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烏丸 光栄(からすまる みつひで)は、江戸時代中期の公卿・歌人。烏丸宣定の子。官位は正二位・内大臣。
経歴[編集]
累進して正二位・内大臣に至る。なお、烏丸家で内大臣にまで至ったのは、この光榮だけである[1]。号は、不昧真院。法名は海院浄春。和歌を霊元天皇を始め中院通躬や武者小路実陰に師事した。また和歌の門下には有栖川宮職仁親王や桜町天皇がおり、天皇は光栄から古今伝授を受けた。また、三上藩主である遠藤胤忠にも古今伝授を授けた。
優れた歌人であり、「栄葉和歌集」や「詠歌覚悟」などの著書がある。 延享5年3月14日に死去。享年60。甥で中御門宣誠の密子[2]清胤(のち光胤)が烏丸家を相続した。
脚注[編集]
- ^ 烏丸光栄の死の7日前(延享5年3月7日)、長年の歌道における功労を惜しんだ桜町上皇の懇願を受けた二条宗基より内大臣を譲られ、2日間内大臣を務めた後辞任した(山口和夫『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年)P292-293)。
- ^ 表向きは中御門宣顕の次男。