海部氏系図

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海部氏系図(本系図)巻頭

海部氏系図(あまべしけいず)は、京都府宮津市に鎮座する籠神社社家海部氏に伝わる系図であり、『籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻(以後「勘注系図」と称す)とからなる。

ともに古代の氏族制度や祭祀制度の変遷を研究する上での貴重な文献として、昭和50年(1975年)6月に重要文化財、翌51年(1976年)6月に国宝の指定を受けた[1]

本系図[編集]

「本系図」は、現存する日本の古系図としては、同じく国宝である『円珍俗姓系図』(「智証大師関係文書典籍」の1つで、「和気氏系図」とも呼ばれる)に次ぐもので[2]、竪系図の形式を採っていることから、系図の古態を最もよく伝える稀有の遺品とされている。

体裁は楮紙5枚を縦に継ぎ足した、幅25.7cm、長さ228.5cmの巻子仕立てで、中央に「丹後国与謝郡従四位下籠名神従元于今所斎奉祝部奉仕海部直等之氏」と標記し、以下淡墨による罫1線を引いて、その上に神名・人名を記しているが、その上に「丹後国印」と彫られた朱方印を押しており(その数は28顆に及ぶ)、丹後国庁に提出され、その認可を受けたものであることが分かる。

また成立年代については、標記中に「従四位下籠名神」とあることから、籠神社が「従四位下」であった期間、すなわち貞観13年(871年6月8日を上限とし、元慶元年(877年12月14日を下限とするが[3]、下述「勘注系図」の注記にも貞観年中(859-77年)の成立とある[4]。作者は当時の当主である第33世(以下、世数は「勘注系図」による)海部直稲雄であると見られている[5]

内容[編集]

始祖彦火明命から第32世の田雄まで、各世1名の直系子孫のみを記したきわめて簡略なもので[6]、内容的には次の3部からなる[7][注釈 1]

  • 始祖から第19世健振熊宿祢までのを有さない上代部。途中、2・3世と第5世から第18世までを欠いているため、わずか3人(神)を記すのみである。
  • 第20世都比から第24世勲尼までの、「海部直」の姓を持ち、伴造として丹波国(当時は丹後国を含んでいた)の海部(海人族集団)を率いていたと思われる海部管掌時代。
  • 第25世伍佰道から貞観時代の第32世田雄までの、「海部直」の姓を持つとともに名前の下に「祝」字を付け、籠神社のとしての奉仕年数を注記する祝部時代[注釈 2]

勘注系図[編集]

「本系図」に細かく注記を施したもので、竪系図の形式を襲うが、現存のものは江戸時代初期の写本であり[8]、原本は仁和年中(885年 - 889年)に編纂された『丹波国造海部直等氏之本記』であると伝える。その紙背には桃山時代に遡ると推定される天候や雲の形による卜占を図示したものが画かれており、本来は反故紙であった卜占図の裏に書写されたものであった(これら卜占図も貴重な古文献とされている)[7]。ちなみに編纂経緯として、注記中に「一本云」として以下のように伝えている。

  • 推古天皇朝に丹波国造であった海部直止羅宿祢等が『丹波国造本記』を撰述[9]
  • 上記『国造本記』撰述から3世を経た養老5年(721年)、丹波国造海部直千嶋(第27世)とその弟である千足千成等が『籠宮祝部氏之本記』を修撰(一説に養老6年(722年)8月ともある)。
  • 貞観年中に、第32世の田雄等が勅を奉じて、上記『養老本記』を基にその後の数代を増補する形で本系帳としての『籠名神社祝部氏系図』(現在の「本系図」)を撰進。
  • 仁和年中に、「本系図」が神代のことや上祖の歴名を載せておらず、本記の体をなしていなかったため、第33世の稲雄等が往古の所伝を追補して『丹波国造海部直等氏之本記』を撰述。

内容[編集]

始祖から第34世までが記され、各神・人の事跡により詳しい補注を加え、当主の兄弟やそこから発した傍系を記す箇所もあって、「記紀」は勿論、『旧事本紀』などの古記録にも見られない独自の伝承を記すとともに[10]、「本系図」上代部で省略されたと覚しき箇所もこれによって補い得る[7]

