町田則文

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町田則文
Machida Noribumi, taken in commemoration of his 70th birthday (October 1925).jpg
古稀記念写真(1925年10月)
誕生 (1856-12-22) 1856年12月22日安政3年11月25日
常陸国新治郡土浦新屋敷(現・茨城県土浦市
別名 伯武()、波山(
死没 (1929-11-23) 1929年11月23日(72歳没)
東京府北豊島郡高田町(現・東京都豊島区
墓地 雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区南池袋
職業 教育者
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京師範学校中学師範学科
代表作 『明治国民教育史』(1928年)
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町田 則文(まちだ のりふみ、1856年12月22日安政3年11月25日) - 1929年昭和4年)11月23日)は明治時代から昭和初期にかけての日本教育者は波山。

愛媛県尋常師範学校愛媛大学教育学部の前身の一つ)および埼玉県尋常師範学校埼玉大学教育学部の前身の一つ)校長、高等師範学校附属小学校(筑波大学附属小学校の前身)主事、台湾総督府国語学校(国立台北教育大学の前身)校長を歴任し、晩年は東京盲学校(筑波大学附属視覚特別支援学校の前身)校長となって初期盲教育の充実に努めた。

生涯[編集]

1856年(安政3年)に、常陸国(現在の茨城県)で生まれる。1878年明治11年)に東京高等師範学校中学師範科を卒業し、茨城師範学校予科の教師になる。その後、愛媛県尋常師範学校教頭・校長、埼玉県尋常師範学校校長を歴任してから、1899年女子高等師範学校教授に就任。1910年に、東京盲唖学校が分離してできた東京盲学校の初代校長になる。この盲聾分離にあたっては、東京盲唖学校長をしていた小西信八が、より未熟だった聾唖教育を担当して新設の東京聾唖学校長に就くこととし、盲学校を担当する者として町田に白羽の矢が当たったのであった。小西信八は、その後、1925年に東京聾唖学校を退官するまで校長を務めた。

盲教育についての経験がなかった町田は、就任前に国内外の盲教育について研究をして、草創期を越えたとはいえ、未開拓だった盲教育に取り組んだ。町田が就任する前には、盲学校の盲人教師の身分は嘱託で、報酬も少なかったという。町田は、盲人教師も晴眼の教師と同じ「本官」にするように文部省に交渉して、これを実現した。さらに奥村三策と萩岡松韻を高等官にと交渉もした。盲人で初めて高等官になったのはこの2人であった。盲人の教員はしばらく嘱託をしてから本官になるということが長く続いた。点字は、すでに石川倉次考案のものが1890年に採用されていたが、その後も、仮名遣いや符号の完成には年月を要した。石川と町田の間で表記法についての相談・協議も行われた。校長をしている間、『内外盲教育』(1912 - 1920年)、『帝国盲教育』(会員の研究発表の場でもあったが、町田は終始海外の盲教育事情の紹介記事を寄稿した)、『盲教育』の3雑誌の発行人になるとともに、『ブライユ点字の沿革の概要』『盲人心理学』などを著して欧米の盲教育を日本に紹介し、視覚障害教育の発展に尽くした。1911年に、石川倉次が執筆し、著作権者文部省として出版された『日本訓盲点字説明』の出版の労をとったのは町田であったが、この本が文部省著作で出版されたことで、点字が周知徹底されることになったし、1926年に初めて点字投票が認められることにもつながったという。校長だったが、専修科生の校外学習を受け持ち、見学先では「盲人ですので、さしつかえない限り触れさせてください」と頼むなど、盲人の社会知識の涵養にも意を配っていた。1929年11月23日に逝去した。享年74であった。

年譜[編集]

  • 1856年(安政3年) 現在の茨城県で生まれる(実家が茨城県で、実際に生まれたのは江戸 [1]
  • 1878年(明治11年) 東京高等師範学校(現在の筑波大学)中学師範科を卒業し、茨城師範学校予科の教師になる。その後、愛媛県尋常師範学校教頭・校長、埼玉尋常師範学校校長を歴任
  • 1899年 女子高等師範学校教授に就任
  • 1910年 東京盲学校初代の校長に就任する(東京盲唖学校が分離してできた東京盲学校の初代校長)
  • 1929年11月23日 逝去、享年74

著作[編集]

  • 「詞藻編」(『町田則文先生伝』)
著書
訳書
  • 『理学応用 教育論』 ロバート・ガローウェー著、林吾一共訳、通信講学会、1892年11月
  • 弥爾言行録』 開発社、1900年2月
    Alexander Bain. John Stuart Mill, A Criticism with Personal Recollections. の抄訳。
  • 登氏 学校管理原論』 アーノルド・トムプキンス原著、金港堂書籍、1903年6月
  • 『盲人心理学』 テオドル・ヘルレル原著、町田先生謝恩事業会、1933年
編書

脚注[編集]

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  1. ^ 栗原、14頁。


参考文献[編集]

  • 「盲教育の基礎を築いた町田則文先生」(下田知江著 『盲界事始め』 あずさ書店、1991年11月、ISBN 4-900354-26-0)
  • 栗原光沢吉著 『大正の東京盲学校』 あずさ書店、1986年1月、ISBN 4-900354-07-4

関連文献[編集]

  • 元東京盲学校長町田則文勲章加授ノ件」(国立公文書館所蔵 「叙勲裁可書・昭和四年・叙勲巻四」) - アジア歴史資料センター Ref.A10113054900
  • 『むつぼしのひかり』第314号(故町田先生追悼号)、東京盲学校同窓会、1930年2月
  • 町田則文先生謝恩事業会編 『町田則文先生伝』 町田則文先生謝恩事業会、1934年1月 / 大空社〈伝記叢書〉、1988年3月、ISBN 978-4-87236-327-2
  • 寺崎昌男 「解説」(前掲 『明治国民教育史』 日本図書センター、1981年9月)
  • 鈴木博雄 「町田則文 : もう教育に尽くした明治国民教育の実践的教育学者」(唐沢富太郎編著 『図説 教育人物事典 : 日本教育史のなかの教育者群像 中巻』 ぎょうせい、1984年4月)
  • 「ミル伝の本邦初訳 : 町田則文訳『弥爾言行録』」(山下重一著 『英学史の旅』 御茶の水書房、1995年2月、ISBN 4275015738)
公職
先代:
校長事務取扱
小西信八
日本の旗 東京盲学校
1910年 - 1929年
次代:
秋葉馬治
先代:
(新設)
日本の旗 台湾総督府国語学校
1896年 - 1900年
次代:
校長心得
本田嘉種
先代:
主事心得
豊田恒雄
日本の旗 高等師範学校附属学校主事
1892年 - 1896年
次代:
主事事務取扱
黒田定治
先代:
桐野弘
埼玉県尋常師範学校長
1891年 - 1892年
次代:
矢部善蔵
先代:
遠藤宗義
愛媛県尋常師範学校長
1889年 - 1891年
次代:
林吾一
その他の役職
先代:
(新設)
帝国盲教育会会長
1920年 - 1928年
次代:
川本宇之介
先代:
(新設)
国語研究会会頭
1900年 - 1901年
次代:
台湾教育会会長
石塚英蔵