
 
 
布枝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悦子
 
尚子
 

関連人物[ソースを編集]

  • アシスタント
    • 田辺一鶴 - 講談師。若手講談師時代に水木と知り合い、一時期仕事を手伝っていたとされる。
    • つげ義春 - 『ガロ』の連載だけでは食えず、水木のアシスタントも兼任していた。失踪事件を起こしている。
    • 池上遼一 - 『ガロ』を読んだ水木が長井勝一にスカウトを依頼。住み込みのアシスタントを2年ほど務める。
    • 古川益三 - 後にまんだらけ社長となる。雑誌『まんだらけ』で元アシスタントの座談会を掲載した。
    • 北川和義
    • 佐々岡健次 (島根けんじ) - 元貸本漫画家で水木プロの初代チーフアシスタント。水木が画力を評価し桜井昌一にスカウトを依頼したという。2017年、まんだらけ出版より作品集が復刻出版された。
    • 山口芳則
    • 鈴木翁二
    • 辰巳ヨシヒロ
    • つりたくにこ
    • 奈知未佐子
    • 橋本将次 - 元貸本漫画家で著作多数。貸本漫画だけでは生活できず水木プロで日雇いのアシスタントをしていた。後に劇画家、SMイラストレイターとして活躍。
    • 森野達弥
    • 土屋慎吾 - 後に官能劇画家としてデビューする。2013年、アシスタント時代の回顧録漫画『ゲゲゲのアシスタント』を自費出版した。
    • 村澤昌夫 - 水木プロのチーフアシスタント。晩年まで水木作品に関わっていた。
    • 石黒美影
    • 伊藤正樹
  • 妖怪関連
    • 荒俣宏 - 荒俣は1980年代に水木宅を訪れ、「弟子にしてください」と頼んだ。水木も荒俣のファンだったので、すぐに了承した[73]。近年の作品に「アリャマタコリャマタ」として登場。
    • 京極夏彦 - 小説家としてデビューしなければ水木プロ入りは間違いなかったという。水木の弟子を自称し、自宅に水木関連書籍・グッズ専用の部屋(水木庵)を作るほどである。『水木しげる漫画大全集』の監修を担当。ちくま文庫から『京極夏彦が選ぶ! 水木しげる未収録短編集』『京極夏彦が選ぶ! 水木しげるの奇妙な劇画集』も刊行している。なお、著作「姑獲鳥の夏」が映画化された時は京極は水木しげる役[134]を演じた。
    • 宮本神酒男 - シャーマニズム研究家。水木とともに、ドラキュラの故郷や、ミャンマーのシャーマンなどの取材旅行をしている。
    • 多田克己
    • 村上健司
    • 林巧
  • 知人、ファンなど
    • 瀧利郎 - 戦友で、戦後も水木と交流があった。編著に『ラバウル戦の末路』。
    • トペトロ - ニューギニアでの療養中に仲良くなった現地のトライ族の少年。水木は漫画家として成功してから、現地を再訪し、恩返しに中古車を贈った。彼との交際は50年に及ぶが、1993年に亡くなった。トペトロの遺族は葬儀をあげる費用が無かった為、水木が費用を出して盛大な葬儀を行った。その交友関係は『トペトロとの50年』に描かれている。
    • 桜井昌一 - 貸本漫画家。後に出版社、東考社をおこし、貸本版『悪魔くん』などを発行。貸本業界が崩壊すると、「桜井文庫」として文庫本形式のインディーズ出版を行い、水木の短編を多数出版している(1980年代後半までは、一般書店でも購入できた。現在は古本市場で高値を生んでいる)。また、水木の漫画作品中に頻出する眼鏡で出っ歯の「サラリーマン山田」のモデル。なお、2010年の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』に登場する戌井慎二(演:梶原善)のモデルも桜井である。
