満州国国務院

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満洲国国務院
満州国の紋章

満州国国務院(まんしゅうこくこくむいん)は、満洲国における行政機関。

概要[編集]

沿革と実態[編集]

国務総理大臣官邸

1932年(大同元年)の建国時には国務総理大臣として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には軍政部大臣の張景恵が国務総理大臣に着任することとなった。

最初のうちしばらくは、現地の中国人が官僚のポストに就くことが多かった。しかし、後にそれらの官僚たちは日本の出身者たちに置き換えられるようになっていき、帝政移行後のほうが、日本人の官僚が多く、重要な位に就任していることが、見て取れる。従って、実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官(一般的に言う「関東軍」)の指導下に行われたものであった。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長官や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することが出来なかったのである。

満州国の国家公務員の約半分が日本内地人で占められ、高い地位ほど日本人占有率が高かったのが満州国の官僚制の実態であった。しかも、これらの日本内地人は満州国国籍ではなく(元来、満州国に国籍などなかった[1][2])、日本国籍を有したままである。俸給、税率面でも日本人が優遇され、中国出身者は冷遇されたという。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。これに対し、石原莞爾は強く批難していた。

しかし、台湾人(満洲国人)の謝介石は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど[3]、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。しかし、これも日本に従順である事が前提で、初代総理の鄭孝胥も関東軍を批判する発言を行ったことから、半ば解任の形で辞任に追い込まれている。

このようなことから、日本とは別の国家であると宣言されたにもかかわらず[4]、満州国は、半ば日本の植民地であったといえる[5]。そのため、国務院をはじめとする行政組織は、日本の傀儡に過ぎなかった。

規定[編集]

1934年の組織法で以下のことが規定された

  • 諸般の行政権を掌理する規定(第27条)。
  • (国務院に)国務総理大臣と各部大臣を置く規定(第28条)。
  • 各部大臣は所管事務につき責任を負う規定(第29条)。
  • 国務に関する詔書・法律・勅令に国務総理大臣や各部大臣が副署する規定(第31条)。

満州国では議会である立法院が開院されなかったため、事実上国政の最高機関であった。体制上は国家元首である溥儀の直属の組織であったが、実際の国務院には関東軍から送り込まれた日本人が要職を押さえていたため、満州国皇帝であった溥儀であっても自由にできない組織であった。

組織 - 1932年(大同元年)[編集]

国務院各部の変遷

1932年(大同元年)の満洲国建国時、国務院は「国務総理」を頂点として、その下部組織として部を持っていた。各部の長は「総長」である。 満洲国建国当初の国務院の主要要人は下記のとおりである。

国務院総理 鄭孝胥
民政部総長 臧式毅 民政部次長 葆康
文教部総長 鄭孝胥 文教部次長 許汝棻
外交部総長 謝介石 外交部次長 大橋忠一
軍政部総長 馬占山 軍政部次長 王静修
司法部総長 馮涵清 司法部次長 古田正武
財政部総長 熙洽 財政部次長 孫其昌
実業部総長 張燕卿 実業部次長 高橋康順
交通部総長 丁鑑修 交通部次長 平井出貞三

次官級の官僚の一部には日本人が登用されており、実務担当にも相当数の日本人が登用されていた。また、人事権については関東軍司令官との協議を必須としていたため、国務院には関東軍の意向が大きく影響した。

組織 - 1934年(康徳元年)[編集]

1934年(康徳元年)に溥儀が皇帝に即位すると、各役職名は変更された。

  • 国務院総理 → 国務総理大臣
  • 総長 → 大臣

組織 - 1945年(康徳12年)[編集]

1945年(康徳12年)の日本の降伏によって満洲国は崩壊した。
それまで幾度か各部組織・名称の変更はあったが、満洲国解体(終戦)時の国務院の主要要人は下記のとおりである。

国務総理大臣 張景恵
厚生部大臣 金名世 厚生部次長 関屋悌蔵
国民勤労部大臣 于鏡濤 国民勤労部次長 半田敏治
文教部大臣 盧元善 文教部次長 前野茂
外交部大臣 阮振鐸 外交部次長 下村信貞
軍事部大臣 邢士廉 軍事部次長 真井鶴吉
司法部大臣 閻伝紱 司法部次長 辻朔郎
経済部大臣 于静遠 経済部次長 青木実
興農部大臣 黄富俊 興農部次長 島崎庸一
交通部大臣 谷次亨 交通部次長 田倉八郎

庁舎[編集]

旧国務院の庁舎は、中央の建物の奥に見える。右は旧軍事部。

設計は国務院営繕需品局営繕処設計課の石井達郎が担当し、施工は大林組が行って1936年に竣工した。日本の大日本帝国議会庁舎をモデルに少し縮小したようなスタイルで、新古典主義建築や、帝冠様式が主に用いられた。

終戦後、吉林大学(旧白求恩医科大学)の校舎として利用され、一部“偽満州国国務院”という名称で博物館として公開されている。(中華人民共和国政府は、満州国を否定する立場から、満州国の遺跡群の頭文字に「」を付記している。)現在は、旧国務院を含む満州国行政府建物は「八大部」として、内外の観光客が長春市で外から眺めるべき名所になっている[6]

出典[編集]

  1. ^ 山室信一『キメラ』p.298
  2. ^ それゆえの問題も数多く存在した
  3. ^ 権逸
  4. ^ 満洲国指導方針要綱」、昭和8年(1933年)8月8日閣議決定
  5. ^ 「(関東憲兵隊は)民族共和どころか民族間の反目、離間をはかることを統治手段とみていたことがうかがえる」(山室信一『キメラ—満洲国の肖像』中公新書1138、1993年、p.282)、菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』(講談社、2005年、p.313)、宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』(PHP新書387、2006年、p.220)。
  6. ^ 長春の歴史を感じる観光スポット6選(2018年)

関連項目[編集]

北緯43度52分30秒 東経125度18分36秒 / 北緯43.8751299度 東経125.3100035度 / 43.8751299; 125.3100035座標: 北緯43度52分30秒 東経125度18分36秒 / 北緯43.8751299度 東経125.3100035度 / 43.8751299; 125.3100035