泗川の戦い

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泗川の戦い
戦争慶長の役
年月日慶長3年/万暦26年10月1日
1598年10月30日
場所朝鮮慶尚道泗川
結果:日本(島津軍)の勝利
交戦勢力
日本軍(島津氏 朝鮮連合軍
指導者・指揮官
島津義弘Japanese Crest Simazu Jyumonnji.svg 董一元
戦力
15,000[1][2] 50,000[3][4]
損害
不明 7,000人(朝鮮側記録)[5]
36,000人前後[6]
文禄・慶長の役

泗川の戦い(しせんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。日本の慶長3年/万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島泗川島津義弘が率いる島津軍2千が明の武将董一元の率いる10万の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦いである[7]。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。

背景[編集]

慶長3年/万暦26年(1598年)9月末から10月初めにかけて、明と朝鮮の連合軍は西から順天倭城小西軍)、泗川倭城(島津軍)、蔚山倭城加藤軍)、に対して同時攻勢をかけた。この攻勢は三路の陸軍と一路の水軍が挟撃し、朝鮮半島の南海岸に散在していた日本軍を一挙に壊滅させ、戦争を終結するという「四路並進策」によるものだった。

このうち総兵の董一元が率いる明・朝鮮連合軍(中路軍)が泗川倭城に攻め寄せた。泗川は日本軍の策源地であった釜山と日本軍最左翼の順天倭城・南海倭城の中間に位置するため、ここを落とされると西方にいる軍との連絡が分断される可能性があった。この泗川に駐屯していたのは、義弘と子の忠恒率いる島津軍1万のみであった[8]

軍や立花軍が援軍を申し入れるが義弘はそれを断り、島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃つこととなった。

泗川古城での前哨戦[編集]

泗川古城(泗川邑城)の城壁

明・朝鮮連合軍の大軍の動きを察知した義弘は、配下に守備させていた泗川古城・永春・昆陽・望晋の将兵に義弘のいる泗川新城に集結するよう命じた。このうち、泗川古城に配置されていた将兵は撤収することが遅れたため、明・朝鮮連合軍に包囲された。泗川古城は川上忠実を主将とし、およそ1万石の食糧を置いていたが、兵力はわずか数百にすぎなかった。慶長3年(1598年)9月27日、明軍は泗川古城を強襲、川上忠実は少数ながら頑強に抵抗し、城から出撃すると明将遊撃李寧・盧得功以下数百人を討ち取った。しかし、死傷者を多く出し危機的状況に陥っていたため、数の上で圧倒的に不利な川上忠実の軍勢は明・朝鮮連合軍の囲みを突破して泗川古城を放棄し、泗川新城への撤退を目指した。包囲を突破する際、忠実は36の矢を受け重傷を負い、150人余りが戦死したが泗川新城へ撤退することに成功した。

泗川古城の危急に対して泗川新城の義弘は、子の忠恒の援軍を派遣すべきだとする進言を島津軍の兵力が少数であることを理由に退け、泗川新城防備に徹した。また忠実は、瀬戸口重治に命じて敵の食糧庫を焼き討ちさせ、これに成功した。大兵力の連合軍は食糧が不足していたが、食料庫を焼かれたことでさらに窮地に陥り、短期決戦を余儀なくされた。明軍は、接収した泗川古城において軍議を行い、10月1日をもって泗川新城の総攻撃を行うことに決した[9]

泗川新城での戦闘[編集]

泗川新城の天守台

義弘は泗川新城を背に強固な陣を張り、伏兵を配置した。連合軍の攻撃に対し、義弘は大量の鉄砲を使用したり、地雷を埋めるなどして対抗した。また、鉄片や鉄釘を砲弾の代わりに装填した大砲も使用した。明将茅国器、葉邦栄、彭信古などは泗川新城の大手に、郝三聘、師道立、馬呈文、藍芳威などが左右に備え、董一元が中軍として泗川新城に攻め寄せた。

