理宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年7月) |
理宗 趙昀 | |
---|---|
南宋 | |
第5代皇帝 | |
![]() | |
王朝 | 南宋 |
在位期間 | 1224年9月17日 - 1264年11月16日 |
姓・諱 |
趙与莒 趙貴誠(沂王に封じられた際に改名) 趙昀(立太子の際に改名) |
諡号 | 建道備徳大功復興烈文仁武聖明安孝皇帝 |
廟号 | 理宗 |
生年 |
開禧元年1月5日 (1205年1月26日) |
没年 |
景定5年10月26日 (1264年11月16日) |
父 | 趙希瓐 |
陵墓 | 永穆陵 |
年号 |
宝慶 : 1225年 - 1227年 紹定 : 1228年 - 1233年 端平 : 1234年 - 1236年 嘉熙 : 1237年 - 1240年 淳祐 : 1241年 - 1252年 宝祐 : 1253年 - 1258年 開慶 : 1259年 景定 : 1260年 - 1264年 |
生涯[編集]
1205年、北宋の太祖(趙匡胤)の次子の趙徳昭の8世孫の趙希瓐の子として生まれる。1224年に寧宗が危篤状態になると、寧宗の実子が夭逝していたことから、宰相の史弥遠による工作で皇太子となり、寧宗の死後皇位を継承する。
その治世の初期は史弥遠の専権が行われていった。1233年に史弥遠が死去した後に親政を開始した。1234年にはモンゴル帝国のオゴデイと同盟を結んで金を滅ぼしたが、戦後処理や領土分割問題などからやがてモンゴルと対立するようになる。モンゴルとの抗争に苦しめられたが、1259年にモンケが亡くなるなどの背景もあり結果的に南宋軍はモンゴル軍を退けることに成功した。
内政面では理宗自身が朱子学に傾倒していたことから真徳秀ら朱子学者を登用して政治改革を図った。しかし過度に理想化された改革は、モンゴル侵攻という国家危機に対応できず改革は失敗に終わった(端平更化)。
改革失敗の反動から理宗は政治に対する関心を失い遊蕩に耽るようになり政治腐敗や派閥対立が発生した。治世後期は寵妃の弟である賈似道の専横が行なわれ、理宗は実権を喪失した。また宮殿造営を推進したことから国庫の破綻を招いている。
1264年に60歳で崩御。嗣子が無かったため、養子として迎えていた甥の度宗が即位した。なお廟号の「理」は、朱子学を彼が重んじたために用いられた。
宗室[編集]
父母[編集]
- 父:趙希瓐
- 養父:寧宗
后妃[編集]
- 皇后謝道清(寿和聖福)
- 賈貴妃(賈渉の娘で、賈似道の姉)
- 閻貴妃
子女[編集]
|