王通 (隋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王 通(おう とう、584年開皇4年)- 618年武徳元年))は、中国代の儒学者は仲淹(ちゅうえん)。号は文中子(ぶんちゅうし)。絳州竜門県(現在の山西省運城市河津市)の出身。

名族である太原王氏の傍系出身である。父の王隆は国子博士となり、開皇初年文帝に「興衰要論」7篇を奏した。兄は王度。弟は王凝・王績(東皐子)・王竫。孫には初唐の詩人王勃がいる。

18歳の時に秀才科に及第したにもかかわらず、官には就かなかった。603年仁寿3年)に文帝に対して「太平十二策」を上呈した[1]が、納れられなかったため、郷里である竜門県に戻り、著述に専心した。その許には一千人単位の門弟が集まった。その中からは朝建国の功臣たちが多数輩出した。その著書『文中子中説』は弟子たちとの対話を集録したものであり、北宋の阮逸が注を付した。ただ、この書の内容や真偽に関しては、諸説紛紛たるさまを呈した。

脚注[編集]

  1. ^ 森鹿三「文中子」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年)、195頁