皇太子

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皇太子(こうたいし/ひつぎのみこ)は、皇位帝位王位の第一継承者を指す語であり、称号

現代日本皇室においては皇室典範(昭和22年法律第3号)第8条により「皇嗣たる皇子を皇太子という」と定義され、他の条文と併せ、同法に基づいて「皇太子」の称号を受けるのは皇嗣のうち『当代天皇の息子』のみとなる。

より広義には、日本皇室における天皇位だけでなく、国外の君主国王室における君主位の法定推定相続人称号(例:: Crown Prince)の対訳として使われる。女性君主を容認している場合は、法定推定相続人である女子の称号(例:: Crown Princess)の対訳にも用いられる[注釈 1]

語義[編集]

字義[編集]

字義として『子』は、「(性別を問わない)子」だけではなく、「子女」や「子息と息女」「王子と王女」の例[注釈 2]のように「男子」も意味する(詳細はWikt:子を参照)。

また、『太子』『世子』は、古代中国における後継者を指す語である。

したがって、語義としては、「皇太子」とは、次期皇位継承者の第一順位にあたる「皇帝男子」のことであり、特に日本では「天皇の男子」[2]のことである。現代日本では皇室典範では第8条に基づき「皇嗣たる皇子」と定義されている。

また、(君主位である)王位継承の第一順位の王子(王男子)については、王太子(おうたいし)または王世子(おうせいし)のように言うこともある。「○太子」の言葉自体がいずれ「○」の地位を継ぐ「(男の)子」を意味するため、君主の地位がである場合には王太子の名称を用いる。君主の地位が大公である場合、太子ではなく世子を用いる。ただし、モンゴル侵攻後の高麗李氏朝鮮では、君主の地位は王であるが、「世子」を用いた。また、韓国併合後も日本王公族として、その後継者は「王世子」とされた(詳細は後述、#朝鮮を参照)。

息子以外への例[編集]

女性の次期後継者に対し、漢字文化圏では「皇太女」(こうたいじょ)または「王太女」(おうたいじょ)と表記されることがある[注釈 2]。実例としても、古代中国の安楽公主について「『皇太女』に立てようという動きがあった」と『資治通鑑』等に記されている。また、近年の日本語の用例として「皇太王女」もある(詳細は後述、#ヨーロッパ大陸諸国の王太子・皇太子を参照)。

次期後継者が息子でなく弟である場合は「皇太弟」の語がある。孫に対しては、現代日本の皇室典範第8条では「皇嗣たる皇孫を皇太孫という」と定義される。これらの語の詳細は後述(#皇太弟・皇太甥)。

日本における訳例、西洋の言語との差異[編集]

現在の日本では、マスメディアによる報道などでは、対象が次期国王や次期大公であっても「王太子」「大公世子」の語は用いられず、「皇太子」を用いるのが通常である(イギリス王室ウェールズ公チャールズ→呼称:チャールズ皇太子)。

特に外務省は、「王国」「公国」や「性別」を区別せず、一律「皇太子」の語を用いている[注釈 3][注釈 1]

ただし歴史上の人物については、慣例に従って「王太子」の語も用いられる。次期皇(王)位継承者が弟や孫であるなら、「皇(王)太弟」「皇(王)太孫」の語が存在するが、その地位を問わず「皇太子」の名称が用いられている。なお、西欧の言語においては、「皇帝か国王か」「子か孫か弟か」に応じた称号の使い分けは見られない。英語を例にすれば「: Crown Prince」の語が用いられる。さらに、性別によって称号が異なることが多く、女性の次期君主位継承者の称号は、英語を例にすれば「: Crown Princess」の語が用いられるが、「Crown Princeの配偶者(妃)」にも同じ称号が用いられる。

こうした西洋の言語と漢語・日本語の用法の違い等は、プリンスを参照。また、皇太子に相当する儀礼称号については後述(#ヨーロッパ大陸諸国の王太子・皇太子

日本における女性への用例、その評価[編集]

日本では、女性に対して用いられたのは阿部内親王(=即位前の孝謙天皇[注釈 4])が唯一の例となっている。天平10年(738年1月13日の立太子から即位まで、『続日本紀』は一貫して阿部内親王を「皇太子」と記している[4]

後述の通り、阿部内親王が立太子された時期は、皇太子の概念が確立される最初期にあたる。孝謙天皇以後の女性天皇の例として、寛永6年(1629年)11月8日の興子内親王の践祚明正天皇)や、宝暦12年(1762年7月27日の智子内親王の践祚(後桜町天皇)の二例があるが、いずれも立太子を経ていない。したがって、孝謙天皇以降、現代に至るまで女性が「皇太子」等の称号を得たことは無い。

孝謙天皇の例を踏まえて、2005年(平成17年)の小泉純一郎政権下での「皇室典範に関する有識者会議」報告書においては「天皇、皇太子、皇太孫という名称は、特に男子を意味するものではなく、歴史的にも、女子が、天皇や皇太子となった事実が認められる」とされ、「女子の場合も同一の名称を用いることが適当である」と結論付けられた[5]

法的推定相続人[編集]

推定相続人(すいていそうぞくにん)は、君主位や爵位の継承において、「現在は継承権第1位であるが、将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がある人物」をいう。典型的な例として、長子相続制における子のいない君主の弟・妹や、男子優先長子相続制における息子がいない君主の長女がある。

