池内豊 (野球)

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池内 豊
NARA DEERS 監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 香川県大川郡志度町(現:さぬき市
生年月日 (1952-04-07) 1952年4月7日(68歳)
身長
体重
177 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1970年 ドラフト4位
初出場 1971年10月9日
最終出場 1986年5月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

池内 豊(いけうち ゆたか、1952年4月7日 - )は、香川県大川郡志度町(現・さぬき市)出身[1]の元プロ野球選手投手)。

経歴[編集]

香川県立志度高等学校への在学中にエースとして活躍。3年時の1970年夏に全国高等学校野球選手権香川大会準決勝で香川県立坂出商業高等学校に敗れるなど、春夏とも甲子園球場での全国大会と無縁であったが、秋のNPBドラフト会議南海ホークスから4位で指名。翌1971年に入団すると、10月に一軍公式戦へのデビューを果たした。翌1972年8月には一軍公式戦で初めての先発も経験したが、1973年以降は一軍のマウンドから遠ざかったため、他球団での活躍を望むようになった。投球フォームはオーバースローだったが、当時チームメイトだった新井宏昌からは、「(自分のような左打者にとって)球筋がとても見やすい(ので打ちやすい)」との指摘を受けていたという[2]

1976年春季キャンプ直前の1月に、江夏豊望月充との交換トレードで、江本孟紀島野育夫長谷川勉と共に阪神タイガースへ移籍。移籍を機に中継ぎ要員として吉田義男監督に重用されると、一軍公式戦で南海時代の総登板数(7試合)を上回る21試合に登板した。シーズンの終了後には、一軍の控え捕手だった片岡新之介のサポートを受けながら、投球フォームの改造に着手。サイドスローアンダースローへの挑戦を経て、スリークォーターに転向した。改造後のフォームではリリースポイントを右打者の正面付近に固定させたため、右打者との対戦では、外角にスライダーが決まりやすくなった[2]。このフォームを武器に、1977年から8年連続で一軍公式戦30試合登板を達成。1978年には、7月から先発陣の一角として起用されると、現役時代唯一の完投勝利を含む自己最高の9勝を挙げた。翌1979年には、先発とクローザーを兼ねながら5勝13セーブをマーク。翌1980年にクローザーへ専念すると、2年連続でチーム最多セーブを挙げた[2]1982年には、当時のセントラル・リーグ公式戦歴代最多(日本プロ野球公式戦歴代5位)タイ記録のシーズン73試合登板を達成している[1]

阪神への在籍中には、一軍公式戦でのシーズン通算防御率が3点台後半から4点台と高かったものの、首脳陣からの高い信頼を背景に登板を重ねていた。しかし、1984年のシーズン終了後に、長崎啓二との交換トレードで横浜大洋ホエールズへ移籍。翌1985年に一軍公式戦23試合に登板したが、シーズン終了後に球団から戦力外通告を受けた。阪神が長崎の満塁本塁打などによって球団史上初の日本シリーズ制覇を果たした同年11月2日に、西宮第二球場阪急ブレーブスの入団テストに参加。テストに立ち会った監督の上田利治からは練習不足を指摘されたものの、「今日(採否を)決めて下さい」と上田へ懇願したことから入団が決まった。本人が後に述懐したところによれば、「阪神時代の1983年から自分のイメージ通りの投球が少しずつできなくなっていたので、環境を再び変えることで自分自身と勝負したかった。あと1年阪神にいたら日本一(日本シリーズ制覇)のメンバーになれていたかも知れないが、悔いなど感じたことはない。むしろ、阪神時代の対戦で(通算32打数8安打、2本塁打、7打点を記録されるなど)苦手にしていた(1982年セントラル・リーグ首位打者の)長崎と(交換トレードで)対等に評価されたことを誇りに思う」という。結局、翌1986年に一軍公式戦5試合に登板しただけで現役を引退した[2]

