相沢巌夫
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選手情報 | ||||
国籍 |
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競技 | 陸上競技 | |||
種目 | 100m、200m、400mリレー | |||
大学 | 京都帝国大学 | |||
生年月日 | 1906年8月29日 | |||
生誕地 | 石川県金沢市 | |||
没年月日 | 1945年10月??日 | |||
死没地 |
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自己ベスト | ||||
100m | 10秒7(1927年) | |||
200m | 21秒6(1928年) | |||
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相沢 巌夫(あいざわ いわお、1906年8月29日 - 1945年10月)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。陸軍司政官。
経歴[編集]
石川県金沢市生まれ。金沢の第四高等学校に入学。四高在学中の1925年1月13日、神宮競技大会の100m走で10秒8を出し、当時の日本記録に並んだ[1]。
京都帝国大学に進む。1927年10月9日、近畿選手権の100m走で10秒7を記録し、日本記録を更新[1][注釈 1]。日本陸上競技選手権大会では1927年に200m走で日本記録(21秒9)に並び優勝[2][3]。
1928年5月中旬の日本陸上競技選手権大会では200mで21秒6の日本記録を更新し2連覇[3][4]、100mでも優勝した[5]。5月下旬に開催された第1回日本学生陸上競技対校選手権大会(インカレ)で100m、200m、4x400mリレー[注釈 2]で優勝した[2]。1928年アムステルダムオリンピックに男子100m・200m・400mリレー[注釈 3]で出場したが予選落ちした[6][7]。また、オリンピック後に早稲田大学競走部と合流してパリで開催された第2回国際学生大会 (1928 Summer Student World Championships) (ユニバーシアードの前身)に参加、これが日本初の国際学生陸上出場となった[8]。
1931年に京都帝国大学を卒業し、阪急電鉄に就職[9]。のちに指揮者として知られる朝比奈隆は同期卒業で、在学中にも面識があったものの、ともに阪急電鉄に就職したことから親しい友人となった[9]。翌1932年、相沢と朝比奈はともに百貨店部(阪急百貨店)に配属された[9]。相沢と朝比奈は家賃節約のためしばらく同居生活を送っており、1933年に朝比奈が勤めを辞めて京都帝国大学に学士入学したあとも、相沢が結婚するまで同居していた[9]。
第二次世界大戦中、陸軍司政官としてルソン島に赴く[6]。終戦後の1945年10月、ルソン島ニュー・ビリビッド米軍病院でマラリアのため死去[10]。
関連書籍[編集]
- 京都大学陸上競技部蒼穹会・第四高等学校あかしや会・相沢洸一編『相沢巌夫追悼録』(1973年)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b “日本学生記録の変遷 男子100m”. 日本学生陸上競技連合. 2020年2月8日閲覧。
- ^ a b c d “各クラブの主要戦績 全国大会”. 京都大学体育会60周年記念誌. 京都大学体育会. 2020年2月7日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b “日本学生記録の変遷 男子200m”. 日本学生陸上競技連合. 2020年2月8日閲覧。
- ^ “男子200m 過去の優勝者・記録”. 日本陸上競技連盟. 2020年2月8日閲覧。
- ^ “男子100m 過去の優勝者・記録”. 日本陸上競技連盟. 2020年2月8日閲覧。
- ^ a b 曾根幹子・卜部匡司「日本人戦没オリンピアン名をめぐる混乱とその真相 -ベルリンに届けられた大島鎌吉の作成名簿更新の試み-」(『広島国際研究』vol.22、2016年)
- ^ “井沼清七”. 中泊町博物館. 2020年2月18日閲覧。
- ^ “昭和2年~”. 早稲田大学競走部年譜. 早稲田大学競走部. 2020年2月7日閲覧。
- ^ a b c d 朝比奈隆. “6.4.01 ガンプ事、相沢巌夫君との日々(1928年アムステルダム五輪)”. 京都大学体育会60周年記念誌. 京都大学体育会. 2020年2月7日閲覧。
- ^ “Olympians Who Were Killed or Missing in Action or Died as a Result of War”. Sports Reference. 2018年7月24日閲覧。
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