    • 佐藤まさあき - 漫画家。自身の出版社「佐藤プロダクション」で水木の漫画を出版していた。編集者だった佐藤の兄、記本隆司と水木は折り合いが悪く、様々なエピソードがある。
    • 白土三平 - 漫画家。『カムイ伝』他多数の大ヒット作で知られる。『少年マガジン』が劇画路線を推進する以前から水木を推薦しており[8]講談社児童まんが賞の審査でも水木の『テレビくん』を推薦していた[135]。水木漫画では、忍者漫画で一山当てた怪人として水木他の人物がごちそうになりにいくエピソードなどが語られた。
    • 杉本五郎 - 貸本漫画家仲間。鬼太郎の「霧の中のジョニー/吸血鬼エリート」のモデル。映画フィルムの日本一のコレクターでもあった。
    • 梅田栄太郎 - 貸本漫画家仲間。その「調子のいい」言動で、ねずみ男のモデルとなった。のち、印刷会社の社長になる。
    • 長井勝一 - 漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長。
    • 呉智英 - 評論家。70年代初頭に水木の資料整理を担当。その時代に水木漫画の「原作」をいくつか執筆したが、「難解すぎて」採用されなかった。呉は、水木の本質を、「人智を超えたものを信じる人」と、「俗っぽい生活知にあふれた庶民」とが、渾然一体で同居しているところにあると述べている。
    • 南伸坊 - イラストレーター。青林堂の社員時代、『ガロ』で「星をつかみそこねる男」などを担当。
    • 松田哲夫 - 学生時代に『ガロ』の仕事を手伝っていた関係で、水木の原稿を取りに行って知合う。筑摩書房入社後、水木に自伝『ねぼけ人生』の執筆を薦めた。また、「ちくま文庫」創刊後は、水木漫画を多く収録した。
    • 矢口高雄 - 漫画家。銀行員時代に『ガロ』編集部の紹介でスタジオ見学に訪れたことがある。この時に水木や池上から受けたアドバイスは後々非常に参考になったとの事[136]
    • 宮田雪 - 脚本家。水木に漫画原作を提供。また、アメリカのホピ族インディアンを水木が訪れる、渡し役をした。
    • 朝松健 - 作家。1997年の『悪魔くん世紀末大戦』の原案を担当。
    • 大泉実成 - ノンフィクション作家。水木の冒険旅行に何度か同行し、紀行本を出版。
    • 足立倫行 - ノンフィクション作家。水木に密着取材を行い、『妖怪と歩く』を出版。
    • 佐野史郎 - 俳優。水木のファンで、公私ともに交流がある。アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』第4シリーズの吸血鬼エリートや、映画『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』の蛇骨婆を演じる。
    • ら・むうん有里紅良夢来鳥ねむ
      • 水木作品の同人サークル「鬼太郎座」を母体として発展構築された劇団兼創作集団。
      • 「鬼太郎座」時代に創られたダイナビジョン作品『女禍』の製作に、水木本人をスーパーバイザーとして招き、教えを受けた。
      • 中心者2名(有里・夢来鳥)は後に『HAUNTEDじゃんくしょん』など水木作品をモチーフとした商用作品を執筆している。
      • 代表者であった有里紅良は、水木に先立ち、2015年の7月2日に永眠した。ちょうど水木と同じ年に共に彼岸へと旅立った事になる。
    • 関東水木会 - 研究会。青林堂の『水木しげる叢書』に協力したファンの有志により、「水木先生をバックアップするための好事家の集まり」として1993年11月に立ち上げられた。会長 山口信二、会員 平林重雄、鈴木信一、荒井良荒俣宏京極夏彦佐野史郎ら。