篭城戦で立ち向かった島津軍は敵軍を集中射撃してしのぎ、午後まで熾烈な接戦が繰り広げられた。戦闘が続く中、明軍の火薬庫に引火し爆発、火薬の煙が視野を遮ったことで明・朝鮮連合軍は混乱に陥った。折から白と赤の2匹の狐が城中より明軍陣営の方へ走って行った。これを見た島津軍は、稲荷大明神の勝戦の奇瑞を示すものとして大いに士気が高まったという[10]。この機に乗じて、島津軍は城門を開き打って出た。義弘は伏兵を出動させて敵の隊列を寸断して混乱させ、義弘本隊も攻勢に転じた。義弘自ら4人斬り、忠恒も槍を受け負傷するも7人斬るなどして奮戦した。混乱した連合軍は疲労していたことも手伝って、壊滅的被害を受けた。島津軍は南江の右岸まで追撃を行い、混乱し壊走する連合軍は南江において無数の溺死者を出した。10月1日夜、島津軍は泗川の平原において勝鬨式を挙行し、戦闘は幕を閉じた。

その後、集結して撤退できた連合軍の兵力は1万ほどであったという。この戦いにより義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ・グイシーマンズ)と恐れられ、その武名は朝鮮だけでなく明国まで響き渡った[11]

朝鮮王朝実録』には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、これにより、三路に分かれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたと記述されている[12]

絵本太閤記での記述[編集]

絵本太閤記』では、泗川古城を守備していたのは伊勢兵部少輔定正(貞昌)となっている。また、泗川新城は新塞城となっている。また「鬼・島津」ではなく、「怕ろし(おそろし)のしまんず」となっている。明軍の兵力は4万余。島津軍の兵力は、義弘の5千余、忠恒の1千余、伊勢兵部少輔定正(貞昌)の300余、併せて6千3百余である。討ち取った明人の首は3万余とある。

勝敗の原因[編集]

篭城側の島津軍はその戦力差のため、長期戦になれば不利になる恐れがあった。一方、包囲側の明軍も最低でも数万以上と推測される大軍を長期間展開するだけの食糧はなかった上に、島津軍の奇襲によって食料庫を焼失している。その結果、双方とも短期決戦を選ぶ他なかったと推測される。

心理面においては、明・朝鮮軍が連合軍であるために指揮統制が難しく、一度不測の事態によって混乱すると収拾が難しかったと思われる。そして敵軍がわずか7千と圧倒的に劣勢だったため、勝利を楽観視していたのではないかと思われる。これらの要因は、連合軍の弱点となったといえる。

一方の島津軍は、この戦いに敗れれば日本軍の連携が崩壊し、多くの味方が逃げ場を失うことを強く認識していたものと思われる。また島津の伝統的な釣り野伏せの戦術で劣勢を覆した経験が幾度もあったことで、全軍の意思も統一されていたと考えられる。さらに味方の援軍を断って島津家の兵だけで戦ったことにより、少数ながらも軍としてのまとまりが非常にあったものと思われる。

上記の要因が複合し、島津軍の奇襲作戦や伏兵などが成功して連合軍が混乱し瓦解したため、寡兵の島津軍が勝利しえたと推測できる。また島津軍が大量の鉄砲を防御に使用し、効果を挙げたことも大きな要因である。

影響[編集]

泗川で明の中路軍が受けた敗北は、西路軍と東路軍も攻勢を断念する契機となった。本来、明・朝鮮連合軍の目標は水陸にわたって四路軍を一斉に前進させ、順天・泗川・蔚山の日本軍を各個撃破することだったが、中路軍の敗退により相互協力が不可能になった。結局、水軍を除く三路軍はすべて退却するに至り、これは四路並進策の構想そのものが失敗に終わったことを意味した。

泗川の戦いに先立つ8月18日、既に太閤豊臣秀吉は死去していたが、秀吉のその死は秘匿されており、その後、10月15日付で日本軍に撤退命令が下る。島津家がこの泗川の戦いで明軍を撃退して味方の組織的な撤退を可能にしたこと、また直後の露梁海戦で小西軍の脱出を可能にした(その際に朝鮮水軍の大将李舜臣を討取った)という功績は五大老達から高く評価されており、島津家は文禄・慶長の役に参加した諸大名で唯一の加増に与った。反面に予想外の大敗で衝撃を受けた明軍は指揮官を厳重に問責した。董一元は職級が3等級降格され、郝三聘と馬呈文は敵前逃亡したとして斬刑に処した[13][14]。泗川戦役以降、戦意を喪失した明軍は交戦を回避するような態度を示し、秀吉の死によって撤退し始めた日本軍の意向と相まって講和交渉が公然と行われるようになった。

