浅井浄

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浅井 浄 Portal:陸上競技
選手情報
フルネーム あさい きよし
ラテン文字 Kiyoshi Asai
国籍 日本の旗 日本
競技 陸上競技 (短距離走)
種目 100m, 200m
大学 関西学院大学
出身地 兵庫県明石市
身長 167cm
体重 60kg
オリンピック 1964東京400mリレー
自己ベスト
100m 10秒5 (1963年)
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浅井 浄(あさい きよし、1940年2月6日[1] - )は、兵庫県出身の日本の元陸上競技選手。専門は短距離走。陸上競技引退後にプロ野球阪急ブレーブスでトレーニングコーチを務めた。

経歴[編集]

兵庫県立明石高等学校から関西学院大学に進む[2]

在学中、関西学生対校選手権(関西インカレ)では1960年から1963年まで100mで4連覇を達成[3]

1961年には第2回夏季ユニバーシアードソフィア)の代表となり、400mリレー(第2走)では当時の日本タイ記録となる41秒2で2位に入賞する[4][5]

1962年にはアジア競技大会ジャカルタ)の代表に選ばれた(100mは準決勝で敗退)[4][6]

1963年には第32回日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)の100mで優勝。8月24日の近畿陸上選手権大会(王子陸上競技場)では100mで自己ベストとなる10秒5を記録し[7]、日本の年間ランキング1位(同タイム複数あり)に名を連ねた[8]

1964年東京オリンピックでは400mリレー代表に選ばれる[2]。オリンピック本番では第3走(他のメンバーは1走:飯島秀雄、2走:蒲田勝、4走:室洋二郎)を務めるが、日本チームは2次予選(準決勝)で敗退した[9]。浅井は後年の回想で、メンバーはみな個人競技でのライバル意識が強く、直前のリレー練習でもバトンパスを「真剣に練習した覚えはない」と語り、チームワークがなかったことを指摘している[9]

大学卒業後、京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄、企業としては現・阪急阪神ホールディングス)に入社[2][9]

1969年、出向という形でプロ野球阪急ブレーブスの一軍マネージャー兼トレーニングコーチとなる[2][9][10]。浅井はその経歴を見込まれて選手に走法のトレーニングをおこない、その一人に入団間もない福本豊がいた[2][9]。浅井は低い姿勢のフォームを教え[9]、福本は自著で「両ヒジが横振れしない走り方を教わった」と記している[11]

1975年からはランニングコーチ専任となる[12]。1977年までブレーブスのコーチを務めた後、フロントに入った[9]

2017年時点では兵庫県宝塚市に在住[9]

脚注[編集]

  1. ^ 外部リンクによる。
  2. ^ a b c d e “五輪の夢バトンパス 東京大会選手が児童に伝授 兵庫”. 朝日新聞. (2013年9月18日). http://www.asahi.com/edu/articles/OSK201309180166.html 2019年2月3日閲覧。 
  3. ^ “多田修平、進化の現在地 関西インカレ1部男子100mで55年ぶりの4連覇”. 陸マガweb. (2018年5月14日). https://www.bbm-japan.com/_ct/17168343 2019年2月3日閲覧。 
  4. ^ a b 陸上競技部(関西学院事典) - 関西学院大学
  5. ^ 読売新聞1961年9月3日6頁
  6. ^ 読売新聞1962年8月26日6頁
  7. ^ 読売新聞1963年8月25日8頁
  8. ^ 読売新聞1963年12月20日8頁
  9. ^ a b c d e f g h “【1964年からの手紙】男子400リレー代表・浅井浄さん 一番大切なのは絆”. 東京新聞. (2017年8月1日). http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/ltr1964/list/CK2017080102000187.html 2019年2月3日閲覧。 
  10. ^ 同じ東京オリンピックリレーメンバーだった飯島秀雄は、同年からロッテオリオンズの選手となっている。飯島も当初はコーチに迎えられる予定だった。
  11. ^ 福本豊『走らんかい!』ベースボール・マガジン社<ベースボール・マガジン社新書>、2009年、p.47
  12. ^ 読売新聞1974年11月2日17頁