脚注[ソースを編集]

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注釈[ソースを編集]

  1. ^ 永らく1924年生れと公表していた。
  2. ^ 水木が境港に戻った年齢は、「2歳ぐらいのとき」[6]、または「生後1ヵ月」[7][8]となっている。
  3. ^ 第二次世界大戦中の1943年に4年制へ短縮され、戦後の1949年に新制中学校・新制高校に統合されて廃止となった
  4. ^ 学制改革後の新制中学校の3年間と新制高校の2年間を合わせた課程に相当
  5. ^ 『ラバウル戦記』では、機銃掃射ではなく原住民ゲリラの襲撃としている。
  6. ^ 他にいた決死隊の仲間は、機銃掃射に当たり、死亡した。
  7. ^ 実写版『悪魔くん』のプロデューサーによると、水木は「自分」という一人称を使うことが印象深いとコメントしていた。妻によると、「漫画家・水木しげる」を演じるために使っているようで、家族に見せる顔と、ファン・編集者らに見せる顔は違うという[73]
  8. ^ 水木の存命中に、生前墓として建てられた。

出典[ソースを編集]

  1. ^ a b “漫画家の水木しげるさん死去93歳 「ゲゲゲの鬼太郎」”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2015年11月30日). http://www.asahi.com/articles/ASHCZ45BRHCZUCLV002.html 2015年11月30日閲覧。 
  2. ^ a b c d e 水木 2007, p. 33.
  3. ^ a b c d e 足立 2010, p. 70.
  4. ^ a b c d 『鳥取県人名録』(企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年 583頁)
  5. ^ 水木しげるさん死去 妖怪物で新分野 神戸・阪神間で下積み 神戸新聞 2015年11月30日閲覧
  6. ^ 水木 2007.
  7. ^ 水木 2002.
  8. ^ a b 足立 2010.
  9. ^ 水木 2007, pp. 43-44.
  10. ^ a b 水木 2007, p. 48.
  11. ^ 水木 2007, p. 50.
  12. ^ 第1章 検討の視点:文部科学省
  13. ^ a b c d 水木 2007, p. 55.
  14. ^ a b 水木 2007, p. 56.
  15. ^ 水木 2007, p. 57.
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  17. ^ a b c 水木 2007, p. 59.
  18. ^ a b c d 水木 2005, p. 480.
  19. ^ a b 水木 2007, p. 61.
  20. ^ 水木 2002, p. 18.
  21. ^ 水木 2007, p. 64.
  22. ^ a b 丸木美術館学芸員日誌
  23. ^ a b 水木 2007, p. 65.
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  38. ^ a b c 水木 2007, p. 86.
  39. ^ NHKデジタルアーカイブス 戦争証言アーカイブス
  40. ^ のち砂原国立加古川病院名誉院長。なお、名前の「勝巳」表記は誤り。
  41. ^ 水木 1994, pp. 141-153.
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  44. ^ 水木 2007, pp. 98-99.
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  69. ^ 水木 2007, p. 151.
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  75. ^ 水木 2002, pp. 212-213.
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  83. ^ a b 「ゲゲゲの鬼太郎」水木しげるさん死去 93歳 スポーツニッポン 2015年11月30日閲覧
  84. ^ a b 水木さんの死因は多臓器不全 事務所が訂正 共同通信 2015年11月30日
  85. ^ “水木しげるさん死去 通夜は自宅近くの寺で 涙声「父ちゃん、父ちゃん」”. 毎日新聞. (2015年12月2日). http://mainichi.jp/articles/20151202/spn/00m/200/007000c 2016年2月2日閲覧。 
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参考文献[ソースを編集]

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  • 水木しげる 『水木しげるのんのん人生―ぼくはこんなふうに生きてきた』 大和書房、2004年11月。ISBN 4-479-39112-6。
  • 水木しげる 『水木しげる伝 マンガ 完全版』上(戦前編)、講談社〈講談社漫画文庫〉、2004年11月。ISBN 4-06-360836-0。
  • 水木しげる 『水木しげる伝 マンガ 完全版』中(戦中編)、講談社〈講談社漫画文庫〉、2004年12月。ISBN 4-06-360837-9。
  • 水木しげる 『水木しげる伝 マンガ 完全版』下(戦後編)、講談社〈講談社漫画文庫〉、2005年1月。ISBN 4-06-360838-7。
  • 水木しげる 『水木サンの幸福論』 角川書店〈角川文庫〉、2007年4月、増訂版。ISBN 978-4-04-192919-3。 - 日本経済新聞社2004年刊の増訂版。
  • 水木しげる 『神秘家水木しげる伝』 角川書店〈怪books〉、2008年4月。ISBN 978-4-04-854194-7。
  • 水木しげる 『最新版 妖怪まんだら 水木しげるの世界』 世界文化社、2010年6月。ISBN 4-418-10121-7。
  • 武良布枝 『ゲゲゲの女房 人生は…終わりよければ、すべてよし!!』 実業之日本社、2008年3月。ISBN 978-4-408-10727-1。
  • 足立倫行 『妖怪と歩く 評伝・水木しげる』 文藝春秋〈書下しノンフィクション 人間発掘〉、1994年10月。ISBN 4-16-349380-8。
  • 足立倫行 『妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる』 新潮社〈新潮文庫〉、2010年3月。ISBN 978-4101022161。
  • 山口信二 『水木しげる貸本漫画のすべて』 YMブックス、2007年5月。ISBN 978-4-903548-08-1。

論文[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]