史料批判[編集]

この系図に関する真贋論争など史料批判は非常に少なく、太田亮が系図に関して「但馬正税帳に見ゆる海直忍立の見えざるは不審と云ふべし」と言及した程度である。

これに関して古代氏族・東アジアの系図研究者である宝賀寿男は海部氏系図の内容に以下のような疑問を投げかけている[11]

  • まず『本系図』に見える始祖の彦火明命を除いた歴代17人については、他の史料にまったく所見がなく傍証がないこと。従って正史に埋もれた古代地方豪族の史料だと主張しても、系図史料の信頼性の裏付けにはならない。
  • 「海部直都比」、「海部直縣」といった表記法に疑問があること。大化前代庚午年籍以前の者については、当時は「都比直」という「名前+姓」の形の記載が一般的である。姓氏を先にあげて名前を記すような形で、しかもそれを繰り返すような表記は他例をあまり見ない[注釈 3]。この表記法に関しては、同じく国宝指定を受けている「円珍俗姓系図」と比べ、その表記の奇妙さがよく表れている。
  • 「都比」、「阿知」、「力」[注釈 4]は別にしても、「伍佰道」、「愛志」、「望麿」、「雄豊」という名前はその他豪族の系図史料に見えず、名称が奇妙であること。『勘注系図』内に見える「勲尼」[注釈 5]という名も同様。
  • 彦火明命が天忍穂耳命の第三子とするのは疑問であること。『古事記』や物部氏の伝承では天火明命は天忍穂耳命の長男としており、『日本書紀』のように邇邇芸命の子とする伝承もあるが、『本系図』のような記述は他にない。
  • 彦火明命が尾張氏の祖と伝える天火明命と同神だとしても、その三世孫に「倭宿禰命」という名は他書に見えないこと。『勘注系図』等に天忍人命の別名とするのも疑問である。また海部氏が尾張氏支流という系譜を唱えるのなら、肝腎の尾張氏の始祖高倉下天香語山命)を書き込まない系図の意図が不明である。
  • 応神天皇の「健振熊宿禰」から天武天皇持統天皇ごろの「伍佰道祝」までの世代数が非常に少ないこと。大多数の古代氏族の系図では応神天皇世代の者から天武天皇世代の者まで10世代ほどあるが、『本系図』では7世代しかない。「健振熊宿禰」と「海部直都比」との間の「」が世代の省略を意味するのだとしても、祠官家では「稲種命」と伝えるというのみである。
  • 和邇氏の祖である健振熊宿禰尾張氏の氏人である日本得玉彦命が見えるなど、倭国造や和邇氏、尾張氏など他氏族から混入された名が見える。
  • 「伍佰道祝」、「愛志祝」、「千鳥祝」の奉仕年代に整合性がないこと。特に「伍佰道祝」の記事「従乙巳養老元年合卅五年」に関して、乙巳から養老元年までの任期は、645年あるいは705年から717年までで、35年にはならないため問題がある[注釈 6]
  • 丹波国造の姓氏は丹波であって、海部直ではないにもかかわらず、『本系図』では海部直を丹波国造の地位にあったとしていること[注釈 7]。氏姓国造において大国造は地域名を氏としており、そのことの例外になるのは不自然である。また、海部直氏が応神天皇の御代に国造として仕えたとしたら『国造本紀』の記事との関係でも疑問が大きい。
  • 『但馬国正税帳』に見える天平ごろの与謝郡大領「海直忍立」が見えないこと。忍立が海部直氏の傍系の人で系図中に見えないのか、系図に問題があって見えないのかについて、海部直氏は大化改新後に籠神社の祝に奉仕する一流と、与謝郡の郡司に任ずる一流とに分かれたのではなかろうかという推測もあるが、大化頃に祭政分離がなされた例は氏姓国造では見られない。出雲国造紀国造阿蘇国造などの諸国造の例と比較しても、こういった推測は疑問である。
  • 丹後海部を管掌する伴造の姓氏の表記は「海部直」であったのかということ。『今昔物語』巻23でも、丹後の「海ノ恒世」という相撲人が見え、『但馬正税帳』とあわせて、「海直」と記された例しか見られない。同族とみられる但馬海直(『姓氏録』左京神別)もあり、海部直という表記は中世の苗字の海部氏に由来するものではないかと考えられる。
  • 「千鳥(千嶋)祝」の世代だけ、兄弟を記載する意図が不明であること。『勘注系図』にその弟の「海部直千足」を「丹波直足嶋」の父と記すことにも姓氏変更の点などで疑問が大きく、『勘注系図』の記事に基づき三兄弟の記述を説明することは無理である。なお『続日本紀』和銅4年(711年)12月条に犯罪者「丹波史千足」、『但馬国正税帳』には丹後国少毅無位「丹波直足嶋」が見えるが、別系統で姓が異なる渡来系の東漢直氏一族丹波史氏の者を同族系図に入れ込むのは論外である。
  • 『本系図』が本系帳ではないならば、『円珍俗姓系図』のように記事や系図の内容がもっと豊富であってよいということ。

