永仙院 (古河市)

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永仙院
Ruins of Yozen-in.JPG
永仙院跡
所在地 茨城県古河市桜町128
位置 北緯36度11分10.162秒
東経139度41分59.122秒
座標: 北緯36度11分10.162秒 東経139度41分59.122秒
山号 金蔵山(金藏山)
院号 永僊院
永仙院
乾享院(旧称)
宗旨 臨済宗禅宗
宗派 臨済宗円覚寺派
創建年 不明(戦国時代
開山 春貞周乾季竜周興
開基 足利成氏足利晴氏
正式名 金藏山永僊院(金蔵山永僊院)
金藏山永仙院(金蔵山永仙院)
文化財 永仙院歴代住持の墓(市指定・史跡)
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永仙院(ようぜんいん)は、茨城県古河市桜町(猿島郡長谷村、猿島郡新郷村長谷)にあった臨済宗の寺院。鎌倉円覚寺の末寺。明治初期に廃寺となり、現在は跡地が文化財・史跡として保存されている[1]山号を金蔵山、院号を永仙院という[2]。表記は「永僊院」が正字であるが、略字の「永仙院」が常用されている。古河公方ゆかりの寺院であった。

歴史[編集]

かつて、初代古河公方足利成氏開基、春貞周乾開山により、成氏法号からとって「乾享院」と称した鎌倉円覚寺系列の寺院が古河にあった(『円覚寺史』[3])。これがのちに、第4代足利晴氏の菩提寺として晴氏法号の「永仙院」に改称、開山も季竜周興に改められたと考えられている[4] [5] [1]

歴代の住持は政治分野で活躍したものが多く、戦国時代の季竜周興は古河公方晴氏・義氏の側近となり、江戸時代初期にも三伯玄伊が円覚寺156世、天甫碩円が円覚寺157世となって、ともに鎌倉円覚寺の再建に尽力した[4] [1]

江戸時代後期に書かれた『許我志』・『古河志』によれば、成氏から義氏までの歴代古河公方の位牌が置かれ、公方家が寄付した足利尊氏の偃月刀(なぎなた)もあったが、貧窮のため売り払われたという。『古河志』では、徳源院松月院とともに、古河の「足利開基三ヵ院」と称されていたと紹介されている[2][6]。江戸時代後期は無住持の状態が続き、明治4年(1871年)には廃寺となって、栃木市藤岡町蛭沼・山王寺に合併された[7][4][8]

現在は跡地が市の文化財(史跡)に指定され、永仙院歴代住持の墓や、古河公方家の侍医で「医聖」と呼ばれた田代三喜の供養碑などがある[1]。ここにはかつて、三喜の墓の目印とされた松が植えてあったとされる[9]。他にも、赤穂浪士の一人吉田忠左衛門兼亮の長女「さん」とその夫である本多家家臣の伊藤治興の墓が残されている[10]

文化財[編集]

  • 永仙院歴代住持の墓:本院の跡地に残されているものは下記の通り。田代三喜供養碑・三喜松、三伯玄伊(昌伊)(円覚寺156世)の墓、天甫碩円(昌円)(円覚寺157世)の墓、峻雲玄端(円覚寺159世)の墓、歴代住持の無縫塔(6基)、長谷村青年寄進石灯籠、手水鉢。古河市指定文化財(史跡)[11]

交通[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d 『古河市史 通史編』 194-195頁(永仙院)
  2. ^ a b 『古河市史 資料 別巻』 298-299頁(古河志・永僊院)
  3. ^ 玉村竹二・井上禅定『円覚寺史』春秋社、1964年 (第五章第四節「黄梅院末派の発展」)
  4. ^ a b c 山口美男 「古河公方「三ヵ院」変遷の考察」 『古河市史研究』 第2号、1977年、古河市、54-68頁
  5. ^ 山口美男 「補足 古河公方「三ヵ院」の前身について」 『古河市史研究』 第5号、1980年、古河市、44-49頁
  6. ^ 『古河市史 資料 別巻』 525頁(許我誌・永僊院)
  7. ^ 市内長谷町一向寺所蔵の『山王寺什具取調帳』より
  8. ^ 現在は消失し、山王寺大桝塚古墳が残る
    [1]
  9. ^ 『古河市史 通史編』 201頁(田代三喜)
  10. ^ 古河市公式ホームページ 公報「古河」No.74(2011年11月) 文化の扉
  11. ^ 『古河市の文化財』 78頁
  12. ^ 駅西口前「花桃館」(まちなか再生市民ひろば)にて・古河市公式ホームページ 観光・歴史 古河市の観光パンフレットより

参考文献[編集]

  • 古河市公式ホームページ
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史 通史編』 古河市、1988年
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料別巻』 古河市、1973年
  • 古河市文化財保護審議会 編 『古河市の文化財』 古河市、1993年