源通資

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源通資
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 不詳
死没 元久2年7月8日1205年7月25日
官位 正二位権大納言淳和奨学両院別当
主君 後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇→後白河院および後鳥羽天皇→後鳥羽院および土御門天皇
氏族 村上源氏久我流
父母 父:源雅通
母:美福門院女房(藤原行兼または藤原長信の娘)
兄弟 雅縁、明雅、通親、雅平、通望、通資、藤原実守室、三条殿
藤原長輔の娘、源俊光の娘
雅親、守通、雅清、唐橋通時、勝海、道禅、道順、惟明親王
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源 通資(みなもと の みちすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿村上源氏久我流内大臣源雅通の二男。官位正二位権大納言淳和奨学両院別当[1]

経歴[編集]

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

任内大臣の有無[編集]

元久2年(1205年)、藤原隆忠右大臣に転任したあと内大臣は空席となっていた。そこで同年6月17日に通資は内大臣に任ぜられるよう願い出たという[10]。この時、後鳥羽院は先ず病を治してから願い出るよう伝えたのである[11]。しかし、それを任大臣の勅許を得たと通資は判断して世間に公表したということであった[12]。同月19日には八条院が通資を内大臣に任じるよう後鳥羽院に迫ったが、後鳥羽院は先ず病を治すよう主張して任内大臣を勅許しなかったという[13]

結局、内大臣に任ぜられることなく通資は同年7月8日に薨去してしまったのだが、家人や雑人は「内大臣殿」と称していたという[14]。そして同月10日、通資の遺族は亡き通資を久世荘に葬送したのである[15]

系譜[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 『尊卑分脈』には承任大臣宣旨と注記がある。
  2. ^ 暲子内親王御給。
  3. ^ 源俊長が右京権大夫を辞しての挙任。
  4. ^ 朝観行幸の賞。
  5. ^ 建礼門院当年御給。
  6. ^ 通親が前年に稲荷祇園行幸の行事で賞されたことの譲りによる。
  7. ^ 同日、兄通親は右大将兼任のまま内大臣に任ぜられている。
  8. ^ 前年の朝観行幸の賞。院司。
  9. ^ 内大臣右大将であった兄通親が突然薨去したため。
  10. ^ 明月記』元久2年6月17日の条。しかし通資は任内大臣を願い出た途端に病になってしまった。この話を藤原定家は縁戚になっていた藤原実宗の息男公定から伝え聞いたという。
  11. ^ 前掲書。
  12. ^ 前掲書。
  13. ^ 『明月記』元久2年6月19日の条。
  14. ^ 『明月記』元久2年7月8日の条。
  15. ^ 『明月記』元久2年7月10日の条。

参考文献[編集]

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 文治元年(1185年)に通資が参議となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「源通資」の項。
  • 『久我家文書』 國學院大学久我家文書編集委員会  続群書類従完成会
  • 橋本義彦 『源 通親』、人物叢書、吉川弘文館
  • 『明月記研究』10号、2005年12月、「『明月記』(元久2年5月〜閏7月)を読む」