法定推定相続人(ほうていすいていそうぞくにん)は、「君主位や爵位の継承において、将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がない継承権第一位の人物」をいう。典型的な例として、長男相続制および男子優先長子相続制における長男や、長子相続制における第一子がある。継承権第一位が確定しているという点では皇太子(王太子)と共通するが、「法定推定相続人」という単語は称号ではなくあくまで系図学的な用語であるため、本人への呼びかけなどとしては用いられない。

日本の皇太子[編集]

現在の定義[編集]

皇室典範第8条
皇嗣たる皇子皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫皇太孫という。

現在の皇太子[編集]

2019年令和元年)5月1日に第126代天皇に即位した徳仁(今上天皇)には、皇子(皇男子)がおらず、唯一の皇女たる敬宮愛子内親王は、現皇室典範下で皇位継承権を有さない。皇嗣たる秋篠宮文仁親王も、今上天皇の弟であって子ではないため「皇嗣たる皇子」ではない。そのため、86年ぶりに[注釈 5]、かつ皇室典範制定以来初めて、皇太子は空位になった[6]

日本の皇太子の概要[編集]

日本の旗 日本

皇太子
Japan Koutaisi(son) Flag.svg
皇太子旗
在位
空位
2019年(令和元年)5月1日より
詳細
宮殿 東宮御所東京都港区元赤坂赤坂御用地
ウェブサイト 宮内庁
称号: 皇太子
Japan Koutaisi(son) Flag.svg
敬称 殿下
His Imperial Highness the Crown Prince
黄丹袍を着用した皇太子徳仁親王(当時)
1990年(平成2年)11月12日、即位礼正殿の儀にて

1889年(明治22年)、皇室の家内法として(旧)皇室典範が定められ、皇位継承順序が明文化された。この旧皇室典範15条では、「儲嗣タル皇子」を「皇太子」としていた。

1947年昭和22年)に法律として定められた現行の皇室典範第8条前段では、「皇嗣たる皇子」が「皇太子」とされている。「儲嗣(ちょし)」もしくは「皇嗣(こうし)」は、いずれも皇位継承順第一位の者を指し、「皇子」とはこの場合、当代天皇の子で男子を指す。 皇位継承順序の変更は、「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキ」(旧典範9条)、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」(現典範3条)のみに皇室会議の議(旧典範下では皇族会議の議および枢密顧問への諮詢)により許されている。

成年の皇太子は、摂政就任順の第1位でもあり、1921年(大正10年)11月以降、1926年(大正15年)の大正天皇崩御まで当時の皇太子裕仁親王が摂政に就任した例がある(詳細は、「摂政」の項を参照)。

皇太孫」は皇太子不在の際の「儲嗣タル皇孫」(旧典範15条)、「皇嗣たる皇孫」(現典範8条後段)を言う。「儲嗣」もしくは「皇嗣」は、いずれも皇位継承順第1位を指し、「皇孫」とはこの場合、在位中の天皇の孫を指す。

皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費には内廷費が充てられる(皇室経済法第4条)。法律により定額が定められ、平成31年度・令和元年度(2019年度)一般会計予算における定額は3億2,400万円である[7]

皇太子に関する事務には宮内庁の内部部局の東宮職が置かれる(宮内庁法第六条)。東宮職は一般事務だけでなく皇太子、皇太子妃、さらにはその独立の生計を営んでいない未婚の子女の家政をおこなっている。職員は約50名ほど。料理人や運転手などの管理部の職員もあわせると60数名[8]

皇太子・皇太子妃は、天皇・皇后とは異なり原則的には団体の名誉総裁には着任しない。ただし、日本赤十字社の名誉副総裁などには着任する。

なお、皇太子と皇太孫は皇族の身分を離れることができない(この規定は皇室典範特例法の定めにより2020年〈令和2年〉現在の皇嗣である秋篠宮文仁親王にも及ぶため、文仁親王についても、皇族の身分を離れることができない。)。

皇太子の公務・活動[編集]

皇太子の歴史[編集]

「皇太子」の語や概念がいつ成立したのか、また最初の皇太子が誰であるか等については議論がある。

源流[編集]

「最初の皇太子」の説がある厩戸皇子唐本御影

江戸時代国学本居宣長は、『古事記』中景行天皇に関する「三王負太子之名」の記述について、自著『古事記伝』で、中国の皇太子と異なり、日本の「日嗣御子」(ひつぎのみこ)が一人に限定されなかったことを強調している[10]。本居宣長は、その日嗣御子の要件について、皇子たちの長幼の順ではなく、天皇の「大御心」に叶うことにあると考えた[11]

第二次世界大戦前の皇太子研究である家永三郎の論文が、後の研究の基礎となっている[12]ものの、当時の皇室典範(いわゆる旧皇室典範)を正当化する時代的制約のもとにあったことに留意が必要である[13][注釈 6]。家永は、聖徳太子(厩戸皇子)が『日本書紀』で「摂政」とされたことについて、後代の摂政と異なり、独立した権能を意味せず、「皇太子たる地位の属性」に留まるとした[14]。そして、推古天皇の時代(推古朝)に貴族階級からの国政処理機能を皇室に回収する一方、天皇の超責任的地位を維持するため、「皇太子摂政」という政治形態が生まれたとした[15]法隆寺金堂薬師如来像光背銘に聖徳太子を指した「太子」「東宮聖王」の記載があることから、家永は聖徳太子が「立太子の確証せられる」最初の例であると結論付けた[15]。家永は、皇太子摂政はその後も展開したと論じ、その内容は戦後も批判的に継承された[16]

