王雅 (東晋)

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王 雅(おう が、334年 - 400年)は、中国東晋官僚政治家は茂達。本貫東海郡郯県

経歴[編集]

大鴻臚の王景(王粛の子の王隆の子)の子として生まれた。若くして名を知られ、州に召されて主簿となり、秀才に挙げられた。郎中に任じられ、永興県令として出向した。尚書左丞・尚書右丞・廷尉侍中・左衛将軍・丹陽尹を歴任し、太子左衛率を兼ねた。孝武帝に礼遇され、外任にあっても、たびたび謁見を受け、朝廷の大事の議論には多く参与した。395年太元20年)、太子少傅となった。後に領軍将軍・尚書・散騎常侍に転じた。

396年(太元21年)に孝武帝が死去すると、王雅は突然に失脚した。安帝のもとで、司馬道子王国宝が専権をふるい、これに対して北府の王恭や西府の殷仲堪らが反抗して、東晋は混乱に陥ったが、王雅はこの争いに関与せず、沈黙を守った。398年隆安2年)11月、尚書左僕射として再起した。400年(隆安4年)6月、尚書右僕射に転じた。8月、死去した。享年は67。光禄大夫儀同三司の位を追贈された。

逸話[編集]

  • 孝武帝が酒宴を召集したときは、いつも王雅が来ないうちに先に盃を挙げようとはしなかった。王雅が孝武帝の尊重を受けるさまは、このようなものであった。
  • 王雅の任遇はその才能に過ぎたものとみなされ、当時の人は王雅を孝武帝にへつらう小人物と見なした。
  • 孝武帝は後宮に清暑殿を建て、北上閣を開いた。孝武帝が華林園に美人の張氏とともに遊びに出ると、王雅もこれに同行した。
  • 王珣の子が結婚したのを祝うため、多くの賓客たちが王珣の邸にやってきた。このときたまたま王雅が少傅となったことから、賓客の半分以上は王雅のところに回って挨拶した。風俗の退廃を憂う人々は、少傅に王珣がつくことを望んでいたが、実際の任命が王雅に下ったため、人心が王雅に流れたものである。
  • 王雅が少傅に任命されるにあたって、たまたま雨が降ったため、傘を差して入朝することを求めた。王珣がこれを許可しなかったため、王雅は雨に濡れながら任命を受けた。
  • 孝武帝は司馬道子に国政を支える器量や才幹がないとみなし、自身の死後のことを心配して、王恭や殷仲堪らを藩屏として抜擢しようと、王雅に相談した。王雅は王恭らに大任を果たすことはできないとして反対した。しかし孝武帝は王雅の意見を聞き入れなかった。

子女[編集]

  • 王準之(長子、散騎侍郎)
  • 王協之(黄門)
  • 王少卿(侍中)

伝記資料[編集]