池本甚四郎

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11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年明治23年)11月18日[1][2] - 1964年昭和39年)1月30日[3])は、大正から昭和期の農業経営者、醸造家政治家衆議院議員、京都府会議長、京都府久世郡小倉村長、宇治市長。旧名・嘉一郎[1]、号・水也[1]

経歴[編集]

京都府[3]久世郡小倉村大字小倉小字久保[1](現宇治市小倉町)で、素封家の10代池本甚四郎[注 1]、静の長男として生まれる[1]。小倉尋常小学校(現宇治市立小倉小学校)、久世郡組合高等小学校、伏見彰徳高等小学校、府立京都第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)を経て[1][2]、1913年(大正2年)3月、山口高等商業学校を卒業した[1][2][3][4]。卒業後、家業の醤油醸造業に従事した[1]。1920年(大正9年)4月、京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)教諭に就任し、また宇治に設立された夜間中学の教師も務めた[1][3]。1924年(大正13年)12月、父の隠居に伴い家督を相続し、11代甚四郎を襲名し、教職を辞して家業を継承した[1]

1925年(大正14年)から小倉村会議員、学務委員、伏見税務署所轄内所得調査委員、同土地価格調査委員、相続税審査委員、小作調停委員、淀川木津川水害予防組合会議員、久世郡教育部会常議員などを務めた[1][3][4]。1930年(昭和5年)1月、小倉村長に就任し1936年(昭和11年)1月まで在任[1][3]。その他、小倉村農会長、久世郡農会議員、城南竹林同業組合長なども務めた[1][3][4]

1927年(昭和2年)9月、第1回京都府会普通選挙立憲民政党系として出馬して当選し1935年(昭和10年)9月まで2期在任した[1][2]。この間、参事会員、副議長、議長を務め、城南高等女学校(のち京都府立城南高等学校、2009年閉校)の設立、橋梁の架け替えなどに尽力した[1]。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に京都府第2区から出馬して当選し[1]第20回総選挙でも再選[3]。1942年(昭和17年)4月、第21回総選挙翼賛政治体制協議会の推薦を受けて出馬し再選され、衆議院議員に連続3期在任した[1][2][3][4]。この間、衆議院政務調査会幹事、予算委員、農地委員、大政翼賛会審査部理事、農林省委員、翼賛政治会政調幹事、同商工・内務兼務委員などを務め、城南地方を中心とした交通の整備、産業振興に尽力した[1][4]。戦後、日本自由党に所属し[3]、その後、公職追放となり、1950年(昭和25年)10月に解除された[1]。1954年(昭和29年)11月5日、宇治市長に就任し、赤字財政の再建に尽力し、1期在任して1958年(昭和33年)11月4日に退任した[1][2][3]

また、父の遺志を継いで巨椋池開墾干拓事業に奔走し、1932年(昭和7年)10月、巨椋池耕地整理組合(のち巨椋池土地改良区)を設立して副長となり、その後、組合長も務め、1941年(昭和16年)11月の事業の竣工に尽くした[1]。その他、京都府耕地協会長、同土地改良協会長、帝国耕地協会理事、同監事などを務めた[1][2]

その他、自由民主党京都支部顧問などを務めた[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 池本家は代々農業と醤油醸造業を営み、父甚四郎は府会議員、郡会議員、小倉村長なども務め、巨椋池干拓事業に尽力した名望家。『京都府議会歴代議員録』668頁。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『京都府議会歴代議員録』668-670頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本の歴代市長』第2巻、735頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』56頁。
  4. ^ a b c d e 『翼賛議員銘鑑』35頁。

参考文献[編集]

  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 京都府議会事務局編『京都府議会歴代議員録』京都府議会、1961年。
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第2巻、歴代知事編纂会、1984年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。