脚注[編集]

  1. ^ 但し「勘注系図」は「附(つけたり)」として。
  2. ^ 「和気氏系図」は承和年間初め(9世紀前葉)には成立していた。
  3. ^ 籠神社は貞観13年6月8日に従四位下に昇叙され、元慶元年12月14日に更に従四位上に昇った(『日本三代実録』)。
  4. ^ 貞観19年4月16日に「元慶」と改元された。
  5. ^ 「勘注系図」には第32世田雄の撰とするが、田雄の注記には祝として貞観6年(864年)まで16年間奉仕したとあるので、矛盾を来している。
  6. ^ 例外的に第27世において兄弟3名(千嶋・千足・千成)が記されている。
  7. ^ a b c 『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』。
  8. ^ 末尾に海部勝千代という書写者の奥書がある。
  9. ^ 但し、止羅宿祢は「本系図」にも「勘注系図」にも見えない。
  10. ^ 第14世までは『旧事本紀』の「尾張氏系図」と共通する神・人名が見られる。
  11. ^ 宝賀寿男『国宝「海部氏系図」への疑問』樹紀之房間、2006年。
  12. ^ 宝賀寿男『田中卓氏の論考「「六人部連本系帳」の出現」を読む』樹紀之房間、2002年。
  1. ^ ただし始祖にあたる天香語山命、天村雲命が記載されていないことが疑問とされる。
  2. ^ ただし姓+名で記述される系譜は粟鹿大明神元記など僅かにしか見られず、普通は名+姓と記述されるため、系譜の信憑性に疑問が残るとされる。
  3. ^ 「管見に入った唯一の例は、内容等に疑義が残る九条家に秘蔵されてきたという『粟鹿大明神元記』にこうした表現があることも指摘されるから、平安時代のある時期に日本海沿岸地域に通行した表現かもしれないが、これはまずありえない。」とするが、後に『六人部氏系図』でも確認されている。しかし『六人部氏系図』自体が非常に偽作の疑いがある系図である[12]
  4. ^ おそらく刀の誤記か。
  5. ^ 本系図では読解不能で□□と表記しており、勘注系図は解釈による表記。
  6. ^ 世代的に考えると、実際には「645~?」という解釈が妥当のようである。
  7. ^ なお、丹波・丹後の分離は和銅6年(713年)。

参考文献[編集]

  • 「海部氏系圖」『海部氏系圖・八幡愚童記新撰龜相記高橋氏文天書・神別記』(神道大系, 古典編 13)、 神道大系編纂会、1992年
  • 村田正志監修、海部光彦編著『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図 増補版』、元伊勢籠神社社務所、1996年(初版は1988年)
  • 田中卓「『海部氏系図』の校訂」(『田中卓著作集2』、国書刊行会、1986年 ISBN 4-336-01611-9 所収)
  • 『朝日百科 日本の国宝』第8巻(近畿6)、朝日新聞社、1999年 ISBN 978-4-02-380012-0
  • 鈴木正信「『海部氏系図』の基礎的研究」(京丹後市教育委員会編『丹後・東海地方のことばと文化』、2015年)