沈括

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沈括
沈括

沈 括(しん かつ、1030年 - 1094年)は、北宋時代中期の政治家学者存中。夢渓丈人と号する。父は沈周。伯父は沈同。兄は沈扶(沈遘・沈遼の父)。

略伝[編集]

杭州銭塘県の出身。仁宗嘉祐年間の進士神宗の時に太子中允・検正中書刑房公事・提挙司天監などを歴任する。暦官としても業績を上げ、史館検討の職を兼任することになる。淮南に飢饉があった時に察訪使として派遣され、穀価を下げさせ、廃田を復興して水利を治める。集賢校理となり、浙江の水田を監察する。さらに太常丞・修起居注となり、大いに民政に努めた。知制誥・通進銀台司に昇進し、河北西路察訪使となる。

の使者である蕭禧が来て、黄嵬山(現在の山西省忻州市原平市)の地が遼の領土であることを主張した時、沈括は枢密院の古地図を調査し、長城が遼と宋の国境であることを主張、遼の要求を撤回させた。その功により、翰林学士権三司使を拝命した。王安石の新法には賛成の立場を採り、呉充が免役法(募役法)を批判した時には、不満を述べるのは(労役に関係のない)士大夫ばかりであるとこれに反論している[1]

集賢院学士となった後に宣州の知州となり、龍図閣待制・知審官院に任命され、青州の知州となるが、赴任する前に延州に改められた。よく治績を上げ、名声が広く伝わったが、ある事件に連座して均州の団練副使に左遷された。

哲宗元祐初年に秀州に渡り、光禄少卿となって南京(応天府)に赴任する。後、潤州の夢渓園に隠居して8年後に没する。

著作[編集]

沈括は博学で、天文・方志・律暦・音楽・医薬・卜算など得意分野が広く文章に優れ、著作は多い。今日残るものに、次の著作がある。

脚注[編集]

  1. ^ 東一夫『王安石事典』国書刊行会、1980年、P113