心地覚心

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心地覚心(無本覚心)
1207年 - 1298年
法灯円明国師.jpg
法灯円明国師 妙光寺所蔵
諡号 法灯禅師、法灯円明国師
生地 信濃国筑摩郡神林
没地 下総国匝瑳郡福聚寺
宗派 臨済宗法燈派、普化宗
寺院 西方寺(後の興国寺
無門慧開、退耕行勇
弟子 恭翁運良、覚山心暁、慈雲妙意孤峰覚明、高山慈照

心地覚心(しんち かくしん、承元元年(1207年) - 永仁6年10月13日1298年11月18日))は、鎌倉時代臨済宗。姓は恒氏[1]。諱は覚心、無本とした。臨済宗法燈派の本山であった由良興国寺(昔は西方寺という)の開山である[2]京都宇多野に位置する臨済宗建仁寺派妙光寺の開山でもある。

生涯[編集]

出生から東大寺で具足戒を受けるまで[編集]

1206年(建永1年)信濃国筑摩郡神林郷(現在の長野県松本市)に地頭の常澄兼久(恒兼久)の子として生まれる。1221年(承久3年)信州戸隠の当時まだ神社と寺院が一体であった神宮寺の忠学律師につてい読み書きを習い[3]、1225年(嘉禄元年)出家、得度。29歳[4]の時に奈良東大寺具足戒を受けた[5]

高野山、鎌倉、京などで諸師遍歴[編集]

また高野山で伝法院主覚仏や正智院道範らから真言密教を学ぶ。また金剛三昧院退耕行勇に師事し葉上流の台密である密教禅を修めた[3]栄西の法嗣であった退耕行勇は、鎌倉幕府第3代将軍の源実朝と大変親交が深かった。その実朝が鶴ヶ丘八幡宮に於て源公暁に暗殺されると、その霊をとむらうために高野山に籠り金剛三昧院の開山となっていたのである。そしてこの時、法燈国師は源実朝の霊を弔う為に高野山に来た、葛山景倫(後の願性)に出会うのである。その後、1239年(延応1年)師の退行行勇に随い鎌倉の寿福寺に移った。 1242年(仁治3年)山城(京都)深草極楽寺道元を訪ね菩薩戒を受けた。そして1247年(宝治1年)には上野世良田の長楽寺開山の栄西の法嗣である釈円栄朝に参じた[6]。しかしその年の9月に栄朝が遷化したので、無本覚心は翌年の1248年(宝治2年)には甲斐の心行寺に赴いた。栄朝の弟子である寿福寺蔵叟朗誉に参じた。更に上京して、隠遁生活をしていた京都勝林寺の天祐思順にもつくなどした[7]

入宋から帰朝まで[編集]

兄弟弟子にあたる円爾の勧めにより入宋を志し、1249年(建長元年)に、覚儀、観明らを伴なって紀伊由良から九州に渡り、博多を出て入した。杭州湾口にある普蛇山に着き、中国五大禅寺のひとつである径山寺(興聖万寿禅寺)に上る。そして径山では円爾の師である無準師範が既に示寂していたので、径山の癡絶道沖に参じ、翌年には道場山の荊叟如珪に参じた。その後阿育王山に掛塔し、2年ほどその地で修行した。その後、1253年(建長5年)杭州の霊洞山護国仁王寺の無門慧開(1183-1260)に参じて、遂に臨済宗楊岐派の法を嗣いだ[8]。そして1254年(建長6年)無門慧開より「無門関」「月林録」[9]を授けられて帰朝した。[3]

帰国後から遷化まで[編集]

1254年(建長6年)6月に博多に到着した。宋に滞在すること都合6年であった。そしてそのまま船で紀伊湊に到着することとなった。その後、無本覚心は金剛三昧院よっていた。そこで師の無門慧開の著作である『無門関』『語対御録』を請来した。1258年(正嘉2年)には金剛三昧院の住職(第6世)となったが、しばらくして無本覚心は禅定院住持を退き、由良に戻り、ときに紀伊由良荘地頭、葛山景倫[10](願性[11])の要請によって、西方寺(後の興国寺)の開山となった。

妙光寺開山そして西方寺 示寂[編集]

1281年(弘安4年)亀山上皇1248年 - 1305年)は円爾の示寂後、無本覚心を京都洛東勝林寺に招いて、問法した。亀山上皇は離宮を改めて禅林禅寺(後の南禅寺)にしようと、無本覚心を開山に招請したが、無本覚心は既に高齢であったためこれを辞退した[12]。その後、無本覚心は徒弟らと南の由良西方寺に帰った。そして1285年(弘安8年)、無本覚心が79歳の時、内大臣花山院師継が長男の追修のため、北山仁和の別業を改めて妙光禅寺としていたのを、父師継の命にしたがって、寺にて無本覚心を迎えることとし、無本覚心を開山とした。 1298年(永仁6年)10月13日[13]、九十二歳で示寂した[3][7]

