渋沢成一郎
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渋沢 成一郎 | |
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生誕 |
天保9年6月10日 (1838年7月30日) 武蔵国榛沢郡血洗島村 (現深谷市血洗島) |
死没 | 1912年8月30日(74歳) |
職業 | 幕臣、奥右筆、彰義隊頭取、実業家 |
渋沢 成一郎(しぶさわ せいいちろう、1838年7月30日(天保9年6月10日) - 1912年8月30日)は、江戸時代の武士、明治時代の実業家。渋沢栄一の従兄。諱は英明、号は廬陰。明治以降は幼名に復して渋沢喜作(しぶさわ きさく)を名乗った。
出自[編集]
1838年、武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)の農民・渋沢文左衛門(文平)の長男として生まれる。青年に達した成一郎は、尊皇攘夷の志をもった親戚の篤太夫(のちの渋沢栄一)らと共に高崎城乗っ取り計画を計画するも頓挫。一旦は江戸へ逃れるが、元治元年(1864年)、一橋家当主一橋慶喜に仕える。当初は四石一人扶持だったが、一橋家農兵の徴募係として各地の農村との交渉役を経て、その功績が認められ、慶応2年(1866年)に陸軍附調役に昇格して百俵の扶持米が与えられた。そして慶応3年(1867年)に慶喜が将軍になると奥右筆に任じられ、上京している。
戊辰戦争[編集]
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると、鳥羽・伏見の戦いに参戦。江戸帰還後、将軍警護を主張し、自分と志を同じくする幕臣等を集め、彰義隊を結成し、頭取に就任する[1]。
3月、結城藩の青山隼太らに依頼され、同藩の内紛仲裁のため、織田主膳を隊長とした一隊を結城に派遣した(のちの結城戦争に発展する)。
4月、徳川慶喜が謹慎場所を江戸から水戸へ移すと、上野からの撤退を主張するが、武闘派の副頭取・天野八郎との対立が発生し、彰義隊を脱退した[1]。
脱退後、有志とともに田無に集まり振武軍を結成し、5月11日、武蔵国入間郡飯能(現埼玉県飯能市)の能仁寺を本営を移す。5月23日、大村藩、佐賀藩、久留米藩、佐土原藩、岡山藩、川越藩からなる官軍と戦うが敗戦。上州伊香保に逃れ、草津に潜伏した後、榎本艦隊に合流。8月、振武軍の残党と彰義隊の残党が合体し、新たな「彰義隊」を結成、その頭となる[1]。
榎本武揚率いる旧幕府脱走軍とともに蝦夷地に行き、箱館戦争に参戦。11月5日、松前城を攻撃した際、渋沢が先陣争いに参加せず松前城の金蔵から金を持ち出したことをきっかけに、彰義隊は渋沢派と反渋沢派に分裂。榎本武揚が仲裁に乗り出し、渋沢派は小彰義隊となり、渋沢が頭取に就任した[1]。
箱館戦争終結直前の明治2年(1869年)5月15日に旧幕府軍を脱走、湯の川方面に潜伏していたが、1か月後の6月18日、出頭・投降した。その後、東京の軍務官糾問所に投獄されている[1]。
明治以降[編集]
明治時代は、喜作と改名し、栄一の仲介で大蔵省に入る。出仕後、近代的製糸産業の調査のためヨーロッパに渡航。帰国後の明治6年(1873年)に大蔵省を退職。経済の才能を見込まれ、小野組に入る。のちに相場師、実業家として手腕を発揮し、後に生糸貿易業、廻米問屋(「廻船問屋組合」の代表[2])などを経営するなど、明治時代の実業家として大きな成功を収めた。

長男は渋沢作太郎。三男渋沢義一が家業の渋沢商店を継ぎ、他に横浜火災海上運送信用保険、横浜取引所、澁澤倉庫の取締役を務めた。娘は煙草商として財を成した千葉亀之助に嫁いだ[3][4]。千葉家の一部は国の登録文化財として虎ノ門に遺る[5]。イタリア文学者の野上素一は亀之助の娘婿なので[3]、野上は成一郎の孫娘と結婚したことになる[6]。ちなみに素一の弟の野上耀三は、渋沢栄一の曾孫と結婚している。
関連図書[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 一橋家文書(茨城県立歴史館蔵)
- 小谷野敦『日本の有名一族 近代エスタブリッシュメントの系図集』幻冬舎〈幻冬舎新書〉、2007年9月30日第1刷発行 ISBN 978-4-3449-8055-6
- 菊地明『上野彰義隊と箱館戦争史』新人物往来社、2010年。ISBN 978-4-404-03949-1
関連項目[編集]