戦後の皇太子研究において、井上光貞により律令制以前の王位継承の原理として「大兄制」が提唱されたが、論争がある[17]。「大兄」は一義的には「長子」の意であるが、様々な用例により、皇太子制の先駆的制度であると考えられた[18]。しかし、井上自身が掲げた、「大兄制」に関連する古代の皇子たち七例のうち即位したのはわずかに三例である[19]等、批判的な見解もある。

「皇太子制」の成立[編集]

天智天皇10年(671年)、天智天皇は息子である大友皇子を、日本固有の新たな制度である太政大臣に就任させた。これは、母親の身分が低く、これ以前の制度のままでは天皇位に就けない大友皇子の、次期皇位継承者としての体制を固めるために必要な措置として生み出された制度と考えられている[20]。すなわち、皇族中の有力者が、太政大臣という「地位による裏付け」によって天皇位に就く「意図を貫く」点において、旧来の特定の地位を必要としない状況とは明らかに異なる[21]早川庄八は、この制度を「近江令に基づいた官制ではなく、天智の出した単行法」との見解を示している[22]。また家永三郎は、太政大臣の職権が「従来皇太子の任とされていた万機摂行」に他ならないと述べ、皇太子とは両立し得ないとした。[23]

天武天皇12年(683年)には、天武天皇と早世した大田皇女(持統天皇の同母姉)の息子である大津皇子が「聴朝政」を始めると記録があるが、これは太政大臣への就任とは考えられていない[24]。早川は「制度としての太政大臣」の地位が存在していなかったとの見解を示している[21]

ところが、天武天皇14年(685年)1月、天武天皇とその皇后であった持統天皇の皇子である草壁皇子は、新たな皇親冠位制(冠位四十八階)において、浄広壱に叙された。これは、大津皇子の浄大弐、皇子中の最年長者で壬申の乱の功労者でもある高市皇子の浄広弐等よりも上位であり、草壁皇子が冠位の筆頭に位置付けられたものである[25]。すなわち、皇族の序列化であり、飛鳥浄御原令の成立過程(ただし、完成に前に天武天皇が崩御)に皇太子制の成立を見ることが出来る[26]

しかし、草壁皇子が即位せずに薨去すると、持統天皇の下で高市皇子が太政大臣に就き、さらに持統天皇10年(696年7月10日に高市皇子が薨去した。家永三郎の提唱する「皇太子摂政」の概念では、高市皇子は皇太子と太政大臣を兼ねており、これは皇太子摂政の政治形態が「太政大臣なる官制の出現によって克服された」ことを意味するとされる[23]。なお、高市皇子の子である長屋王(皇孫)を「長屋”親王”」と記した木簡が発掘されており[27]、『日本書紀』や『万葉集』で「後皇子尊」と称されたことから、高市皇子の地位を巡っても諸説ある。

いずれにせよ高市皇子の薨去に伴い、次期後継者を巡る紛争が起こる[26]。これは天皇位ではなく皇太子位を巡る、史上初の紛争にあたる[26]。この時の様子は、『懐風藻』に記されている。結局、翌持統天皇11年2月16日697年3月13日)に草壁皇子の息子(=持統天皇の孫)である珂瑠皇子が立太子され、同年8月1日(697年8月22日)に若干15歳で即位し文武天皇となった。ここに、史上初の皇太子を経て即位した天皇が誕生したとされる[28]。珂瑠皇子と、その息子の首皇子(聖武天皇)は、皇位継承者として明らかに差別化した扱いを受けており、律令制下における皇太子制の確立が、以後の政治課題となった[29]

日本書紀』(養老4年(720年)完成)では「太子」の語の多くが皇太子の意で使用された[30]。しかし、同時代に編纂された『古事記』(和銅5年(712年)頃成立)には説明不可能な用例もあり、また『日本書紀』とは立太子に関連し矛盾も多い[31]。こうしたことは、8世紀初頭の時点では皇位継承の制度そのものが未成熟であったことを意味する[32]

また、慶雲4年(707年)に文武天皇が若くして崩御すると、当時7歳の首皇子(聖武天皇)の即位までの中継ぎとして、文武天皇の母元明天皇と同母姉元正天皇が即位した。元明天皇の在位中に首皇子は立太子された(時期は諸説あり)が、即位は先延ばしになり、元正天皇が次期天皇となった。これは、皇太子の地位が、次期天皇になるための必須の地位として、古代の支配者階級にとって未だ認識されていなかったことを意味する[33]。成立当初の皇太子位は、文武天皇の系譜を維持することを目的とするかのように、聖武天皇の息子である基皇子は生後わずか32日で立太子された(その後、生後1年に満たずに夭折した)[34]

基皇子の薨去後、長屋王の変により、嫡流に近い血統と政治的実権を持つ長屋王が失脚・自害すると、藤原家光明子(安宿媛)の立后が実現し、史上初の皇族出身以外の皇后が誕生した。この際、『後日本記』によれば、聖武天皇は光明子が「皇太子の母」であったことを立后の理由として宣言した[35]

