池邊龍一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池邊龍一

池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年明治14年)1月1日[1] - 1960年昭和35年)1月11日[2])は日本の外交官内閣総理大臣秘書官等を経て、東洋拓殖総裁として大日本帝国下における植民地経営にあたった。第二次世界大戦連合国軍最高司令官総司令部により公職追放された。

人物[編集]

長崎県出身[1]。池邊政五郎の三男[1]私立商工中学校を経て、1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。

外務省入省。1907年韓国統監府属。外交官及領事官試験合格の同期に吉田茂(のちに内閣総理大臣)、広田弘毅(のちに外務大臣)、武者小路公共(のちに駐ドイツ大使)、平田知夫(第一次世界大戦でモスクワ総領事在任中、39歳で夭逝)、林久治郎柳条湖事件を批判し、のちに駐ブラジル大使)、尾崎洵盛(のちに男爵、陶器研究家、孫に朝吹英一(木琴奏者)、曾孫に朝吹英和(俳人))などがいる。

内閣総理大臣秘書官東洋拓殖副総裁を経て、東洋拓殖総裁に就任[3]日本統治時代の朝鮮満州国華北南洋諸島など、大日本帝国下の植民地経営などにあたった。

また1925年から1931年まで南洋興発監査役を務めており、南洋興発が東洋拓殖の影響下にあることがわかる[4]

戦後連合国軍最高司令官総司令部により公職追放された。1960年、東京で死去[2]

栄典[編集]

外国勲章佩用允許

家族・親族[編集]

池邊家
  • 父・政五郎(長崎平民[1]
  • 兄、弟[1]
  • 妻・とき(工学博士・山田文太郎の養妹)[1]
1893年 -

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 『人事興信録 第5版』い162-163頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月15日閲覧。
  2. ^ a b 『朝日新聞』「訃報」1960年1月13日付け朝刊9頁
  3. ^ 東京日日新聞,1939年12月26日
  4. ^ 高木茂樹「南洋興発の財政状況と松江春次の南進論」アジア経済 Monthly journal of Institute of Developing Economies 49(11) pp.26〜46 2008/11(日本貿易振興機構アジア経済研究所研究支援部)
  5. ^ 『官報』第743号「叙任及辞令」1915年1月26日。
  6. ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
  7. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  8. ^ 『官報』第902号「叙任及辞令」1915年8月4日。

参考文献[編集]

  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。