汪応祖
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汪応祖 | |
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琉球国南山王 | |
在位 | 1403年? - 1413年 |
全名 | 汪応祖 |
居城 | 島尻大里城 |
出生 |
? |
死去 |
1413年? |
王世子 | 他魯毎 |
子女 | 別記 |
王朝 | 大里王統 |
父親 | 汪英紫 |
汪応祖(おうおうそ、? - 1413年 在位:1402年または1403年 - 1413年)は琉球国の歴史書に登場する王である。
概要[編集]
大里王統の3代目であり、先代の汪英紫の次男である。14世紀末から15世紀初めの間に、豊見城(とみぐすく)を築いた。
明の南京に留学した経験があり、明で見た龍舟を造って5月の始めに城下の江で競渡をしたのが爬竜(ハーリー)の始まりという説がある。
1413年に、弟の栄華を恨んだ実兄の達勃期によって殺された。
系譜[編集]
- 妃:不詳
参考文献[編集]
関連項目[編集]
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