水野忠篤 (美濃守)

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水野 忠篤(みずの ただあつ、生年不詳 - 天保14年9月27日1843年10月20日))は、江戸幕府旗本紀伊新宮藩水野重央の子・水野定勝の家系にあたる。

文政4年(1821年)に将軍徳川家斉によって御側御用取次に取り立てられ、「西の丸派」の一員として権勢を振るい、林忠英・美濃部茂育とともに「天保の三佞人」と呼ばれた。家斉の逝去後、天保12年(1841年)の水野忠邦天保の改革では公金横領などの罪状で罷免され、家斉時代に加増された5000石も収公された。さらに翌天保13年(1842年)には信濃国諏訪藩に配流された。

天保14年(1843年)、配流先の諏訪高島城南の丸で死去し、近くの地蔵寺に葬られたが、嘉永3年(1850年)に赦免され江戸小川町の浄泉院に改葬された。

参考文献[編集]