帰国後の慶長4年6月に義弘・忠恒親子の連名で高野山に建立した慶長の役の供養碑には、南原の戦いの戦果について「慶長二年八月十五日於全羅道南原表大明國軍兵數千騎被討捕之内至當手前四百廿人伐果畢」と触れた後、泗川の戦いの戦果として「同十月朔日於慶尚道泗州表大明人八萬餘兵撃亡畢」とある。一方、味方の被害として「右於度々戰場味方士卒當弓箭刀杖被討者三千餘人海埵之閒 横死病死之輩具難記矣」とある[15]

現在でも宮崎県小林市にはこの泗川での戦勝を記念して「輪太鼓踊」という舞踊が今に伝えられている。

脚注[編集]

  1. ^ 『島津家文書』 文禄5年(1596)12月5日付けの「唐入軍役人数船数等島津家分覚書」によれば、慶長の役当時、朝鮮へ出征した島津軍は戦闘要員が5,868人、非戦闘員が6,565人(夫丸3,900、加子2,000、道具衆665)であり、計は12,433人となっている。更に島津以久が332人、伊集院忠棟が2,332人で、島津軍の総計は、15,097人であった。朝鮮上陸から島津が大きく兵力を失うほどの敗戦はなかったため、泗川の戦いの頃にもほとんどの軍勢を保存していたと推測される。
  2. ^ このうち非戦闘員を除く実際の兵力は約8千人程度だった。
  3. ^ 桑田忠親 ed. 旧参謀本部編纂、朝鮮の役 (日本の戦史 Vol. 5)、1965年
  4. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十二日によれば、泗川攻略に投入された明の中路軍は26,800人、朝鮮軍は2,215人と記録されているが、後方の支援部隊や人夫まで含めると、明・朝鮮連合軍の軍勢は最大5万人と推算される。
  5. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十日 「慶尚道觀察使鄭經世馳啓曰: 董都督初二日、入攻新寨之賊、打破城門、方欲入攻之際、茅遊撃陣中、火藥失火。蒼黄奔救、倭賊望見開門、突出放砲、天兵退遁、致死者、幾七千餘人、軍糧二千餘石、亦不爲衝火而退。伏屍盈野、兵糧、器械、狼藉於百三十里地、提督退還星州」
  6. ^ 『島津家文書』には、島津忠恒の鹿児島方衆が10,108、島津義弘の帖佐方衆が9,520、冨隈(島津義久領)方衆が8,383、伊集院忠真の軍が6,560、北郷三久の軍が4,146、計38,717の首級を上げ、打ち捨てた死体数知れずと記録されている。また後述の通り『絵本太閤記』には、討ち取った明軍の数は3万余とある。なお、明の記録では「戦死者約8万人」とあるほか、朝鮮の『宣祖実録』の十月十二日の項には、この泗川の戦い・第二次蔚山城の戦い順天城の戦いの3つを合わせて、明・朝鮮連合軍11万以上が動員されたと記されている。
  7. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「泗川の戦い」
  8. ^ 東郷吉太郎編 『泗川新寨戦捷之偉蹟』 「義弘公年譜抄」 薩藩史料調査会、1918年10月。
  9. ^ 島津顕彰会編 『島津歴代略記』、1986年10月。
  10. ^ この時の2匹の狐にまつわる踊りが「吉左右踊り」で、鹿児島県無形民俗文化財に指定されている。
  11. ^ 三木靖 『島津義弘のすべて』 新人物往来社、1986年7月。ISBN 4404013566。
  12. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十二日 「而三路之兵、蕩然俱潰、人心恟懼、荷擔而立」
  13. ^ 『明神宗実録』巻328, 萬暦二十六年十一月一日
  14. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十七日
  15. ^ 那波利貞 『月峯海上録攷釈』 1961年

関連項目[編集]