河演

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河演
영의정하연부부영정3.jpg
世宗期領議政河演
各種表記
ハングル 하연
漢字 河演
発音 ハ・ヨン
日本語読み: か えん
テンプレートを表示

河演(ハ・ヨン、か えん、1376年(高麗王禑2年) - 1453年(朝鮮文宗3年))は、朝鮮初期の政治家。本貫は晋陽河氏。字は淵亮。雅号は敬斎または新稀翁。諡号は文孝。世宗時代の名宰相として知られる。

略歴[編集]

1396年式年文科に合格した。1431年に大提学になり、そのあと大司憲、刑曹判書、左参賛などを経て、1445年に左賛成になって几杖を受けた。右議政左議政を過ごし、1449年に朝鮮王朝500年の間に議政府に入って、約20年間法をよく守って「昇平守文」の宰相といわれるが、最高の評価を受けた宰相は黄喜の後に続いて領議政を務めた河演が唯一の人物である。1451年(文宗1年)に文宗が大慈寺を重水しようとすると、これに反対する上訴を上げた後、官職から退き、1453年に他界した。

学問と思想[編集]

節義派の士大夫の思想を継承した代表的な性理学者[編集]

河演は高麗の節義派の士大夫な鄭夢周の弟子であり、朝鮮の開国に反対した高麗の儒臣な河自宗(杜門洞72賢の一人)の息子として節義派の士大夫の思想を継承した代表的な性理学者である。河演の性理学の理解の水準は「孝」への理解は、すでに日常生活の中で実践しており、「敬」への理解は、北宋の性理学者の義理論の段階を超えて、南宋代の朱熹の「敬斎箴」を収容するほど先駆的であった。つまり、河演は高麗末、節義派の士大夫な鄭夢周の義理論を継承して修養論で、その理解の段階を進展させた。

賞勲と追悼[編集]

  • 太宗王の職務遂行絶賛
  • 1419年に朝鮮開国後、最初に実施した経筵の最初の参賛官
  • 文宗王の皇太子時に師匠(世子師)
  • 1445年右議政在職時(70歳)、世宗大王の几杖下賜
  • 1453年死去すると、端宗王は3日間朝會中断して哀悼
  • 1454年文宗王の宗廟に配享
  • 粛宗王の時に晋州(市)の宗川書院、陜川(郡)の新川書院祭享
  • 朝鮮王朝の500年清白吏157人

関聯 人物[編集]

直系 後孫[編集]

参考文献[編集]

  • 『世宗実録』
  • 『文宗実録』
  • 『端宗実録』
  • 『新增東國輿地勝覽』
  • 『國朝榜目』
  • 『海東名臣録』
  • 『私淑齋集』
  • 『敬齋集』
  • 『燃藜室記述』
  • 『嶺南人物考』