後継者となる皇子のいない聖武天皇は、天平10年(738年)に阿部内親王を皇太子とした。先の元正天皇は、未婚で皇后・母后でもなく、また立太子されることも無かったため、草壁皇子と元明天皇の「皇女である」以外の皇位継承理由は無かった[36]。しかし、聖武天皇の皇女である阿部内親王は、立太子を経て、即位しており、この頃までに皇太子が次期天皇である認識が確立され、また「次期皇位継承者の存在を明示する儀礼」として立太子礼も整備された[36]

なお、発掘調査では、2014年(平成26年)2月に奈良文化財研究所(奈文研)が実施した平城宮跡東側の発掘調査で、「二人皇」と「太子」の文字が書かれた木簡の削り屑が全国で初めて発見された。木目の状態などから元は同じ木簡に書かれ、本来は「皇太子」と書かれていたとみられる。また、同じく発見された他の木簡には「養老7年」(=西暦723年)「神亀元年」(=西暦724年)と読める文字もあったことから、この「皇太子」は首皇子(後の聖武天皇)を指すとみられる。調査した史料研究室長の渡辺晃宏は「『二人』は首皇子の警護の人数を示していると考えられる。」としている[37][38]

「皇子宮」から「春宮」「東宮」へ[編集]

7世紀後半の天武天皇、続く持統天皇の時代(天武・持統期)には、皇子の居所は天皇の居所と異なり「地名+宮」「人名+宮」と表記されており、「皇子宮」(みこのみや)は、当時の皇子の一般的な居住形態であった。壬申の乱において、天武天皇(即位前:大海人皇子)に出仕し強い臣従関係で結ばれた舎人の果たした役割は大きく、乱後に即位した天武天皇は、それぞれの皇子に対してでなく天皇への集権的な臣従の強化を図り、新たな舎人制度が成立した[39]。さらに持統天皇は、藤原京の造営により皇族にも、都の中への宅地を強制した[40]。この政策の本質は、旧来の居住制の変更と天皇への臣従を強化することであった[41]。やがて、皇子の居所は「家」「宅」「第」と称されるようになり、「宮」は皇親への尊称に変化していった[42]

「皇子宮」が衰退・変容していく中、8世紀半ばに施行された養老律令では、次期天皇である皇太子の家政機関である春宮坊(とうぐうぼう、みこのみやのつかさ)は、太政官による直接の統制を受けた[43]。皇太子の居所である「東宮」の訓は、『日本書紀』に「ひつぎのみや」の例があるが、東宮職員令をはじめとする文献資料では、多くの場合「みこのみや」と訓んでいる[44]。この事実から、皇子宮の退転に伴う転化発展により、東宮機構が成立したと考えられている[45]

後代には、皇太子は、東宮春宮、と表記され、「とうぐう」「ひつぎのみこ」「はるのみや」などと読まれた。いずれも、「皇太子の居住する宮殿」の意となる。

継承の例[編集]

南北朝時代から江戸時代中期にかけては、次期皇位継承者が決定されている場合であっても、「皇太子」にならないこともあった。これは、当時の皇室の財政難などにより、立太子礼が行えなかったためである。通例であれば、次期皇位承継者が決定されると同時に、もしくは日を改めて速やかに立太子礼が開かれ、次期皇位継承者は皇太子になる。しかし、立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君」(ちょくん、もうけのきみ)と呼ばれた。

南北朝時代において、南朝では最後まで曲がりなりにも立太子礼が行われてきたとされている。これに対して、北朝においては、後光厳天皇から南北朝合一を遂げた遙か後の霊元天皇に至るまで、300年以上に亘って立太子を経ない儲君が皇位に就いている。立太子礼が復活した後も、儲君治定から立太子礼まで1年から数年の期間があり、江戸時代では実質儲君治定が次期皇位承継者の決定であった。

2019年令和元年)5月1日現在、皇太子以外の皇嗣(先帝とは2親等以上離れた続柄にあたる皇族)が皇位を継承したのは、1779年安永8年)に第118代後桃園天皇が嗣子なく[注釈 7]崩御したことに伴い、その傍系(再従叔父)にあたる閑院宮から践祚した兼仁親王(のち光格天皇)が最後である。

光格天皇の皇子恵仁親王(のち仁孝天皇)から徳仁(今上)までの歴代天皇は全て皇太子(光格天皇の直系子孫)[注釈 8]によって皇位が継承され、これが現在の皇室に連なっている。

立太子の礼[編集]

徳仁親王(当時)の立太子の礼
1991年(平成3年)2月23日
1952年(昭和27年)、立太子の礼を行う明仁親王(当時)

皇室典範制定以前と異なり、立太子の礼自体は皇太子の地位の要件ではない。立太子の礼は、天皇における即位の礼と同様、内外に地位を宣明するための儀式である。かつては、幼少の儲君の立太子の礼も行われた。これに対して、現皇室典範制定後は、皇太子の成年を待って立太子の礼を行う。皇太子、皇太孫の成年は18歳とされている(旧典範13条、現典範22条)。

旧皇室典範の下では、立太子の礼は2回行われた。

皇室典範の施行後は、立太子の礼は2回行われている。

皇太弟・皇太甥[編集]

天皇の弟が次期皇位継承者である場合には、皇太弟(こうたいてい)、また天皇の甥である場合は皇太甥(こうたいせい)と呼ばれる場合がある。院政期においては皇太子の称号は父権の存在を意味した。今鏡には、崇徳天皇が父親である鳥羽上皇に譲位を要請されたことに従って弟宮である躰仁親王(後の近衛天皇)を後継に立てたが、立太子の際に躰仁親王が皇太子ではなく「皇太弟」の立場で立てられたことにより、譲位後の崇徳上皇が近衛天皇に対する父権を行使できず、院政を行うことができなかったと言う記述がある[46]

