渡辺祐策
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渡辺(渡邊) 祐策 わたなべ すけさく | |
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![]() 渡邊祐策 | |
生年月日 | 1864年6月16日 |
出生地 | 山口県宇部市 |
没年月日 | 1934年7月20日(70歳没) |
出身校 | 東沢瀉塾 |
前職 | 実業家、宇部村助役 |
所属政党 | 立憲政友会 |
称号 | 勲三等旭日中綬章 |
配偶者 | 妻・渡邊クミ |
親族 | 渡邊剛二 |

渡辺 祐策(渡邊祐策わたなべ すけさく、1864年〈元治元年〉6月16日 - 1934年〈昭和9年〉7月20日)は、日本の実業家、政治家(立憲政友会)。宇部興産の前身冲ノ山炭鉱組合の創業者。
略歴[編集]
長州藩厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)で国吉恭輔(その後、福原氏家臣の渡辺家を継いだため、渡辺姓となる)の次男として生まれる。国吉家は畔頭ながらも苗字帯刀を許され、渡辺家は士族階級に属する家柄であったが、祖父に当たる国吉藤輔が周辺集落一体を焼き尽くす火事を起こしたために財産を失い、また他の士族と同様に明治維新以降俸禄を失ったことにより生活は苦しかったという。岩国藩の陽明学者・東沢瀉の私塾で学んだ後、宇部村戸長役場用掛、村議会議員、助役を務める[1]。
福原芳山[注釈 1]の死後、1888年(明治21年)に宇部達聰会が設立され、その委員となった。1897年(明治30年)、宇部興産の源流となる沖ノ山炭鉱組合を創業。炭鉱経営を軌道に乗せると「埋蔵量に限りのある石炭を掘り尽くす前に、その富を無限の技術に転換しなければならない」との理念から、炭鉱経営で得た資金を元に宇部新川鉄工所(後の宇部鉄工所)、宇部紡績所(後の宇部紡績)、宇部セメント製造、宇部窒素工業、宇部電気鉄道(現在のJR小野田線)、新沖ノ山炭鉱などの企業を次々と興し、また、教育機関や鉄道、道路、上水道、港湾等の社会基盤を整備し宇部村発展の礎を築いた。
1912年には衆議院議員に初当選し、その後4選を果たし立憲政友会山口支部の初代支部長などを務めた。田中義一内閣の組閣時には入閣の打診があったが、「(田中義一)大将の御志はありがたいが、いま、自分には地方に大事業をかかえているので、ただちに中央にでかけるわけにはいかない」として大臣就任を断っている[2]。
1934年6月7日に腸閉塞と腹膜炎との合併症により沖ノ山同仁病院にすると、松岡洋右や菊山嘉男(当時の山口県知事)等が交代で見舞いに訪れたが、病状は回復することなく翌月20日に他界した。告別式と密葬が22日に行われ、市葬が25日に行われた。市葬の際には市内の各会社、工場、商店が敬弔休業となり、会場となった神原公園には2万人を超える市民が集まった[3]。
栄典[編集]
功績[編集]
渡辺が興した沖ノ山炭鉱、宇部鉄工所、宇部セメント製造、宇部窒素工業は、その後合併して宇部興産となり、宇部市の経済をけん引していくことになる。
宇部の炭鉱群はエネルギー革命の煽りを受ける形で1967年(昭和42年)までにすべて閉山されるが、その後も宇部市が瀬戸内工業地域の一角として旧来にも増して地域経済を発展させることができたのは、渡辺によるイノベーションの成功に寄与するところが大きいといえる。
渡辺の功績を記念して1937年(昭和12年)4月に竣工された渡辺翁記念会館は、西日本でもっとも歴史のある音楽ホールの一つであり、2010年現在においても市民や国内外のプロ演奏家によって広く使われている。
主な公職[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 旧宇部領主であり、当時、旧石炭方の元役人により買い占められていた宇部の炭鉱採掘権を私財を投げ打って取り戻した。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 『日本をつくった企業家』宮本又郎、新書館(原著2002年5月)。ISBN 978-4-403-25060-6。
- 堀雅昭『炭山の王国 : 渡辺祐策とその時代』宇部日報社・弦書房(原著2002年5月)。ISBN 978-4-902116-92-2。
- 泉谷渉『100年企業、だけど最先端、しかも世界一』亜紀書房(原著2007年10月)。ISBN 978-4-7505-0716-3。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 渡辺祐策|近代日本人の肖像 (国立国会図書館) - 肖像写真及び略歴
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先代: - |
![]() 初代:1897年 - 1934年 |
次代: 渡辺剛二 |