浜田平

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浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年明治28年)1月18日[1][2] - 1945年昭和20年)9月17日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴[編集]

高知県出身[1][2][3]。浜田正之の四男として生まれた[1]。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][2][4]。同年12月、砲兵少尉に任官[1][4]。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校普通科を卒業し、1919年(大正8年)11月、同校高等科(25期)を卒業[1]陸軍工科学校教官などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した[1][2][3]

1925年12月、野砲兵第4連隊中隊長に就任[1]。1926年(大正15年)12月、参謀本部付勤務となり、1928年(昭和3年)5月から7ヶ月間、外国語学研究のためサンフランシスコに留学[1]。同年12月、参謀本部員(米班)に就任し、1931年(昭和6年)8月、砲兵少佐に昇進[1]。1934年(昭和9年)12月、メキシコ公使館付武官に発令され[3]、1936年(昭和11年)8月、砲兵中佐に進んだ[1]。1937年(昭和12年)8月に帰国し参謀本部付となる[1]。同年11月、大本営陸軍部報道部員(宣伝課長)に就任[1][3]

1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進し中支那派遣軍参謀部付となり日中戦争に出征[1][2][3]。1939年(昭和14年)3月、北支那方面軍参謀(報道部長)に転じ、第9師団司令部付、山砲兵第16連隊長を経て、1944年(昭和16年)10月、陸軍少将に進み参謀本部付となる[1][3]。同年11月、関東軍情報部奉天支部長(特務機関)に就任し、1943年(昭和18年)3月、俘虜情報局長官に転じた[1][2][3]。1944年(昭和19年)11月、泰国駐屯軍参謀長に発令され太平洋戦争に出征[1][2][3]。同年12月、組織改編で第39軍参謀長となり、1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進級[1][2][3]。同年7月、再度の組織変更で第18方面軍参謀副長に就任し終戦を迎えた[1][2][3]。同年9月、バンコクで自決した[1][2]

親族[編集]

  • 妻 浜田治子(陸軍大佐・日下丹造の娘)[1]
  • 兄 浜田陽児(陸軍少将)[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『日本陸海軍総合事典』第2版、127頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』587頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』392頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』388、392頁。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。