江戸時代までは、次期皇位継承者が確定した時点等において立太子の礼を行い、その方に皇太子の身分を授けることが通例であり、称号については、今上天皇の子である場合だけでなく、兄弟やその他の親族である場合も、「皇太子」と称されることが大半であった。なお、弟宮が次期皇位継承者とされた例は18例あるが、このうち天皇によって称号が「皇太弟」と定められたことが明らかな例は3例のみであるとされる[47]

現在、皇室典範皇室経済法には皇太弟や皇太甥などに関する記載はない[注釈 9]。仮に皇位継承順第1位の者が在位中の天皇の弟または甥の場合、東宮職員、今まで皇太子の執り行ってきた公務の引き継ぎ、内廷皇族宮家皇族で相当に差のでる内廷費・宮廷費などの諸費用をどうするのかという問題が存在する[8]

第125代天皇明仁退位に関する特例法では、「皇太弟」として想定される秋篠宮文仁親王皇室典範の規定による「皇嗣」として、皇太子と同等に扱い、東宮職に代わって皇嗣職を置くことが規定されている。

歴代皇太子[編集]

先述の通り、日本における「皇太子」及びその前身となる概念がいつ頃成立・確立したかについては様々な議論がある。以下には、1981年(昭和56年)の書籍に基づく歴代皇太子を挙げる[51]

皇太子 読み 天皇から
見た続柄
立太子 備考
菟道稚郎子 うじのわき
いらつこ
辞退 自殺
木梨軽皇子 きなしの
かる
允恭23年 自殺
厩戸皇子 うまやど 593 逝去
草壁皇子 くさかべ 681.2.25 早世
軽皇子 かる 697.2.16
首皇子 おびと 714.6.25
基親王 もとい 727 夭逝
阿倍内親王 あべ 738.1.13
道祖王 ふなど 従叔祖父[注釈 10] 756.5.2 廃太子
大炊王 おおい 従叔祖父 757.4.4
白壁王 しらかべ 再従伯祖父[注釈 11] 770.8.4 [注釈 12]
他戸親王 おさべ 771.1.23 廃太子
山部親王 やまべ 773.1.2
早良親王 さわら 781.4.15 廃太子
安殿親王 あて 785.11.25
神野親王 かみの 806.5.19
高丘親王 たかおか 809.4.1 廃太子
大伴親王 おおとも 810.9.13
正良親王 まさら 823.4.18
恒貞親王 つねさだ 従弟 833.2.28 廃太子
道康親王 みちやす 842.8.4
惟仁親王 これひと 850.11.25
貞明親王 さだあきら 869.2.1
定省親王 さだみ 887.8.26
敦仁親王 あつぎみ 893.4.2
保明親王 やすあきら 904.2.10 早世
慶頼王 よしより 923.4.29 早世
寛明親王 ゆたあきら 925.10.21
成明親王 なりあき 944.4.22
憲平親王 のりひら 950.7.23
守平親王 もりひら 967.9.1
師貞親王 もろさだ 969.8.13
懐仁親王 やすひと 従弟 984.8.27
居貞親王 おきさだ 従兄 986.7.16
敦成親王 あつひら 従甥 1011.6.13
敦明親王 あつあきら はとこ 1016.1.29 辞退
敦良親王 あつよし 1017.8.9
親仁親王 ちかひと 1037.8.17
尊仁親王 たかひと 1045.1.16
貞仁親王 さだひと 1069.4.28
実仁親王 さねひと 1072.12.8 早世
善仁親王 たるひと 1086.11.26
宗仁親王 むねひと 1103.8.17
顕仁親王 あきひと 1123.1.28
体仁親王 なりひと 1139.8.17
守仁親王 もりひと 1155.9.23
憲仁親王 のりひと 叔父 1166.10.10
言仁親王 ときひと 1178.12.15
尊成親王 たかなり 1183.8.20
守成親王 もりなり 1200.4.15
懐成親王 かねなり 1218.11.26
秀仁親王 みつひと 1231.10.28
久仁親王 ひさひと 1243.8.10
恒仁親王 つねひと 1258.8.7
世仁親王 よひと 1268.8.25
熙仁親王 ひろひと 従兄 1277.11.5
胤仁親王 たねひと 1289.4.25
邦治親王 くにはる はとこ 1298.8.10
富仁親王 とみひと はとこ 1301.8.24
尊治親王 たかはる はとこ 1308.9.19
邦良親王 くになが 1318.3.9 早世
量仁親王 かずひと 再従甥[注釈 13] 1326.7.24
康仁親王 やすひと 三従甥[注釈 14] 1331.11.8 廃太子
恒良親王 つねなが 1334.1.23 横死
成良親王 なりなが みいとこ 1336.11.14 廃太子
益仁親王 ますひと 1338.8.13
義良親王 のりよし 1339
直仁親王 なおひと 1348.10.27 廃太子
熙成親王 ひろなり 1368
泰成親王 やすなり 廃太子[注釈 15]
高仁親王 たかひと 早世
朝仁親王 あさひと 1683.2.9
慶仁親王 やすひと 1708.2.26
昭仁親王 てるひと 1728.6.11
遐仁親王 とおひと 1747.3.16
英仁親王 ひでひと 1768.2.19
温仁親王 ますひと 夭逝
恵仁親王 あやひと 1809.3.24
統仁親王 おさひと 1840.3.14
嘉仁親王 よしひと 1889.11.3
裕仁親王 ひろひと 1912.7.30
明仁親王 あきひと 1952.11.10
徳仁親王 なるひと 1989.1.7

