益荒雄広生

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益荒雄 広生 Sumo pictogram.svg
Masurao 2010 Jan.JPG
基礎情報
四股名 手島 広生 → 益荒雄 広生 → 手島 広生 → 益荒雄 広生 → 益荒雄 宏夫
本名 手島 広生
愛称 白いウルフ、ぶっ壊し屋[2]
生年月日 (1961-06-27) 1961年6月27日(57歳)
出身 福岡県田川郡糸田町
身長 188cm
体重 127kg
BMI 35.93
所属部屋 押尾川部屋
得意技 右四つ、寄り、下手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 西関脇
生涯戦歴 387勝329敗86休(68場所)
幕内戦歴 111勝125敗64休(20場所)
優勝 十両優勝5回
殊勲賞2回
敢闘賞2回
技能賞1回
データ
初土俵 1979年3月場所[1]
入幕 1985年9月場所[1]
引退 1990年7月場所[1]
引退後 年寄阿武松
他の活動 日本相撲協会理事(1期)
2018年3月 -
備考
金星2個(双羽黒1個、北勝海1個)
2018年3月26日現在
テンプレート  プロジェクト 相撲

益荒雄 広生(ますらお ひろお、1961年6月27日 - )は、福岡県田川郡糸田町出身で押尾川部屋(現在廃止)に所属していた元大相撲力士。最高位は西関脇1987年7月場所)。現役時代の体格は188cm、127kg。本名は手島 広生(てしま ひろお)。得意手は右四つ、寄り、下手投げ。血液型はB型。現在は年寄阿武松。夫人は、元プロゴルファーの奥村久子[1]

来歴[編集]

角界入り[編集]

元々は兄と同じ警察官を志望していたが、押尾川親方(元大関大麒麟)に説得されて地元の飯塚高等学校を2年生終了の時点で中退して押尾川部屋に入門し、1979年3月場所において17歳で初土俵を踏んだ。後の横綱双羽黒北勝海らと同期である。当初の四股名は本名の「手島」であったが、読みは「てじま」と濁っていた。新弟子時代から午前2時に起きて相撲教習所で稽古に励み、同様の稽古を行う寺尾琴ヶ梅と共に鍛え合ったという過分なほどの稽古熱心さで実力を伸ばし[3]、1983年7月場所に22歳で新十両へ昇進し、同時に「益荒雄」と四股名を改める。その後は一時「手島」の名に戻していた時期もあったが、1985年3月場所において「益荒雄」に再改名してからは引退までそのまま通した。同年9月場所に24歳で新入幕を果たしたものの、しばらくは幕内と十両を往復する状況が続いた。

「白いウルフ」[編集]

1986年11月場所において4回目の入幕を果たすと、差し身の鋭い速攻相撲を武器に活躍し、その11月場所で西前頭13枚目の位置で11勝4敗の好成績を挙げて初の敢闘賞を獲得し、続く1987年1月場所でも東前頭4枚目の位置で横綱・双羽黒を破る金星を挙げて8勝7敗と勝ち越して初の技能賞を獲得した。初の三役となる東小結に昇進した1987年3月場所では、2横綱(千代の富士・双羽黒)・4大関(北天佑大乃国朝潮若嶋津)を破る大活躍で「益荒雄旋風」を巻き起こした[1]。一時は優勝も期待されたが終盤5連敗し、最終的には9勝6敗の成績で終えたものの初の殊勲賞を獲得した。後に益荒雄の弟子となった阿武咲2017年9月場所の優勝争いに加わった際には、益荒雄と同時代を幕内で過ごした逆鉾(現・井筒)が相撲雑誌のコラムで「あのときは"益荒雄旋風""白いウルフ"と言われましたが、阿武咲も一敗で中日まで突っ走りました。つくづく師弟というのはどこかでつながっているんだなと思います」としみじみ語っている[4]

この時期には、横綱・千代の富士のニックネーム「ウルフ」になぞらえて一般からの公募により付けられた「白いウルフ」というニックネームでも知られるようになった[1]。また、益荒雄が白星を挙げると地元である糸田町で花火が打ち上げられるようになり、益荒雄の人気はますます過熱していった。東小結に番付を据え置かれた1987年5月場所でも2横綱(千代の富士・双羽黒)・2大関(朝潮・若嶋津)を破り、9日目には西関脇の旭富士に勝利し、10日目には大関取りが懸かった東関脇の小錦を2度突っ掛けた後に立合い一閃の蹴手繰りで破るという大活躍を見せて10勝5敗の成績を挙げ、4場所連続での三賞受賞となる2回目の殊勲賞を獲得した。続く7月場所では自己最高位となる西関脇に昇進したものの、周囲の期待から大きくかけ離れた4勝11敗の成績に終わった。

