益田就恭

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益田就恭

益田 就恭(ますだ たかゆき、明和元年閏12月28日1765年2月17日) - 文化元年11月18日1804年12月19日)は、益田家第30代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家11代。

父は益田就祥。母は右田毛利広定(広胖)の養女。正室は阿川毛利就禎の娘。養子に益田房清、益田房清の許婚桑子(実妹)、実弟に佐世親長(ちかなが、娘に益田房清室、養子に佐世元)がいる。

通称は越中、安房、丹後。幼名は熊次郎、初め兼恭(かねゆき)を名乗るが、のちに藩主毛利重就(広定の実弟)より偏諱を受け就恭と名乗る。「就」の読みが「たか」であることから、重就が読みを改めた天明元年(1781年)または翌天明2年(1782年)のことと思われる。1782年には重就が毛利治元(のち治親)に藩主の座を譲っており、弟の親長は治親から偏諱を受けている。

生涯[編集]

明和元年(1765年)閏12月、毛利家家老益田就祥の子として生まれる。天明4年(1784年)、当職(執政)であった就祥が藩財政再建問題で藩主・治親の不興を買い、隠居を命じられたため、家督相続することとなった。同年、大頭(物頭を統括する役職)となり、藩主毛利治親、斉房に仕えた。寛政2年(1790年)、国元加判役(国元留守居家老)となる。寛政12年(1800年)、病のため、養子に毛利家一門吉敷毛利家から房清を迎え、隠居する。文化元年(1804年)11月18日卒。享年41。

就恭の死で永代家老益田家における益田元祥の男系は途絶え、毛利広定の男系子孫が続くことになる。

参考文献[編集]

  • 「萩藩諸家系譜」