東アジア諸国の皇太子・王太子[編集]

中国[編集]

そもそも太子の語は中国に由来するものであり、王や諸侯の後継者が太子と呼ばれた。史上最初に皇帝を名乗ったのは始皇帝であり、始皇帝の時代には皇子の扶蘇が太子として立てられていたので、史上最初の皇太子(帝の太子という意味での)は扶蘇であるということになる。もっとも、始皇帝の没後に趙高らの陰謀で排除されたため、扶蘇は即位していない。

基本的には后腹の第1皇子を立太子する。功績抜群なる皇子は太子を立てることもあり(例:唐の玄宗・唐の代宗)、この原因によって派閥抗争が起こる場合もある[注釈 16]。嫡出子(皇后の子)が産まれなかった場合、妃嬪所生の第1皇子を立太子するが、その地位が不安定であったため後継者争いが起こる[注釈 17]。皇太子が地位に安住して佞臣を近付け修養を怠る、などの弊害がときにみられた。とはいえ、皇帝が絶大な権力を持つ中国において、皇太子を指名しないことはますます派閥抗争の激化などの弊害を招くため、皇太子制は継続されてきた。清の雍正帝はこれらの弊害を正すために太子密建の制を導入し、秘密裏に皇太子を指名して皇帝没後に開封することとした。

朝鮮[編集]

朝鮮半島においては、高麗モンゴル干渉期から李氏朝鮮後期まで長らく他国の冊封体制下にあったため、太子の称号が使えず、国王の継承者は「王世子」と呼ばれていた。日清戦争の結果、下関条約が結ばれたことによりの冊封から外れ、国号を大韓帝国と改めた際に「皇太子」を使うようになった(国王も大韓帝国皇帝となった)。

しかし韓国併合により朝鮮は大日本帝国の領土となり、旧皇帝家は日本の王族となり、旧皇太子は王世子となった(前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為シ皇太子及将来ノ世嗣、太皇帝及各其儷匹ノ称呼ヲ定メ並ニ礼遇ノ件)。

琉球[編集]

琉球王国においては、王世子は中城間切を領地としたので「中城王子」と称した[52]

ヨーロッパ大陸諸国の王太子・皇太子[編集]

語義[編集]

日本語の「(男性の)皇太子」にあたる語は、英語ではCrown Prince、ドイツ語ではKronprinz、スペイン語ではPríncipeである。女性形はそれぞれcrown princess、Kronprinzessin、Príncesaで、これは皇太子の妻にも用いられる。また、君主号が皇帝(emperor)か(king)かに関らず用いられる。実際にかつてのドイツ帝国などで称号として用いられていた。

スカンディナヴィア諸王国(スウェーデンデンマークノルウェー)では、特定の儀礼称号は用いられず、王太子/女(Crown Prince/Princess)にあたる語がそのまま呼称として用いられる。例として、現在のノルウェーの王太子ホーコンH.K.H. Kronprins Haakonと呼ばれ、これは英語に訳すとHRH Crown Prince Haakonとなる。[注釈 18]

なお、日本のメディアでは、欧州王室の女性王位継承者の身位について、「皇太王女」として表記したことがある[注釈 19]が、先述の通り、外務省では性別を問わず「皇太子」と表記している。

特定の儀礼称号を後継者に用いる例[編集]

ローマ帝国においては、皇帝は建前上世襲ではなく、「元老院、ローマ市民の代表者」とされていたため、皇太子にあたる地位はなかった。神聖ローマ帝国においても、もとは選挙王制であり、建前上必ずしも世襲ではなかった。ただし、ハプスブルク家が帝位を独占した後には、次期皇帝としての「ローマ人の王(Rex Romanorum)」の称号を自家の後継者に与えることで、帝位の事実上の世襲を維持した。これとは異なる称号であるが、フランス第一帝政ナポレオン1世も後継者ナポレオン2世を「ローマの王」に任命している。フランス帝政の影響で神聖ローマ帝国が解体し、ハプスブルク家領に世襲制のオーストリア帝国が成立すると、皇帝の後継者たる男子が公的に皇太子(Kronprinz)となった。サラエボ事件で知られるオーストリア=ハンガリー帝国フランツ・フェルディナント大公は、事実上の皇太子であったが、傍系であることや貴賤結婚によりその子孫には皇位継承権が許されなかったなどの事情から、皇太子とはあまり呼ばれず、皇位継承者(Thronfolger)と呼ばれた。

ロシア帝国では、皇太子に対して「皇帝(ツァーリ)の息子」という意味の語である「ツァレーヴィチцаревич)」「ツェサレーヴィチцесаревич)」という呼称が用いられた。

イギリスでは、王太子にプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)の称号が与えられた[注釈 20]。元々はウェールズの君主の称号であるが、1301年エドワード1世がウェールズ人の反乱を抑えるために王太子にこの称号を与え、以降王太子の称号となった。

革命勃発による共和制移行以前のフランス王国では王太子に「ドーファン(dauphin)」の称号が与えられた。元々はフランス南東部のドーフィネ(Dauphiné)地方の領主の称号であったが、1349年に同地方を王太子領として以降、王太子の称号となった。