1987年9月場所で大乃国に寄り倒しで敗れた際に右膝の靱帯を痛めて途中休場し、この場所から怪我との戦いが続いた。翌11月場所は公傷が認められ、1988年1月場所において再起して2場所連続して9勝6敗の成績を挙げたものの、西前頭筆頭の位置で迎えた同年5月場所において小錦に押し倒しで敗れた際に再び右膝の靱帯を痛めて途中休場し、強行出場してさらに故障箇所を悪化させたために、以後は勢いも下降してしまった。その後は1989年3月場所に2回目の敢闘賞を獲得したものの、三役への復帰は果たせず、十両で大敗を喫して幕下陥落が濃厚となった1990年7月場所を最後に29歳で引退した。引退後は寺尾が所有する年寄名跡を借りて年寄・錣山を襲名して押尾川部屋の部屋付き親方となった。

引退後、独立[編集]

親方となってから自ら部屋を持ちたいという思いが強くなり、一門外の元小結・大晃[5]から名跡を買い、1992年9月に年寄・12代阿武松を襲名した。独立の意志や一門外からの年寄名跡取得については、師匠である押尾川に何の相談もなく行っていたため、師匠の逆鱗に触れてしまい事実上破門という憂き目に遭ったものの、同じ二所ノ関一門の大鵬親方(元横綱・大鵬)から助け舟を受けて大鵬部屋へと移籍して大鵬部屋の部屋付き親方となった。1994年10月には大鵬部屋から分家独立して阿武松部屋を創設した。

2010年1月に行われた日本相撲協会理事選では、立候補した貴乃花親方(元横綱・貴乃花)を支持したとの理由により、事実上、二所ノ関一門を破門された。この影響で1999年5月場所から約10年間にわたって務めてきた審判委員の役職からも退いた。 2010年に発覚した大相撲野球賭博問題では、阿武松部屋から多数の関与力士を出し、さらに部屋で行われた賭博開帳の関与者4人が逮捕された責任を問われ、委員から平年寄への2階級降格と10年間昇格見送りの処分を受けたが、実際には2014年の役員改選と同時に行われた新たな職務分掌で委員に再昇格している。

日本相撲協会理事として[編集]

2018年2月1日、相撲協会理事選に貴乃花一門から立候補し、同月2日、理事に初当選した。同選挙では一門の総師である貴乃花が落選しており、阿武松は「仕事をさせていただく可能性ができたので相撲協会の一員として、ファンの皆さんに愛される、そして活力ある組織にしたい」と、事実上の所信表明を終始、引き締まった表情で口にした[6]

この役員改選による新たな職務分掌では審判部長(ドーピング防止委員長)、新弟子検査担当という要職を与えられた。これは八角理事長(元横綱・北勝海)の再選に賛同し、一門の総師であり渦中の人物である貴乃花と距離を置いたことからなる抜擢とされている[7]

審判部長として初めて臨んだ同年5月場所は栃ノ心の大関昇進を賭ける場所と重なり、千秋楽に八角理事長へ昇進の可否を審議する臨時理事会の開催を要請するという大事に携わった[8]。 またこの千秋楽の表彰式では、5度目の優勝を果たした横綱・鶴竜への優勝旗授与も担当した。9月場所は大相撲史上初の三賞すべて該当者なしという事態となったが、審判部長として「若手がはね返されたということ」と正当性を主張した[9]

記録[編集]

益荒雄はその華々しい活躍によって関脇にまで昇進したが、その反面怪我が大変多く、幕内在位場所数は20場所に過ぎない。これは1957年に大相撲が年6場所制に移行してから入幕した力士の中で、最高位が関脇の力士としては最も少ない(逆に最高位が関脇の力士で幕内在位場所数が最も多い力士は旭天鵬で99場所、高見山の97場所がこれに次ぐ)。参考までに、歴代における幕内在位場所数の少ない上位5人の力士は以下の通りである(カッコ内は関脇を務めた場所数、現役力士は除く)。

  • 1位 益荒雄 20場所(1場所)
  • 2位 追風海 22場所(1場所)
  • 3位 若翔洋 23場所(1場所)
  • 4位 若見山 27場所(2場所)
  • 5位 羽黒花 28場所(5場所)
  • (参考)双羽黒21場所(3場所)※廃業後、名前のみが残った場所を含む。


なお、上位5人の力士は全員が三賞を受賞しているが、5回も受賞している力士は益荒雄のみである(その他に金星を2個獲得している)。

実力がありながらも度重なる怪我のために十両で相撲を取ることも多かったものの、十両では実力的に突出していたこともあり、通算で全5回もの十両優勝を果たしている。これは歴代における十両優勝回数の最多記録である。

主な戦績[編集]

  • 通算成績:387勝329敗86休 勝率.541
  • 幕内成績:111勝125敗64休 勝率.470
  • 現役在位:68場所
  • 幕内在位:20場所
  • 三役在位:3場所(関脇1場所、小結2場所)
  • 三賞:5回
    • 殊勲賞:2回(1987年3月場所、1987年5月場所)
    • 敢闘賞:2回(1986年11月場所、1989年3月場所)
    • 技能賞:1回(1987年1月場所)
  • 金星:2個(双羽黒1・北勝海1)
  • 各段優勝
    • 十両優勝:5回(1985年7月場所、1986年3月場所、1988年11月場所、1990年1月場所・同年3月場所)