引退後は、阪急と後継球団のオリックスで、打撃投手やスコアラーなどを歴任。オリックスブルーウェーブ時代の1994年から1999年までは、二軍投手コーチとして平井正史などの成長に貢献した。2000年から中日ドラゴンズへ移籍すると、 2001年まで二軍投手コーチ、2002年のみ二軍育成コーチを担当。2003年から2005年までは、韓国プロ野球(KBO)起亜タイガースの投手コーチを務めた[1]

2006年から、動作解析担当のスコアラーとして中日の復帰。二軍の投手と一流投手の投球フォームを撮影映像で比較しながら、 高橋三千丈二軍投手コーチとの相談を通じて、二軍の投手に改善のポイントを助言する役割を担った。中日球団が動作解析室を廃止したことを機に、2008年限りで再び退団。2010年には、関西独立リーグ (初代)に加盟していた神戸9クルーズの監督に招聘された。神戸球団は1シーズンで解散したものの、同リーグに2011年から兵庫ブルーサンダーズが参入したことに伴って初代の監督へ就任。2013年から(2014年BASEBALL FIRST LEAGUE加盟をはさんで)2017年までは、投手コーチ兼二軍監督を務めるかたわら、球団と提携している芦屋学園ベースボールクラブの監督も任されていた。

2019年から、「NARA DEERS」(奈良県大和郡山市を拠点に活動する社会人硬式野球のクラブチーム)の初代監督に就任。2022年開催予定のワールドマスターズゲームズ関西では、硬式野球競技の登録チームである「チームYUTAKA」(「NARA DEERS」を母体に2020年結成)の指揮を執ることが決まっている[3]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1971 南海 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 4 1.0 1 1 0 0 0 0 0 0 1 1 9.00 1.00
1972 3 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 55 11.0 12 3 8 0 1 4 0 0 9 7 5.73 1.82
1973 3 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 22 5.0 5 1 3 0 0 1 0 0 2 2 3.60 1.60
1976 阪神 21 1 0 0 0 1 1 0 -- .500 180 41.1 52 6 8 2 5 23 0 0 22 22 4.83 1.45
1977 36 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 255 62.0 54 8 19 0 5 34 0 0 28 28 4.06 1.18
1978 42 14 1 0 0 9 6 0 -- .600 563 137.2 129 17 33 4 7 78 2 0 62 56 3.65 1.18
1979 54 9 0 0 0 5 5 13 -- .500 531 130.0 110 17 37 4 5 81 1 0 54 53 3.67 1.13
1980 56 0 0 0 0 4 4 8 -- .500 359 84.2 79 12 28 4 11 48 0 1 38 38 4.02 1.26
1981 38 0 0 0 0 2 2 1 -- .500 231 58.0 54 3 10 1 2 38 1 0 24 23 3.57 1.10
1982 73 0 0 0 0 4 5 4 -- .444 385 95.1 83 14 26 4 6 61 0 0 42 42 3.98 1.14
1983 64 0 0 0 0 2 3 3 -- .400 368 87.2 84 9 25 6 6 48 2 0 43 34 3.49 1.24
1984 33 0 0 0 0 2 2 0 -- .500 158 37.0 39 7 9 4 0 19 0 0 18 14 3.41 1.30
1985 大洋 23 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 139 29.0 33 5 21 5 2 22 1 0 16 16 4.97 1.86
1986 阪急 5 0 0 0 0 0 0 1 -- ---- 16 3.0 7 2 0 0 0 4 0 0 5 5 15.00 2.33
通算:14年 452 25 1 0 0 31 31 30 -- .500 3266 782.2 742 105 227 34 50 461 7 1 364 341 3.92 1.24
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録[編集]

背番号[編集]

  • 55 (1971年 - 1975年)
  • 33 (1976年 - 1984年、2010年 - )
  • 13 (1985年)
  • 28 (1986年)
  • 85 (1987年 - 1988年)
  • 100 (1989年 - 1992年)
  • 83 (1994年 - 1999年)
  • 81 (2000年 - 2002年)

脚注[編集]

[脚注の使い方]

関連項目[編集]