片倉信光

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片倉 信光(かたくら のぶみつ、1909年明治42年)2月22日 - 1985年昭和60年)5月3日[1])は、東京郷土資料陳列館学芸員、齋藤報恩会博物館学芸員、白石市史編さん委員、白石市文化財保護委員を歴任。宮城県仙台市青葉区青葉町、仙台藩藩祖伊達政宗公を祭神とする、仙台市の一ノ宮、青葉神社宮司。旧仙台藩家老・白石片倉氏第15代当主。父は14代健吉

略歴[編集]

片倉信光による白石和紙のパッケージデザイン。片倉景綱の「黒釣鐘」の旗印をモチーフにしている。

明治42年(1909年)、北海道千歳水産試験場にて生まれ、間もなく白石に帰郷。旧制白石中学を経て國學院大學に入学、大学では 鳥居龍蔵 に師事し、上代文化研究会に属し、考古学研究に入る。東京考古学会を主宰した森本六爾からも薫陶を受け、東京市大森久ヶ原住宅地の道路工事で断面に現れた弥生時代竪穴住居の調査も行っている[2]。昭和8年(1933年)5月11日には、師の鳥居龍蔵博士を招き、伊具高倉高蔵寺、鷹巣古墳群瓶ヶ盛古墳、郡山蝦夷穴古墳群、円田永野西浦方面まで視察巡検を行い、同夜白石町公会堂では博士の講演「考古学上より見たる刈田郡の上代文化」が催された。当時の「不忘新聞」は五百の聴衆は「世界的権威の講義を一語一句聞き漏らさずと筆記のペンを取るもの多数あり、正に近来の大講演となったがその光景はあたかも大学の教室におけるが如き盛観を呈した」と報じている[3]。昭和9年(1934年)卒業。同年11月に開園した有栖川宮記念公園内の東京郷土資料陳列館(現在の江戸東京博物館の前身)の初代学芸員として活躍した。「陳列館」は年中無休、入場無料で、主に公園利用者と東京市内の小学生が多く来館した。片倉は土偶埴輪須恵器などの模型製作を行い、子どもたちも触れることができるよう工夫し、当時としては新しい体験型の博物館活動を推し進めた[4]

昭和13年(1938年)から昭和19年(1944)まで、宮城県仙台市の齋藤報恩会博物館に勤務(昭和21年(1946年)7月まで在籍)した。このころの調査に、東北帝国大学理学部奥津春雄・北村千代治[5]らと行った南小泉遺跡の調査がある[6]。白石の佐藤忠太郎は紙布織を実際に手掛けた古老らから実物資料をもらい受け、昭和10年(1944)6月に『奥州白石名産紙布二関スル調査』報告書[7]をまとめ上げ、引き続き研究を続行し、白石町・宮城県をはじめ農林省・林業試験場・商工省・工芸指導所・齋藤報恩会・仙台郷土研究会ほか、多くの個人からも援助を受け、昭和15年(1940年)10月14日に奥州白石郷土工芸研究所が創立され、片倉はその所長に就任した。緊迫する時局のなかで、紙布は農林・商工・軍関係の注目するところとなり、委託研究を命じられている。昭和16年(1941年)に父健吉が逝去し、片倉氏第15代を嗣ぎ、男爵を継承。昭和17年(1942年)からは青葉神社宮司を務めた(昭和40年(1965年)まで)。宮城県技手をしていた芳賀個郷は白石の斎ヶ川改修工事で出土した土器を地点別・層位別に丁寧に採取し、昭和18年(1943年)に陸軍に応召となり、図面ともに出土遺物を片倉に託し、翌年ペリリュー島で戦死している[8][9]。 昭和20年(1945)年7月10日の仙台空襲では、斎藤報恩会博物館は展示中の標本類をはじめ約30万点と言われた収蔵資料のうち約3分の2と図書の大半を焼損した[10]。この間、片倉は重要資料の郷里白石への疎開に努めた[11]


昭和19年(1944年)には、東京から多くの小学生が白石の旅館や温泉に疎開して来て、親元を離れてやってきたこの小さい人々を少しでも慰め、この町に親しんでもらおうと、片倉は疎開先の宿を訪れてはがんがら橋の話や春になると蔵王に現れる雪入道(雪形:水引入道)のことを話すと大変喜ばれた[12]。やがて、片倉は「死ぬかと思うほどの大病」を患うと、片倉が書き連ねたノートが面白いと疎開学童の間で回し読みされるようになり、「あちこち転がり廻るのは面白い」と、やがて「石ころ文庫」と呼ばれるようになった。この石ころ文庫は7冊を数えた。戦後、新しい教育制度が始まると、片倉宅には社会科の先生方が集まるようになり、この「石ころ文庫」を底本に白石第一小学校の教員の手によって謄写版刷りの『郷土の話し』(白石第一小学校社会科資料3)が昭和33年(1958年)に刊行された[13]

昭和28年(1953年)に白石中学校では、宮城県最初の「中学校特殊学級」を編成することになり、指導目標は「学校が楽しくてしようがない」とされ、翌年「実務学級」として開級した。片倉は以前に論文発表した鍛冶沢遺跡出土土偶[14][15]から仙台堤焼の職人に依頼して、型を取り、遅滞児童の粘土による土偶製作を考案した。「白石中学校の実務学級(精神薄弱児の特殊学級)では、この珍しい土偶を複製して、考古学や社会科学習の参考資料とし、また趣味の愛好家の皆様にお分けすることになりました。実物から直接型を取って白石附近の粘土をこね、校庭に窯を築いて焼きました。「ふえるの神様」となづけましたのは、悪いことはぐんぐん不得(減る)ように、良いことはどんどん富得(増える)ように、智恵も健康も貯金も生産も、すべてよいことが蔵王の名のように、無尽蔵に増えるようにとの心であります。」(片倉信光「ふえるの神様の由来」(年不詳))と記している。昭和37年(1962年)8月に白石市鎌先温泉で文部省主催東日本特殊教育指導者講座が開催され、白石第二小学校・白石中学校の特殊学級が公開参観会場となり、200人を超える見学者であふれた。実務学級生徒がふえるの神様や天狗の面の型抜き作業を行い、異口同音の賛辞が送られた。その後も全国大会での発表や紹介が続き、実務学級は「特殊教育のメッカ」「白亜の殿堂」とも呼ばれた[16]

