河野通直 (伊予守)

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河野通直
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄7年(1564年
死没 天正15年7月14日1587年8月17日
改名 牛福丸(幼名)→通直
戒名 長生寺殿月渓宗圓大禅定門
墓所 広島県竹原市本町の長生寺
官位 伊予守
氏族 河野氏
父母 父:村上通康、もしくは河野通吉
母:天遊永寿宍戸隆家の娘)
養父:河野通宣
養子:通軌
河野通直供養塔

河野 通直(こうの みちなお)は、伊予国戦国大名河野氏最後の当主。

略歴[編集]

後述するが、村上通康、もしくは河野通吉の子とも言われるが定かではない。

先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏一条氏長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。

通直は若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後その人柄に心従したという。豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際、通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。

通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡してしまった。通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15年(1587年)に病死(隆景が通直を弔った墓は竹原に現存)。養子に迎えた宍戸元秀の子・河野通軌が跡を継いだ。

出生[編集]

これまで通直の実父は通吉と言われてきたが、実母にあたる天遊永寿宍戸隆家の娘)についての検証から、村上通康の子として生まれ、その後実母が先代当主である河野通宣に再嫁することで河野家の正当な後継者としての地位を手に入れたとする説がある[1]。この説に拠れば、通直は毛利元就の曾孫にあたることになる。この血縁関係もあり、四国攻め以前から通直政権は毛利氏小早川氏の強い影響力により支えられていたとされ、史料も確認されつつある。

死去[編集]

これまで通直が病弱と記録されていることもあって普通に病死したものと考えられてきた。だが、『予陽河野家譜』では7月9日に伊予に立ち退いた後、有馬温泉高野山に向かった後に竹原に入ったとあるものの、死去したのは伊予出国の6日後の15日(14日の誤記か)となっている。当時の交通手段では、6日間で有馬温泉と高野山を経由して竹原に戻ることは不可能であり、病身であれば猶更である。しかも、小早川隆景は既に九州への移封の命を受けて新領国に向かっていたため竹原には居らず、所領を没収された大名の蟄居先として竹原は不適切である。西尾和美はこの時期(7月上旬)に豊臣秀吉が九州出兵の帰途に毛利・小早川領を通過していること、江戸時代の文献(『萩藩譜録』河野茂兵衛通恒家条、松山藩『予陽郡郷俚諺集』、『越智稲葉氏系図』)に生害説を採っている文献が存在していることを指摘し、河野通直は豊臣秀吉と毛利輝元によって後見人である小早川隆景と引き離された上で自害をさせられたとする説を提示している。また、同じ時期に宇和郡西園寺公広も新領主の戸田勝隆に殺害されている事実を指摘して、伊予の旧体制を一掃するための豊臣政権の方針として旧領主の処断が行われたとしている[2]

脚注[編集]

  1. ^ 西尾和美「厳島合戦前夜における芸予の婚姻と小早川隆景」「戦国末期における河野氏権力と来島通康」『戦国期の権力と婚姻』清文堂出版、2005年
  2. ^ 西尾和美「河野通直の死と豊臣政権」『戦国期の権力と婚姻』清文堂出版、2005年(原論文2002年)

参考資料[編集]

  • 『元亀年間における来島村上氏と河野氏』 山内譲著
  • 『戦国期の権力と婚姻』西尾和美著、清文堂出版、2005年

関連項目[編集]