この他、現存する以下のヨーロッパの王太子/女(王の法定推定相続人)は、貴族としての特定の儀礼称号が与えられる。

これらの国々に、王太子/女 (Crown Prince/Princess) という称号はないため、しばしば同一視される。日本では、王太子/女ではなく皇太子と表記・報道され、現プリンス・オブ・ウェールズも「チャールズ皇太子」と呼ばれることが多い。

近年の王太女たち[編集]

1980年のスウェーデンを初めとして近年のヨーロッパ諸国では、後継者問題や女性の地位向上などに伴い、継承順位を男女に係らず長子優先と転換する国が多く現れたため、これに伴い王太女(王位継承者である王女)も増加した。2019年5月現在、

の4名がいる。なお、原語では、王太女と王太子妃は同じ呼称(例:Crown Princess)となるが、王太子(例:Crown Prince)と王太女の夫は同じ呼称は名乗らない。例えば、スウェーデンのヴィクトリア王女の夫ダニエルは、結婚により王子(prins)となったが、王太子と同じ称号であるKronprinsは名乗っていない。

サウジアラビアの皇太子[編集]

一夫多妻制により、初代国王のアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードには王位継承権を持つ男子が35人いたため、第2代国王のサウード・ビン・アブドゥルアズィーズから第7代国王のサルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズまでの国王と、第7代国王の治世で最初の次期王位継承者となったムクリン・ビン・アブドゥルアズィーズまでの代々の王位継承者は初代国王の実子の異母・同母兄弟であり、王位継承順は兄から弟へと継がれてきた。しかし日本の外務省は、次期王位継承者が国王の弟であっても「王太弟」ではなく一律で「皇太子」と呼称していた[55]

また、2015年4月29日、サルマーン国王の勅命により異母弟のムクリンが皇太子から解任され、甥にあたるムハンマド・ビン・ナーイフが次期王位継承者に任命されたが、日本の外務省は同じく「王太甥」ではなく「皇太子」として呼称しており、国王の続柄と関係なく次期王位継承者を一律に「皇太子」と呼称している。

2017年6月21日、サルマーン国王の勅命により甥のナーイフが皇太子から解任され、実子のムハンマド・ビン・サルマーンが皇太子に任命された。これにより後に第2代国王となるサウードが1933年に皇太子に就任して以来84年ぶりに国王の実子が皇太子を務めることなった。

なお、サウジアラビアでは、2014年に王位継承順第2位の者の地位と称号が設けられ、ムクリン、ナーイフ、ムハンマドがその地位を継いで来たが、日本語ではこれを「副皇太子」、英語では「Deputy crown prince」と呼称している。2017年6月21日にムハンマド・ビン・サルマーンが副皇太子から皇太子に昇格したことで、以降は副皇太子が空位となっている。

現在の世界の皇太子・王太子一覧[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ a b 例えば、要人の来日についての報道発表において、スウェーデンの「Kronprinsessan」であるヴィクトリア王女について、「ヴィクトリア・スウェーデン王国皇太子殿下」としている[1]
  2. ^ a b 漢字の「子」は、広義では親から生まれた者を指すが、狭義では親から生まれた男を意味する。一方で「女」は娘を意味する。
  3. ^ 例えば、要人の来日についての報道発表において、ルクセンブルク大公国の公位継承者であるギヨーム大公世子について、「ギヨーム・ルクセンブルク大公国皇太子殿下」としている[3]
  4. ^ 8人10代存在した女性天皇の一人で、史上6人目。重祚後は称徳天皇、第46・48代天皇
  5. ^ 1926年大正15年/昭和元年〉12月25日昭和天皇践祚から、1933年(昭和8年)12月23日香淳皇后の間に第一皇男子として継宮明仁親王(当時、のちの第125代天皇、現:上皇明仁)が誕生するまでの間以来。
  6. ^ 皇室に触れる研究により、喜田貞吉南北朝正閏論)、津田左右吉皇国史観への批判)が、受けた処遇を参照。
  7. ^ 後桃園天皇の皇女欣子内親王は、光格天皇中宮として温仁親王と悦仁親王を儲けるが、何も幼くして薨去した。これにより中御門天皇からの皇統は途絶えてしまう。
  8. ^ その内、父帝から見て続柄が長男にあたる皇太子によって皇位が継承(いわゆる長子相続)されたのは昭和天皇(大正天皇第一皇子)・明仁(昭和天皇第一皇子)・徳仁(明仁第一皇子)のみである。仁孝天皇から大正天皇までは、いずれも兄弟が幼くして薨去したことにより、自身が立太子した。
  9. ^ 昭和天皇践祚後、1933年(昭和8年)の継宮明仁親王誕生までの約8年間、昭和天皇の弟宮である雍仁親王が皇位継承順第1位の皇嗣であった。西園寺公望は秩父宮の皇位継承に備えた妃選びの重要性を説き[48]、また松平節子と結婚後は実母の貞明皇后が秩父宮夫妻に男子出産の期待を寄せる[49]状況であった。さらに、英国の機密文書によれば秩父宮即位を画策する一派が出現する事態に至った[50]が、ついに「皇太弟」とは称されなかった
  10. ^ 祖父の従弟
  11. ^ 祖父のはとこ
  12. ^ 称徳天皇は立太子前に崩御。
  13. ^ はとこの子
  14. ^ みいとこの子
  15. ^ 南北朝合一により
  16. ^ 例えば唐の高祖の皇太子は長男の李建成であったが、軍功に優れた次男の李世民と争いになり、結局玄武門の変で李世民によって殺害された。
  17. ^ 例えば、三国時代において孫権の長男にして皇太子であった孫登の病死後、新たに立太子された三男孫和と皇太子の地位を狙う四男孫覇の間で起こった二宮の変
  18. ^ 2019年7月現在、
  19. ^ 例えばスウェーデンヴィクトリア王女[53]やオランダのユリアナ王女(のち女王)[54]に対して用例がある。
  20. ^ ヴィクトリア王女エリザベス王女ら、「第一王位継承者の女性」にこの儀礼称号が与えられた例はない。