宮城県白石高等学校の郷土研究部(部長飯沼寅治教諭、副部長亘理梧郎教諭)には、伝承地理、地理模型、統計とともに考古班が設置され、片倉は学外の顧問として指導にあたり、幾多の人材を育てた。『郷土研究部報』が創刊され、昭和25年(1950年)には『白高郷土研究』と改題された。飯沼・亘理は、のちの白石市史編さん委員会の主要なメンバーとして活躍している。白石市史編さん事業は、明治100年記念事業として、昭和43年(1968年)に、「白石市史編さん委員の設置に関する規則」が制定され、翌年編さん事業が開始されている。昭和43年には、片倉ほか阿子島雄二・阿子島周一・中橋彰吾が世話人となり、「白石郷土研究会」も発足している[17]。『白石市史別巻 考古資料篇』(1976年)を含む『白石市史』全8巻は片倉死後、昭和62年(1987年)に完結した。

昭和31年(1956年)から死去まで、白石市史編纂調査會(白石市史編さん委員会の前身)委員・白石市史編さん委員、昭和39年(1964年)から昭和52年(1977年)まで、白石市文化財保護委員を歴任した。昭和60年(1985年5月3日死去。

考古学歴史学民俗学の研究のみならず、特に白石和紙の復興など、郷土の伝統産業・伝統工芸の保護育成にも尽力した。

脚注[編集]

  1. ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、420頁。
  2. ^ 片倉信光1931「東京府下池上町久ヶ原弥生式竪穴に就いて」『上代文化』第6号、35-52頁
  3. ^ 片倉信光・中橋彰吾・後藤勝彦1976『白石市史別巻考古資料篇』白石市史編さん委員会
  4. ^ 江戸東京博物館2018「東京郷土資料陳列館と考古学」企画展発掘された日本列島2018地域展
  5. ^ 相原淳一・大出尚子2017「北村千代治小伝-海を渡った考古学者-」『東北歴史博物館研究紀要』第18号、27-58頁
  6. ^ 奥津春雄1943「仙臺飛行場遺蹟より発掘された植物遺体について」『古代文化』第14巻第1号、9-27頁、日本古代文化学会
  7. ^ 紙の博物館2019年企画展「白石の和紙~名産紙布・紙衣を中心に~」
  8. ^ 片倉信光・中橋彰吾・後藤勝彦1976『白石市史別巻考古資料篇』白石市史編さん委員会
  9. ^ 相原淳一2011「芳賀寿幸さんの逝去を悼む」『宮城考古学』第13号、206頁、宮城県考古学会
  10. ^ 齋藤報恩会2009『財団法人齋藤報恩会のあゆみー財団85年・博物館75年ー』
  11. ^ 菅野正道2017「齋藤報恩会と郷土史研究」『東北大学史料館紀要』第12号、
  12. ^ 片倉信光1958『郷土の話し』
  13. ^ 相原淳一2019「「吾妻海道」と片倉氏入部以前の白石-佐藤 潤先生調整「左近商店包紙の図」から-」『仙台郷土研究』復刊第44号第2号、23-48頁
  14. ^ 片倉信光1932「磐城国曲竹発見の土偶に就いて」『上代文化』第8号、89-91頁、上代文化研究会
  15. ^ 相原淳一1997「宮城県蔵王町鍛冶沢遺跡出土の土偶について」『仙台市博物館研究報告』第17号、85-92頁
  16. ^ 白石中学校ふえるの会1996『宮城県白石市立中学校実務教育四十年のあゆみ ふえるの神様』
  17. ^ 片倉信光・中橋彰吾・後藤勝彦1976『白石市史別巻考古資料篇』白石市史編さん委員会

主著[編集]

  • 片倉信光「東京府下池上町久ヶ原弥生式竪穴に就いて」『上代文化』第6号、35-52頁、上代文化研究会、1931年
  • 片倉信光「磐城国曲竹発見の土偶に就いて」『上代文化』第8号、89-91頁、上代文化研究会、1932年
  • 片倉信光『宮城県刈田郡白石町鷹巣古墳群調査報告』1941年
  • 片倉信光『奥州白石産紙布織 復興展覧会記念』奥州白石技術工藝研究所、1942年
  • 片倉信光『郷土の話し』白石第一小学校社会科資料3、1958年
  • 片倉信光『白石城址調査報告書』白石市文化財調査報告書第4号、1965年
  • 片倉信光『松窓乙二翁遺墨展示会目録 松窓乙二翁略書誌小稿 松窓乙二翁年譜稿』白石市公民館、1967年
  • 片倉信光『白石市史別巻 考古資料篇』(中橋彰吾・後藤勝彦と共著)白石市史編さん委員会、1976年
  • 片倉信光『白石城』、白石市文化財報告3、1979年
  • 片倉信光『白石和紙 紙布 紙衣』、慶友社、1988年(没後、宮嶋 秀編)
  • 片倉信光『白石地方の言葉』、2007年(没後、疋田 正應(延命寺)編)。

参考文献[編集]


日本の爵位
先代:
片倉健吉
男爵
(白石)片倉家第3代
1941年 - 1947年
次代:
華族制度廃止