場所別成績[編集]

益荒雄 広生
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1979年
(昭和54年)
x (前相撲) 東序ノ口8枚目
6–1 
西序二段54枚目
休場
0–0–7
西序二段108枚目
6–1 
西序二段43枚目
5–2 
1980年
(昭和55年)
東序二段6枚目
4–3 
西三段目78枚目
5–2 
西三段目46枚目
3–4 
西三段目59枚目
4–3 
東三段目40枚目
4–3 
西三段目20枚目
3–4 
1981年
(昭和56年)
西三段目33枚目
4–3 
西三段目20枚目
4–3 
東三段目6枚目
3–4 
西三段目16枚目
4–3 
西三段目3枚目
5–2 
東幕下44枚目
4–3 
1982年
(昭和57年)
西幕下30枚目
3–4 
東幕下41枚目
5–2 
東幕下25枚目
4–3 
東幕下20枚目
4–3 
東幕下14枚目
4–3 
東幕下12枚目
6–1 
1983年
(昭和58年)
東幕下2枚目
4–3 
東幕下筆頭
3–4 
東幕下5枚目
5–2 
西十両13枚目
10–5 
東十両8枚目
8–7 
東十両5枚目
5–10 
1984年
(昭和59年)
西十両8枚目
8–7 
西十両4枚目
6–9 
東十両9枚目
7–8 
西十両10枚目
8–7 
東十両7枚目
2–13 
西幕下7枚目
6–1 
1985年
(昭和60年)
東幕下筆頭
5–2 
東十両10枚目
8–7 
西十両8枚目
11–4 
東十両4枚目
優勝
10–5
東前頭14枚目
7–8 
西十両2枚目
10–5 
1986年
(昭和61年)
東前頭14枚目
5–10 
西十両4枚目
優勝
11–4
東前頭13枚目
6–6–3[10] 
西十両2枚目
休場[11]
0–0–15
西十両2枚目
9–6 
西前頭13枚目
11–4
1987年
(昭和62年)
東前頭4枚目
8–7
東小結
9–6
東小結
10–5
西関脇
4–11 
東前頭3枚目
1–3–11[12] 
西前頭13枚目
休場[11]
0–0–15
1988年
(昭和63年)
西前頭13枚目
9–6 
東前頭6枚目
9–6 
西前頭筆頭
2–6–7[13] 
西前頭12枚目
0–2–13[14] 
西十両10枚目
6–9 
西十両13枚目
優勝
11–4
1989年
(平成元年)
東十両3枚目
10–5 
東前頭14枚目
10–5
西前頭4枚目
8–7 
東前頭2枚目
6–9
西前頭4枚目
4–11 
西前頭11枚目
休場[15]
0–0–15
1990年
(平成2年)
西十両7枚目
優勝
12–3
東十両2枚目
優勝
10–5
西前頭12枚目
2–13 
西十両8枚目
引退
1–12–0
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 手島 広生(てじま ひろお)1979年5月場所-1983年5月場所
  • 益荒雄 広生(ますらお -)1983年7月場所-1984年9月場所
  • 手島 広生(てじま -)1984年11月場所-1985年1月場所
  • 益荒雄 広生(ますらお -)1985年3月場所-1988年7月場所
  • 益荒雄 宏夫(- ひろお)1988年9月場所-1990年7月場所

年寄変遷[編集]

  • 錣山 宏夫(しころやま ひろお)1990年7月-1990年9月
  • 錣山 広生(- ひろお)1990年9月-1992年9月
  • 阿武松 広生(おうのまつ -)1992年9月-

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p25
  2. ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
  3. ^ どん底を味わったからこそ、どんな困難も平気!| 琴ヶ梅剛史 WONDERLAND INTERVIEW
  4. ^ 『大相撲中継』2017年11月18日号 p65
  5. ^ 当時は年寄・11代阿武松として出羽海部屋に在籍していた。
  6. ^ 日刊スポーツ 2018年2月3日
  7. ^ 貴親方を追及した2親方が出世 “八角新体制”の職務分担に見えるもの デイリースポーツ 2018.03.29(株式会社デイリースポーツ、2018年4月4日閲覧)
  8. ^ 栃ノ心 大関昇進が確実に 審判部が昇進を推薦へ” (2018年5月27日). 2018年5月30日閲覧。
  9. ^ 『相撲』2018年10月号 p.6
  10. ^ 右膝外側半月板及び右膝側副靱帯損傷により12日目から途中休場
  11. ^ a b 公傷
  12. ^ 右膝外側側副靱帯損傷により4日目から途中休場
  13. ^ 右膝外側側副靱帯損傷により5日目から途中休場、10日目から再出場、12日目から再度途中休場
  14. ^ 右膝外側側副靱帯損傷により2日目から途中休場
  15. ^ 右足親指第 2趾剥脱創のため全休

関連項目[編集]