出典[編集]

  1. ^ 報道発表「ヴィクトリア・スウェーデン王国皇太子殿下の訪日について」”. 外務省 (2005年4月5日). 2020年7月14日閲覧。
  2. ^ 遠山 2010、p.68
  3. ^ 報道発表「ギヨーム・ルクセンブルク大公国皇太子殿下の来日」”. 外務省 (2011年5月12日). 2020年7月14日閲覧。
  4. ^ 『続日本紀』天平10年1月13日条「立阿倍内親王為皇太子」、天平勝宝元年7月2日「皇太子受禅即位於大極殿」等
  5. ^ 皇室典範に関する有識者会議報告書 平成17年11月24日 総理大臣官邸公式ウェブサイト
  6. ^ 秋篠宮さまは新天皇陛下の弟―皇位継承時事通信社(2019年5月1日付)
  7. ^ 宮内庁 予算
  8. ^ a b 宮内庁が密かに頭を悩ます 浩宮が即位したら、「皇太子」がいなくなる 秋篠宮も愛子さまも悠仁さまも、皇太子にはなれない
  9. ^ 皇太子同妃両殿下のご日程
  10. ^ 荒木 1985 p.2-3
  11. ^ 荒木 1985 p.4-6
  12. ^ 荒木 1985 p.6
  13. ^ 荒木 1985 p.8-9
  14. ^ 荒木 1985 p.9-10
  15. ^ a b 荒木 1985 p.10
  16. ^ 荒木 1985 p.10-11
  17. ^ 荒木 1985 p.20
  18. ^ 荒木 1985 p.46
  19. ^ 荒木 1985 p.48-49
  20. ^ 荒木 1985 p.166
  21. ^ a b 荒木 1985 p.167
  22. ^ 荒木 1985 p.164
  23. ^ a b 荒木 1985 p.11
  24. ^ 荒木 1985 p.165
  25. ^ 荒木 1985 p.170
  26. ^ a b c 荒木 1985 p.171
  27. ^ 詳細は長屋王を参照。
  28. ^ 遠山 2010、p.24
  29. ^ 荒木 1985 p.172
  30. ^ 荒木 1985 p.134
  31. ^ 荒木 1985 p.140
  32. ^ 荒木 1985 p.160
  33. ^ 荒木 1985 p.313
  34. ^ 遠山 2010、p.47-48
  35. ^ 遠山 2010、p.53-55
  36. ^ a b 荒木 1985 p.171
  37. ^ 平城京跡の木簡に「皇太子」 全国初出土、即位前の聖武天皇か 奈文研 産経ニュース 2015年7月10日
  38. ^ 平城京跡の削りくずに「皇太子」 年輪年代測定で裏付け 朝日新聞デジタル 2017年7月4日
  39. ^ 荒木 1985 p.110-112
  40. ^ 荒木 1985 p.120-122
  41. ^ 荒木 1985 p.122-123
  42. ^ 荒木 1985 p.126
  43. ^ 荒木 1985 p.237-238
  44. ^ 荒木 1985 p.115-116
  45. ^ 荒木 1985 p.117
  46. ^ 河北騰、「<論説>「今鏡」研究の新視点」『立正大学文学部論叢』 1994年 100号 p.112-113, 立正大学文学部
  47. ^ 平成29年4月21日 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議 最終報告
  48. ^ 2017 原 p.400
  49. ^ 2017 原 p.394-395
  50. ^ 2017 原 p.401-402
  51. ^ 『日本史小百科 天皇』児玉幸多編 東京堂出版 1981
  52. ^ 沖縄大百科事典(下) 1983 p.9
  53. ^ 「国内で高い人気を誇る「スウェーデン王室」」欧州王室改革のモデル」『読売新聞』2000年5月31日東京朝刊6頁
  54. ^ 「[追悼抄]3月 ベアトリックス女王の母・ユリアナ前女王」『読売新聞』2004年4月18日東京朝刊30頁
  55. ^ 外務省 スルタン・サウジアラビア王国皇太子薨去に際しての弔意メッセージの発出

参考文献[編集]

  • 沖縄大百科事典刊行事務局編『沖縄大百科事典』下、沖縄タイムス社、1983年5月。ASIN B000J7ASPG
  • 荒木敏夫『日本古代の皇太子』吉川弘文館〈古代史研究選書〉、1985年10月。ISBN 978-4642021586。
  • 遠山美都雄『天平の三姉妹』中央公論社中公新書〉、2010年1月。ISBN 978-4121020383。
  • 原武史『皇后考』講談社、2015年2月。ISBN 978-4062193948。

関連項目[編集]