亀山上皇、後醍醐天皇より法燈禅師法燈円明国師と諡された。瑩山紹瑾1268年 - 1325年)ら、多くの曹洞宗の僧らと交渉をもったため、その密教化に影響を与えたとされる。また、後世尺八を愛好したとして、普化宗の祖ともされる。

心地覚心が中国からもたらしたといわれる金山寺味噌は、径山寺(きんざんじ)の味噌の製法を模したものと言われている。なお心地覚心は安養寺を開創し、信州味噌を誕生させたという[14]

法燈国師と一遍上人[編集]

多くの僧が法燈国師(無本覚心)に参じたが、時宗の開祖である一遍上人も参禅していた。『一遍上人語録』には「身心を放下して、無我無人の法に帰しぬれば、自地彼此の人我なし」との記述がある[3]。 さらに、一遍上人は、法燈国師に禅の印可を受けて師弟関係にあったと言われる。『法燈国師行状』(花園大学図書館蔵)によれば、高野山萱堂法燈国師に見参して公案「念起即覚」の禅語が与えられたという。 一遍の初見参の歌に、『となふれば 仏も我も なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして』と、師(法燈国師)に差し出す。師、未徹在と。 次いで一遍は、『棄はて、身はなき物と 思ひしに さむさ来ぬれば 風ぞ身にしむ』と、ついに印可が与えられた[15]

著作[編集]

  • 法燈国師坐禅儀
  • 法燈国師法語
  • 遺芳録

弟子たち[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 俗性はまたは、常澄ともいわれる。
  2. ^ 臨済宗二十四流の一つであったが、その後の歴史的経緯から現在興国寺は臨済宗妙心寺派の末寺となっている。
  3. ^ a b c d e 『栄西と臨済禅』平凡社発行 禅文研監修 2014年「無本覚心と興国寺」高柳さつき著 70-71p
  4. ^ 一説には19歳であった説もある。
  5. ^ その時の度牒には「嘉禎元年10月20日、東大寺戒壇院において受具す」とあり、戒牒には「信州近部県神宮寺の童行の覚心。本州本県の人の事。俗姓は恒氏、年29歳。当寺の住持僧の忠学律師に投じて、度牒を賜い、剃髪受具するものなり。」とあった。(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』嘉禎元年乙未条)かげまるくん行状集記
  6. ^ 『元亨釈書』第6、「本朝高僧伝」第20より
  7. ^ a b 『禅宗の歴史』今枝愛真著 吉川弘文館発行 2013年 鎌倉時代禅宗の興隆 法燈派 39-42p
  8. ^ 師の無門慧開より「心即是仏仏即是心心仏如々亘 古亘今」との偶を受けて大悟したという。
  9. ^ 『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝祐2年甲寅条
  10. ^ 願性は俗姓を葛山景倫といい、関東の武士であった。源実朝に仕えており、入宋の命令を受けて九州に渡宋のため滞在していたが、承久元年(1221)実朝が暗殺されたこと聞いて剃髪し、高野山に登った。西入なる者が実朝の頭蓋骨を入手し、将軍の母である鎌倉二品禅定尼真如(北条政子)が西入の恋慕追福の志を視て、由良荘の地頭職を賜った。以上は。かげまるくん行状集記より引用かげまるくん行状集記
  11. ^ 葛山五郎景倫。願生、願成とも
  12. ^ 1289年(正応2年)断髪して法皇となり、正応4年円爾の法嗣で無関普門を開山に迎え、無本に問法した年から10年を経てようやく禅林禅寺(南禅寺)開創を果たした。『宗学概論』第3章日本禅宗史 十方住持刹としての南禅寺 80p 臨済宗黄檗宗連合各派合議所発行 禅文化研究所制作発行 2016年
  13. ^ 師九十二歳、永仁六年戉戍四月十一日、微疾にして食わず。・中略・同十月十三日、・・・子刻に到って、威儀を厳歛して端坐寂然たり。侍僧奉問して曰く、師臨終かと。師応諾し、泊然として逝くく。坐化微笑、気貌生けるが如し。 以上 『鷲峰開山法澄円明国師行実年譜』
  14. ^ 『信州佐久いわんだ逸品会歴史編』いわんだ逸品会平成17年
  15. ^ その時、法燈国師は手巾を解いて、一遍上人に与えて、「此の巾は信を表わす、後人の標準と為すべし」といったという。手巾とは、腰紐のことである。のちの時宗の徒が必ず持参しているとなっている。遊行聖にとって旅の必需品でもある手巾を「信」すなわち印可の証に与えたということであろうか 以上引用 『季刊 禅画報 第4号』念仏禅の頭目だった法燈国師 花園大学助教授 吉田清 千眞工藝発行 1988年5月

参考文献[編集]